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覗き込むものと奪われた靴跡




ゴーンと鐘の音が鳴った。




「…………っ、」



突然のことにぎくりとし、サラは思わずそちらを見てしまう。

すると、目を逸らしたその一瞬で、目の前の薄紫色の髪の男が声を上げて笑った。




「っははは、最悪の展開だ。まさか、こうも早く死者の王が来るとはな」

「……………死者の王が!」



その不吉な響きに、ダーシャが声を上げる。

サラとアーサーを振り返ったその表情は絶望的と言っても良いくらいだ。



「ふむ。道が閉じるのも時間の問題だな。…………一度戻るか」



そう呟いた男性が瞳の端にサラを捉える。

はっとした時にはもう、サラの視界はぐるりと回っていた。




「………え?」

「サラ!」

「っ、駄目だ…………!」



アーサーの叫びに、サラがなぜこんな間近に見えるのだろうと考えている薄紫色の髪の男性の薄い唇がにいっと笑み崩れる。



(……………これは、怖いものだ)



その微笑みはちっとも見慣れない色で、サラは息が止まりそうになった。

人間そっくりの形をしてはいるが、人間ではない生き物なのだとサラが心から実感したのだとしたら、それはこの瞬間だったかもしれない。


得体の知れない悍ましいものが、人間のふりをして笑っているとしか思えないその微笑みは、大輪の真紅の薔薇のような艶やかさで、したたるような、けれどもさらりとした悪意に満ちていた。


そしてサラは、繋いでいた筈の手が解けて、そんなこの男性の肩の上に担ぎ上げられているのだ。



(どうして?…………あんなにしっかりと、アーサーやダーシャと手を繋いでいたのに…………)



ぐぐっと、担ぎ上げられた肩の骨が腹部に食い込んで涙が出そうな程に痛い。

けれどもそれよりも恐ろしいのは、得体の知れない生き物の手に落ちたと理解しなければいけない事だ。


おまけに、動揺したアーサーは、サラの名前を呼んでしまった。


だからこそ、この男性は笑ったのだろう。

名前を取れると、そう思ったから。



「お願いです、どうか彼女を返して下さい」

「人ならざる者達に寵愛され続けた、ウィーム王家の人間らしい、高慢な願いだな。使い魔に成り果てたお前に支払える対価なんぞ、残ってないだろうに」

「…………彼女は、向こう側の人間です。橋の向こうに連れて行っても、長くは保ちませんよ?」



恐らく、そう言ってサラを手放させようとしてくれているのだろう。


その意図は把握出来ているつもりなのに、言われたその言葉でまた、サラの中の恐怖心が膨らんだ。


このまま成す術もなく向こう側に連れ去られてしまって、もう二度と元の場所にも、父のところにも帰れなくなってしまうような気がしたのだ。



「数時間もあれば、死者の王の目を逃れてあわいの外側に持ち帰れる。生かして飼うつもりはないから、まぁ、後は食えるかどうかだが…………」

「……………っく」



喉の奥がおかしな音を立てた。




(今、……………食べるって言ったの?)



頭が理解するより早く体にその言葉が響いて、喉の奥に悲鳴がこだましている。


でも、それを絞り出すにはまだ、言われた言葉を理解出来ない心がぽかんとしたままで、サラは、目を瞠って小さく早くなった呼吸を刻んだ。



(食べる………わたしを…………?)



それは、獣のようにばりばりと齧られてしまうのだろうか。

それとも、悪魔や悪霊のように、もっと恐ろしい方法で生きた人間を貪るのだろうか。


告げられたあんまりな言葉を理解しようとして頭の中で何度も繰り返し、何度目かでやっと飲み込めれば、今度はその怖さに目の前が暗くなった。


視界がくらりと揺れ、目眩のように震える。

目の奥が痛み視界が霞んで、涙が溢れそうな事に気付いたサラは、がちがちと震える奥歯を噛み締めて必死に涙を押し留めた。




(血と涙は注意、…………しなきゃ、いけないのだもの……………お父様…………)



