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冬至の準備とユールの橋



ちらちらと風花めいた細やかな雪が風に混ざり、庭の向こうを流れる小川が凍った。


そんな朝を迎え、サラは夜明けの光の差し込む窓のカーテンを開け、防寒の為に閉めてある木戸を開いた。

百合の花を模した金属の留め金を外し、音を立てて木戸を窓の端に寄せると、窓の下に見える屋敷の瓦に、きらきらと光る霜が降りている。


粉砂糖をまぶしたようなざらりとした霜をそっと指先で撫でてみたくなったが、あまりの寒さにぶるりと身震いすると、サラは慌てて窓辺から離れて厚手の毛糸のガウンを取りに行った。



今日はいよいよ、冬至の前日の朝だ。

今夜の真夜中を境に日付が変わり、冬至の日が始まるそのほんの少し手前。


十二月になってからは、アシュレイ家の屋敷にも扉には立派なリースが飾られ、玄関の前には綺麗なツリーが置かれている。


一番素敵なのは、居間に飾られた大きなツリーだ。


そこに置かれた大きなツリーにはアシュレイの家に伝わる古いオーナメントに加え、今年になってから買い足された硝子のオーナメントも飾られ、窓から差し込む朝の光に、クリスマスの色を添えている。


喪に服していないからこそのクリスマスだが、サラは、オードリー達を悼むのとは別の心で、この美しい飾りをアーサーやグラフに見せてあげられたことを嬉しく思っていた。



「おはようございます、お嬢様」

「おはよう、ノンナ。まぁ、今朝はチーズリゾットね?」

「ええ。ジャンパウロ様があちらの国の方ですからね。こんな寒い朝には、あちらの国の暖かいお食事が宜しいかと思いまして。それに、旦那様もお嬢様も、これが大好きですから」



みんなで朝食を摂るテーブルの上には、この季節になると食卓を飾る事の多い赤と緑に塗られたオーナメントを模した木製の古い鍋敷きが置かれており、そこには、サラの母親が嫁いで来た頃からある、淡い水色の琺瑯の鍋が置かれていた。


