魔物の流儀と死者の国の作法
こつこつと響いたノックの音に、サラとカトリーナは顔を見合わせた。
「………私が開けるわ。あなたは裏口の方に、」
「サラ!」
「アーサー!!」
「…………あらやだ、恋人のお迎えだわ」
マホガニーのような重厚な木の扉の向こうから焦れたような声が響き、サラは慌てて駆け寄った。
見知らぬ家の初めて見る形のドアノブに少し手間取りながらもばたんと開くと、そこに立っていたのは荒い息を吐いたアーサーだ。
どうやってここを見付けたものか、サラは思わずびゃんと飛びついてしまう。
突然胸の中に飛び込んできたサラに、アーサーが息を詰めるのが分かり、その胸にしっかりと受け止められた。
「…………っ、何かされていないかい?」
「…………大丈夫よ。カトリーナさんは、私を助けてくれようとしたの。…………アーサーは後で助けられるから、少しだけ置いてけぼりにしてもいいかなと思ってごめんなさい」
「ん?僕は少しの間だけ、見捨てられていたのかい?」
「……………ええ。でも、取り戻すつもりだったのよ」
ぎゅっと抱き締められた腕の中で顔を上げ、サラはへなりと眉を下げる。
すると悪戯っぽくこちらを見たアーサーは、綺麗な灰色の瞳を泣きそうに歪めて優しく微笑んだ。
「…………それなら仕方ないかな。…………あの魔物は、ダーシャが足止めしてくれたんだ。彼は、ジャンと一緒に既に劇場の仮面を貰ってきていたようだからね」
「…………仮面を?」
「うん。だから、元のダーシャとしての魔術が扱えたらしい」
「で、でも、先生は怒ったら怖い気がするの。ダーシャは大丈夫なの?」
「…………多分、」
「多分?!」
サラは思わず声を荒げてしまったが、アーサーはどこか頑固な目をして首を横に振るではないか。
「…………サラ。僕達はこれでも男なんだから、このような時は女の子の君を最優先する。これがダーシャではなくて僕でもそうしたよ」
「…………わ、私がお喋りしている間に、ダーシャが…………」
「…………ところで、髪色を擬態したのかい?」
「ぎたい…………?」
「うん。淡い藤色になっているよ。………もしかすると、目眩しをかけておいたのはジャンかな」
「…………ほ、本当だわ。髪の毛の色が変わっているみたい!」
「獲物として彼の色を持たされていると思うと、少し複雑だけれどね…………」
「ええと、この子を攫った私もたいそうな罪悪感を覚えているところだけれど、まずはそこの感動の再会を続けるのかどうか教えてちょうだい」
アーサーが迎えに来てくれた事や、まだ無事だったこと。
ダーシャがどうなってしまったのかの不安など、様々な思いで胸がぱんぱんになる。
じわっと涙目になったサラの後ろから、困ったような微笑んでいるようなカトリーナの声が聞こえた。
視線を持ち上げたアーサーが微かに目を瞠ったのを見て、サラはなぜか胸がつきんと痛む。
カトリーナは女性から見ても魅惑的な美女で、尚且つ魔法のある世界で産まれた大人の女性なのだ。
だが、アーサーはカトリーナにぼうっとなる事もなく、この人物は誰だろうと訝しむように瞳を細めた。
「………あなたが、サ…………彼女を攫ったのですね」
「名前を伏せようとしても、あなた達は二人ともさっきお互いの名前を呼んでいたわよ?私は、一応この子の遠い遠い親戚みたいなものだから、それをどうこうしようとは思わないけれど、こちら側では気を付けなさいな」
少しだけ叱られてしまい、サラ達は顔を見合わせた。
既に二人とも魔物と契約を交わしてしまっているのに、あらためて名前の注意を受けた事が何だかおかしな感じがしたのだ。
「親戚……………?」
「アーサー、この方が叔母様の手帳に名前のあった、カトリーナさんなの。………アシュレイ家の事を、色々教えてくれたのよ?」
「…………この女性が?」
サラの説明に驚いたように声を上げ、アーサーはもう一度カトリーナを見つめる事にしたようだ。
「…………だとしても、なぜ、彼女を連れ去ったんです?」
「アシュレイ家に障るものの気配がして、この子が私の良く知る人の血を引いた女の子だと気付いたからよ。そして、あの時のあなた方の雰囲気を見て、てっきり橋の向こうのあの死神から逃れやってきたこの子を、あなた方が捕まえてしまっているのかと思ったわ」
「……………それは、……成る程」
カトリーナは素早く丁寧に説明したし、アーサーはそんなカトリーナを見て、動機に偽りがないと判断したらしい。
短い言葉であったが、納得したのだと伝わる声音で頷いた。
アーサーがこの家を突き止められたのは、なんとダーシャがカトリーナを知っていたからであるらしい。
ダーシャが知恵を借りた事のある国境域に住む魔術師が、この家の住人にだけは悪さをしないようにと念を押した家だったのだとか。
(その魔術師さんは、カトリーナさんがどのような人なのかを知っていたのかしら…………?)