堪えようとしても、震えが止まらない。

不安定な体勢で肩に担がれているからか、髪の毛がくしゃくしゃになって顔にかかっている。



(お父様……………っく、)




恐怖をいなせずに小さな子供のように父を呼んでしまう自分が惨めで悲しくて、サラはただ震えるばかり。



アシュレイやジョーンズワースにかけられた呪いに打ち勝ってみせると意気込んでいたその時の自分が、どれだけ幼稚で、甘い心積もりだったのかを今更ながらに思い知らされた。



あの夜の歌に飲まれ、歌に踊らされていただけだ。


それをまるで自分の強さのように思い込み、その向こう見ずな熱意で、大切な人達をこんな事に巻き込んでしまった。



ここにあるのは、得体の知れない人ならざる生き物達と魔術の恐ろしさで、サラが思い描き立ち向かおうとしたものとはあまりにも違う。


所詮、サラが思い浮かべられたのは、向こう側でお伽話として育まれた可愛らしい魔法でしかなかったのだと。



(……………こんなに怖い……)



こんな、たった僅かな邂逅でも、もうどうしようもないのだ。


呪いを受けた家に生まれ、家族を亡くしてきたくらいでは、サラには、橋の向こうの恐ろしさがちっとも理解出来ていなかった。




その時だった。




「彼女を離してくれませんか。獲物が欲しいなら、僕を取ればいい」



聞いた事もないようなアーサーの鋭く冷たい声に、サラは小さく息を飲む。


アーサーにそう言わせなければいけないくらいに、とんでもない事になってしまったのだと現実が頬を叩くようで、けれども、そんな言葉を選んでまで自分を助けようとしてくれているアーサーに、サラは嗚咽にも似た小さな声を上げてしまった。



すると今度は、ダーシャの声が聞こえる。



「…………では、この剣はどうでしょう?これは、ウィーム王家に伝わる、湖の祝福結晶を雪竜と氷竜の加護で鍛え上げたものです。他の系譜の祝福ともあれば、高位の方にとっても希少なものの筈です」

「俺相手では、そんなものでは交換にはならんだろう。何しろ食えないからな。………おっと、自分を差し出すべきか迷っても無駄だぞ。使い魔になったお前は食えたもんじゃない」



肩に担がれたサラには、角度的に、アーサーやダーシャの顔は見えない。


先程よりも激しくなった水音が、ごうごうと身体中に響くようで、その声も時々途切れて聞こえる程だ。




(……………っ、痛い…………!)



ふわりと顔にかかった髪の毛が揺れ、サラを担いだ魔物の肩の骨が食い込んだ体が、ぎしりと痛んだ。


この痛みは、自分を担ぎ上げた男性が元来た方へ戻ろうと移動している振動からだと気付き慌てて顔を上げようとしたが、酷い腹部の痛みに、サラはまた小さな悲鳴を上げてしまいそうになった。




「では、私が向こう側に戻った後、相応しい贄をあなたに捧げましょう。それではいけませんか?」



ダーシャの声の距離が変わらないので、二人は、そんなサラ達を追いかけて交渉してくれているのだろう。


何とかそちらに意識を向けようとするのだが、歩行で揺れるたびに自分の体重で柔らかな腹部に男性の肩が食い込んで、あまりの痛さに涙が滲んで意識が飛びそうになる。


元々、人間を運ぶ際に肩に担ぎ上げるとこうなるのか、それとも食材程度にしか思われていないのでこんなにも苦痛のある運搬なのかは分からないが、耐え難い苦痛であった。



痛みで飛びかけた意識の端に、自分を運ぶ男性の、ふんと鼻で笑うような乾いた失笑が響く。



「つまらない提案だな。珍しい獲物だからこそ、対岸に向かっただけの価値がある」

「…………それなら、僕があなたを向こう側に案内しましょう。僕と彼女の家族に手出しをしないと約束して下さるのなら、好きなだけ狩りをすればいい」




(……………アーサー?)