勿論一人ずつのお皿には既にリゾットが盛られているが、テーブルの上のお鍋から自由にお代わりも出来るのだ。


暖かい南瓜のスープにぱりっとした野菜のサラダには、この季節らしいレーズンと赤い木苺も散らされている。

焼きたてのパンとバターに、男性達の席には卵立てに入った半熟卵も添えられ、寒い朝に嬉しい幸せな食卓だ。



「おはよう、サラ。庭に出たのかい?」

「おはよう、アーサー。季節外れの薔薇が凍ってしまわないかしらと思って見に行っていたの。グラフはどうしたの?」

「朝から元気だよ。今日は足を延ばして向こうの街の朝のミサを見に行ってきたみたいだね。ああ、ほら、帰ってきたようだよ」



言われた方を見れば、黒いコートを着たグラフと灰色のコートを着てチェックのマフラーを巻いた父が帰って来るのが見えた。

何やら賑やかにベサニーと話している。



「…………ね?」

「ええ。今でも二人は仲良しのままなのが少し不思議なの」

「うん。僕もそう思っていた」



こうしてアーサーと朝の挨拶をする事にも、何だか慣れてきた気がする。

けれども、こんな生活も明日までなのだと思えば、サラは自分がそれを寂しく思っている事に気付いた。


無くしたものが沢山あるのに、薄情な人間は、新しいものにこうして馴染んでしまう事もあるらしい。



「おはよう、サラ。アーサーも」

「お父様も、グラフ先生と朝のミサに出かけていたの?」

「ああ。あの教会には古いパイプオルガンがあって、一度ミサに行ってみたいと思っていたんだ。だが、帰りにジャンがシュガードーナツを買って帰ると聞かなくてね…………」

「並んでいたのなら、美味い筈だからな」



甘い匂いのするドーナツの紙箱を持って帰って来たのは、仮にも中身は怖い魔物であった筈のグラフだ。


サラだけがそう呼ぶ事を最初は父も不思議がっていたが、師弟の間で特別な愛称のようなものがあるのも良い事だと考えてくれたようで、今では普通に受け入れてくれている。


四人は賑やかな朝食の時間を過ごし、サラの父は国内の四都市を巡るリサイタルの準備の為に仕事に出かけて行った。


書き換えられてしまったここには、叔母のアイリーンも姉のオードリーもいない。

それはつまり、今年に二人が亡くなったばかりだという事実も残っていないのだ。


だから父は普通に仕事に出かけてゆくのだと気付いたのは、新しい生活が始まってから一週間くらい経ってからで、サラは、そんなところでも堪らず心が揺れてしまった。




「祝祭の気配が強いな。………このような日であれば、探し物が見付かるかもしれないぞ」



サラの父が出かけた後で、そう呟いたグラフに、サラは睨めっこをしていた地図から顔を上げた。


流石に向こう側への再挑戦を果たす前日ともなれば、音楽のレッスンもお休みなのかと思えば、魔物は今日もやるのだと当然のように言うではないか。


なので、そのレッスンを何とか終えるなり、こうしてグラフの力を借りて探した、不思議な伝承の残る土地を記した地図の印を確認しているのだ。



(ほんの、二月にも満たないくらいの時間だったけれど、思っていたよりもあるのね……………)



幸いにも、ジャンパウロは車を持つ大人であるという利点を生かし、サラ達だけでは出かけてゆけないような土地の調査にも連れて行ってくれた。


サラの父には、近くの歌劇場や史跡などを目的に感性を育てる為の野外学習だという事にしておき、これまでは屋敷に篭りきりで縁のなかった外出の機会に、確かにサラの表現力はめきめきと伸びている気がする。


沢山の人達が集まる観光地と呼ばれるような場所や、地元で人気のケーキショップに出かけたのは、サラにとって初めての経験だった。


クリスマスという祝祭に興味を持ったジャンパウロに、有名な高級店の並ぶ目抜き通りに連れてゆかれてしまい、クリスマスシーズンに最も華やかな場所に出掛けるという初めての賑やかさに目が眩みそうになったり、こちらの砂糖を知りたいと、朝の賑やかな市場に連れてゆかれたり。


知らなかった事を知り、万華鏡のような世界を眺めれば、この箱庭のようだったアシュレイ家の屋敷の庭の向こうは、魔法がかかったような鮮やかさでサラを圧倒した。


それだけのものを心の内側に蓄えたのだから、サラの歌声に深みが出たと父が絶賛してくれるのも当然の事なのかもしれない。



(私は今迄、この家と劇場と、通っていた学園くらいしか知らなかった………。整えられた花束よりもお花屋さんの方が綺麗で、クリスマスの大通りが宝石箱のようだなんて思いもしなかったわ……………)



真っ白な髪の毛に気付かれたらと怯えていた今迄が嘘のように、サラがどこでも伸びやかに過ごせたのは、オードリー達が亡くなったばかりで世間がアシュレイ家の呪いに注目していないことが一つ。


そしてもう一つは、巧みに周囲の人々の意識を逸らしてしまう魔物の技量と、しっかり隣に寄り添ってくれるアーサーの存在があったからに違いない。



人々は多分、見たいものを好きなように見るのだ。



クリスマスシーズンの街は忙しくて幸せそうで、サラは上品な小さな帽子だけで賑わう店に入り、クリスマスツリーのオーナメントを買うという快挙を果たした。




「私やアーサーには、何も見えないんです。グラフ先生には、どのようなものが見えるのですか?」

「先生をつけるなと言っただろう」

「むぐ、……ぐ、グラフ…………は、」

「…………向こう側の祝福は、細やかなダイヤモンドダストのようなものだ。こちら側の祝福や信仰の魔術は、色のついた霧や、咲き誇る草花のようなものが多いようだな。土地の資質で変わるかもしれないが、この街はとにかく霧で表現される。………街の西にある古い墓地は、いつ出かけても黒い霧に包まれているから、ろくでもないものがいるのだろう」

