聖女の痕跡と魔物の対価
アシュレイ家の屋敷に帰ったサラ達は、簡単な晩餐を摂って、静かな夜を過ごしていた。
自室に戻ったサラも、就寝用の白い寝巻きに着替えてしまい、今は、窓からジョーンズワースの家に続く庭を見下ろしている。
キシキシと、古い屋敷の屋根を庭の木が擦る音に、これは変わらないものだと胸を撫で下ろす。
風に軋みぎいっと鳴る窓近くの壁に、時折うぉんと強く鳴るのは川の向こうの森を抜ける突風だろうか。
こんな風の夜の音は多分、サラのよく知るもののままだ。
(今日は、風の強い日、…………だったのかしら?)
けれど、そんなことを思い出そうとすれば、ますますここが、見知らぬどこかである怖さに胃が縮こまるような思いがする。
独り言でもいいからとアーサーの名前を呼びたくなったけれど、ぐぐっと堪えて奥歯を噛み締めたのは、これ以上自分の弱さに失望したくなかったからだ。
恐怖はどこか、壊れた蛇口に似ている。
どれだけ蛇口を捻ろうとしても、もろもろと零れ落ちてゆく怖さがいっぱいになって、グラスの水が溢れてしまうのだ。
「ふぅ、」
負けてなるものかと小さく息を吐いて、鏡台の上に視線を向ければ、そこにはオードリーから貰ったお気に入りの髪留めはおろか、叔母が買ってくれた彫りものが美しい、特別な日に髪を梳かす宝物の櫛もなかった。
(宝物ばかり、持って行ってしまうのだわ…………)
目を閉じて少しだけ心の中を空っぽにし、涙の気配を追い払うと、サラは仲間達の訪問に備えて、初めて見る高価そうなブラシをたいそう警戒しながらぶんぶん振って確認し、何とか髪の毛を梳かした。
あの後、帰った屋敷で自分の知らないものを見付けてしまったらと恐ろしくてならなかったものの、いざ玄関をくぐれば屋敷にはノンナとベサニーが待っていて、サラに向けられる微笑みも出かける前と変わらなかった。
その事にほっとしていると、晩餐の席で、サラの父がとある近郊の大きな町の名前を出し、今日は、その歌劇場で海外から来た音楽家達の昼公演を観たと話すではないか。
これはまずいと青ざめていたところ、ジャンパウロの内側に入った魔物は、そんな父と巧みに会話を合わせてしまい、その鮮やかさにサラは呆気にとられた。
(だからこそ、魔物なのかしら…………)
向こう側に暮らしている魔物という生き物は、とても長く生きる人ならざるものなのだそうだ。
サラ達の知る聖書中の悪魔とは違い、こちら側で言う神でもあり悪魔でもあり、はたまた精霊や妖精のような側面もあると教えてくれたのは、今はここに居ないダーシャだった。
その魔物の知識と経験を踏まえれば、サラの父一人を欺き、古い友人のふりをする事くらいなんて事はないのかもしれない。
(でもそれは、…………安心していいことなの?)
今のサラは、ここにいるジャンパウロが、本人ではないと予め知っている。
知っているからこそ微かな違和感を覚え、ここにいるのはジャンパウロではないと思いはするものの、その事実を知らずにいたのなら気付かないままであったかもしれない。
サラのような世間知らずの子供から見ても、ジャンパウロの中に居る魔物は、恐ろしく頭の回転が速く狡猾だ。
だからこそ、この状況は、見知らぬものが、大切なものに成りすましている事に他ならない。
(それがとても恐ろしくて、取り返しのつかない悲しい事に思えるのはどうしてなのかしら…………)
まだ、状況を冷静に受け止められていないものか、サラの心は痺れて冷たくなったままだ。
ここにまた血が通えば、温まった心はどれだけの苦痛に咽び泣くのだろう。
そう考えると恐ろしくなったので、サラは、とにかく沢山心と頭を動かすように心掛けた。
(あの魔物は、帰り道が見付かる冬至までは味方、なのよね…………?)
