冬の入りと祝祭の足音
はらはらと、季節のページが捲られてゆく。
晩秋から冬の入りは、駆け足のように色づいた木々の葉が落ちてゆき、家々や街並みはカーテンを引くように一変した。
ほこり橋への挑戦が無残に敗れ、サラ達のいた残酷で優しかった世界が失われてから二週間も経てば、街にはクリスマスの飾りがちらほらと現れ始め、気の早い人々の浮き足立つ様子が見られるようになる。
その日は朝から静かな雨が降っていて、サラ達の屋敷の前の通りは、見事な街路樹から落ちた落ち葉が絨毯のようだった。
万華鏡のような音階で、ピアノが歌った。
「…………悪くはないが、お前は決めるべき音を迷わせる癖があるな。…………おいおい、そこを緩めるのか?」
「……………ここは、緩める方がいいんです」
「女が男を誘う歌だぞ。おまけにその男には正妻がいるときている。呆れるほどの厚顔ぶりだが、であればその音は緩めるな」
「むぐ…………けれどここは、少し音を緩めて可憐さを出す場面だと書かれて…」
「どんな場面であれ、分配されたもの以上をと望む者達は一人残らず高慢で身勝手だ。どうしても諦められなかった?迷ったが手を伸ばした?………白々しいな。望まない者もいるのにそうしなかったのはなぜだと思う?」
だらりと椅子に寄りかかり、そう尋ねたグラフに、サラはぎりぎりと眉を寄せる。
これまでの日々で分かった事と言えば、この魔物の観察力の高さと思いがけない音楽への熱意だろうか。
まさか、歌わないだけで他の部分ではかなり真剣に鍛え上げられるとは思っておらず、サラは、日々気紛れな魔物の音楽問答に翻弄されている。
(どうしてもという答えも、迷いながらもという答えも、既に排除されてしまっている…………)
一生懸命に考えるサラを意地悪く見守っている魔物は、橋の向こう側では砂糖を司る魔物であるらしい。
あれだけ恐ろしいと思った相手が、まさかの美味しいお菓子でも作ってくれそうな肩書きであることに呆然としたが、話の断片を繋ぎ合わせれば、人間を唆して破滅させ、砂糖にして食べてしまう恐ろしい魔物であるようだ。
本来の体には白を持ち、爵位のある高位の魔物として暮らしていたが、伴侶を亡くして狂乱した魔物に片腕を捥がれて階位を落としたのだそうだ。
そんな、人間のようで人間ではない不思議な生き物の話に、サラは少しずつ惹かれている自分にほとほと呆れていた。
勿論、異性としての興味ではないし、気質や言動を慕うにはあまりにも残忍な生き物だ。
けれどもそんな魔物は、音楽の師としてはこの上なく優秀なのである。
その指先が落ちる鍵盤から生まれる音楽には、どんな天才ピアニストだって、抗いようもなく恋に落ちるだろう。
ジャンパウロの体であってもやはり人間とは違う圧倒的な技量が生み出す旋律に、サラの中の音楽に焦がれる心が、そんな魔物が音楽について語る言葉に惹かれてしまうのは当然だった。
「…………自分を止められなかったから……でしょうか?」
「そうだ。願い欲すること全てが、結局のところその高慢さに収束する。それを覚えておけよ。良し悪しではなく、善悪でもない。だが、望める者はそれを可能とする思考だけでもはや高慢だ。その理不尽さや身勝手さも受け入れ、口先だけの躊躇でその色を濁らせるな」
その言葉には内容程のさしたる熱はなく、淡々と語り、また魔法のような指先でピアノを弾いてくれる。
そんな魔物の横顔を眺めながら、彼等は人間であれば取り繕いたくなるその高慢さを厭いはしないのだなと得心した。
「………あなた方は、それがどのようなものであれ、在るが儘のものを尊ぶのですね」
「おいおい、雑食のように言うなよ。俺らとて嗜好はある。だが、偽装されたものを好む程暇ではないし、結局その手法は色を濁らせるだけだ。混色も良しとされる場面もあるにせよ、最も強い色のその場面では、不粋な事だと覚えておけ」
サラはふと、彼等の心の持ちようは人間とはあまりにも違うが、一方では無垢な生き物なのかもしれないと考えてしまった。
