国境の町と特赦の舞台
「前だけを見て一気に橋を渡り切れ。振り返るなよ」
そのグラフの声に頷き、サラ達は真っすぐに見たこともない小さな橋を渡った。
こうして橋が繋がるときには色々な要素が不安定になっているらしく、橋の上に目的のものがあるのでなければ、足を止めるのは愚策であるらしい。
グラフ自身も前回で懲りているのか、二回目の今度は足早に渡り切ってしまおうと決めていたのだろう。
「……………ほわ」
そうして橋を渡り切ると、サラは思わずおかしな声を上げてしまった。
薄っすらとした霧の向こうに見たこともない不思議な街が広がっており、何よりもまず目の前のサラの目線くらいの高さの石の塔の上に乗った、むくむくした黒いチンチラのような生き物に、視線が釘付けになる。
(か、可愛い……………!)
何を言うでもなくじっとこちらを見て眠そうに頷くばかりだが、背中に薄く生えているのは妖精の羽に違いない。
サラが初めて見る妖精の羽は、蜻蛉の翅と蝶の羽の間のようなもので、淡いミントグリーン色の透けるような繊細さのその羽を見ていると、体の重量に対しその大きさで本当に飛べるのだろうかと不安になる。
サラは、初めて見る妖精から目が逸らせないまま、両脇からアーサーとグラフに連れられる形で、とうとう国境の町に足を踏み入れた。
通り過ぎて後方に遠ざかってゆくむくむくの妖精を瞳の端に収めつつも、サラは、理知的な大人になって魔物に勝つ為に、駆け戻ってあの妖精のお腹を撫でてみたい欲求を何とか振り切る。
(が、…………我慢……我慢しなきゃ…………!でも、初めての妖精さん…………、あ、いなくなっちゃったわ…………)
その町は、一見普通の町のように見えた。
ふわりと香るのは香草茶のような不思議な風の香りで、薄っすらとラベンダー色がかった淡い灰色の石造りの家々が窺え、奥に向かえば向かう程に町の中心になってゆくようだ。
サラ達がいる場所は、橋の近くだからか小さく質素な家が見えるばかりで、手入れはされていないようだが青々とした草地に見たこともない水色の蒲公英のような花が咲いている景色は朴訥としていて美しい。
場違いにも思える長閑さに目を瞬き、サラは、両隣の二人の歩幅に合わせて国境の町をゆっくりと奥に向けて歩いて行った。
(アーサーは、平気なのかしら………?)
こちらから来た魔物は兎も角、アーサーも冷静過ぎるのではと思いそちらを見上げると、アーサーはどこか固い表情で真っ直ぐに前を見据えている。
サラの視線に気付いた様子もないので、かなり緊張しているのかもしれない。
(長閑に見えても、とても怖い場所なのかもしれないわ…………)
そんなアーサーの表情に気持ちを引き締め直して、サラも同じように前を見る事にした。
何かおかしなものが出て来たり、風景に気になるところはないだろうかと真剣に目を凝らす。
霧の町とも呼ばれるだけあり、周囲の視界は僅かではあるが霞んでいた。
遠くの町の中心の方は見通せるのだが、すぐ近くの家々はぼんやりと霞んでおり、その視界の曖昧さを少しだけ怖く感じてしまう。
伸びてゆく細い道は踏み固められた土の道が、少し先から石畳の道になるようだ。
ちょうどその道の切り替えのところには一軒の石造りの瀟洒な家があり、絵具で花びらを描いたような鮮やかな紫のライラックの木が、満開の花をさわさわと風に揺らしていた。
「………ベルの音?」
その時、サラ達のところまで聞こえる、しゃりんとしか表現出来ないような、魔法の硝子のベルを鳴らしたような澄んだ音が響いた。
はっとして音が聞こえた方を見れば、ライラックの木のある家の扉が開き、ちょうど誰かが出てくるところのようだ。
どうやら、扉につけられたベルが鳴ったらしい。
初めて出会うこちら側の人になるのだと体を強張らせたサラは、扉を開けて出て来た二人連れが、はっとしたようにこちらを見たことに気付いた。
「やれやれ、やっぱりあっちの体に入り込んでやがったか。入れ替えだ入れ替え」
続けてそんなグラフの声が聞こえたその瞬間、サラの隣にいた筈の魔物がしゅわりと消えてしまう。