ジャンパウロの体を借りた魔物の提案で、アシュレイ家の新しい家族は、居間であれこれとお喋りをする事もなく、今夜は各々の部屋でのんびりすることになった。
そんな過ごし方を提案したのは、新しいジャンパウロで、これから暮らしてゆく場所に荷解きをしながら慣れてゆく為にも、今夜はのんびり部屋で過ごさないかと話す口調は、サラのよく知るジャンパウロそのものだった。
昼間は出かけたのだし、互いにゆっくり夜を過ごしてまた朝食で会おうと言われたサラの父もその提案に同意し、少し疲れたような気がするので助かると苦笑していた。
「あの頭痛は、記憶の調整をかけられた影響だろうな。こちら側にある魔法とやらについては知らん」
そしてその夜遅く、よりにもよってサラの部屋で秘密の作戦会議が行われた。
魔物曰く、男達は部屋を出て庭に散策に出たという言い訳が通用するが、まだ子供で女性でもあるサラの場合はそうはいかない。
このような場合は、いない筈の者がいることよりも、いる筈のものがいないという事態を避けるべしというのが彼の持論であるらしい。
最初は、未婚女性の部屋に男性が集まると聞いたサラは、魔物の無神経さに食べられかけたことも忘れてわなわなせざるを得なかったが、確かに、サラの部屋には衣装部屋と浴室がついている。
いざとなったら、魔物とアーサーにはそこに隠れて貰えばいいので、思ったよりも悪くはないのかもしれない。
さすがに自宅なので深夜の見回りなどはないだろうが、突然部屋に戻らなければいけなくなった場合、サラは、自分が素早く部屋に戻れるとは思わなかった。
(あ、アーサーの肩に葉っぱがついてる………。そう言えば、お庭に出ていたみたいだからその時についたのかしら………)
手を伸ばして葉を取れば、アーサーはおやっと目を瞠って苦笑していた。
その表情には、帰るべき場所を奪われてしまった苦しみはなく、サラは密かにほっとする。
アーサーとジャンパウロな魔物の二人の部屋は、屋敷の一階にある少し離れた部屋だ。
ジャンパウロの部屋は、本来なら叔母の部屋だった場所で、アーサーには、その隣の部屋が用意されていた。
(おじさまの姿をした魔物の部屋は、ピアノが置いてあった。…………あのピアノは、死んでしまったお母様のもので、叔母様が形見だと言ってずっと使っていた筈なのに…………)
あまり使われておらず、薄っすらと埃をかぶった古いピアノを見た時、サラは声を上げて泣き出したくなってしまった。
奪われながらもしっかりと抱き締め合って生きてきた家族の輪を、この運命はなんて残酷に引き千切ってゆくのだろう。
大切なものは少ししか残らなかったのに、それすら奪われてしまうだなんて、あまりにも理不尽ではないか。
「アーサーの部屋は、叔母様やオードリーがいただいた賞の記念品などが飾ってある部屋だったの」
「そうなんだね。…………サラ、大丈夫かい?」
「……………ええ。一人ぼっちでこんな事になったら耐えられなかったけれど、一人じゃないもの」
そう答えたサラに、こちらを見たアーサーが、握っていてくれたサラの手を包む指先にぎゅっと力を込めた。
(………………あ、)
その眼差しの透明さにふと、何かとても大切な事を見落としているような気がしたのに、すぐに分からなくなってしまう。
そしてその疑問を追いかける間もなく、魔物が話を続けた。
「それとな、ここはよく似た別の層ではなく、改変された元の場所だった事が判明した。まぁ、成功はした訳だ」
「ほ、本当ですか?じゃあ、私達はおかしな所に迷い込んでしまった訳ではないの……ですね?」
嬉しい知らせにぱっと笑顔になり、サラは安堵のあまりに胸を押さえた。
橋でのダーシャの振る舞いを思い出し、慌てて言葉の最後を敬語に直す。
「場所の置き換えは、世界が書き換えられたのなら別に珍しい事じゃない。だが、規則性を読み解こうにもこっちには魔術が光りもしないときてる………」
そう呟く魔物に、サラは眉を顰めて書き換えられたという言葉の意味を理解しようと首を捻った。
ジャンパウロやアーサーの部屋決めを、誰が行ったのかはよく分からない。
恐らく父なのだろうが、それは、サラのよく知っているこの家の歴史の上から、誰かや何かが塗り重ねてしまった見知らぬ絵の具のようなものなのだろう。
即ちそれが、書き換えられたという事なのだ。
「書き換えられてしまったのは、私が………音楽の神様を呼んでしまったからでしょうか?」
おずおずとそう尋ねると、最初に首を振ったのはアーサーだった。
「帰り道がずれていなかったのであれば、こちら側が書き換えられたのは、他の理由だと思うよ。…………そうだね、あの鉄砲水は、死者の王が国境の町の近くを訪れて、こちら側と向こう側の繋がった部分が閉じそうだったからだった事を覚えているかい?」
そう言われてみれば、一度に色々な事が起こったとは言え、まずはそこからであった。
サラがこくりと頷くと、アーサーは安心させるように微笑んでくれた。
「道が不安定になったから、帰ろうとした僕達に色々と問題が起きたんだ。こちら側に戻って来たものが…………元のものではなかったから、こちら側もあれこれと書き換えられてしまったんじゃないかな」
「…………おじさまが、いなくなってしまったから?」
「…………うん」
アーサーが頷く姿を見ながら、サラは、体だけを残していなくなってしまった父の友人を思った。
この場合、無事でいて欲しいと思うにしても、どのような形で過ごしているのだろう。