「…………い、行かないようにします」



ぞっとしてそう言えば、こちらを見てグラフは薄く微笑む。


この魔物はそのようなところにも出掛けていってしまうようだが、帰って来てからこの体は不便でとんでもない目に遭ったと話していることもある。


その度に大慌てのサラ達からしてみれば、ジャンパウロの体を大事にして欲しいと思うばかりだ。



「ここに付けてある星の印の数が、土地に残ったものの力の強さなのですよね」

「…………これはやめておけ。距離も近く残された気配も強いが、気配が気に入らない」



グラフがそう指差したのは、この家の最も近くにあるユーリの泉だ。


良くないものがいるのだろうかと首を傾げていると、ジャンパウロの顔をした魔物はふんと鼻を鳴らして顔を顰めている。



「疫病の折りに、か弱き子供だけに守護を与えた精霊の住処とはまた、選り好みの激しい事だ。向こう側でも精霊は気性が荒いが、こちらの精霊はどうだろうな」

「子供を助けてくれた精霊というだけではないのですか?」

「記録を読み解けば、その疫病は黒死病だったらしいぞ。であれば、脅かされたのは子供だけだったと思うか?おまけに、その二年後の大火事の時の救済の奇跡は残されていない。弱者から助けたと言えば聞こえはいいが、あの土地に残る気配の癖の強さといい、単なる嗜好の問題だろう」

「グラフ先生が、聖女にしか興味がないみたいに………?」

「そう言う事だ。病に侵された子供にしか興味のない精霊だな」



グラフの教えは明快で、サラは地図の上のユーリの泉に小さなバツ印を付ける。

サラの母親がそうせざるを得なかったように、選択肢がなく、最も近いものの力を借りなければならない事もあるかもしれないが、出来るだけ避けておいた方が良さそうだ。



(お母様は、恐らく、相応しい土地を見付けられないまま、その日が来てしまった………)



だからサラの母親は、最も近くにいた人ならざるもの、つまりは、アシュレイ家の呪いを司る音楽の神そのものと取り引きをしたのだ。


向こう側でも、そんな無茶な取り引きを成功させる人間は少ないらしい。

それを可能としただけの資質がどれ程のものだったのかと、グラフは常々、この目で見られなくて残念だったとぼやいている。



(…………お母様は、私を二度も救ってくれたのだわ…………)



そんな魔物がサラとの契約に応じたのはきっと、その人間の娘だからとかける期待でもあるのだろう。

だからサラは毎晩、じっと鏡の中の自分を覗き込んで、自分がこの魔物を屈服させられるような資質は何だろうかと考える。




「そう言えば、あの飴細工の菓子店の主人が死んだぞ。突然心臓が止まったらしい」

「まぁ、ご主人が亡くなられてしまったのですね…………」

「まったく、こちら側の人間は短命過ぎる。老齢だか何だか知らないが、俺が滞在している間くらいは生きていられないものなのか。本来の体であれば、あの男に守護の一つでも与えてやったんだがな………」




こんな時、サラは魔物というものについて考えた。


橋の上ではあんなにも冷酷で恐ろしかった魔物が、砂糖を得る為とはいえ、随分と甘い条件で契約してくれたことは、サラとて理解している。


そして、気に入っていた飴細工を作った菓子職人が亡くなった事を、こんな風に剥き出しの失望を見せて嘆いたりもする。



(なんて不思議な生き物なのだろう…………)