望めば欲し、そこにどんな余分な理由もつけずに伸びやかに生きるこの生き物は、自由に暮らす獣のような心を持っている。
あまりにも残酷に見えるのは、ただ単純にサラ達とは違うからなのだ。
人間と同じ姿形をしているのに、手が届かない程に美しく、あまりにも違う有様とその心に、理解出来ずに分断されるから怖いと思う。
でも、もしかしたら絶望とは、元よりそんな形をしていたのかもしれなかった。
考えることをやめ、息を吸う。
もう一度歌い出せば、先程のように途中で止めることもなく、今度こそ魔物は、機嫌良くサラの歌を最後まで聴いていたようだ。
「……………ほお、悪くはないな。お前が向こう側で生まれ落ちれば、さぞかし悪辣な歌乞いになっただろう」
「それは、以前に話してくれた、その歌声を糧に魔物と契約を交わす人間の事………ですよね?」
魔物は人間の歌声を好むらしい。
美しく恐ろしく高位の生き物であるが、歌乞いと呼ばれる特別な歌声で、魔物達の寵愛を受け彼等に願いを叶えて貰える人間がいることは、ダーシャとのお喋りでも聞いていた。
竜は契約の子供を大事にし、妖精は代理妖精として庇護を与えた人間の補佐官のようなことをしたりもする。
ダーシャの生まれ育った雪の国には、そんな人ならざる者達が沢山いて、彼等と共に生きている国だったのだと。
「そうだ。お前の探していた、カテリーナとアレッシオのように」
(………………!)
ちらりと振り返り、グラフはにやりと笑う。
その微笑みにはひたりと染み込む悪意と、こちらをひっそり窺う鋭さがあったが、サラははっと息を飲むに留め、何とか冷静さを保った。
「………やはり、その二人を知っていたのですね?」
実は、微かな予感はあった。
向こう側の国境の町から来たのであれば、その二人の名前を知っているかもしれないと、この魔物の反応を窺う為に、その名前を、アーサーと会話に乗せてみた事がある。
その時に、きゅっと眉を持ち上げてこちらを見たので、ああ、知っている名前なのだなと考えてはいた。
その場で問いただしてしまわなかったのは、グラフが前から楽しみにしていたケーキ屋さんに出掛けるところだったからだ。
この魔物は実にと言うべきか、当然と言うべきか、砂糖が好物なだけあって甘いものも好んで食べる。
ジャンパウロの体では人間を砂糖に出来ないからこその、代替品であるらしい。
「…………そのお二人のどちらかが魔物で、どちらかが歌い手なのですね。もしかして、アレッシオさんが魔物なのですか?」
魔物が来ると言う言葉を残して失踪したのは、カトリーナだ。
なので、目星をつけてそう尋ねてみたサラに、グラフは焦らす事もなくあっさりと頷いた。
「アレッシオは歌劇場の魔物だ。魔物は唯一自身の歌乞いにばかりは愚かな生き物になるが、だからこそ狭量にもなる。アレッシオが指輪を贈ったカテリーナという名前の人間は、それを理解せずにあっさりと殺されたがな」
「……………あ、」
そこでサラは、はっとした。
ダーシャもそうだが、国境の町は本来、死んでしまった人間達が暮らす場所とこちら側の境界だ。
アーサーの先祖のように、死者ではないのに死者の王の目を盗んで侵入し、国境の町を抜けてこちら側にやって来た者達もいるのだろうが、基本的には死者の領域なのである。
「…………そのカトリーナ……カテリーナさんは、どうやら私の先祖であるらしいのです」
「それはないな。死者は死者だ。こちら側にどう入り込もうと、生者との間に子は成せない」
「……………え」
思いがけない指摘だった。
グラフは何を馬鹿な事を言っているのだろうという呆れた顔でこちらを見ているが、サラからしてみれば、考えていた前提ががらがらと崩れ落ちてしまったようなものなのだ。
冷静さなどあっさり剥がれ落ちてしまい、おろおろと視線を彷徨わせたサラに、グラフは冷ややかな目をする。
「そんな…………。じゃあ、一族に伝わっている事が、間違って…………」