「…………え?!」
ぎょっとして隣を見ると、そこにはもう、ジャンパウロの姿どころか、あの大きな旅行用のトランクすら影も形もない。
直後、前方でわぁっと声が聞こえた。
慌ててそちらを見れば、グラフはいつの間にかそちらに移動してしまっている。
ここからではよく見えないが、あの大きな旅行用のトランクが見えるので、そこにグラフがいるのは間違いないだろう。
「……………ダーシャだ」
「……………ダーシャがいるの?!」
サラの手を握り締めたまま、そう呟いたのはアーサーだった。
小さく息を飲み、サラもその姿を見たいと慌てて伸び上がったが、霧交じりの空気で視界が悪く、それがダーシャかどうかまでは分からない。
けれども、そちらに行こうとぐいっと手を引っ張ったアーサーの瞳に切実な思いを見て、サラもしっかりと頷いた。
(ダーシャだわ。アーサーが確信しているのだもの。間違いない………!)
二人は、慌ててそちらに向かって駆け出した。
ぱたぱたと走りながら、サラは、期待と不安のあまりに胸が苦しくて破れてしまいそうになる。
行方の分からないままだったサラの大事な友人は、あれからこちらではどれだけの時間が経ってしまったのか、どうやら服装を変えたようだ。
黒っぽい足元までの魔法使いのマントのような姿で、突然現れたグラフと何かを言い合っている様子である。
(こちら側では、山猫の姿になってしまうって話していたけれど、人間の姿のままでいられたのだわ…………!)
半分程距離を詰めれば、それがダーシャと、橋で出会った時のグラフの体を持つ誰かである事が確認出来た。
サラには、ここまで近寄って辛うじて銀髪に鳶色の瞳だと判別出来たくらいなので、どうしてアーサーにはあの距離から特定出来たのだろうと思えば、そこはやはり同じ血を引いているからなのだろうか。
(それとも、私の知らない五年間に何かがあったのかしら…………?)
けれども、サラ達がライラックの木のある家に着くよりも早く、その場にあった人影が一つ欠けてしまうではないか。
二人が再会を果たすよりも前に、しゅわんと消えてしまったのだ。
はっと息を飲んだその時にはもう、見事な花影の下に立っているのは、ダーシャと砂糖の魔物だけになっていた。
「おじさまが………!」
「………っ、サラ、急ごう」
「ええ…………!」
なだらかに下る踏み固めた土の道を走り、崩れそうなぼろ家や、不思議な木に囲まれた家を通り過ぎる。
真っ直ぐに見据えた美しい満開の花の下で、ゆっくりとこちらに視線を向ける魔物がいた。
(………………なんて、…………美しいのかしら……………)
すらりと立ったグラフは、橋で出会った時の白紫色の髪の美麗な男性姿に戻っていて、こちらを一瞥した眼差しは、内側から光を透かすような艶やかな藍青だ。
あまりの美しさに呆然としてしまい、足がもつれそうになった。
「…………サラ。彼等は、その姿形においてもとても厄介な生き物なんだ。直視しない方がいい」
「……………ええ」
アーサーに傾いた体を立て直して貰い、最後は慎重に歩み寄るように、速度を落として近づいたけれど、やはり目は逸らさず、その姿は靄がかった風景の中でくっきりと浮かび上がりこの上なく恐ろしい。
(ああ、……………)
ああ、これが人間ではない生き物の美しさなのだと思い知らされ、サラは、ダーシャから聞かされていたその美貌だけで人間の心を挫いてしまう人ならざる者達の話を思い出す。
それは、死者の行列を率いて現れる死者の王や、眩い程に明るい夜に、月光のしたたる湖面に腰掛ける月の魔物。
美しい人の姿に大きな翼を持ち、人間を食べるという雪食い鳥達や、あちこちで国を滅ぼし人間を破滅させると悪名高い老人姿の白夜の魔物。
良きものも悪しきものも、高位の生き物達はその資質が故にどこまでも美しい。
美しくて恐ろしいのではなく、その美しさこそがあまりにも恐ろしく、だからこそ、脆弱な人間達は彼等を恐れるのだ。
初めてそんな残酷さを肌で感じ、サラは小さく震えた。