サラは、残してきてしまったダーシャが心配でならないのだが、アーサーはなぜか落ち着いている。
足踏みしてしまいそうになるサラに対して、きちんとカトリーナにお礼を言ってから退出しようとしているようだ。
「…………名前の件はご忠告を有り難うございます。僕まで、あなたにお会い出来るとは思いませんでした」
「私も、まさかここで、あの遠い日に抱っこした赤ちゃんの子孫とその恋人に会えるとは思ってもいなかったわ」
「…………あ、いや、僕達は…」
「はいはい。仲良し、仲良し」
「か、カトリーナさん…………!」
真っ赤になってしまったサラがふるふると首を振ると、なぜかカトリーナはにっこり微笑んだ。
「いいじゃないお似合いよ。可愛い子供が産まれそうね」
「カトリーナさ………!!むぐ?!」
「おいおい、俺を抜きにして話を進め過ぎだぞ。まだこいつ等には、魔術になる未来と砂糖になる未来もあるんだからな」
サラが頭の上にどすんと腕を置かれてむぐっとなったところで、耳元でそんな声が聞こえた。
はっとしたようにアーサーが振り返り、声の主と向き合ってしまったカトリーナが蒼白になる。
「…………白、持ち…………」
ひゅっと息を飲み、ひび割れ掠れたその声に、サラは慌てて頭の上の手を捕まえてしまう。
こんな風に触れる事は今迄なかったが、それでも何とかしてカトリーナを守らなければと思ったのだ。
「先生、」
「他の魔物の、それも指輪持ちに手を出す程酔狂じゃない。アレッシオには、こちらでも便宜を図らせたし、これから先もロージェの手配を頼むつもりだからな」
「アレッシオが、…………あの人が、ここに来ているの?」
先程とは違う驚愕を込めて、震える声でそう重ねたカトリーナに、なぜかグラフは片方の眉を持ち上げた。
サラはそんなグラフが小脇にダーシャを抱えている事に気付き慌てて救出していたが、アーサーも気付いてすぐに手を貸してくれた。
ぐいぐいとグラフの手を引っ張れば、抱えられていたダーシャが低く呻いているので意識はあるらしい。
「来るも何も、あいつなら日がなお前の世話を焼いていただろう。どうせ…」
そこで言葉を切り、グラフはどこか遠い目で背後を振り返る。
するとそこには、突然この辺りの人口密度が上がってしまったものか、一人の黒髪の男性が慌てた様子で立っているではないか。
「いくらあなたでも、…………っ、」
「ほら見ろ。来ちまったぞ」
「レクス……………?」
グラフがこの家の住人に何をしているのかと駆けつけたらしい黒髪の男性は、どうやらカトリーナの知り合いらしい。
ぎくりとしたように体を揺らしたが、すぐに端正な面立ちに困ったような表情を浮かべ、僅かに首を傾げた。
「…………カトリーナ、何か困った事でも?」
「……………いえ、その、……私がかつてお世話になった人の血族の女の子を、お招きしていただけよ。…………もしかして、こちらの方々とお知り合いなの?」
「いや、…………ダーシャか、」
「……………お久し振りです。その、地面の上からで申し訳ない」
「知り合いではあったようだ。………彼は、一晩家に泊めた事がある」
この状況は何だろうかと顔を見合わせたサラとアーサーに、魔物の腕からぼさりと落とされたダーシャは、地面から黒髪の男性に挨拶をしている。
幸い、何かをされた様子はなく、ただ単に邪魔をしないように拘束されて持ち運ばれただけのようだ。
心配して覗き込んだサラに苦笑し、ダーシャは捕まってしまったよと体を起こしている。
銀色の髪は微かに乱れていたが、それ以上に乱暴に扱われた痕跡もない。
「ええと、……ここから説明するとだけどね、彼は僕に、橋の向こうに渡った血族について教えてくれた魔術師なんだ」
