歌姫と音楽の死神
「…………っ、」
ぐるんと回った視界が元の位置に戻り、サラは口元を押さえて床に蹲った。
すると、サラを掴んでいた手が離れ、ふわりと頭の上に誰かの手が乗せられる。
「……………アシュレイ家の子ね?」
そう尋ねられ、サラははっとして顔を上げた。
(女のひと……………)
慌てて周囲を見回せば、そこは先程までいた場所ではなかった。
薄暗く、けれども簡素ながらに小綺麗な部屋の中だ。
窓は長方形に四本の仕切りが交差して入っており、上の部分だけが色硝子でステンドグラス風になっている。
使い込まれて飴色になった木の床に、敷かれているのは花柄のキルトで、奥にある丸いテーブルとミントグリーンの宝石を削り出したような綺麗なマグカップが見えた。
「………………はい」
問いかけられた事に答え、サラは床に座り込んだ自分と目線を合わせる為に、屈んでこちらを見ている美しい女性を観察する。
羽織っていた簡素な外套と、顔を隠す為の布を外せば、その下は華やかな深紅のドレス姿だったようだ。
艶やかな黒髪の巻き髪に、意志の強そうなウィスキー色の瞳をしていて、その宝石のような瞳を縁取る睫毛の影の濃さには女性としての憧れが心の中で騒いでしまう。
シミひとつない白い肌は触れたくなる程に滑らかで、お化粧した唇は赤い薔薇の花びらのようだった。
(夜の女王だわ………)
もし、サラの歌った夜の女王のアリアを、そのままに表現できる人がいたのなら、この女性こそだろう。
それどころかこの女性は、その他のどんな歌劇でも誰もが知る物語と歌の女達を難なく演じられるに違いない。
人間らしい美貌は先程見てきた魔物の美貌の前では霞むけれど、その胸の中に沢山の物語を秘めていそうな謎めいた瞳の鋭さに、サラは思わず見惚れてしまった。
「…………そう、やっぱりだわ。あなたを見た瞬間、アシュレイの子だって分かったの。何日か前に、この近くにあの死神の気配を感じてからずっと、誰かがこちら側に逃げ込もうとしているのかしらって、探していたのよ」
「……………死神の気配?」
「あなたの家に取り憑いている、音楽の神様とやら。でも、ここまで来たらあいつも動けないから安心してね。私の時も橋を渡りきったら消えてしまったし、向こう側のもの過ぎてどうにもならないのよ。…………あ、やだ。そう言えば、私がそちらを離れてから、どれだけ月日が経ったのかしらね。…………もしかして、そんな言い伝えはお家に残っていない?」
「…………お、音楽の神様の話は残っています!アシュレイ家の呪いといって…………」
ここで、意気込み過ぎてしまいげふんと咽せたサラに、美しい女性はくすりと微笑んだ。
「何か、食べ物や飲み物は持っている?こちらの物を飲んだり食べたりしても平気でしょうけれど、私には本当にそうかどうか分からないの」
「先生に言われて、水筒を持ってきました。こちらの飲食物は心配ないけれど、人間じゃない誰かに勧められたものはいけないからって」
「…………あら、先生がいたのね。それに、もしかしなくても、こちら側のことをちゃんと勉強してから逃げて来たの?」
そう尋ねられ、サラはこてんと首を傾げた。
目の前でよいしょと立ち上がった女性が手を貸してくれ、サラも慌てて立ち上がると、こちらでお喋りしましょと、二脚の椅子が備え付けられた丸テーブルに案内される。
(ここは、どこなのかしら。………私は、魔法にかけられてどこかに連れて来られた………みたい?)