低く軋むようなアーサーのその提案に、ふっと、サラを抱えた男性の足が止まった。



「………っ、」


がくんと体が乱暴に揺れれば、腹部に何度目かの耐え難い痛みが走り、サラは小さく呻く。



(……………もしかして、このひとに他の誰かを食べてもいいからと、そんな話をしているの…………?)



それも、まるでアーサーがその手配をするかのような言い方ではないか。

男性が立ち止まったことで痛みが和らげば、サラにも、アーサーの提案の意味がじわじわと浸透してくる。



「ほお、お前の提案は悪くはないな。魔術誓約で結ばれた案内人が居れば、俺が向こう側に渡れる保証にもなるかもしれん」

「では、そう約束して下さい。橋の向こう側はとても広い。あなたが興味を惹かれるものも、沢山あるでしょう」



聞こえてくるのは、なんて恐ろしい取り引きだろう。


自分達さえ助かれば、他の誰かはどうなってもいいのだという考えはあまりにも残酷で身勝手で、サラは、良き人間であれというこれまでの教育と常識に則り、慌ててアーサーを止めようとした。


でも、ここでアーサーを止めたところで、サラ達には他に打てる手などないのだ。




(でも、それで無関係の人を犠牲にするの…………?)



それでいいのだと頷けば、心の中の何か大切な倫理観が失われてしまうに違いない。

こんな怖さを抱くのは、サラが子供だからなのだろうか。


何とかサラを連れ去ろうとしている男性の足は止めてくれたアーサーが、とんでもない約束を交わそうとしているようで怖くなり、サラは途方に暮れる。



(…………私は、さっきからずっと怖がってばかりだわ。………怖くて堪らなくて、困っていて弱くて、私がこの男の人に捕まえられてしまったからこそ、アーサーもダーシャもこんな負担を強いられているのに、…………情けない。情けなくて、なんて弱虫なの…………)



そんな無力なサラに、ここで無関係の人達を得体の知れない生き物に差し出さないで欲しいと声を上げる資格なんてないではないか。


サラだってきっと、見ず知らずの誰かと自分の大切な人達とを天秤にかければ、罪悪感に打ちのめされながらも、同じような選択をする。




ゴーンと、また鐘の音が鳴り響いた。


僅かな逡巡の後、サラを抱えていた男性が、再び嘲るような気配を纏う。



「………だが、取り分はこちらだな。俺とて、向こう側に腰を据える気はない。鐘の音が鳴り、死者の王が訪れるまでの暇潰しのつもりだったんだ。らしくない謙虚さだが、獲物一つで充分としておこう」



飄々とそう告げられ、アーサー達が絶句するのが伝わってきた。


悪手に違いない今の提案こそ、サラ達に可能であった最大の取り引きだったのは間違いない。

その提案は確かにこの男性の心を揺らしたが、すげなく却下されてしまった。




鐘の音が聞こえるのだから、サラの知らない向こう側の町にも教会があるのだろうか。


呪いを解く手がかりを掴むどころか、国境の町にはいない筈だった人ならざる者に遭遇してしまい、こうして、まんまと餌として持ち帰られようとしている。


成す術もないサラの中に込み上げてきたのは、わあっと声を上げて泣き叫びたくなるくらいの恐怖で、その対岸では、こんなにも思い通りにいかないのだとすっと冷え込む心の欠片があった。




『いい子ね、サラ』




階段を駆け上がって行く母のドレスの裾に、最後に会った時には笑っていたオードリーと、あの緑の手帳を残してくれた叔母。

そして、橋の向こうで待っていてくれる筈の大好きな父。


そんな愛する家族の面影が心の中を駆け巡り、無念さに心がひび割れる。


サラのよく知る世界ですらない橋の向こうで得体の知れない生き物に食べられてしまうのなら、最後に呪いを解こうとしたサラに降りかかったのが、最も悍ましい報いなのかもしれない。