幽霊のような状態であれば、さぞかし不便だろうし、危険もあるかもしれない。
「どうにかして、おじさまを助けたいわ………」
「こちら側に居れば、本人の優先順位が上がる。俺がこの体を使っている以上は、そいつは向こう側だな。もう一度橋が開くまでは、せいぜい現状に馴染んでおけ」
にべもなく切り捨てたようだが、ジャンパウロの体に入った魔物には、橋で出会った時のような残忍さはなかった。
口を開くと緊張するが、そんな魔物と協力してゆくことにも慣れなければならないようだ。
「違うところというよりは、元の場所にいるのだと考える方が怖くない気がします」
「そう思うか?本来のものが損なわれている事の方が、いっそうに悍ましいだろう」
「…………っ、」
「…………サラを怖がらせないでくれ」
「やれやれだな。俺が、例え砂糖になるかもしれないとは言え、小娘をあやしながら話をする善良な男に見えるか?」
同じ輪郭の違う場所である可能性が濃厚だとされていた現在の場所が、書き換えられた元の居場所だと判明したのは、つい先程だったのだそうだ。
食後に、魔物の指示で何かを調べていたアーサーの調査結果から、元々サラ達がいた場所が作り替えられてしまったところである事が判明したという。
「アーサーは、どうやって、そのようなことを調べたの?」
「ジャンに言われて、あってもなくても支障がなく、この状況を正とする為の辻褄を合わせの邪魔をしないけれど、僕がいなければなかった筈のものを、隣にあるジョーンズワースの屋敷で探してきたんだ。…………もし、そのようなものが取り残されていたら、ここは僕たちが知っている場所で、確証を見付けられるまでは、同じ形をした違う場所、………影絵やあわいと言うらしい。………そのような所だと考えた方がいいという話だったのだけれど………」
その話をしてくれたアーサーの横顔には、ぼんやりとした室内灯と影が落ちる。
淡く微笑んでこちらを見たアーサーは、男性ではあるのだがとても綺麗だった。
こんな時に不謹慎な表現ではあるのだけれど、どきりとするくらいに悲しげで美しい眼差しに、サラは感嘆しながらも心を波立たせる。
(…………アーサーは、こんなに綺麗だったかしら…………?)
また、そんな事を考えた。
元々綺麗な男性だったが、その悲しみや絶望が剥落させた表情が彩りを変えたものか、今のアーサーは、どこか硬質な美貌の輝きを鋭くした気がする。
その事になぜか、言い知れぬ不安を覚えたのだ。
「そのようなものは、影絵と、あわい…………と言うのね」
「影絵はその土地が魔術的に複写されたもの、あわいは世界の隙間だ。…………にしても、やはりここには聖女がいたな。あんたを祀り上げたのは誰だ?」
「…………祀り上げた?」
突然ジャンパウロの顔をした魔物にぐいっと覗き込まれ、サラは困惑した。
そんな事を言われても、身内には聖女などいなかった筈だし、問われている内容が理解出来ない。
作戦会議をするにあたり、サラは寝台に腰掛け、アーサーと魔物は、鏡台と書き物机の椅子を寄せてそこに座りながら輪になっているのだが、魔物はずりりっと椅子をこちらに寄せてしまったようだ。
あまりに近くに寄られ、サラはずりずりと横に逃げる。
溜め息を吐いたアーサーが、サラを守るようにその間に割って入り、魔物との間になるように隣に腰かけてくれた。
(…………体が傾いて…………)
しかし、同じ寝台に並んで腰掛けると、アーサーの体が沈む為にサラは傾いてしまう。
慌てて体勢を整えようとじたばたしていると、そのまま寄りかかっておいでと言われて頬を染めた。
「で、その髪は元々白いのか?」
「……………いいえ」
「それなら、いつそうなった」
「それは、……………」
「サラ、話したくないことは話さなくていいよ」
表情を強張らせたのが分かったのか、そう言ってくれたアーサーに、サラは少しだけ考えて首を振る。
「もし、何らかの助けやヒントになるのなら、お母様の事も話しておいた方がいいと思うの」
「成る程、それが聖女だな。あれだけの力を有するものを飼い慣らしているのなら、この状況を改変する助けにはなるかもしれないぞ」
「サラの母上は亡くなっている。君の食料にはならないよ」
「……………おいおい、それはとんでもない悲劇だぞ。すっかり興味がなくなった」
「この状況を改変しようとしてくれていたのでは?」
「お前なら、食事も出ない晩餐会に参加したいか?したくないだろう」
「そこを通らなければ帰れないのなら、僕は参加するかもしれないよ」
そんなやり取りを聞き、サラは困惑した。
この二人は、いつの間にこんな風に話をするようになったのだろう。
協力関係になった以上はある程度の意見の交換は必要になるとは思うが、あの橋で出会ってからさして時間は経っていないのに、いつの間にか距離を縮めているように思える。
(それに、…………ここにいるジャンパウロの姿をした魔物は、人間とは違う生き物だわ)
であればきっと、考え方や心の動かし方、習慣や嗜好も違うだろう。
サラはあの橋で、そんな事を肌に感じて理解したばかりだ。
つまり、そんな相手とただ普通に会話をする為には、やはり相手をある程度理解している事が求められるのではないだろうか。
(それなのにアーサーは、まるでこの魔物を随分長く知っているみたいに話すようになった………。…………アーサーは、アーサーのままよね?)