「逃げ込んで………?」
「ええ。怖がらなくても、私はあなたの味方…………胡散臭いわね。……まぁ、関係者だから。あなたの家の神様は御免だけれど、こちらに逃げてきたのなら、匿ってあげる。この家ももう住まなくなるかもしれないし、あなたにあげてもいいわ」
「そ、その、…………どうして私の家の事をご存知なのですか?それと、どうやって私はここに来たのでしょう?」
どんどん進んでゆく話に慌ててそう尋ねたサラに、ぱちぱちと瞬かれたウィスキー色の瞳がこちらを見る。
「まぁ……………。もしかして私、自己紹介もせずに話を進めたわね?」
「……………はい」
「あらやだ、御免なさい。…………夢中で、とにかくあの場所から助け出さないとって思ってあなたを連れて来ちゃったわ」
「…………助け出す?」
「……………え、……その、あの男達に囲まれて困っていたのでしょう?この辺りには、橋の向こうから来たものの研究がしたい変わり者の魔術師が何人か住んでいて、うっかり捕まると大変な事になるのよ。おまけに、一人の男は人間じゃなかったわ。そりゃ、石畳の道の境界のところだったけれど、よりにもよってこんな所まで人外者が来るだなんて!」
「……………一緒にいたのは、私のお友達と先生で…」
「え?!」
サラがびっくりするくらいの声を上げて、綺麗な女性は飛び上がった。
テーブルに手を突いてがたんと立ち上がり、ふるふるしながら呆然とこちらを見る。
なのでサラも、同じようにふるふるしながら、その女性を見返して頷くしかない。
「……………あー、……もぅ。私ったら最悪だわ。仲間達の輪から、これはもう、わざわざ温存していた転移門まで使ってあなたを攫った人攫いの構図ね?」
「てんいも?」
「転移門。あちらからこちらへと移動する便利な魔術道具よ。あなたは向こう側から来たから、知らなくても当然。待っていて、すぐに元の場所に返してあげるわ」
片手で髪の毛をくしゃりとかき混ぜ、溜め息を吐いた女性に、サラは慌てた。
勿論、元の場所に返して欲しいのだけれど、それよりも絶対に聞いておきたいことがあるのだ。
(先生は、この人が誰なのかを知っているようだった……………もしかして、)
「ま、待って下さい。…………あなたは、その、…………アルヘイドの歌姫さん、?」
おずおずとその名前を出してみたサラに対し、黒髪の女性は目を丸くした。
どこか幼くも見える表情にサラがどぎまぎしていると、ややあって、小さくぷはっと吹き出す。
「…………やだ、その呼び名が残ってるの?それ、サリフェルドの聞き間違いなのに!」
「…………聞き間違い、だったのですか?」
ああ、やっぱりだと、サラは体の力がすとんと抜けた。
(叔母様の手帳に残された言葉が、ちゃんとここに繋がったのだわ…………)
自分は今、とうとう、ずっとその糸を手繰り寄せようとしていた過去を知る、まさかの本人の前に座っているのだ。
そう思うと胸の内側がおかしな震え方をして、嬉しいのか怖いのかすら判別が付かなくなる。
「そう。私はその時、私はアレッシオの歌姫よって答えたの。でも、あの時のサリフェルドは奥様を亡くされたばかりで混乱していたから、実際に向こう側にある有名な歌劇場の名前と聞き間違えてしまったのね。間違えて認識されている事には気付いたのだけど、その時にはもうアレッシオの名前を出せない事情があったものだから、そのままにしちゃったわ」
とうとうここまで来たのだと瞳を輝かせたサラは、思いがけない言葉に目を瞠った。
あまりにも呆然としてしまったからか、黒髪の女性、…………恐らくはカトリーナが、訝しげにサラを見る。
「…………あら、その話じゃなかった?」
「……………いえ、そ、それで合っています。アルヘイドの歌姫さんで、カトリーナ様ですよね?」
「その様はいらないわ。…………そう。私の名前まで知っているの」
薄っすらと自嘲気味に笑い、カトリーナはもう一度椅子に腰を下ろした。
ふぁさりと衣擦れの音を立てたタフタのドレスは目を射るような艶やかな深紅が、この上もなくカトリーナに似合っていた。
「………サリフェルドさんには、カトリーナ様………カトリーナさんの前にも奥様がいらっしゃったのですか?」