「……………はぁ、どれだけ人間は思考能力が低いんだ。伝聞なんぞ曖昧なものだ。であれば、変えられない事を軸に構築し直せばいいだろう」
「…………変えられない事」
グラフはとても気紛れな魔物だったが、音楽の授業の後は機嫌が良い事が多く、こうして教師然として色々な教えをくれる。
その事をアーサーに話すと、アーサーは暫く考えた後にどこか深刻そうな眼差しで、それはサラの歌声をグラフが気に入っているからではないだろうかと言うのだ。
人間が持ち得る中でも、最も魔物を喜ばせるのがその歌声だというのなら、サラの歌声も何らかの効果を出しているのだろうか。
勿論、好き好きがあるそうで、人間の数だけある中のたった一つのものだけが、その歌声を探していた魔物の心を奪うらしい。
とは言え、そんな風に心を動かすくらいなので、元々魔物という生き物は歌声には弱いのかもしれないとアーサーは考えたようだった。
「そう言えばグラフ先生……グラフは、悪くないとか、そこは良かったと褒めてくれる事もあるの。普段のグラフからしたら珍しいから、音楽がとても好きなのかなとは思っていたけれど…………」
ついついグラフ先生と呼びたくなってしまうが、本人から先生と付けるのはやめるように言われている。
とは言え父の手前それも出来ず、グラフ先生と呼ぶとあの魔物はとても嫌そうな顔をした。
ぱちぱちと音を立て、暖炉の中の薪が爆ぜる。
そんな暖炉の前の敷物の上に座り込み、サラは隣に座ったアーサーを見上げた。
サラの父は仕事で家を空けており、グラフは王立図書館に出かけている。
ノンナがお茶の支度をしてくれたので、二人は暖炉の前で美味しいスコーンとクロテッドクリームと共にのんびり寛いでいた。
はらりと額に落ちた黒髪を搔き上げる仕草は、アーサーが前髪を上げる髪型を好むようになってから見慣れたものとなった。
灰色の瞳は深く静謐になり、この家で再会した日に見た無防備で柔らかな眼差しを浮かべる事は少なくなったように思える。
サラの知らない五年間に、どれだけの事があったのだろう。
そこでアーサーはどれだけの事を諦め、どれだけのものを失ってしまったのか。
(それだけの苦難を経て戻って来たこちら側に、自分の居場所がなかったと知った時、アーサーはどんな思いだったのかしら…………)
そう考えると胸が潰れそうで眠れなくなるけれど、サラは、アーサーがなぜか隠しているその五年間については気付いていないふりをした。
恐らく、アーサーがその五年を隠しているのは、まず第一にサラを傷付けないようにしてくれての事だ。
そしてその五年間のどこかで、アーサーは、何らかの厄介な状況に置かれている。
その相手はグラフなのだろうが、どうにかして聞き出そうとしたところ、既に知るべき事は知っている筈だと言われてしまった。
「ジャンは、君のことを気に入っているようだね。ここでの待ち時間の間は安全だけれど、向こう側に行った時に君を攫われないようにしないと」
「でも、アーサーとも仲良しに見えるわ」
「いや、まさか。お互いに利用しあっている部分はあるけれど、決して仲は良くないかな」
「…………ケーキ屋さん巡りをしているのに?」
「……………サラ、その話題はここではやめようか。ジャンとはその話しかしないんだ。ほとほとうんざりしている…………」
当初のアーサーは、魔物からもっと厄介なものを要求されることを、そしてそれを提供する覚悟を決めていたのだそうだ。
けれども、こちら側に来てグラフは、人間を砂糖に出来ない事が分かり、代わりに甘いお菓子を大量に食べるようになった。
その手配をしているアーサーは日々苦労しているようだし、サラの父も、友人の食の好みの変化に戸惑ってはいた。
幸いというか何というか、グラフはこちら側に滞在している間にあちこちを見て回ろうとしているのか、精力的に観光もしているのでジャンパウロの体はまだ太らずに済んでいる。
「…………でも、アーサーはもう少し食べないと」
「…………ん?またお説教かい?」