「かつてほこり橋を渡ろうとした時に、君が頼るように話した人物だね」
「その通り」
「………その、ダ、……立てる?」
「言っておくが、そいつの名前はもうこの男が明かしたぞ」
冷めた様子でそう告げたグラフに、サラ達はがくりと肩を落とした。
これでもう、三人分の名前が魔物に知られてしまったことになる。
なぜ最後の砦を崩したのだと恨めしい思いで後から来た男性の方を見てしまったが、サラは、そのレクスと呼ばれた男性が、どこか諦観にも似た眼差しで小さく溜め息を吐いたところを見てしまった。
なぜかカトリーナも困惑したように視線を彷徨わせているので、この二人は何か事情があるのだろうか。
「何なんだかな、この茶番は。…………もう用は済んだだろう。行くぞ」
「…………先生?」
「先生はやめろ」
ここから離れるように促されたサラ達に、カトリーナが何かを言おうとした。
けれども、サラは無言で首を振る。
アシュレイ家のことを教えてくれただけでも充分なのだ。
彼女にとっても今日は大切な日なのだから、これ以上、こちらの事情に巻き込む訳にはいかない。
(こうして会えて、お話を出来ただけで充分だもの……………)
外に出てから振り返ると、カトリーナの住んでいた家の外観が見えた。
檸檬色がかった艶のある砂色の不思議な鉱石で建てられた石造りの家は、絵本に出てくるような優しい雰囲気で、玄関先にはラベンダーの鉢が置かれている。
ラベンダーの花の咲く檸檬色の家と言われ、アーサーはカトリーナの家を探してくれたのだそうだ。
アルヘイドの歌姫が、姿を消してからずっと暮らしていた家なのだろう。
その家もまた、遠ざかってゆく。
少し離れると、薄っすらと町を覆っている霧で歌姫の家は見えなくなった。
グラフはあの黒髪の男性の知り合いだったようだが、背後がどうなったのかは気にかける様子もなく背を向けてすたすたと歩いてゆく。
アーサーやダーシャも、この魔物はどこに向かうのだろうと訝しむような表情をしており、サラもまた、どこに行くのかしらとその横顔を見つめた。
「…………グラフ、その、……私をカトリーナさんに会わせてくれたのですか?」
思わずそう尋ねたサラに、逃げ出した子供を捕まえた保護者のような仕草でサラの腕を掴んでいたグラフは、魔物らしいと言える冷淡さで唇の端で小さく微笑んだ。
「お前のためにか?」
「いえ、……あなた自身の為に」
そう答えたサラに小さく笑い、グラフはまるで子供にでもするようにぞんざいな仕草でサラの頭を撫でる。
サラが腕を掴まれてしまったからか、サラには視認出来ないような魔法が働いているものか、アーサーとダーシャも一緒に着いて来てくれており、やがて、グラフが向かうのが町の中心地だと気付くと顔を曇らせていた。
(どこに向かうのかしら………)
当然の事だが、町の中心に向かえば帰り道になる橋からは遠ざかってゆく。
けれども歌劇場に向かえば、特赦日の舞台で願い事を叶えられるかもしれない。
「その通りだ。畑は良質な方が、良い砂糖が収穫出来るからなぁ」
「それが、聖女を育てる為に必要なこと、……なのですね?」
「かもしれんが、契約は契約だ。お前が俺を納得させるなら、それもまた一興というところかもしれん」
石畳の歩道を歩くと、路地の向こうに井戸を囲むオリーブの木のある広場と、小さな教会が見えた。
建材や花々の美しさは際立つが、特別おかしなものがある訳ではないようだ。
「…………っ、」
「人が…………」
ここで、サラとアーサーは驚きに小さな声を上げてしまった。
(……………い、いつの間に……?)