「……………え?」
「カトリーナさんが、私のご先祖様、なのではないのですか?」
「……………はぁ?!」
サラの言葉にぎょっとしたように声を上げ、なぜだかカトリーナは頭を抱えてしまった。
困惑したのはサラもで、父から聞いたアルヘイドの歌姫の話を聞く限りでは、このカトリーナこそがその後のアシュレイ家に血を残した、サリフェルドの伴侶だと考えていたのだが、違ったのだろうか。
(確かに、先生はカトリーナさんが死者だとしたら、こちら側に来ても子供は産めない筈だと話していたけれど…………)
その時に、その上で変えられない事が、真実なのだと言うような話もしていた。
であれば、残された史実にはカトリーナに纏わる真実も残されてはいるのだろう。
サラの先祖にあたるサリフェルドは、アルヘイドの歌姫と呼ばれた妻と子供を連れて祖国に戻って来た。
そして再び、音楽の都と呼ばれる隣国の都市に戻り、夫婦揃ってそちらの王家にも寵愛されるほどの音楽家となったのだ。
であれば当然、サリフェルドの妻だったカトリーナは、サラにとっての遠いご先祖様にあたるのではないだろうか。
あまりにもカトリーナが動揺しているので、サラはその話を丁寧に伝え、間違った事実が伝わっているのかと尋ねてみた。
カトリーナが失踪したところまでも話してしまうと、サラが生まれる何百年以上前のアシュレイ家の青年の伴侶だった筈の女性は、まだ二十代半ばくらいにしか見えない瑞々しい美貌を複雑な感情に歪める。
まだ立ち直れていなさそうなので、サラは、先程カトリーナが警戒してくれた人物は諸事情から一緒にいた魔物で、その魔物から、アシュレイ家の呪いはこちら側のものではないと言われた事も付け加えてみた。
あまりにも沢山の情報を投げかけられてしまったからか、頭を抱えて小さく呻いていたカトリーナは、やがてくしゃくしゃになった髪の毛を直しながら顔を上げると、どこか途方に暮れたような目でサラの質問に答えてくれる。
「…………ええと、結論から言うと、アシュレイの家に残る記録と口伝は事実ではないわ。でも、そのように振舞っていた事があったのは事実だから、サリフェルドは、………私は彼を置き去りにしてしまったのだもの。自分の息子にもそう言うしかなかったのかしら………」
「…………違う、のですか?」
「ええ。その、どうしてそんな事になったのかとんでもない事だとは思うのだけれど、あなたが一緒にいた魔物から、アシュレイ家に取り憑いたものが向こう側のものだと聞いたのなら、説明しやすいのかしらね。それと、私を捧げてもあの死神はどうにもならないから、是非にやめてくれると嬉しいわ」
「さ、捧げません……!」
慌ててサラが約束すると、カトリーナは、ほっとしたように良かったわと微笑む。
そうして、カトリーナはアシュレイ家の音楽の神による呪いの始まりを教えてくれた。
攫われてしまったのだから、一刻も早くアーサー達のところに戻して貰うべきなのだが、サラはここが安全でもなく、向こう側の常識が通じない土地である事を知っている。
こうして、カトリーナに出会えたのが奇跡のような出来事である以上は、この機会を無駄にして真実を得られないままにはしたくなかった。
(だって、物語ではそのようなことが往々にしてあるもの。そのたった一回の邂逅を逃して、明かされないまま闇に葬られる真実は沢山あったわ……………)
魔術にされてしまうと言われていたアーサーや、そんなアーサーを助けようとしてくれるであろうダーシャは心配だったが、サラは、グラフと約束したのだ。
(それに、あの時に確かに先生は、迎えに行くまではって言ったわ。…………だからこれは、先生が私にここでの事をしっかりと知識にして来るようにと行かせてくれた機会なのかもしれない…………)
サラが彼を納得させればアーサーを助けられるという約定があるのであれば、アーサーはきっと無事でいてくれると信じよう。
出来ない事や、やりたい事を沢山抱えてじたばたしていても、所詮、まだ殆どのものが足りないサラには及ばないばかりだ。
それならば、ここは示されたカードを一枚ずつ手に取り、一枚の無駄もなく自分の糧にしなくては。