「この屋敷にいると、お隣のお家が見えてしまうから、やっぱり辛いわよね…………」
「いや、………それは割り切ったとは言い切れはしないけれど、だいぶ克服したつもりだよ。こうして過ごすのには有利でもある。それにね、…………母や兄が幸せそうに暮らしている事で、僕はだいぶ気が楽だ」
そう微笑むけれど、そこにはアーサーがいないのだ。
愛情深いジョーンズワース夫人にとって、最愛の息子が一人欠けてしまうという事が、どれだけの悲しみかと思えば、やはりここを何とかして元通りにしなければならない。
(アーサーに、大好きな家族を返してあげたい……………)
こんな目に遭って初めて、サラは呪いよりも怖いものがあるのだと理解した。
どこも欠けていない完璧なものを望み、それまでに手にしていたものを無くしてしまったのは、自分がどれだけの宝物を持っていたのかを理解していなかったからだ。
向こう側の魔術や運命は、今あるものを無くしますが構いませんかというような問いかけなどしてくれないし、より失う事があるのだという運命の残酷さまでは、サラ達よりも向こう側を理解していた筈のダーシャにも考えが及ばなかったことであるのだろう。
ふっと頬に髪の毛が触れて、サラは目を瞠った。
隣に座ったアーサーが、サラの肩に頭をもたれかけたのだ。
いきなりのことにぎくりとしたサラだったが、こてんと頭を乗せてみせただけで、本格的に体重をかけている様子はない。
「……………アーサー?」
「…………ごめんよ、少しだけいいかい?」
「…………ええ」
ふうっと息を吐く音が聞こえ、暖炉の前は再び、薪が燃える音が聞こえるばかりになった。
どれだけの時間をそうしていたものか、サラが、肩の上に乗ったアーサーの頭を撫でてやりたくて手をむずむずさせていると、アーサーが微かに微笑むような気配がした。
「……………君を失いたくはないな」
「私を?…………アーサーを見捨てたりなんてしないわ?」
「もし、あの橋を渡って、何もかもが上手くいって全てを終え、こちら側に戻って来たとする。………けれど、どれだけしっかりと手を繋いで橋を渡っても、こちらに戻ったら、僕達はお互いの事を覚えていないかもしれないよ」
「お父様が、全てを忘れてしまったように…………?」
「今回のこちら側の再編は、ジャン曰く、本物のジャンパウロが失われた事での組み替えが最も影響している可能性が高い。………同じ名前だとややこしいな」
「アーサーは、グラフと呼ばないのはどうして?」
「彼から、その名前を提示されていないからだよ。僕にはそのまま、ジャンと呼ぶようにと言うんだ。やはり君は特別に気に入られているんじゃないかな」
そう呟き体を起こすと、僅かに目を細めたアーサーの横顔は厳しいものだった。
「…………仲良くなれるように、アーサーも歌ってみる?」
「…………サラ、そっちはいらないからね?」
「グラフと仲良くなりたいのではないの?」
「あの魔物が、君を気に入りすぎているのが心配で、…………君に近付き過ぎているのが面白くないみたいだね」
こちらを見てどこか投げやりにそう言ってみせたアーサーに、サラは目を瞬いた。
言われた意味がよく分からなかったのだ。
「向こう側に行ってから、今の感じのままに油断していて食べられてしまいそうだから?」
「…………これ以上は黙秘するよ。僕は狡猾な男だからね。自分を不利にする発言は出来ないかな」
小さく笑ってそう言ったアーサーに、サラはむぐぐっと眉を寄せてじっとそちらを見た。
こんな風に言葉を飲み込んで微笑むのは、アーサーの悪い癖だ。
こんな目をして微笑むから、あの時だって、自分で全てを飲み込んで姿を消してしまったのではないか。
(でも、あの時はアーサーにはお兄様やお母様がいたわ。決して一人ではなかった…………)
でも、今のアーサーは一人ぼっちなのだ。
彼が、ジョーンズワースのアーサーである事を知っているのは、サラと、今だけは仲間でいてくれる魔物しかいない。