そう考えてぞくりとしてしまい、サラは慌ててぶんぶんと首を振る。
突然の奇行に、アーサーだけでなく、ジャンパウロな魔物も訝しげにこちらを見たが、髪の毛が白くなった時の記憶を話し始めることで何とか誤魔化してしまおう。
「……………それは、私とお母様が二人で家に居た日の事でした」
そこからサラは、あの日の事を丁寧に順を追って話した。
母が二階に駆け上がってゆく時に体で感じた異様な気配と、その気配が先程、ほこり橋で感じた何かの強烈な視線と同じものだった事も。
何度か言葉を切りながらも苦労して話し終えると、アーサーが、そっと手を伸ばして頭を撫でてくれた。
その仕草がまた、サラのよく知るアーサーとは違う人のような静謐さで、目を瞠ってその瞳を覗き込んだが、アーサーは困ったように微笑むばかりなのだ。
「命と願いを対価にして、血に紐付く災厄を守護に置き換えやがったか。儀式と土地に根付いた固有魔術でもなければ、そこまでのことを成し遂げる人間は少ないな。…………俺が見たあの化け物は、こちら側での白持ちだろう。お前達の文化で言うところの、神や悪魔というものに近しい」
「…………あの橋の上にいたのは、それなのですか?」
「ああ。…………元々お前の家が背負っていたそいつを、お前の母親は身に持った聖女の質で、対価を支払う儀式の後、お前の守護に転じさせたんだろう。その結果、お前はあいつの守護を受けている状態に等しくなり、だからこそ、その身に白を分け与えられたんだ」
「………という事は、サラはやはり、」
「獲物にはならんだろうな。だからこそ、普段は近くにいないんだ。殺す事も祝福する事も出来ないお荷物の側に、義務なくしていたいと思うか?」
「…………言い方が引っかかるが、それなら幸いだ」
(…………じゃあ、あれが、アシュレイ家の呪い………………?)
ずっと知りたかった事をあまりにも呆気なく説明されてしまって、サラは目を瞬いた。
あの時にこちらを覗き込んでいたものが、長年家族を苦しめ続けてきた、アシュレイ家の呪いそのものだったと言うのだろうか。
半ば呆然としているサラに、ジャンパウロの顔をした魔物は続ける。
「お前の母親は、元々聖女の素質があったんだろう。何か思い当たる節があるんじゃないか?」
「いえ、……………お母様の親族には、教会関係者はいません。なので、」
「それは一つの信仰に対する聖女の規格に過ぎん。祝祭や儀式に関する催しに継続的に出ていた、或いは親族にそのようなことを生業にする者がいた、その周囲で病を和らげる者がいたり、人間の領域ばかりではない何かを感じ取る才や、気配が特異だと称えられたことがある。それも証跡だ」
指を折る仕草で淡々と語るジャンパウロの姿をした魔物は、如何にも魔物然としていた。
口元に刻まれた微笑みはとても冷たく、瞳にはどこか愉快そうな煌めきがある。
優雅な仕草だが、なぜか舞台じみたそこには、常に紙のように薄い悪意が敷かれていた。
そんな魔物を自分の部屋に招き入れて話をしているだなんてと考えて、かつてこの部屋で二人でお喋りしたダーシャが恋しくて堪らなくなってしまう。
「……………であれば、お母様のお父様は、町のクリスマスのコンサートで二十年間毎年、無料のピアノコンサートをしていました。お母様も何年かやっていたと聞いています。それと、……………亡くなったお母様のピアノは、特別だったと言ってくれる人が多いみたいです。特別な才能だからこそ、神様に取られてしまったのだと……………」
そこで言葉を切り、サラは客観的になろうとした。
耳の奥で、どすんという恐ろしい音が聞こえてくるので、あの日のことは出来るだけ思い出さないようにしてきた。
母を失った日というだけの悲しさばかりではなく、あの日の思い出には何か、得体のしれない暗さのような言葉に出来ない恐ろしさがあったのだ。