ふっと視界を人影が過ったと思い視線を向ければ、いつの間にかサラ達は雑踏の中を歩いていたのだ。
瞬き程の間に周囲の景色が一変したが、これは、さっきカトリーナに使われた魔法とはまるで違う。
ここに存在していた人々が突然見えるようになったかのようで、自分の感覚が損なわれているような、強烈な不安に襲われた。
しかも、周囲を歩く人々はなぜかその顔のあたりが妙に暗くてよく見えない。
そんな人々とすれ違いながら賑やかな通りを歩いていると、まるで悪い夢を見ているようだ。
グラフとダーシャは驚いていないので、これくらいのことは、魔術のある世界では決して珍しくないのだろうか。
「…………彼女を、貴方が自ら歌劇場に連れて行くつもりですか?」
また少し歩き、行く先が想定出来たものか、そう尋ねたのはアーサーだった。
「勘違いをしているようだから教えてやるが、特赦日の舞台に立つにはそれなりの資格が必要だ。俺の同行がなければ、お前達は門前払いだぞ」
アーサーにそう答えたグラフは、先程のやり取りは自らうやむやにしてしまったのか、アーサーを魔術に変えてしまうのは待ってくれているようだ。
「ダーシャ、そうなのかい?」
「…………僕も良く知らないんだ。特赦日のことは、先程のレクスに教えて貰ったのだけれど、僕とジャンは普通に仮面を貰いに行けたからね」
そんなアーサーとダーシャの会話に、またふっと笑う気配。
「あの男もまた世話好きなことだ。人間だった頃の血族を放ってはおけなかったか」
「……………どういう事ですか?」
ダーシャがグラフに話しかけると、やはりそこには契約がないだけにひやりとしたが、今回ばかりはグラフもすんなり答えてくれた。
「あれは人間から転属した珍しい魔物だ。ウィームの歌劇場の魔物。元は、地鎮の贄にされたウィームの王族だぞ」
「…………っ、彼が?!」
「はは、知らないという事も高慢な事だな。 内乱が重なり南に向かった一族が出る前の事ではあるが、ウィームの歌劇場の創建の記録にも残されていないとは、いやはや冷淡なことだ」
呆然としたようなダーシャの表情に、アーサーも僅かに瞳を揺らした。
ダーシャにとっての血族であるのなら、それはアーサーにとってもそうなのだ。
「…………ですが、魔物がなぜ、あの国境域に来られるのでしょう。あの辺りは魔術が薄く、人外者にはかなり厳しい土地だったのでは………」
「あの体は、今の俺と同じように容れ物だ。人間の体を使えば、扱える魔術には制限がかかる上に、維持の手間もかかるが、連続して数日は滞在する事が出来る」
「そこまでの事をして、………彼は、あの場所に…………?」
あまりにもダーシャが呆然としているので、サラが首を傾げれば、ダーシャは彼が魔物として生活している様子を知っているのだそうだ。
「サラ、彼がアレッシオだよ。君と初めて国境の町の話をした日に、相手と魔術の繋がりが出来るといけないから話せないけれど、君の一族のルーツがこちらにあるに違いない根拠があると話しただろう?」
「……………あの、黒髪の人がそうなの?」
「うん。相手が魔物だから、君がそちら側に引っ張られないようにと話せてなかったけれど、もう会ってしまったからね…………」
魔術において、知るということは知られるということなのだと、ダーシャはもう一度話してくれた。
だからこそ、もしあのアレッシオという名前の魔物が、アシュレイ家の呪いを司るものだった場合に備え、そこまでのことは、サラには明かしていなかったらしい。
だからサラは、簡単ではあるがアシュレイの呪いは向こう側のものだと慌てて伝えた。
「でも、そうか。彼は関係なかったのだね…………」
「ええ。…………アレッシオさんは、カトリーナさんの側にいたという事なのかしら?」
「…………うん。それは僕もとても驚いた。歌劇場に勤める者達にとっては身近な魔物だったけれど、どちらかといえば、尊大で冷酷な魔物だとされていたから…………」
そのような不自由さを好むとは思えない、魔物らしい魔物だと教えてくれたダーシャに、肩を竦めたのはグラフだ。
「あいつが不利益を飲んだのは、自分の獲物を誰にも取られたくなかったからさ。俺達は狭量だ。指輪を贈り生かし慈しむにせよ、破滅させ食らうにせよ、多少の不便を強いられようとも自分の畑から目を逸らすことは好まない。そもそも、手のかからない畑に何の面白みがある?」
その言葉には、こうしてあまり時間を置かずにサラ達を回収に来たグラフ自身の行動の説明も含まれているような気がした。
サラは勝手に、この先暫くはグラフは姿を消していて、例えば、サラが自分で歌劇場に辿り着き、いざ歌うという時などにでも再び姿を現わすような気がしていた。