そう考えたら、恐怖よりも、これではあまりにも不公平ではないかと冷え込んだ心の側がぱちんと弾けた。




その途端、サラは猛然と暴れ出した。



「……………いや。嫌です!あなたに食べられる為に、私はほこり橋を探したのではありません!」

「……っと、暴れたからといって、逃げられる訳でもないのに、人間は馬鹿なのか………?」

「私は、アシュレイとジョーンズワースの呪いを解く為にここに来たの!それすらしてくれないあなたに、食べられるつもりはありません!」

「っははは!こりゃ、甘やかされた馬鹿なお嬢さんだ。お前がどれだけ嫌がろうが、俺がなぜお前を解放してやるというんだ?そもそも、どうしてお前達の呪いを解いてやらなければならない?」



その時にサラの脳裏をよぎったのは、ダーシャの先祖だという王子が、あちら側から逃げ延びた理由である呪いというもの、そのものであった。


それが、この橋の先にある土地の得体の知れない者達ですら手が打てなかった驚異だとすれば、彼等に振りかざすべき武器を、サラ達は身の上に持っているのではないだろうか。



それならば。




「音楽の神様!あなたにとっては、私も大切なアシュレイの獲物なのでしょう?!私がここで取られたら、あなたに音楽を捧げるアシュレイが減ってしまうのよ!」

「やれやれ、妙な事を…………っ?!」



勿論サラだって、手足をばたばたさせたところで、どうにもならないのは分かっていた。


あれだけしっかりと手を繋いだアーサー達から軽々とサラを奪い取ったこの男性に、魔法も使えない自分が敵う筈もない。


それでもこのまま大人しく連れ去られるのは嫌なのだと暴れたその時、サラを抱えた男性が、驚いたように息を飲む。




みしみしと、空間が音を立てた。



(え、………………)



ぞわりと何かが蠢き、形のない体を起こしてサラ達を覗き込んでいる気がして、目を瞠った。



けれども、何もない。

ないけれど、何かがここにいるのだ。



悍ましく暗く、ひたすらに静かで冷たいものが目を覚まし、サラとサラを担いだ男性を温度のない眼差しでじっと観察している。




その時、ごうんと一際大きな音がして、水の香りが強まった。



滝の前に立って、霧状の水飛沫が肌に触れるのにも似た膨大な水の気配をひしひしと感じ、サラは、担がれたままでは見えない背後が猛烈に気になった。



水の気配と同時に、直前の異様な気配は、綺麗さっぱりと消えている。




「…………くそっ、何だこれは?!」



ごうごうと唸る水音は、もはや轟く程の大きさで、橋の下を流れる激流のその川上から、膨大な質量の水が押し寄せて来ているような圧迫感に両手で耳を塞ぎたくなった。


遠くで誰かが叫んでいるような気がしたが、いよいよ迫った水音に、それが誰の声なのか聞き取れない。



「…………っ、アレッシオめ、魔術が薄いだと?!…………成り立ちが違うだけで、これは……………」



サラは、咄嗟に心の中でアーサーとダーシャの名前を呼んだが、辛うじて聞こえたのは自分を連れ去ろうとする男性の狼狽したような声ばかり。



そして、どおんと音を立てて、凄まじい質量の水が橋の上にいたサラ達に襲いかかったその時、カチリと時計の針が動くのによく似た音が体の内側から聞こえたのを、サラは確かに聞いたのだ。




さらさらと、細やかな水の飛沫が散る。

霧のようなその粒子の向こう側は、とても暗かった。




『大丈夫よ、サラ。怖いものは、全部お母様が連れて行ってあげるから』



あの日とは違う言葉で、誰かが優しくサラの頭を撫でてくれる。

優しい目を細めて、泣きたくなるような懐かしい微笑みで。




(お母様……………?)