今のここには、アーサーがしっかり紐付く居場所がないのだ。
「…………アーサーが、私と家族になればいいのだわ。その約束をしてしまったら、少し時間はかかるのだとしても、アーサーは家族になるのだから、もう少しは甘えられる?」
「…………っ、サラ。どうしてその思考に飛躍したのかはさて置き、言葉の意味をよく考えてご覧」
どうしたら心を緩めてくれるかなと考えてそう提案すれば、なぜか呆然とこちらを見た後、アーサーは片手で顔を覆ってしまった。
小さく呻いているアーサーを見て、サラは目を瞬いた。
「アーサーが、家族になること?」
「……………君のお父上は、養子を取る趣味はないだろう。君と、亡くなられた奥方をとても愛しておられるからね」
「まぁ、アーサーはジョーンズワースのお家に帰るのだから、そんな事はしないわ」
「それなら、僕と君が結婚する事になるよ?さすがの僕も、未婚のまま、君を養子にするつもりはないし、良くしてくれている君のお父上にそんな酷い事は出来ないからね」
「私のお父様は、今のお父様だけよ。アーサーでも、それを取られたらとても嫌だわ…………」
「だろう?簡単に家族だなんて……」
「だから、アーサーが私の旦那様になればいいのでしょう?」
「……………っ、サラ?!」
この時、サラは初めて見るくらいに動揺しているアーサーという、珍しいものを見てしまった。
目元を染めて狼狽えるアーサーは、最近のどこか落ち着き過ぎている余裕めいたものが剥がれ、何だか可愛らしい。
クリストファーとダーシャと一緒にピクニックをした時のアーサーの笑顔を思い出して、胸の中が小さく痛んだ。
「……………いいかい?僕を一人にしない為だけに、僕と結婚しようだなんて思わなくていいんだよ?」
「勿論、寂しくなくなったり、アーサーに好きな女性が出来れば、離縁すればいいのだわ。最近は離縁するご夫婦も珍しくないのだと、オードリーが話していたもの。それに、恋がなくても戦友のような伴侶の形や、家柄同士の婚姻でも良き友人としてやっていく方々もいるそうよ」
「い、いや、そういう事じゃなくて、…………君の姉上はどうしてそんな話をしたんだ。…………兎も角、君は、きちんと恋をしてその相手と結婚するべきだ」
「…………アーサーが大好きなだけでは、いけないの?」
家族にしてしまえば、ここはあなたの家でもあるのだからそんな風に寄る辺ない目をしないでと言えるのにと考えたサラは、しょんぼりと肩を落とした。
やはり、未だに恋というものの形はよく分からない。
アーサーのことは大好きだし、アーサーの為にはたくさんの事が出来るけれど、歌劇の中の女達のように、全てを投げ出してそれだけを恋い慕う苛烈さがあるかと言えば、やはりサラは、自分の家族を手放す覚悟など出来ないのだった。
何度か息を吐き、困ったように微笑んだアーサーが、座り直して正面からこちらを見る。
「僕を大切にしてくれることはとても嬉しいけれど、君の大好きは多分、違う形の想いなのではないかな。…………すまない、サラ。大人気ない態度で、僕の執着で君を毒してしまったみたいだ」
「…………でも、しっかり捕まえておかないと、アーサーはどこかに行ってしまいそうだもの」
サラが諦めきれずにそう言えば、アーサーは小さく笑った。
「そうか、君にとっては、あの日の続きでもあるんだね?それなら僕は、こうしてどこにも行かないよと言えば良かったんだね」
微笑んだアーサーがしっかりと手を繋いでくれると、サラは、これではない気がすると薄々感じながらも諦めて頷くしかなかった。
「…………でも、やっぱり家族になりたかったら言ってね?」
「いつか、君がそのような話をする大人のレディになった時に、僕がそう言う事が出来たのだとして、その時に君が嫌でなければね」
「………じゃぁ、アーサーが失望しないような大人になるわ。いざという時に、アーサーが私では嫌だなと悲しく思ったら困るもの」