(でも今は、……………)
でも今目の前にいるのは、人間ではない生き物ではないか。
そう考えると、不思議とあの日に向ける怖さが和らぐような気がした。
この魔物だってあの視線の主に驚いていたようだけれど、それが何なのかを読み解けるそちら側と同列の相手がいると思えば、単純なのか奇妙な安堵を感じてしまう。
そう言う意味ではダーシャも頼もしかったが、やはり彼は人間であった。
「でもお母様は、…………あの日より前に、手を怪我してピアノは弾けなくなってしまっていました。もしその才能が聖女であることに紐付くなら、その時には資格……のようなものを失ってしまっていたのではないかしら?」
「さてな。聖女であったという事実があるだけで、それがどのような発現であるべきかまでは知らないからな。だが、話を聞く限りは、やはり何某かの才があり、本人もそれを自覚していたんだろう。呪いに食われる前に、残された命を使ってお前と呪いを守護に転じさせた。……なかなかに見事な術式だな」
「……………お母様が、私を………」
告げられた事は衝撃的であったが、サラにはその説明がすとんと腑に落ちた。
母の自殺は、狂気に囚われてのことだというのがもっぱらの考察であったが、あの日、階段を駆け上がってゆく母の言動はしっかりしていた。
幼いサラには理解出来なかった微笑みや、屋敷に漂う異様な空気に、狂気ゆえにという評価を今迄疑わずにいた事を、サラは心から恥じた。
アシュレイ家の呪いがあったからこそ、それに追い詰められて錯乱した事だと考えていた。
「……………お母様は、私を守ってくれたのね」
「事前に準備されていた様子がなかったのなら、呪いに食われる限界までは他の手立ても考えていたんだろう。………惜しい事をしたな。お前の母親が生きていれば、こちら側の魔術について話が聞けただろうに。………だが、何らかの証跡を残している可能性もあるか。おい、お前の母親は死ぬ迄何をしていた?必ず、目につくような普段とは違う行動があった筈だ」
そう問いかけられ、サラは遠い記憶を辿る。
「…………そう言えば、手の怪我が治るようにと、聖地や神様の奇跡の伝承がある場所を訪れていたようです」
「…………それか。………おい、明日までに近郊のそのような土地を調べておけ」
「僕に命令をするのはやめて欲しい」
「………わ、私も調べます!お母様の事を、何も知らなかったような気がするから…………」
もしかすると、叔母が調べていたのは、サラの母親の意思を継いだものであったのかもしれない。
そう考えると胸が熱くなり、サラはごくりと息を飲んだ。
「………サラの母上は、もしかするととても偉大な人だったのかもしれないね」
「なまじ、あの怪物を背負った本人達よりも、外野の方が目がいいというのも珍しいことではない。呪いなんぞ、結局は足を取られる側が愚かなんだ。どう反論しようと、最初に罠に落ちた者の不手際に過ぎん」
その言葉にアーサーが小さく体を揺らしたのは、同じような呪いを背負う者として他人事ではない言葉だからだろう。
今夜は、黒いズボンに簡素な白いシャツを羽織っているばかりで、襟元のボタンを二つ外した飾り気のない装いは、ピクニックに行った時よりも釣りをした時よりも、ずっと寛いだ服装だった。
そんな姿を見てしまうと、これからは一緒に暮らすのだという実感が湧いてきて、そんな場合ではないのにどうしてだか心がもぞもぞしてしまう。
「ジャンも、その、目がいいという人間だったんだろう。サラの伯母上やお父上に、学生の頃から何かを見ていたようだからね」
「そうなの……………?」
「ああ。……………それが、僕はずっと不思議でならなかった」
(ずっと……………?)