大抵の物語では、そのような緩急が付けられるではないか。
でも違うのだ。
そんな不確かで危ういと分かりきった事を、この生き物はしない。
獲物に手間をかけるという事は、彼らにとっては隠す必要もない執着で自然な事なのだ。
「舞台に立つのにも、審査のようなものがあるのですか?」
「手続きの際に、この町に籍のないものしかいないと弾かれるだろうな。俺もそのようなものだが、こちらに到着した際にアレッシオにその手配はさせてある。俺と共に受付を済ませればお前達にも仮面が渡される筈だ」
「…………僕にも、?」
その言葉に、アーサーが目を瞠る。
すると、そちらを見たグラフは、うんざりしたように目を細めた。
「まさかお前、一刻も早く魔術に成るのだと駄々をこねるつもりか?冗談じゃない、一度魔術に書き換えたら元には戻せないんだぞ。何でお前なんぞに俺の楽しみを邪魔されにゃならんのだ」
「サラとの約束が、どれだけ楽しみなんですか……………」
「元々俺は、このあわいには、療養を兼ねた暇潰しの休暇で来ている。それを堪能しようとするのは当然だろう」
そう言われてしまえば確かにその通りで、この魔物は最初から一貫して、ただ己の欲しいものに向かっているだけなのだ。
そんな事にあらためて納得している内に、サラ達は見上げる程に大きな歌劇場のチケット売り場に到着してしまった。
(………まぁ。何て綺麗な作りなのかしら………)
古い劇場には珍しくない飴色になった木造のチケット売り場だが、係員の入った小部屋を覆い隠さんばかりに、売り場に使われた木材から枝葉が伸びている。
そしてそこには、まるで林檎のような美しい赤い宝石の実がなっているのだ。
これはきっと、劇場も素晴らしいに違いないとサラは目を輝かせたが、とは言え、細い路地を抜けてそのまま円形の歌劇場の建物の外をぐるりと囲むアーケードのような柱廊に出てしまったので、歌劇場としての外観は全く見られそうになかった。
さぞ壮麗な建物なのだろうにとサラはがっかりしたが、グラフはそのまま本当にただの劇場のチケットを買うかのように、特赦日の舞台への入場券になる仮面を三つ貰って来てくれる。
「いいか、なくすなよ」
「………有り難うございます」
「…………これが、」
サラとアーサーに渡されたのは、それぞれ違う形をした仮面であった。
顔の上部を覆う形の凝った作りのもので、サラの手の中に置かれた黒い仮面は、途端にざあっと色が変わるではないか。
びっくりして隣のアーサーを見ると、そちらの仮面も色を変え、青みがかった灰色の宝石のついた美しい仮面になっていた。
(形まで変化するなんて、…………す、凄い!魔法の仮面なのだわ…………)
「…………魔術認識で形状を変えるのですね」
そんな感想が言えるのだから、やはりアーサーは魔術師になってしまったようだ。
そう考えて目を瞬き、サラは自分の仮面の変化を観察する。
サラの手の中の仮面は、触れれば割れてしまいそうな陶器のような素材の白い仮面に変わり、淡い水色の宝石が埋め込まれている。
華奢で美しい仮面にすっかり魅せられてしまい、サラは両手でそっとその仮面を胸に当てた。
「ほお、白か。…………ますます収穫のし甲斐がありそうだな」
「お、お砂糖にはなりません!」
「……………お前は、まだむらがあるな。資質だけを買って育てるには、時間が足りなかったのかもしれんが、本番でもしくじるなよ」
(あ、……………)
がらりと変わった声の温度で、サラは今の発言の何かが砂糖の魔物の基準には満たなかったのだと思い知らされた。
何と難しいのだろう。
つい先程までは、サラの提示するもので屈服されるのも満更でもない様子だった魔物の気配が、これは満足のいく品質なのだろうかという懐疑的な気配を帯びる。
けれど、こうして揺り戻される魔物の気分に触れた事で、サラはまた一つ大切なことを理解した。
(勘違いしてはいけないのだわ。………どれだけ色々なことを教えてくれても、魔物にとっての私達は、やはり素材でしかないのだ。得られる反応として、人間のように考えてくれるとは思わない方がいいのね……………)
ひたりと、背筋を冷たい汗が伝う。
ぐらりと揺れかけた自信と勇気を、先程のカトリーナからの激励で何とか支え、サラは俯かないように堪えた。
かつこつと足音が壁に反響する。
そんな音にふと顔を上げれば、サラ達はチケット売り場の横の路地から広い螺旋階段を登り、ぼうっと壁に咲いた石の花に明かりの灯る不思議な道を歩いていた。
とある扉の前でグラフが立ち止まり、どこからともなく取り出した水晶のようなもので出来た鍵で門を開ける。