(……………これが、そういう生き物なのだわ…………)
橋の上でもぞくりとする程に美しい男性だと思ったけれど、あの時の恐ろしさは得体の知れない生き物としての美貌と残忍さで、ここで見るその眼差しの鮮やかさはあの時と比べるまでもない。
こちら側に踏み込んだからこそ、ここまで受ける印象が違うのだろうか。
そう考えていたら、グラフの視線を辿るようにダーシャが振り返った。
サラ達の姿を認め、鳶色の瞳を大きく見開く。
その途端、凄艶な魔物の姿に麻痺しかけていたサラの心が、安堵と喜びにぴょんと飛び跳ねた。
「ダ…………むぐ!」
サラは、迂闊にもその名前を呼びかけて慌てて片手で口を押さえたが、名前を呼べないとなると、何と呼べばいいのかわからない。
でも、嬉しくてその名前を呼びたくて。
安堵のあまりに昂ぶる思いをどうしても伝えたかったサラは、堪らずその場で何度か飛び跳ねてしまう。
(ダーシャ!!)
そんなダーシャは、サラ達に気付き泣きそうな安堵の笑顔になったその表情を、ぎくりとしたようにすぐさま強張らせ、こちらに来てはいけないと言うように青ざめた顔で首を振るではないか。
なのでサラは、そんなダーシャに向かって、こちらからもぶんぶんと首を振ってみせた。
そして、そのまま二人でなだれ込むと、サラはまず、えいっとダーシャとグラフの間に割って入ってしまう。
(あ、……………)
ふわりと、甘い香りがした。
花でもなく果実でもない、橋で嗅いだのと同じ真っさらな砂糖のような甘い香り。
そして、どこか愉快そうにこちらを見下ろしている魔物の本来の美貌にはひやりとしたが、なぜか、あまりこの生き物を恐れてはいけない気がした。
こちらを見たグラフの瞳に、浮かべた表情には必要のない筈の、諦観にも似た冷たさを見たような気がしたのだ。
あるかなきかの微かな躊躇を踏みしめ、サラは、動揺を隠してこれまでのように話しかけることにする。
「………………先生、おじさまは、どこに行ってしまったのですか?」
そう尋ねたサラに、魔物の瞳が微かに揺れた。
サラが契約を申し出たあの日のように、これは何ておかしな人間だろうと半ば呆れ、その異質さにこれは愉快だと喜ぶように。
まるで、やっと座れる旅人が不思議な安堵を覚えるように。
「…………先生と呼ぶのは、やめろと言わなかったか?」
「…………むぐ、………ぐ、グラフ………」
「入れ違いを正した事で弾かれたようだな。やはり、橋さえ渡ればという事ではなく、入場の資格というものも厳密に存在しているらしい」
「私達は平気なのに………?」
「死者の王が近付くと橋が落ちるのは、あの橋が本来はあってはならないものだからだろう。それでもなぜかあの橋がかかり、そこを渡る者がいるのだとしても、あらざるべき事を可能とする理由なんぞ、俺は知らん」
だけれどと、グラフは続けた。
魔術の可動域、向こう側とこちら側の血の繋がり、生者か死者か。
古き時代にこちら側から剥離したであろう橋の向こうには、元々何らかの通行条件があった可能性が高い。
もう誰にも分からなくなってしまった規則が今も尚敷かれており、それは誰からも忘れ去られてしまっても機能はしているのだろうと。
「あの男は、俺が用意した体に入り込んだ事でこちら側に拘束されていたんだろう。滅多にない事だが、この容れ物の素材が生前は歌い手だったせいで、魂が引き合ったのかもしれんな」
「…………その体は、亡くなった方のものなのですか?」
「俺の姿を模すようには整えているが、奪われた片手を補う迄の間の容れ物のようなものだ」
それを聞いたサラは思わず後ずさってしまい、顔を顰めたグラフにびしりとおでこを指先で弾かれた。
赤くなっていそうなおでこを押さえ、サラは目を瞬く。
見た目はあまりにも変わってしまったが、グラフが食べようとしていたケーキを、いいなと思ってじっと見ていたら同じようにされた事があったのだが、あの時のグラフは怒ってはいなかった。
(……………それなら、機嫌は悪くなさそう?)