その響きの違和感が、サラの胸の中にふわりと落ちる。
まだその疑念を上手く言葉に出来ないものの、サラは、あの歌劇場の迎賓室でハンカチを貸してくれたアーサーが、もうずっと前の彼であるような気がした。
「ごめんなさい。私にはよくわからないけれど、アーサーには、そこに不思議だと思うような事があるのね?」
「……………あの日の僕達は、ジャンが見えている亡霊が見えなかった。それを覚えているかい?」
「………そう言えば、………ええ」
「それはつまり、ジャンは逆に向こう側のものが見えなかったという可能性に繋がると思わないかい?………実はね、今のこのジャンは、君の父上の背後に白い影のようなものを見る事が出来るらしい」
「お、お父様の後ろに………?!」
突然そんな事を言われたのだから、サラが動転するのは当たり前だろう。
大切な父を守らなければと、びゃっと立ち上がりかけたサラを、慌てたアーサーが素早く肩に手を乗せて座り直させてくれる。
「安心していいよ、彼曰く、………その白い影はとても満足気らしいから。多分だけれど、君のお父上の状態は、その何かにとって満足のいく状態なんだろう。でも、僕には見えないし、君にも見えていないよね?」
「……………ええ。お父様の後ろに何かがいたことなんてないわ………」
「ずっといる訳じゃないらしいよ。時々見えるらしい」
「……………ずっとじゃなくて良かったわ。お父様に会うのが不安になってしまうもの」
正直にそう言えば、アーサーはそうだよねと優しく微笑みかけてくれる。
寛いだように足を組んだその姿は、あの薔薇のガゼボできちんと座っていたジョーンズワース家の次男から、役柄のない存在に変えられてしまったからこその変化なのだろうか。
けれどもサラは、そうではない気がした。
「だから僕は、………君の家の呪いは、こちら側のものなのかもしれないと考え始めている」
「………つまり、アシュレイ家の呪いは、魔術や、向こう側の生き物のせいではないと言うこと?」
「うん。………僕達は、あの車の中でそれぞれに見える側が違うかもしれないと話していただろう?僕や君に見えないものは、こちら側のもの。ジャンの体を使う彼が見えるものも、こちら側のもの。そんな風に考えてみてはどうだろう」
「……………もしかして、私の家の呪いを解く為には向こう側に行く必要はなかったの?」
それならなぜ、ここまでのものを失ってあの橋を渡ろうとしてしまったのだろう。
愚かにも自分のことばかりを考えかけてしまって、うっかりと口を滑らせたサラは、ぞっとして強く指先を握り込んだ。
本当はどれだけ後悔していても、向こう側に渡るかどうかを決めたのは自分なのだ。
失ってしまったものが大きすぎる今、サラがそれを悔やんでしまえば、より多くを無くしてしまったアーサーの悲しみはどこへやればいいというのか。
「…………かもしれないね。ごめんよ、サラ。僕があんな風にいなくならなければ、もっと君やダーシャと、ゆっくりと色々な話をして、安全に橋を渡れたのかもしれないのに」
「ご、ごめんなさい、アーサー。そうではなくて……!」
「もう充分だ。芝居みたいな稚拙な掛け合いは後にしてくれ。と言うか、そのやり取りは必要なのか?」
「…………相変わらず君は、人間の心の機微が理解出来ないらしい」
「自らの身に背負う呪い一つ引き剝がせないお前に言えたことか?」
ここで、アーサーと魔物が小さな小競り合いを始めてしまい、やはり何かがおかしい二人の会話をぼんやり聞きながら、サラは、色々な情報をしっかりと取り込む為に一度目を閉じた。
(変だわ…………。私だけ知らない事が、どこかにある気がする…………)
しっくりとこない。
世界が上書きされてしまったからだけではない、何か特別な、見落としている重要なサインのようなものがどこかにある気がしてならないのだ。
(ああ、……………………)
ふと、またどこか遠くで終幕の喝采が聞こえた。
瞼の向こうは見事な歌劇場で、その向こうで微笑んでいる少女の姿に、なぜか胸が潰れそうになる。
はらはらと花びらが舞い散って、幸せそうに左手の薬指にはめて貰った指輪を見ている少女は、見たこともない筈なのになぜかとてもよく知っている気がした。
そんな美しい幻をもっとよく見ようと目を凝らしたサラはふと、頭の中の苦痛や悲しみの霧の向こうに、色硝子を削って作られたような質感の、不思議で美しい小道が見えた気がした。
(どこかに、…………何かとても大切なものを生かしてくれる、活路のようなものがある。……………そんな気がする)
それは、もしかしたら確信というよりは願いに近かったのかもしれない。
「サラ…………」
ゆっくりと目を開けば、心配そうにこちらを見ているアーサーと、もうこちらには興味がなくなってしまったものか、立ち上がって勝手にサラの部屋に置かれた本棚を見ている魔物がいる。