窓の外を眺めて憂鬱そうに溜め息を吐いた魔物の為に、サラはベサニーが用意してくれた苺のタルトを出してやった。



「…………お前は無作法な娘だな」

「…………むぅ。苺のタルトでは、お気に召しませんでしたか?ドーナツは全部食べてしまったのでしょう?」

「おまけに、いつから俺に対してそんな口調で話すようになったのか。こちら側の人間は、妙なところで獰猛になるものだ…………」

「……………獰猛?」



また良くわからないことを言い出したぞと、サラは眉を顰めた。



最初はとても警戒して、レッスンとは言え、サラをグラフと二人きりにしないよう注意していたアーサーだが、最近は気にならなくなったようだ。


そう言えば君は、ダーシャのこともただの魔法の猫として認識していたしねと苦笑されたので、サラの魔物の扱いにも何か問題があるのかもしれない。



(…………でも、警戒もしているし、向こう側に着いて、冬至の日の夜までに打ち負かしてしまわなければ、私はお砂糖にされてしまうのだけれど…………)



そんな秘密の契約を知らないからこそ、アーサーはそう言うのかなと思ったが、なぜかグラフ自身も時折呆れたようにサラを見る。


なぜだろうと考えていたら、こつこつと扉を叩く音がして、レッスン室にアーサーがやって来た。



扉を開けて入ってくると、グラフの前に置かれた苺のタルトに呆れたような目をする。



「朝食の後にドーナツを食べた後で、今度はタルトかい?砂糖が食べられないからとは言え、凄い量だね………」

「グラフ先生はね、ペーター教会の通りのお菓子屋さんのご主人が亡くなってしまって、しょんぼりしていたの」

「おい、妙な言い方をするな。人間が脆過ぎると話していただけだろう」

「…………まさか、気に入っていたお菓子が食べられなくなる事に、落ち込んでいたんですか?」



アーサーに驚かれてしまい、グラフは少々気分を害したようだ。

無言で苺のタルトを食べている魔物の姿に、サラはほんの少しだけまた、このままの日々を惜しんでしまった。



「………アーサーは、準備は済んだの?」

「うん。君は?」

「明日のお天気で変えるかもしれないけれど、荷物の準備は済ませてあるわ。向こうの人達や、もし、人ではないものがいた時の為に使えるように、森で集めた木の実や、作っておいたポプリ、教会で貰ってきた小さな蝋燭がたくさんに、小さなオルゴールや硝子玉も。出かけた時に貰ってきた観光用の冊子と、こっそり集めたお父様が使わなそうな譜面も入れておいたの」