そのことに安堵したサラは、アーサーとダーシャの方を振り返る。
「おじさまは、向こう側に戻れたみたい………?」
「…………ああ。正しいところへ戻ってくれていることを祈るしかないね」
「ええ…………」
アーサーもグラフの気分を慎重に窺っているようなので、会話の隙間でサラは、ちらりとダーシャの方を見た。
これでもダーシャを隠すように立っているつもりなのだが、残念な事にダーシャの方が背が高く魔物と視線の高さが近いので、あまり隠せている感じはしない。
それなら心で伝えてみせると、サラは視線で精一杯訴える。
(ダーシャ、ここは私に任せて………!)
決して御しきれるなどと楽観視はしていないが、それでもサラは、グラフと契約しているのだ。
ひとまず冬至の日の夜までは、この魔物とサラとの間には交わされた契約が生きている。
よって、こちらの魔物は任せ給えのサインである。
「僕達は、………何と言えばいいのかな。一時的な協力関係にあるんだ」
砂糖の魔物とサラとのやり取りを見て呆然としてしまったダーシャには、アーサーが、慌てて事情を説明していた。
重ねて、こちらはあの日から二ヶ月近く経っているのだと伝えられ、ダーシャは、はっとしたように頷いた。
「…………そうか。そうだったね。こちら側と向こう側の時間の流れは違うのだった…………」
どうやらダーシャは、サラ達と一緒にいた時の服の上から、更に黒に近いこっくりとした青色のマントのようなものを羽織ったようだ。
目立たずに動けるような上着を手に入れられる環境にいられたのかなと思えば、離れていた時間の怖さが和らぐ。
けれど、サラ達がいなくなってしまい、随分と心配をかけたのだろう。
目元にはくっきりとした隈があり、美しい面立ちにどこか悲壮な印象を与えていた。
そんなダーシャを、今すぐあのもしゃもしゃの猫の姿にしてやって大切に撫でてあげたくなってしまい、サラは指先をぐっと握り込んだ。
まだこれからなのだ。
まだこちらを害しはしないけれど、時間が来ればサラを食べてしまう魔物に、サラは相対さなければならない。
「…………っ?!」
「髪は隠しておけ。こちらでは虫除けにもなるが、歌劇場に集まってくる客層によっては、いらん邪魔者を集める」
そんな事を考えていたら、突然、グラフからがばっとコートのフードをかぶせられてしまい、サラはじたばたした。
髪の毛がくしゃりとなる雑なやりように慌ててフードを直していると、素早く情報交換をしているアーサー達の会話が聞こえてくる。
「こちらでは、どれくらい経っているんだい?」
「三日だよ。…………今日はちょうど、このあわいでは特別な日にあたるんだ。だから、そこで敷かれる魔術の恩寵と祝福を利用して、………ジ、彼と一緒に君達を探そうとしていたところだった…………」
「残念ながら、名前を出してくれて構わなくなってしまったことを言っておかなければだね。…………色々あって、彼とはそれなりの時間を一緒に過ごす羽目になったんだ。もう、ジャンや僕、サラの名前も知られてしまっているから、普通に口にしてくれて構わないよ………」
「…………そうか」
名前を知られていると聞き、ダーシャは深い溜め息を吐いたようだ。
けれど、もはやそれどころではないのだと、サラは心の中で小さく呟く。
アーサーはこの魔物と何らかの契約をしてしまっているし、サラは、それをどうにかしたくてやはり契約をしてしまっている。
サラの契約は撤退が可能という破格の待遇ではあるが、それでも約束事を交わしているのは事実だった。
そんなサラの隣に立っていた魔物が、ふっと嗤った。
笑みの温度の低さと暗さにぎくりとし、サラはそっとグラフの顔を見上げれば、彼が見ているのは遠くに見える劇場のような壮麗な建物のようだ。
「………………三日か。歌劇場に白い旗が出ているのは見えたが、ぎりぎり五十年に一度の特赦日の開始に間に合ったようだな」
(……………とくしゃび?)