(あの薔薇のガゼボでアーサーに出会ってから、…………私は随分と遠くまで来た……………)
たったこれっぽっちの期間でサラがこんな風に成長出来たのなら、五年とはどれだけの日々だったのかと、また怖くなる。
その怖さにひやりとしていたサラに、語り始めたカトリーナの声が届いた。
「最初はね、あの大きな橋を渡って、サリフェルドが、今にも死にそうな身重の奥様を連れてこちらにやって来たのよ」
サリフェルドの妻は、とある伯爵家のご令嬢だったが縁談から逃げ出し二人で駆け落ちしたのだそうだ。
だが、その時代の貴族の令嬢には、貧しい暮らしの中で子供を産み育ててゆくことは負担が大き過ぎたのだろう。
カトリーナは、妊婦への祝福が足りなかったのではないかと話していたが、出産が命がけだった時代である。
身重の女性が旅をするなど以ての外で、その無理から体を壊してしまったのは間違いない。
ひどく濃い霧の日に、二人はあの橋を渡った。
そして、自分を殺した魔物から逃げようとして橋を渡ろうとしていたカトリーナに出会い、カトリーナは瀕死のサリフェルドの妻を慌てて国境域の魔術師に見せようと連れ帰ったが、既に手遅れだったそうだ。
「その女性は、こちら側に合わない体だったのだと、亡くなって初めて分かったわ。赤ちゃんを産み落とした直後に亡くなってしまって、心臓が止まった途端、死者にもなれずにもろもろと体や魂が崩れてしまったの。………私は、その魔術師にとても叱られた。こちら側の記憶や血を持たない向こう側の人間を連れて来てしまったら、死んだら魔物のように塵になってしまうのだぞって。…………今思えば、あの魔術師にもそんな経験があったのかもしれないわね…………」
妻は死に、生まれたばかりの赤ん坊を連れたサリフェルドは、橋の向こうの不思議な世界に取り残された。
そして、責任を感じてそのサリフェルドの面倒を見たのが、カトリーナだったのだ。
ぎいっと椅子が軋む。
座った椅子を傾けて揺らし、カトリーナは、またどこか自嘲気味に微笑むと、踵が折れそうなほどに細い赤い靴先をぱたぱたさせた。
「私はね、初めて普通の人間と一緒に暮らしたの。………彼は落胆していたけれど、とても生真面目で、子供の頃に戦場でアレッシオに拾われた私は、そんな男性と小さくて可愛い赤ちゃんと暮らすことにすぐに夢中になった。…………そして、次に橋がかかった時に、私は橋を渡って向こう側に移り住む事にしたのよ」
それは賭けだったのだと、カトリーナは言う。
死者である自分が、そちらに出たらどうなってしまうのかわからなかったし、本当は橋を渡れるかどうかすら分からなかった。
「でも、子守唄に過ぎなかった私の歌声を聞いたサリフェルドは、奥様の死の後、初めて微笑んだのよ。君のようなひとに曲を書けたらなぁって。………だから私は、あの短い恋の中で恋した人をもう一度笑顔にする為に、そして、次の死者の日にアレッシオが私を探しに来る前に、向こう側に渡らなければならなかったの」
「その、アレッシオさんと言うのは…………」
「孤児だった私を拾って育てた魔物よ。わたしは彼に育てられて歌姫になり、彼の婚約者で歌乞いになった後、公演の舞台で大勢の客達の前で歌った事でその逆鱗に触れて、八つ裂きにされて殺されたの」
「……………っ、」
さらりと告げられた凄惨な話に息を飲んだサラに、カトリーナは我ながら波乱万丈だわと小さく笑う。
幸い、カトリーナは、橋を渡れたそうだ。
橋を渡った二人は、前以て決めておいた通りに、箱馬車を乗り継ぎサリフェルドの故郷に戻った。
世間体を考え、二人は夫婦だということにしておいたのはその時代が故だろう。
その頃はまだサリフェルドに恋をしていたカトリーナにとっては、可愛らしくて幸せな嘘だったのだと微笑まれ、サラはこくりと頷いた。
橋の向こうで命を落とした彼の妻の代わりに、カトリーナはサリフェルドの息子を溺愛し、恋した青年を元気づけようと自慢の歌声で彼の曲を花開かせた。
多分、カトリーナが幸せだったのはそこまでだったのかもしれない。
「………けれど、所詮私は向こう側の女だった。……あっという間に、魔術が光らなくて歌声が雪を降らせもしない、あちら側の世界に息が詰まるようになった。………奥様を亡くしたサリフェルドの心がようやく私の方を向いた頃にはもう、私は向こう側で窒息しかけていたの…………」