それは、サラには知りようもない、向こう側で価値のあるものばかりだった。


こちら側で集められる木の実や花々のポプリは、向こうにない稀少なものばかりで、教会で貰える小さな蝋燭は、一人一本のものをこつこつと貰い集めてきた。


持ち込む品物は、向こう側の魔術の低いサラの場合、拾ってきたり貰ってきたものが良いのだとか。

真っ白で向こう側との製法が違う蝋燭は、かなりの価値になるらしく、グラフも持ち帰り用にあれこれ買い集めているようだ。


魔術がない事で荷物が少ししか持てないと文句を言っていたが、魔物がこちら側のお土産に選ぶくらいなのだから、本当に価値があるのだろう。


オルゴールの旋律も、観光用の冊子の写真や文字も、譜面に記された音楽も、そのどれもが向こう側にはない特別なものばかり。


こうしてみると、ナイフやロープに傷薬など、実用的なものばかりを持っていた最初の挑戦とは荷物の中身が随分と違う。

このあたりは、人間と魔物の目線の違いなのだなと考え、サラは勿論、ナイフや傷薬も準備してある。



後はもう、明日の朝になって、ジャンパウロの車でほこり橋のある街に向かえばいいだけだ。



この家で過ごした奇妙な待ち時間は、明日の朝で終わってしまう。



「サラ、少しいいかい?」

「アーサー?ええ、レッスンは終わったところだから…………」

「寒いとは思うけれど、少し庭を歩かないか?」

「ええ!」



アーサーもこの奇妙で穏やかな日々が終わることを、感慨深く思ってくれているだろう。

そう誘って貰い、サラは微笑んで頷いた。


グラフはタルトのお代わりを求めて厨房に行くようなので、これ幸いと二人で庭に出る事にする。

コートを着ておいでと言われたが、何だかその寒さもしっかり味わっておきたくて、サラは分厚いストールを巻くだけで準備を終えた。



ひやりと、冷たい空気が頬に触れる。



庭に続く硝子戸を開けると、しんとしたクリスマスの前の静謐な空気を吸い込んだ。

庭に出ても、モミの木の香りと香辛料のリースの香りがふわりと漂い、微かなクリスマスの匂いがする。


冬になり、いっそうにかさかさと固くなった落ち葉と色を落とした芝生を踏んで、二人がどちらからともなく向かったのは、初めて出会ったあのガゼボだ。



「…………君に出会ったのは、このガゼボだったね」



サラが何かを言うよりも早く、アーサーがぽつりとそう呟く。



「オードリーと叔母様の葬儀の日で、白い薔薇がたくさん咲いていて、雨が降っていたわ」

「…………うん。このガゼボに一人でいた君を見付けた時は、どこか人間離れしたものに出会ってしまったようで、不思議な感じがしたよ」

「アーサーは、アシュレイの呪いを調べようとして、私に声をかけてくれたのよね」

「…………はは、面目無いな。忘れてくれなかったか」



そう苦笑したアーサーに、サラは、ほんの少し前のことだからと心の中で小さく呟く。


アーサーにとって、その事を告白し謝罪してくれたのは五年以上前の事なのだ。

でもサラにとっては、あの日の車の中でこちらを見て謝ってくれたアーサーは、まだ二ヶ月前の事なのに。



繋がり損ねた道と道の間を、向こう側の言葉で“あわい”と言うらしい。


アーサーが、砂糖の魔物と彷徨ったのは、ほこり橋とこちら側を繋ぐ道の亀裂に生じたあわいだったのだそうだ。


そのあわいは、向こう側では決して珍しくはない小さな一つの世界のようなところで、グラフは、サラ達のいるこちら側を、今代の世界より前の古い世界の時代に分離した一種のあわいだと考えているのだと話していた。


そこまで行くと、サラには、世界とは何だろうという高尚で複雑怪奇な思想に踏み込んでしまいそうな気がしたので、理解しようとはせずに頷いておくに留めた。



(グラフ先生が少しだけ話してくれたそのあわいは、とても不思議で恐ろしいところだった………)



グラフ曰く、ほこり橋のこちら側行きの亀裂から落ちたので、向こう側に抜けて戻ることは叶わなかったらしい。


だからこそ、一度こちらに出て、アーサーと協力の上で向こう側に戻るという算段をつけなければならなかったようだが、あわいの内側に広がっていたのは、殆ど向こう側の世界と大差ない深い森と宝石の街。



どれだけの危険があり、一人でそのようなところに迷い込んでしまった孤独はどれ程だったものか。


アーサーの左手の中指の爪が宝石化しているのも、向こう側で浴びた妖精の血が原因だと言うのだから、どんな事件があったのかと考えると無事に帰ってきてくれた事には感謝しかない。



(アーサーは、もう本物の妖精を見たのだわ……………)



それは美しかっただろうか。

それとも恐ろしく、悍ましかったのだろうか。


決して語ってはくれないその日々について、サラは想像を膨らませるばかりだ。




「サラ、…………少し早いけれど、これを貰ってくれるかい?」

「アーサー?…………まぁ」



薔薇の花も葉もないガゼボに二人で立っていると、ふいにアーサーが綺麗な瑠璃紺の天鵞絨の小箱をくれた。


かけられたリボンを解いて開けてみれば、美しい一粒真珠のブローチが入っているではないか。



「少し早いけれど、明日からは忙しくなるからね。クリスマスの贈り物に。今の僕にはあまり自由になる資金がなくてね、ささやかなものになってしまったけれど、………ここで過ごした日々に、何かを残しておきたかったんだ」