それは、美しく甘く、笑いを噛み殺すような愉快さに縁取られた、魔物らしい艶やかな声だった。
訳も分からずにぞっとしてしまい、サラは、ジャンパウロの体よりも身長が高く、覗き込み難くなった瞳の色を確かめようと爪先立つ。
ついさっき、まさかの庭から通じた橋を渡りかけてしまったサラの為にコートを持って来てくれたのは、やはりジャンパウロの中にいるグラフだったからこそなのだろうか。
ここにいる魔物は、菓子店の主人の死に落胆するような生き物には到底思えなかった。
(でも、…………一度示されたものを、取り落とさないようにしないと………)
この魔物は、契約を破るようなことはしないのだと身を以て教えてくれたばかりだ。
サラが、それを信じてそっと魔物の袖を引けば、藍青の瞳がこちらに向けられる。
「それが何なのか、気になるのか?」
そう問いかけてくれたのは、サラとの契約の時間がまだ残っているからだろう。
サラがまだ聖女ではないのは間違いないが、この魔物が負けを認めるような事もまだ示せていない。
であれば今はまだ、アシュレイ家の屋敷で共に過ごした師弟のままでもいいのだろうか。
ほっとしながらも少しだけ躊躇い、こくりと頷けば、グラフは特赦日についてすんなり教えてくれた。
「ここは、死者の国の中の特別な隔離地だ。魔物に殺された人間どもばかりを集めているが、通常の死者の国とは違い、定められた日になれば魔物達がある程度自由に立ち入る事が出来る。とは言え、さすがにこの国境域まで踏み込むには、今の俺のような容れ物が必要だがな」
(とくしゃ、…………もしかして、特赦日のことかしら?)
サラの生まれた国でも、王族の結婚式や王子の誕生など、特別な慶事の日に罪を許された人達がいたという歴史がある。
今は王家とは別に議会もあるのでそうはいかないが、歴史の授業でその言葉を習った事を思い出した。
「…………もしかして、ここだからこその、特別な事が許される日なのですか?」
「そうだ。ここが安全なばかりの最終経由地ではないが故に、五十年に一度の特赦日が設けられている。人間贔屓の死者の王らしい温情で始まったらしいがな」
「特赦日なのに、先生……グラフも参加しようとしているんですか?」
「その裁定を下すのが観衆になった近年では、特赦が与えられるのは人間だけではなくなった。魔術の理において、その日に赦されたものは絶対的な力を持つ。………どうだ?価値のある機会だとは思わないか?」
「魔物でも、特赦が与えられるのですね…………」
であれば、この魔物は何を願い出るのだろう。
そう考えたサラに、グラフは深く微笑み、何を考えているのか当ててご覧とでも言うようにこちらを見る。
ざっと強い風が吹き、グラフの白紫色の巻き髪を揺らした。
こちらを見下ろす瞳は、サラ達の暮らす街では見られないとびきりの夜空の色をしていて、この魔物が気に入っていた美しい月光のピアノ曲を思い出す。
「特赦日に、あの歌劇場で用意された仮面をかぶり舞台に上がれば、失われた者も変えられた者も、本来の姿に戻ることが出来るらしい。その姿で成される願いを申し出た後、観衆の前で一定の承認を得れば願いが叶う」
(願いが、叶う…………)
言われたことを頭の中で噛み砕き、サラは、こちらを見ている魔物の瞳を、じっと見つめ返した。
与えられた知識と力を使えと告げた言葉の通りに、グラフは最後までサラにこれだけの事を教えてくれるらしい。
(それはつまり、………その特赦を使えば、この魔物を打ち負かしてアーサーを自由に出来るということなのかもしれない…………)
何を願うのか、その文言は大事だろう。
しかし、仮面をかぶるだけで本来のものを回復させることが出来る魔法があるというのであれば、全てを元通りにして欲しいという願いだって叶うのではないだろうか。
五十年に一度だと、グラフは言った。