(ああ、……………)
それは多分、悲劇だったのだ。
向こう側とこちら側ですれ違い、間に合わず、折り合えなかった。
妻の死から立ち直りかけ、それまで自分を支えてくれた恩人の女性をあらためて見たサリフェルドは、カトリーナが弱ってゆくことに慄いたのだという。
そしてなぜか、カトリーナの非凡な歌の才能に日頃から心酔していた彼は、自分が音楽家として失望されたのではないかと思い詰めてしまい、ある日、異様なものを連れて帰って来た。
「…………あの日のことを、今でも夢に見るわ。……………私には、その音楽の神様とやらは見えなかった。…………でも、異様な気配は感じ取れていたし、そこにいるのがとても良くないものだという事も分かったの」
カトリーナは、そんな音楽の神様にとても気に入られていたらしいが、それは勿論、良い事ばかりではないのだろう。
「私はすぐに恐ろしくなったわ。気分が良くて鼻歌を歌っていても、得体のしれないものがじっと私を覗き込んでいるんだもの。だからサリフェルドに、あなたは一体何を連れてきてしまったのって問い質したのよ」
カトリーナに詰め寄られたサリフェルドは、それはとてもいいものだよと微笑み、音楽の神様に願い事をかけたのだと答えたらしい。
「…………その神様を、どこから連れて来てしまったのかご存知ですか?」
「あの音楽の都と呼ばれた都の近くに、古い伝承の残る神殿があったみたいね。教えられたけれど、私は怖くて近付けなかったから場所までは分からないわ。………もう、随分時間が経ってしまっているでしょうし」
「ええ。…………十八世紀のことだと聞いているので、その時からは二百年近くは経っている筈です」
こちら側での暮らしに疲弊していたカトリーナが過ごしやすいようにと、祖国に帰っていたサリフェルドが提案し、二人が転居したのは、サリフェルドがかつて学びを得ていた音楽の都だった。
そこは、カトリーナが生前に暮らした向こう側の国に少し似ていて、その音楽の神様をサリフェルドが家に連れて帰って来る迄は、カトリーナも少し心が落ち着いていたそうだ。
「私はその日まで、向こう側には人外者はいないのだと思っていたのね。………魔術もなく魔物も妖精もいない土地でなら、私はもう一度人間として暮らし直せるんじゃないかって、死者に過ぎない身でありながら夢も希望もあったのよ?」
「その、………死者であることで、生活には支障がなかったのですか?」
「ええ。まったく。こちら側ではね、死者たちは太陽の光が苦手で、味付けの濃いものが食べられないの。でも、向こうに行ったら、そのどちらも何にも感じなかったわ。だからきっと、死者達の不遇には、魔術的な要素が影響しているのね」
音楽の神様を得たからか、サリフェルドは作曲家として時代の寵児になっていった。
それは音楽の神様の力なのだろうかと問いかけたサラに、カトリーナは悲し気に首を振り、もともと才能はあったのに、その才能を思うように束ねられなかっただけの不器用な青年だったのだと微笑んだ。
「サリフェルドは、………偉そうな言い方をすれば、無謀なくらいに音楽を愛していたわ。私だって音楽に身を捧げ、その結果殺された女だけれど、彼のように無心には愛せない。……………そんな愛し方をしているからこそ、彼はあの怪物との間に交わした誓約が負担ではなかったようだけれど、私には、それは到底恩寵には思えなかった……………」
サラは、ほこり橋で聞いた母の言葉を思い出した。
(お父様や、………お爺様のような方だったのね…………)
父から聞いた話からだが、アシュレイの家に生まれて幸せだったと言い残し長生きをした祖父もまた、呪いに損なわれる事なく生きた人だったのだと思う。
「少しだけ、………その気持ちが分かるような気がします。私の父は、母や姉たちを亡くしたことを心から悲しむ優しい父です。でも、父はあの呪いに損なわれることはないような気がしますから。………心の中の音楽を愛する場所が、それ以外の事の影響を受けないのかなと考えた事があります」