かなり真剣な提案のつもりだったのだが、やはりまだ、サラが子供過ぎて有効ではなかったようだ。
こんなところでも、子供であることで差し伸べられない手があるのだとがっかりしつつ、サラはそう誓った。
いつか、アーサーがこちらの手を取ろうとした時に、幾ら何でもこれは嫌だと考えたらあまりにも不憫ではないか。
(……………今の私では、アーサーを頼らせてあげる事も出来ないのだわ…………)
堪らず項垂れてしまったのは、せっかくの求婚が断られたからというだけではなかった。
あのほこり橋に向かう車の中でやっとその手を掴んだアーサーが、また手の届かないところに行ってしまい、そこで一人で苦しんでいる事を知っているからだ。
そんなサラを見て微笑んだアーサーが、ひどく愛おしげな、けれども悲しい微笑みを浮かべたのを見て、サラは無言で目を瞠る。
ぱちぱちと燃えていた薪が、がこんと燃え崩れ、部屋に飾られたツリーのオーナメントに映った炎の色がきらりと光った。
「君は僕の特別な女の子だよ。………いつからか、どうしてだかね。でもやはり、僕の身にはジョーンズワースの呪いがあり、それを持ったまま君を家族には出来ない。ねぇ、サラ。覚えておいてくれるかい?もし、僕が君とは交わらない道を行くのだとしても、君に出会えたことは僕にとっての恩寵だった。今の君のことも、これから先の素敵な大人の女性になってゆく君のことも、僕はずっと愛しているだろう。だから、そんな風に悲しい顔をしないでくれるかい?」
(それはまるで、…………)
微笑んで慰めるかのように優しく言うくせに、自分はもうそこにはいないかのような言葉ではないか。
ただ、今ばかりの不運とは言え、ジョーンズワースの子供ではなくなった筈のアーサーが、ジョーンズワースの呪いの話をしてくれたことで、彼が元の場所に戻ろうとしてくれていることには安堵した。
「…………アーサー、本当にどこにも行かない?」
「サラは怖がりだね。今はもう、君の屋敷で暮らしている僕が、どこか遠くに行ってしまうとでも思ったのかい?………さて、ジャンが調べて来てくれた、比較的近くにある人ならざる者達の伝承をおさらいしようか。…………やはり、ここから一番近いのはユーリの泉かな」
ばさりと広げられたのは、グラフがあちこちを観光しながら調べて来てくれた、こちら側での人ならざるもの達の証跡だ。
なぜ、アシュレイ家を呪うのか、そしてどのようなものなのか、サラの家に残る呪いの正体は未だに判明はしていない。
けれども、ジャンパウロの体に入った魔物の証言から、やはりこちら側のものであるという結論が導き出された。
アイリーン叔母の手帳に記されたカテリーナとアレッシオの名前がどのように繋がるのか、歌劇場の魔物だというアレッシオという人物が何かを知っているのかはさて置き、こちら側のものであれば対処のしようがあるというのが、グラフの意見だ。
彼は他にも色々なことを教えてくれた。
きっと、魔物にとってはさしたる事ではない情報が、サラ達にとっては重要な意味を持ったのだろうが、時々彼は本気で自分達を助けようとしてくれているのではと考えてしまう程に。
(奇跡は魔術の顛末だから、ただ、奇跡が起こったとされるだけの土地では意味がない。そこには魔術は残っていない………そうグラフは言うけれど…………)
だから辿るなら呪いか、人外者の住処とされる場所がいいのだそうだ。
「同等のものの庇護を得れば呪いから身を守れるのなら、ユーリの泉の精霊は優しそうだわ。住んでいるという伝承だし」
「…………うん。ただし、ジャンの言うようにそれは諸刃の剣でもある。彼曰く、君の叔母上は、その手段を誤ったことで、君達の家を呪うものの怒りを買ったか、或いは力を借りようとしたものの障りを受けたのだろう。…………サラ?」
「グラフはよくアーサーのことを魔術師と言うけれど、今のアーサーは本当に魔法使いのようだったわ。それに、少しだけダーシャに似ていたの」
サラの言葉に、アーサーが淡く微笑んだ。