向こう側と時間の流れが違う以上、サラ達にとっては最初で最後のチャンスなのかもしれない。
「承認は、どのように得るのですか?」
「語りで納得させる者も多いが、劇場という場所の特性上、承認は拍手で採決される。どのような手段であれ、拍手を得て自分の側にこそ価値があると認めさせればいい」
その言葉に、サラははっと息を飲む。
(……………だからだわ。だから、私に特赦日の事を教えてくれたんだ…………)
心のどこかで、差し出されたその手をずっと見ていた。
この魔物は最初から自身の望みを明確にしていたし、サラには、ずっと答えが提示されていたようなものだ。
(私は多分、そこで歌を歌うべきなのだ)
無防備な程にその術を見せてくれたこの魔物は、きっとその時にこそ発せられる、歌声を知りたいのだと思う。
それが聖女に成る為の条件であるのかもしれないし、同時にサラがこの魔物を屈服させる唯一の可能性なのかもしれない。
きっと、上手にピアノを弾き、サラの歌のレッスンを熱心につけてくれたこの魔物は、聖女になった人間を砂糖にして食べたいと願う一方で、橋の向こうには自分を面白がらせるだけのものがあるのかどうかも知りたいのだ。
そんな魔物だからこそ、腕の治療中だというのに、暇潰しにあの橋を渡ってみようとするのではないだろうか。
(自分が勝っても、私が勝っても、そのどちらもが、この魔物自身の喜びの為のものなのだわ…………)
やっとグラフの動機が腑に落ちた。
深く頷いたサラに対し、傍にいたアーサーやダーシャも、何かを考えこむ様子があった。
説明を終えたグラフは、大きな旅行用のトランクに片手を乗せる。
するとそのトランクは淡く光って消えてしまったので、自分のものではないという死者の体でも、この魔物は魔法が使えるのだろう。
「さて、お前との契約はここまでだ」
けれども、その次になされたその宣言は、サラを激しく動揺させた。
「…………っ?!」
どうしてとびくりと体を揺らしたが、グラフが見ているのはサラではない。
灰色の瞳を刃物のようにして、静かに魔物を見返したアーサーだった。
「約束は果たしたぞ。おまけに、手間のかかる対価もやっと受け取りの準備が整った。戻るべき向こう側とお前の繋がりを絶ち、お前とお前の一族を呪う辻毒を隔離する。まさか五年がかりになるとは思わなかったが、白夜の魔物の術式を得られるのであればなかなかの拾い物なのは違いない」
「それは、君に差し出す対価の話だ。約束は、まだ残っているだろう。………僕は、サラを無事に家に帰して欲しいと伝えた筈だ。であれば、彼女をもう一度橋の向こう側に送ってゆかなければ、それが果たされたとは言えないのではないかい?」
静かにそう言ったアーサーに、真っ先に反応したのはダーシャだった。
「……………アーサー?!」
「すまない。君が沢山の知恵を貸してくれたのに、残念ながらこのざまだ。……………けれど、五年はやはり長くてね」
「五年……………?」
「……………あの橋ではぐれた後、僕とこの魔物だけ、君たちがあわいと呼ぶ、時間の隙間に落ちてしまったんだ。……………僕達があの瞬間に回帰するまでには、五年かかった」
穏やかな声でそう告げたアーサーに、ダーシャは、ぐっと唇を噛み締め苦し気に顔を歪めた。
そんなと力なく呟いたダーシャに淡く微笑みかけたアーサーの静かな瞳がこちらを見て、サラは、こんな時になって、アーサーにクリスマスプレゼントを渡せていなかったことを思い出してしまう。
「……………っ、その契約は、彼から何を奪うのかを、教えていただけますでしょうか?」
思い詰めた眼差しでそう尋ねたダーシャに、グラフはふんと鼻を鳴らした。
「なぜお前に、その問いの答えが必要なんだ?」