「…………怖い事ばかりだろう。受け入れるまでには、時間がかかって当然だ。今日はもうゆっくりと休むといい」
「……アーサー、私ね、」
言いかけて、サラはその言葉を飲み込んだ。
かつて、自分の幼さで準備もなく伝えてしまった事が、自分だけではなくみんなを巻き込んでしまったその顛末に立っているのだ。
そんな中で、まだ無責任に、きっと何かいい方法があると思うだなんて言える筈もない。
言葉を続けられず眉を下げると、アーサーはにっこり微笑んで頷いてくれた。
(…………あの本は、どこに行ってしまったのかしら…………)
唯一の手掛かりだった筈のあの絵本は、どれだけ探してももうどこにもなかった。
その本を保管してくれていた叔母がいないのだから当然の事かもしれないのだが、あの絵本も失われたのだと思えば何とも心許ない。
「でも、…………」
「サラ…………?」
「…………私も、今度はみんなに迷惑をかけないで済むように頑張るわ。冬至の日になれば、またあちら側への道が繋がるかもしれないのよね………」
拳を握ってそう言えば、アーサーは何も言わずにサラの頬を指の背で撫でると、そうだねと微笑んでくれる。
「もう一度あの橋を訪ねる事には、危険も伴うだろう。…………でも、このままでは僕達は無くしたものが多過ぎる。…………取り戻す為に、また危険に身を晒すというのも困った話だよね」
苦笑交じりにそう呟き、窓の方を見たアーサーの横顔に、サラは今度こそ違和感の正体が分かってぎくりとした。
アーサーの横顔はしっかり瞼の裏に焼き付けてあった筈なのに、ほんの僅かだが輪郭が鋭くなり、髪型が変わっている気がしたのだ。
おまけに、アーサーの左手の甲には袖口に隠れる感じでサラの知らない傷跡が覗いていて、それを見付けてしまった途端、背筋を冷たい汗が伝う。
(……………この傷跡を、私は知らない)
傷跡くらいと言われてしまいそうではあるが、サラには、ほこり橋を渡る前にはなかったものなのは間違いないと断言出来た。
あの時、久し振りに再会したばかりのアーサーの手を二度と離すまいと握るのに、何度もじっと見たその手を忘れるだろうか。
傷跡のようなものを見落とす筈もないし、特別に目を引くようなこともなかった筈の手の爪は、宝石質にきらきら光る爪になっている。
それは、女性達がするように磨かれて光る爪とは明らかに違う、サラの知らない不思議なものの力を帯びた輝きであった。
その夜は、それぞれの情報を共有し、簡単だが大事な方針を決めた。
今更の確認であるが、ジャンパウロは、サラの歌の講師として呼ばれたらしい。
今の彼は世界的なテノール歌手ではなく、世界的な歌い手になると言われていたのに、祖国の政変に巻き込まれて亡命せざるを得なかった不運な音楽家だ。
亡命先のこの国では、大きな歌劇場に立つような目立った行動さえしなければという条件付きではあるが、国籍も得て自由に暮らしているらしい。
上書きにしてはなかなかに複雑な履歴に気が遠くなったが、サラは、それをよく覚えておかなければならなかった。
何しろ明日からは、サラは彼の元で音楽を学ぶのだ。
とは言え、魔物にとって相手に歌を歌うという振る舞いは求婚に等しいらしく、指導の中で彼が歌うことはないらしい。
それでも、魔物に歌を習うのだと思えば何とも不思議な事ではないか。
冬至までの間、この三人で橋に繋がる道が開くのを待ち、今度こそ、ほこり橋を渡って。
(一度橋を渡ってこちらとの繋がりを断ち、それからこちらに戻る事で、変わってしまった部分を元通りにする事が出来るかもしれないから…………)
勿論、より状況が悪化する可能性もあり得る。
サラもアーサーも、互いの家の呪いをどうにかしようと訪れた境界であるのに、結果としては、そこを訪れたせいで失われた物を何とか取り戻そうと踠いているのだから、なんと滑稽な事だろう。
翌朝になると、サラは一つの確信を固めていた。
みんなで朝食を食べてから、最初のレッスンが始まるのを待ち、こちらの表情を読み取って上手く理由をつけてレッスン室からアーサーを退出させてくれた魔物に、サラはずばりと結論から伝えてみる事にした。
「アーサーは、私とあの橋ではぐれてから、どれくらいの時間を余分に過ごしたのですか?」
そう尋ねたサラに、ピアノを弾いた事があるものか、鍵盤に触れる指先までもが妙に様になる魔物は、唇の端を吊り上げてにやりと笑う。
「お前は勘がいいな。…………五年だ。人間にはどうだか知らないが瞬きのようなその間、なぜか俺とあの魔術師が共に国境域を彷徨った。まぁ、ただの時間合わせだろうが、だからこそ俺達は繋がった先が正しい場所なのか、違う層なのかの判断に時間を要した」
「……………五年」
人間には決して短い時間ではない。
その日々にどのような事があったのかを知りたくて苦しい程だったが、サラが話をしている相手は魔物なのだ。