「そうなのよ。………その部屋が、他の感情に繋がらないところにしっかりと区切られている感じなのよね。サリフェルドもそうだった。………私のように、心で音を駄目にすることはない人だなと思ったわ…………」
我慢はしたのだという。
でもカトリーナは、日ごとに追い詰められていった。
それでもアシュレイ家に留まったのは、自分なんかと出会ってしまったことで、サリフェルドが得体のしれないものと契約してしまったという負い目からだという。
「最後の半年は、殆ど罪悪感だけで留まった。彼が薄幸だった奥様への思いに区切りをつけ、私を見てくれるようにはなり始めていたけれど、それを喜ぶには遅過ぎたし、その時にはもう、私は、自分が自分の運命にどれだけ甘やかされてきたのかを知ってしまっていたわ……………」
「でもあなたは、…………魔物に殺されてしまったのでしょう?」
「ええ。指輪を贈った女が、歌劇場で歌を歌ったことを知ったアレッシオは、私を八つ裂きにして殺したわ」
朗らかにそう言ってのけたカトリーナは、はっとする程に美しかった。
グラフが魔物の美しさであるなら、カトリーナの美しさは人間の闊達で健やかな美しさだ。
人間らしい彩りがあってもどちらかと言えば、グラフに近いアーサーやダーシャの容貌とは、その肌に宿る温度や輝きが全く違うものだった。
少しだけ、死者に対して生き生きとしているだなんておかしな表現かなとも思ったが、今、目の前の椅子に腰かけている美女は、そうとしか表現出来なかった。
「でもね、それは私が酷い事をしたの。………サリフェルドと暮らすようになって、私は自分がどれだけアレッシオに甘やかされて育てられたかを知ったし、本当に悍ましく得体のしれない者がどんな風に人間を脅かすのかを知ってしまった………」
カトリーナは戦争孤児だったそうだ。
時間がないからあまり長くは語らないわと笑い、綺麗な色の口紅を塗った薔薇色の唇でふっと笑う。
艶やかに装っているのは、今夜が特赦日の夜だからで、歌劇場の催しだもの、歌姫は登場しなきゃだからとカトリーナは片目を瞑ってみせた。
「アレッシオは歌劇場に住む魔物で、孤児の私を育て上げてくれた。美味しいご飯と素敵なお家と、素晴らしい音楽に囲まれ、私はアレッシオしか知らずにぬくぬくと育ってしまったから、彼が私の婚約者になった時にも、いい気になって舞台を下りようとしなかったのね。…………魔物は人間とは違うわ。彼等には、どうしても許せない事があるのだと、彼の養い子になった時にあんなに厳しく教えられたのに……………」
「…………自分を殺した魔物が、恐ろしくはないのですね?」
「あら、とても怖いわよ。凄く怖い。…………だから私は、ここから町の中心には行けないまま、ずっとここに暮らしているの」
その言葉に首を傾げたサラに、カトリーナはまた艶やかに微笑んで、伸ばした手で、サラの髪の毛をそっと撫でる。
「…………私はサリフェルドから逃げ出した時に、アレッシオの名前を呼んだわ。…………情けなく、彼を裏切っておきながら恥ずかしげもなく、アレッシオ、私を助けてって。…………だから、這々の体でこちらに戻ってあの町を見た時、もし、アレッシオが私を探しに来ていなかったらどうしようって思ったの。…………その日からずっと、私はこのアレッシオが絶対に近付けない、国境に一番近い土地で暮らしているっていう訳。ふふ、身勝手で馬鹿な女でしょう?」
そう教えてくれた声音に、サラは、アーサーからの手紙を待ち続けていた日々のことを思った。
がっかりすると分かっていたから、郵便の配達人が来ても部屋から出たくなくて、けれどもずっと待っていたのだ。
「…………もしかすると、特赦日の劇場に行くのは、アレッシオさんにまた会いたいからですか?」
「…………アレッシオは、私の歌をこよなく愛してくれた、歌乞いの魔物のようなものだったのよ。もし、彼がまだどこかで、恩知らずにも、養い親で契約の魔物で婚約者な自分を裏切った不実な女を気にかけてくれているのなら、私はもう一度この歌声で私の魔物を捕まえてみせる。…………彼の激昂が愛だったと今更理解した馬鹿な私は、許して貰えなくてもいいから、せめてあの人に、ごめんなさいって言わなくちゃ…………」