「……………前にアーサーに貰ったブローチは、……当たり前だけど、ここにはなくてとても悲しかったの。有難う、アーサー。私の宝物にするわ。なくならないように着けておく」

「…………ん?もう着けてくれるのかい?」

「ええ。いつも着けておけば、取られないかもしれないから」



ふんすと胸を張ってそう言えば、アーサーは嬉しそうに微笑んだ。



「それにね、私もアーサーへの贈り物を用意してあるのよ。グラフ先生へのものはもう取られちゃったけれど、アーサーのものは後で渡すわね」

「………ジャンにもあげたのかい?」

「私の先生でもあるから、お父様と二人で買いに行ったの。綺麗な細工のある銀のスプーンなのよ。お父様はどうしてそれにしたのかいって困っていらしたけれど、グラフ先生はよく、お砂糖を食べるのにいいスプーンがないって話していたから」

「サラ、向こうで彼が砂糖を食べるとしたら、その材料は聖女なんだからね?」

「……………そう言えばそうだったわ」



驚いて目をぱくちりさせてから、サラはアーサーと顔を見合わせて少し笑った。


勿論、アーサーへのものも用意してある。

それは今夜渡そうと思って、大事に部屋に隠してあった。

それを伝えると、アーサーはどこか悲しげな優しい顔で微笑むのだ。





「…………見て!川を渡る小さな橋の向こう。種か何かが飛んだのかしら。綺麗なお花が咲いているわ」

「本当だ。君が好きそうな花だね」

「見に行ってもいい?」

「勿論だよ」



庭と森の境に流れている小川にかかっているのは、小さな木の橋だ。

普段はあまり使う者がいないが、それでも森の方に渡れるようになっていて、アーサーと森に出掛けた時に渡った思い出の橋でもある。



その橋の向こう側に、綺麗な赤い花が咲いていた。


クリスマスローズに似ているが、葉の形が違うので他の種類の植物の花なのだろう。

その美しい花に心惹かれたという事もあるが、もう少しだけアーサーと二人でいたくて、サラはそう言ってみた。


微笑んで手を伸ばしてくれたアーサーに、自分の手を重ねてぎゅっと握って貰う。

そうして二人が、橋の上に片足を乗せた時の事だった。



「そこから動くな!」



はっとするほどに鋭いグラフの声が響き、サラ達は慌てて振り返る。


すると、レッスン室の窓を開けてこちらに身を乗り出したグラフが、見たこともないような苛立たしげな目をしてこちらを見ているではないか。



「ジャン……?」

「いいか、その足をどちらも動かすなよ。橋に乗せた足も、こちらの庭に残した足もだ。………サラ、お前の荷物は部屋にあるな?」

「は、はい………」

「僕の荷物は机の上にあります」

「お前のものも持ってきてやるとは言ってないぞ」



ひやりとするような緊張感を孕んだやり取りが途切れ、レッスン室の窓が閉じた。


サラは何が起きたのか分からず、おろおろと視線を彷徨わせたが、言われた通りに足を動かさないようにぐぐっと体に力を入れる。



「アーサー………」

「ここが橋だ。………恐らく、向こう側に繋がる」

「……………ここ?…………お庭から森に繋がる、ただの木の橋なのよ?」

「向こうではね、力のある生き物が留まることでその土地の質が変化する事があるんだ。ジャンがここで暮らしていたことで、何かが変化したのかもしれない。…………でも、彼が気付いてくれて良かった。何の準備もなく、二人だけで向こう側に迷い込んでしまうところだった……………」