「…………ここは、誰かのお家なのですか?」
「俺の買った屋敷だ。死者の国には、部外者が存在しない前提で基本的に宿泊施設はない。だが、野宿でもしようもんなら、墓犬や掃除婦達に回収されかねないからな」
「…………は、墓犬」
町のように見えるのでと、サラ達はまた一つ誤解をしていたようだ。
賑やかな土地でもこのようなところには規則があり、特赦日とは言えどそれを知らずに過ごすのは難しかったようだ。
「…………成る程。あなた方のような、本来いないはずだが、特赦日の舞台に立とうとしている者達であれ、一定期間以上の滞在では自身の家を持たないといけないのですね」
「十二時間以上の滞在で家を持たない者は、墓犬達の執行対象になるらしいからな。死者の王の訪問があったばかりだ。特赦日だからこそ、彼奴らも張り切りかねん」
「……………僕も、宜しいのですか?」
あまり機嫌は良くなさそうだが、グラフはそう尋ねたダーシャに頷いた。
「どうせ、こいつらと話す事があるんだろ。何度も出入りされると厄介だからな」
グラフが買ったという屋敷は、七つの部屋がある、休暇の為の仮住まいにしては立派なものだった。
本来の死者の国から切り離されているとは言え、ここも死者の国の一つである為に、様々なルールがあるのだそうだ。
死者は必ず家を持つという事もその一つで、ここに落とされた死者達は、生前の財産で空いている物件を購入したり、そのような備えがなければ、この中で共同住宅のような場所で働きながら自分の家を持つのだとか。
家を持たずにいると、死者の国で誠実な暮らしを営まない者として取り締まられてしまうと聞き、サラは町の管理が徹底されているこちら側の暮らしに驚いた。
(…………魔法のあるところなのに、死後もしっかりと働かなければいけないのね…………)
とは言え生前の財産を持ち込めれば、のんびり引退後の生活を楽しめるようなので、しっかりと蓄えがあれば楽しいところなのかもしれない。
「どうやら、魔術の濃度の関係から国境域近くは死者の王に管理されていないようだが、休暇であれば町中にいた方が利便性が高い。住居の数は決められているから、売るのも簡単だ」
「………だとしても、随分と立派な家を買われたんですね。僕の家はもっと質素ですよ」
ダーシャの言葉に、サラ達は慌ててそちらを見たが、そう言えばダーシャは元々はこちらに拠点を置いていた筈なのだ。
「アレッシオに手配させたものだ。あいつがここに入り浸っているのは有名な話だからな」
そうして、グラフがサラ達を案内したのは、その家の二階にある部屋だった。
ぱたんと扉を開けると手前の部屋が客間のような作りになっており、居間と寝室と小さな客用浴室の構成になっている。
居間の部分には二つの長椅子と四角い机が置かれ、寝室には大きなベッドが二つ置かれていた。
綺麗な藤色の絨毯が敷かれた部屋は小綺麗で、柔らかな水色の壁紙には繊細な模様がある。
天井から吊るされたシャンデリアには、サラが見た事もないような不思議な光が踊っていた。
「ここを使え。残された猶予は明日の真夜中までだが、特赦日の舞台は明日の夕方の入場で締め切られる。………お前達のチケットは、明日の夜の部だな。そこに置かれた時計の十五時でここを出るぞ。俺はこれから食事に出る。お前達は、それまでの間は好きにしていろ。出掛けるのも自由だが、戻れないようならその時点で失格と見做すぞ」
そしてグラフは、サラ達にそう言い残して部屋を出て行ってしまった。
呆気にとられて顔を見合わせたサラ達の視線の先でぱたんと扉が閉まり、部屋は沈黙に包まれた。
「…………食事に行ってしまったみたい」
「そう言えば、僕が運ばれている間に、砂糖が食べたいって何度も呟いていたかな…………」
「お腹が空いていたのかしら…………」
「僕と旅をしていた間も、一日に一度は砂糖を食べていたな…………」
最後にアーサーがそう呟き、サラとダーシャは、ばばっとそちらを振り向く。
「アーサー、僕がいない間にどのようなことがあったのか話してくれるかい?」
「わ、私も知りたいわ………!!」
「僕は、サラが彼と交わした契約について教えて欲しいな」
「………よし、まずは三人で話をしようか。…………その前に、何か食べるかい?その、……………死者の国の食べ物はあまり美味しくないけれど」
ダーシャがそんな提案をしたものだから、サラとアーサーは顔を見合わせてくすりと笑ってしまった。
けばけばの毛皮を持った猫のダーシャが、ジョーンズワース夫人のパイを嫌がっていた時と同じ顔をしていたのだ。