ほろほろとこぼれ落ちたのは、型通りではなくてもサラにも理解出来る深い愛情であった。
その温度に触れて多くを知り、サラは、無知な人間を騙してしまわずに最後まで契約を守ってくれている砂糖の魔物について考える。
(何となくだけれど、……………)
「…………アレッシオさんは、待ってくれているような気がします。その、………理由が良いものかどうかまでは分かりませんが」
「あら、アシュレイの障りと守護を受けたあなたの言葉なら、その通りかもしれないわね………」
「アシュレイだから、なのですか?」
「ええ。サリフェルドが約束を交わしてしまった音楽を司る者は、元々は予兆や予言などを司る人外者だったそうなの。そこから、新しい閃きや、音楽を生み出す為の直感を得られるものとして信仰を集めたそうだから」
「…………グラフ先……グラフに言われたんです。私にも、守護を通してそのような力があるのかもしれないって…………」
「あるのではないかしら。サリフェルドも、………あの人外者と契約してから、ふと未来を言い当てたり、妙に勘が良くなったりしていたから。だから、あなたがそう言ってくれるのなら、私はまた、アレッシオに会えるかもしれないわ」
きっぱりとそう言い切って頷いてくれたカトリーナに、サラはごくりと息を飲む。
(それなら、私が見たあの花びらの降る歌劇場の光景は、そうして得られたものなのかしら…………?お母様の声を聞いたのも、そういうものを私が持っていたから?)
サラは、アーサーと出会ってから今日までの間に、幾つもの不思議な光景を見た。
それは幸せな光景だったり、ぞくりとするような怖さであったりと様々だったが、どれもが自分の未来を指し示していたような気がした。
また頭の中が混み合って来たが、サラはそれを振り切り、あの障りをどうにかする手立てがなくてごめんなさいと詫びてくれたカトリーナには、呪いを回避出来そうな方法は見付けたのかもしれないと話した。
「……………そう。良かったわ。向こう側のものだからこそ、向こう側のもので相殺するのね?」
「はい。私と、父は今の所大丈夫だそうですので、アシュレイ家に新しく子供が産まれたら、他の人ならざるものの祝福を借りるようにと言われています」
「それなら、名前をそのまま貰ったらどう?私も私の魔物に殺されてしまうまでは、歌姫としての名前でカテリーナという歌の上手な精霊の名前を貰っていたの。精霊のものだから、アレッシオはあまり喜ばなかったけれどね」
その会話は、サラをとても安堵させた。
サラ達の近くに暮らす人ならざるものの力を借りて、アシュレイ家の音楽の神を抑えるとしても、そのやり方をまだ決めきれていなかったからだ。
グラフは、必要な対価を差し出して祝福や守護を得る方法を推奨していたが、誤ったものの力を借りて失敗する可能性や、対価が足らずに思ってもいないものを取られる可能性があると話していたからだ。
(名前を借りる方法は、力が強過ぎて危ないかもしれないと話していたけれど、カトリーナさんのように上手くいくこともあるのだわ……………)
サラが自分との会話で何かを受け取ったようだと微笑み、そろそろ戻りましょうかと立ち上がったカトリーナに頷く。
でも、最後に一つだけ、言っておかねばならない事があった。
サラの考えが正しければ、グラフがカトリーナにサラを連れ去ることを許したのは、彼女がアシュレイ家の呪いについて知る人物だからというだけではない筈だ。
彼女が、歌乞いという存在でもあったからこそ、サラがカトリーナと話せるようにしたのだろう。
「……………私も、特赦日の歌劇場で、歌おうと思っているんです」
だから、そう切り出したのだけれど、サラの言葉を聞いたカトリーナは、俄かに表情を曇らせた。
「やめた方がいいわ」
「カトリーナさん………?」
「話していても充分過ぎる程に分かるもの。あなたは、きっと人ならざる者達を引き寄せてしまうくらい、素晴らしい歌声を持っていることでしょう。でも、だからこそおやめなさい。…………力のあるものに気に入られてしまったら、二度と帰れなくなるわよ?」
「でも、私はもう、その魔物と契約を交わしてしまったんです。アー…………大切なひとをその魔物の契約から返して貰う為に、私は魔物が充分な対価を得たと思うものを渡さなければならなくて………」