じわりと、その怖さと形が胸に落ちる。

サラはしっかりと手を握ってくれているアーサーをもう一度見上げ、小さく頷いた。



ピチチと声を上げて飛んで行く小鳥に、見慣れた森の向こうの景色。


体を捻って振り返るアシュレイ家の庭も、何も変わったところはないように思えた。

けれどもこんな風に突然に道が繋がり、自宅の庭から歩いてゆけるようなところに向こう側への入り口が出来てしまうものなのだろうか。



「ったく、目を離した途端にこうなのか。お前達には情緒というものはないのか?」



ややあって、グラフがぶつぶつ言いながらあれこれと荷物を持ってこちらにやって来た。


サラは、なぜ旅行用の大きなトランクまであるのかと目を丸くしてしまったが、どうやらそれが、砂糖の魔物が向こう側に持ち帰る為の大荷物であるらしい。



「……………この橋が向こう側に繋がっているんですか?」

「ああそうだ。今朝から、森の向こうにユールの牡鹿が現れていたようだからな。こちら側の冬至の魔術とやらは、厳密に日付で切り替わらずに浸食が始まるものであるらしい」

「この土地の質が変わったのだとしたら、あなたが滞在していたからなのでは………?」

「お前達のせいかもしれんぞ。何しろ、一度は向こう側に触れている、それぞれに異質なものを宿した身だ。…………それと、ここを離れる前に伝えておくが、お前達のどちらかがこちら側に戻れたとしたら、女王の銅像のある公園の並びにある古い屋敷が来年に解体されるらしい。あの屋敷の庭にある、槿の木と楓の木を手に入れておけ。せいぜい二、三十年程度の若木だが、こちら側のものが派生しかけているからな。いい守護になるかもしれん」



言い終えると、グラフは自分を困惑したように見上げているサラに、すっと目を細めた。



「何だ?」

「……………戻れた後のことも、考えてくれているとは思わなかったです」



思わずそう言ってしまえば、こちらを見たジャンパウロの姿をした魔物は、また呆れたような目をした。


自分のトランクの上に乗せてあったサラのコートを器用に羽織らせてくれ、袖を通す間はアーサーが掴む手を変えて離れないようにすることにも協力してくれる。


サラが斜めがけの鞄をかけてしまうと、今度は結局持って来てくれたらしいアーサーの鞄と上着をぞんざいに渡し、自分の大荷物をしっかりと手にすると、サラの手の空いている方に来てその手を掴む。



(まるで、本物の先生で、私達の味方みたいに……………)




「俺は約定の言葉を損ないはしない。どこからどこまでと、そう取り決めを交わしはしなかったか?」



けれども、そう言われた言葉の静かな響きに、サラは恥じ入り、そうだったのだと頷いた。

残忍でしたたかだが、この生き物は、自らの意思で交わした約束は守る生き物なのだ。

そういう意味では、人間の方がよほど不誠実なのかもしれない。



「さて、行くぞ」

「はい」

「サラ、手を離さないようにね」



あの時と同じだと、ぼんやり考えた。


ほこり橋の時には、グラフの代わりにダーシャがいて、あの時はまだ、恐ろしさよりも向こう側に何が待ち受けているのだろうという憧れも強かったような気がする。


でももう、今度は無事に帰れない可能性もあるのだと、サラは理解していた。

自分が戻れなかった時に父が感じる悲しみや絶望も含め、それでもと決断して契約したのだから、もう迷うまい。



生まれ育った屋敷を振り返りかけて、サラは、次はまた、オードリーと叔母のいた屋敷に戻ってみせるからと、あえて振り返らなかった。



無力さと罪悪感に打ちのめされ、やり直すチャンスがあるのなら必ず帰ると決めたのだ。

決めたからこそ、危険だと分かっていても掴み取ったこの好機を、決して逃さないようにしよう。



(アシュレイ家の呪いの押さえ方は教わったわ。お父様は、今は音楽の神様を満足させているし、私はお母様のお陰でその難を逃れている。……………だからもし、教えて貰ったものを使う日が来たら、その時はこの日々に得たことをきちんと生かそう)




意を決して前に進めば、ざあっと視界を覆うほどの落ち葉が風に舞うように、景色が切り替わった。











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