「それは、僕の認識の甘さで、本来ならこちら側に触れなくても良かった二人をこんな目に遭わせているからです。あなたは使い魔になった僕には何の価値もないと言った。………けれど、アーサーが背負う辻毒を対価として欲するのなら、僕には、それに見合うだけの魔術に成る資質があるでしょう」
「お前を魔術にし、それが同階位のものになったとしても、希少性はどうだ?お前は所詮、こちら側の人間だろうが」
にべもなく切り捨てられ、ダーシャはぐっと言葉に詰まった。
魔術になるとは一体どういう意味だろう。
サラは、その言葉の持つ不穏さに怯まないよう、しっかりと指先を握り込んだ。
「……………先生、アーサーはどうなってしまうのですか?」
そう尋ねたサラの声は、自分でも低くひび割れているのがわかった。
知ってはいたのだ。
アーサーが何かとんでもないものを差し出してしまった事は知ってはいたけれど、やはり心が震えてしまう。
サラはきっと、まだまだ幼くて弱いのだろう。
だからこんなに、怖くて悲しいに違いない。
「あなたと私との契約はまだ、明日の夜まで残っています。あなたの与えてくれる知識を使って、私はその契約を全うする。……………だから、教えて下さい」
そう告げて真っ直ぐにグラフの瞳を見上げたサラに、隣で気色ばむ気配があった。
「サラ?!」
がくんと体が揺れる。
肩を掴まれたサラは、自分を揺さぶったアーサーの愕然とした顔を見た。
怒っていて悲しんでいて、深く深く絶望している。
そうしてぼろぼろになってこちらを見た灰色の瞳の美しさは、まるで雪の降る前の空のようだ。
「アーサー、……………私はまだ子供だけれど、でもね、アーサーのことは知っているの。アーサーは多分、魔法のある不思議な世界に放り込まれて、自分を守る為だけには、魔物とは契約しない筈なの」
「……………サラ、」
それは、アーサーの異変を感じた時からずっと考えていたことだった。
ダーシャが、散々忠告してくれたではないか。
その人ならざる生き物たちがどれだけ恐ろしく狡猾で、名前だけでなく、血や涙など、ほんの些細なものからも人間を捕まえてしまうのかを。
だからこそ、グラフとの会話を聞き、その違和感に感じた棘のようなものは、この二人が了解済のものなのだと考えた。
けれど、そうすると残るのは、どうしてアーサーがその選択をなさねばならないかという事だった。
「アーサーは、お父様が亡くなられてからの事であんなにも悲しんでいたのに、自分がいない筈の存在になってしまったと話してくれた時には、あまり動揺しているようには見えなかったわ。……………それに、グラフ先生はあの夜、私達が戻った場所が元の場所だって判明した時に、成功したって言ったの。その時にアーサーは先生の目を見て頷いたのよ?」
「……………っ、それは……………」
「アーサーは、……………やっぱり、私を家に帰そうとしてくれたのね」
サラの言葉に、アーサーが浮かべたのはくっきりとした絶望の眼差しだった。
そうじゃないんだと力なく首を振り、片手でくしゃりと目元を覆ったアーサーに、サラはそっと微笑んだ。
「二人がおかしな会話をしていた後、アーサーはね、怖くて堪らなかった私に、私を家に帰すと約束したからって話してくれたの。覚えていない?」
「…………違うんだ、サラ。それは僕が勝手にしたことで、君が、そんな風に自分を差し出す必要なんてなかったのに…………」
「橋でもアーサーは、私の代わりに自分を取ればいいと言ってくれたでしょう?だからね、そのアーサーの言葉を聞いて、……アーサーが私の知らないアーサーになってしまった事に気付いて、私を助けてくれようとして捕まってしまったのだと思っていたの。…………でも、お家のこともあるのなら、もしかすると私のする事は、アーサーを困らせてしまうのかしら」
サラは、アーサーの切望を知っている。
生まれた居場所での息苦しさを、そして、魔法や不思議な生き物が暮らすどこかへの強い憧れも。