そう説明したサラに、さすがのカトリーナも言葉を失ったようだ。
再び固まってしまってから、どこか晴れ晴れとした不思議な微笑みを浮かべる。
「…………困った一族ね。ただでさえ、あの得体の知れない神とやらを背負っていながら、あなたも、サリフェルドのように、おかしなものと契約してしまったのね?」
「…………む、……ふぁい」
「あなたが救おうとしている人は、どんな人なの?」
「……………大切な人です。姉と叔母を亡くした私に声をかけてくれて、優しいけれど苦しそうで、守ってくれようとしているけれど、守ってあげたい大好きな人…………」
カトリーナに説明しようとしてアーサーを示す言葉を並べたら、なぜだかサラは胸が潰れそうになった。
悲しさでも怖さでもなく、ぎゅっと引き絞られたその感覚に、じわりと涙が滲みそうになる。
「……………それなら、歌いなさい」
「カトリーナさん…………?」
「私も、今更理解した愚かな恋と懺悔の為に、今夜の舞台で歌うの。ここで百年以上ひっそりと暮らしながら、私は、殺された時には私の愚かさを許さなかったアレッシオに腹を立てていたけれど、近過ぎて見失っていたものを辿ればこんなにもあの魔物を愛していたのだわと考えながら今日まで来たわ。………三回の特赦日をそれでも怖くてやり過ごしてしまったけれど、………今夜は歌う。もしそれで、アレッシオが私を許さずにまたずたずたに引き裂くのだとしても、それでも彼に謝りたいから」
だから、愛は愚かでしょうもないものなのよと、カトリーナに抱き締められ、サラは涙の滲みかけた瞳を見開いた。
「特赦日は丸一日かけて行われるわ。今夜までの舞台は申し込みで埋まってしまっているけれど、明日の公演はまだまだ空きがあった筈だわ。…………あら、どうしたの?」
「これも、………そうでしょうか?彼からは、私の大好きは、求婚するような大好きとは違うのだと言われてしまって………っく、」
「まぁ、鈍感な男ねぇ。それは充分に立派な、ひたむきだけど愚かな愛よ。だから、愛するものの為なら、それが自分を滅ぼすのだとしても愚かな事をしなさい。私があの日にウィームの歌劇場で歌ったように、するべきではない愚かさもあるわ。………でも、その人を助ける為に歌うのなら、歌わないと後悔するわと、私ならそう答える」
「カトリーナさんなら………?」
「たかが一つの愛の為に、そんな危ないことはやめてしまいなさいと言う人もいるでしょう。でも、私の考えは違うから」
「……………はい。私も、…………歌います」
くすんと鼻を鳴らしてそう答え、サラは、とびきりそちらの方面に長けていそうな素敵な女性から愛だとお墨付きを貰った想いを抱き締める。
これは立派な恋で愛だと思えば、何だか胸の底から勇気が湧いてくるような気がした。
「…………それから、これは言葉を尽くしても許される事ではないけれど、本当にごめんなさい。私の愚かさが、あなたの一族をどれだけ苦しめてしまったのか……」
部屋を出る前に、サラを抱き締めたまま、カトリーナはそう謝ってくれた。
だからサラは、微笑んで首を横に振った。
「きっと少し前の私なら、色々な事をよく知らないままにあなたを責めたと思います。でも、今の私なら、それはカトリーナさんのせいではなかったのだと理解出来ますから。………サリフェルドさんも、それがどれだけ怖いものなのかを知らずに願い事を告げてしまったのでしょうね…………」
それはきっと、たわいも無く月並みな願い事の一つだったのだろう。
けれどもそこには厄介なものが住んでいて、願い事をかけた青年には、その何かに気に入られてしまうだけの素質があった。
余計に失うと知らずにほこり橋を渡ろうとしたサラ達や、アシュレイの呪いを解こうとしてやはり良くないものに触れてしまったであろう、叔母とオードリーも。
全てを承知済みで自分を犠牲にした母や、もしかしたら、これまでのアシュレイ家の誰かも。
(みんな頑張ったけれど、本物の魔法は優しいばかりのものじゃなかっただけ…………)
そう考えて、そっと胸を押さえたサラに、扉をノックする音が届いた。