「…………ダーシャは、元気にやっているかな。ジャン曰く、彼は間違いなく向こう側の死者の土地に引き戻されている筈だという事だけれど、無事に彼の大切な竜に再会出来ていればいいと思うんだ」
あの橋の一件以降、行方が掴めないのが本物のジャンパウロと、ダーシャである。
ただしダーシャについては、グラフには思い当たる行き先があるようだ。
あの時の橋の異変は、死者達を管理する死者の王がやって来た事で、国境域からこちら側に繋がる道が閉じようとしてのものだったらしい。
であれば、死者の王の権限において、彼の管轄内にあるダーシャは、本来いるべき所に引き戻されていると考えるのが妥当なのだそうだ。
国境の町より更に向こう側の奥にあるという、死者達のあわいに足を踏み入れただけで、橋が閉じてしまう程の力を持つのが死者の王だ。
ダーシャが呼び戻されてしまったと考えるのは、希望的観測などではなく、当然の事だと魔物は言う。
(……………もう会う事は出来ないかもしれないけれど、でもダーシャがちゃんと帰れたのならいいな…………)
「うん。…………ダーシャならきっと、大好きな竜に会えている筈だわ。その竜は、ダーシャの事が大好きで、おまけに竜なのだもの」
「僕もそう思うよ。…………彼に会えて、本当に良かった」
「ダーシャもそう思っている筈よ。もう向こう側にご家族がいないって、アーサーやアーサーのご家族に会えた事をあんな風に喜んでいたのだもの」
「…………こちら側からはなくなってしまったあの本を、ダーシャが持っていてくれるといいなと思うんだ」
「ええ。私もそう思うの………」
ダーシャについて語る時、アーサーは、灰色の瞳にきらきらと美しい憧れと愛情を煌めかせる。
橋を渡り始めた時に、アーサーが呼吸が楽になったと驚いていた事を思い出し、サラは、もしかしたらアーサーが、このまま自分が存在しなくなったこちら側を捨てて、向こうで暮らそうと考えている可能性を思案してみた。
(ううん。それだけなら、アーサーはただ、私に何も言わずに、冬至の日にグラフと一緒に橋を渡ればいいのだわ。わざわざ私を連れて行って、こちら側を元通りにする必要なんてないのだもの……………)
考える事は沢山あった。
ジャンからは相変わらずしっかりとした音楽の指導を受け、気紛れな魔物は気分がいいと色々な事を教えてくれた。
サラと父と、魔物が入ったジャンパウロとアーサーとで暮らす奇妙な日々はゆっくりと過ぎてゆき、サラはオードリーがいない世界でアシュレイ家にはない筈の鈴蘭の香水の瓶を小遣いで買った。
まだ香水は早いのではないかと狼狽える父に、瓶が可愛いので飾りたかったのだと説明する。
ある日、グラフがサラへのお土産で小さな砂糖菓子の小箱を買ってきてくれた事があった。
サラは喜んで食べてしまったが、父の手伝いで家を空けていたアーサーに話すと、二人はその夜、サラを餌付けしてはならないというたいへん不本意な喧嘩をしていたようだ。
サラと父はそんな二人の騒ぎを遠くに聞きながら、友達を取られてしまった子供の喧嘩のようですねぇと笑ったノンナのお茶を飲み苦笑したものだ。
いよいよクリスマスが近付き、小さな星のような飾り付けがあちこちに見られるようになると、アーサーは一度だけ、向こう側には本物の星屑を拾って、カンテラに入れて明かりにするんだよと話してくれた。
それはダーシャから聞いたものではなく、うっかり話してしまったアーサーの記憶なのだろう。
(もうすぐ、雪が降るようになるわ…………)
通りではモミの木が売られているので、街中にモミの木と、リースに使われるスパイスの香りがする。
そこかしこに美しいツリーが並び、街角からは楽しげな音楽が、そして教会からは聖歌が聞こえた。
もしも願い事が叶うのならば、こんな季節こそかもしれない。
ゆっくりと近付いてくる冬至をカレンダーで追いながら、サラは、沢山のことを学び覚悟を深めながら、アーサーと砂糖の魔物との短くも穏やかな日々を過ごしたのだった。