だから多分、ただそこで死ぬだけであれば、あの呪いがなければ死んでしまっていたかもしれないと告白したアーサーにとっては、それも不幸なことではなかったのではないだろうか。
それがどれだけ不実な事かを知りながらも、アーサーが、魔物との契約をすることなどなかったのだと思う。
「サラ…………」
力なくそう呟き、項垂れたアーサーにサラは微笑みを深めた。
最初に守ろうとしてくれたのは、アーサーなのだ。
(そして、あの薔薇のガゼボで、叔母様の手帳を開いて最初に始めてしまったのも私なのだわ………………)
五年は短くはなかったと口にした彼にとって、サラやダーシャは、五年もの間消息不明だったのだと思う。
魔物が一緒であったのだし、自分たちが過ごした場所がどんなところなのかは知らされていたのかもしれない。
けれど、一緒にいた仲間たちの中で一番幼かったサラのことを、アーサーは五年もの間案じてくれていたのではないだろうか。
現状が不確かであるという不安に付け込み交渉の材料にしてしまった魔物が狡猾なのは間違いないにせよ、どんな思いでアーサーがその五年を過ごしたのかを思えば、サラだって戦わなければと思うのだ。
どこかへ行ってしまいそうな彼を引き止めたくて、安易に魔法に手を出してしまった愚かさを、そろそろ償わなくてはならない。
(例え、こちらに縁があるのはアーサーのお家の方だったのだとしても、この町に一緒に行って欲しいとお願いしたのは、私からだったのだもの)
そしてどこかでずっと、サラは自分は何かの為にその歌声を使うのではないかという予感があった。
「……………ジャン、僕は君に言った筈だ。サラを無事に家に帰して欲しいのだと。彼女を損なうような契約をしているのであれば、その限りではないだろう」
「やれやれ、こちらの体でその名前で呼ばれるのも妙な気分だが、お前の為に通り名を考えてやるのも面倒だ。そのままにするしかないな」
「ジャン!」
「言っておくが、魔術は言葉からなる。それを本当の意味で理解しようともせず、稚拙な取り引きをしたお前の失態だ。俺はこいつを一度は家に帰した。あわいでもなく影絵でもない、お前が望んだ隔絶に書き換えられてはいるものの本物の家だ。俺は約束を違えてはいないぞ?」
「それは………!」
声を鋭くしたアーサーがぐらりと体を揺らし、それを素早くダーシャが支えてくれた。
二人が並び立つと、造作が似ている訳ではないのに、おやっと思うような雰囲気の相似性があって、サラが、そんなものに目を奪われていた時のことだった。
突然、横からにゅっと伸びた腕に手首を掴まれ、サラは目を瞠った。
「……………え?」
思わずぽかんとしてしまい、大騒ぎをするでもなく、まじまじとその手を見つめる。
その手の先を辿れば、サラ達がいるライラックの木のある家の影から、布を巻きつけて顔や体格を隠した人物が、サラの手を掴んでいた。
もしサラに油断があったとすれば、それは、魔物であるグラフや、こちら側の住人であるダーシャやアーサーがこれだけ傍に居るのに、まさか攫われてしまうだなんて考えてもいなかった事だろう。
そしてもう一つ残念なことがあるとすれば、サラがまだ体のあちこちが薄く、ひょいっと連れ去られてしまうくらいに頼りなかったことだろうか。
掴まれた腕をぐいっと引かれたその直後、サラの視界はくるりと暗転した。
ちかちかと弾ける不思議な光に、グラフがトランクを消していた魔法を思い出す。
一瞬、視界の端に呆然とするダーシャとアーサーの顔が見えたが、見間違いではなければグラフは意地悪な目をして微笑んでいたような気がする。
「お前が探していた女からのご指名のようだ。俺が迎えに行くまで、せいぜい国境の町を楽しむといい」
ふっと微笑んだ鮮やかで暗い藍青の瞳が心に焼き付くよう。
聞こえない筈の声音が、暗転の僅かな薄闇の中で、耳元で囁くように聞こえた。