必要な問いかけと、不必要なものを切り分けなくてはならないと、昨晩必死に考えた。
「アーサーは、それを私に言えない事情があるのですよね。そして多分、その理由をあなたは知っている筈です。…………私は、何をすればアーサーを助けられますか?」
もっと巧みな問いかけがある筈なのだけれど、サラが並べられるのは有りのままの言葉ばかり。
もどかしくて悲しくて、早く大人になって賢くなりたかったけれど、付け焼き刃で転ぶくらいなら、今のサラに出来るこの武器だけで戦うしかない。
だが、そんな稚拙な問いかけが、魔物は気に入ったらしかった。
「…………ほお。その鋭敏さか。………予言、いや託宣などの祝福に近いのかもしれん」
「…………たくせん、……?」
「白を与えられたほどだ。もしかすると身に宿したものの叡智や力を受け取っている可能性もあるぞ。…………それを伸ばし、俺が得るべきあの男の対価を取り返したいのなら、退屈しのぎに協力してやろう。ただし、こちらも無償ではないがどうする?」
そう微笑むのはどう見てもジャンパウロの姿の筈なのに、こちらを見た魔物の瞳には、かつてサラが憧れたジャンパウロの暖かな人柄の面影はなかった。
そんな喪失感を噛み締め、サラは話を続ける。
「それが、私と私の大切な人達を守る事が出来る力になるのなら、その対価を教えて下さい。支払えない対価でなければ、…………私がそれを支払って、アーサーを解放します」
覚悟を決めてきっぱりと言い切ったサラに対し、意外だったものか、魔物はすっと目を細めた。
けれど、決めていたのだ。
アーサーも、記憶を無くしている間に家族を奪われてしまった父も、既に沢山のものを奪われている。
だからきっと、次はサラが支払う番だ。
独りよがりな犠牲心で自滅するような事だけは避けるようにするとしても、今度戦うのはサラなのだと思う。
(あの夢の中で、お母様は私に沢山の話をしてくれた。魔術があって、魔物がいて、このアシュレイ家には音楽の神様がいるのなら、あの夢にだってきっと意味がある筈だわ…………)
あの時に母は、サラは誰を守るのだろうと話していたではないか。
「ああ」
ふっと、満足げに笑う魔物を見て、ここにアーサーがいたら、無謀な取引を始めたサラにどれだけ怒っただろうかと考えた。
「……………ああ、いいだろう。白を持ちながらも、その身の資質以外は脆弱で凡庸な人間かと思っていたが、…………成る程。お前の血筋は、守護においてこそ身に宿す力を生かすらしい。いい魂の質だ」
レースのカーテンの隙間からは、柔らかな朝陽が床に差し込んでいた。
自分の家の見知らぬ部屋の母のピアノの前で、サラは、名も知らぬ魔物を精一杯の威厳を持って見つめる。
「俺が提示する対価は、暇潰しだ。俺がお前を生かし、あの愚かな男が俺に差し出した対価を返してやってもいいと考えるくらいに満足させれば、お前達を解放してやろう」
「暇潰し…………ですか?」
「国境の町に到着する迄の期間、お前には知識と力を貸してやろう。橋を渡る為だけではなく、お前達の一族の呪いとやらを解くのにも協力してやる。…………その代わり、向こうに着いた最初の夜のその真夜中までに俺が、既に見合うだけの対価を得たと納得しなければ、お前の負けだ」
「…………負けると、橋で話していたように、私は食べられてしまうのですか?」
そんなサラの問いかけに、魔物は愉快そうに教えてくれた。
「聖女は砂糖にして食卓に並べるが、俺とて、聖女でもない人間を食う程の悪食ではない。だが、お前は俺好みの砂糖になる資質を備えている。立派な聖女に育ててやるから、お前は俺から得られる知識と力で、それを退けてみせろ」
失敗すれば、二人とも戻れなくなる。
サラはやはり、父の事を考えてしまった。
すると魔物は、思っていたよりも良心的な提案を重ねてくれるではないか。
「お前が負けた場合は、この契約そのものを反故にしても構わないぞ。その場合、あの男との契約はそのままだが、お前はそのまま逃してやる」
「………どうして、そこまで譲歩してくれるのですか?暇潰し、だからでしょうか?」
「惜しいからさ。お前は育てようによっては、この上なく美味い砂糖になる。どちらにせよ、協力をするという約定はアーサーとの間に結ばれている。であれば、このくらいの手間で美味い砂糖にありつける可能性が得られるなら、悪くはない話だからな」
「…………どうしても、お砂糖が食べたいのですね」
「…………さして難しくはないかもしれないぞ。何しろお前は、こちら側の神と呼ばれるものの守護を得ているんだからな」
この日、サラが最も驚いた事があるとすれば、魔物は人間をお砂糖にして食べてしまうという事だったのかもしれない。
そして、グラフと名乗ったこの魔物は、驚いてしまうくらいにピアノが上手であった。