聴くものを魅了する美しいピアノの旋律に、サラの母親は音楽界の寵児の一人であった。

それはまるで魔法のようだと言う者がいれば、祝福や祈りのようだと語る者がいる。


だからこそ、サラの母親が死んでしまった時、それをアシュレイの呪いだと嘆く顔をして面白おかしく囁き合う人達がいる反面、あまりにも美しい音楽を奏でるので神様に取り上げられたのだと、大真面目に言う人達も少なからずいた。



もしかしたらサラの父も、最初はその美しいピアノの旋律に惹かれたのかもしれない。




『死神は、お母様が連れて行ってあげるから、サラはこちらに来ては駄目よ』



階段を登る優しい人が、振り返ってそう微笑む。

それはまるで、愛する者達を救う為に神の御許に身を捧げる殉教者のように。



あのバルコニーから身を投げる時、母は一体何を道連れにして、何を成していったのだろう?



なぜ、橋の上で感じたあの異様な気配は、あの日の屋敷を取り巻く異様な空気によく似ていて、サラはそれを忘れていたのだろう?



(どうして私の髪は白くなって、どうしてこの生き物は私に、竜やその他のものの血を引いていると言うのだろう…………?)



「これは手段。一つの道の在り方なの。だから私は、諦めるのではなく、残された力で出来ることをするだけ。けれど、沢山のお伽話や伝承や神話が残っていても、偽物も沢山あるのは確かだわ。オードリー達は、その選択肢を誤ってしまったのね…………」



暗闇の中で伸ばされた手が、そっとサラの頬に触れる。


優しくて悲しい声に、サラはがむしゃらに暗闇に向かって手を伸ばしたが、こちらから母に触れる事は出来なかった。



「サラ。あの日、屋敷にいたあなたのことは、私が守れたわ。だからサラは、サラにしか守れないものを守ってあげて。サリノアは、………あの人は元々、その才能と音楽への愛情の在り方で、アシュレイ家の呪いに損なわれる事はない。…………きっと、最初にこの呪いを引き受けてしまった人も、サリノアやお義父様のように呪いに損なわれない気質の人だったのかもしれないわね。だからこそ、…………残された一族が自分と同じようにはいかないのだとは、理解出来なかった。……………ふふ、私の可愛いサラは、誰を守ろうとするのかしらね」



その問いかけにふと、アーサーの灰色の瞳が脳裏に浮かんだ。

けれども、記憶にあるままの母の手にふわりと頭を撫でられ、サラは、慌ててその手の主を探す。



「お母様!…………お母様、どこにいるの?!」



こちらに触れる手の温もりを感じるのに、目の前にいるような気がするのに、どんどん暗闇は濃くなり、漆黒の靄に飲み込まれるようにして全てが暗転してゆく。



そして、微かな温もりも柔らかなピアノの旋律も全てが、ぷつりと切れた。







「サラ、起きなさい」




(………………お父様の、声?)




誰かに体を揺さぶられている。

サラはまだ耳の奥から消えない水音が怖くて、どうしても目を開けられずにいた。


けれども、なぜか体は柔らかなところに伸びやかに横たえられていて、耳元で聞こえるのは大好きな父の声のようだ。



(…………お父様の声がする)



ぱちんと感覚の幾つかが飛び起き、サラは肩を掴んで自分を揺さぶる手の暖かさや、頬に触れているのが上等な革張りのソファのようなところであることに眉を寄せた。


そっと重たい瞼を開き、そう感じたものが本当に目の前にあるのかを確認しようとすれば、車の後部座席のシートに横になって眠っていたようだ。



「………………お父様?」


ぼんやりとしたものから、鮮明に結ばれた視界には、こちらを心配そうに見下ろす父の顔がある。



「…………疲れたのだろうが、そろそろ帰る時間だ。皆が乗るから体を起こしなさい」

「……………わたし、」




(もしかして、……………)



もしかして、あの橋でのことは夢だったのだろうか。



とても生々しくて怖い夢を見ただけなのかもしれないと強張った体を起こせば、青ざめた顔でこちらを見ているアーサーと目が合った。



ふと、その表情が見慣れたアーサーではないような気がしたが、それはほんの一瞬のことだった。



「アーサー!」

「……………サラ」



慌ててその名前を呼べば、こちらを見た灰色の瞳が、なぜだか泣きそうに揺らぐ。



「…………すっかり、君の弟子に懐いてしまったな」

「サリノア、父親が娘の友人に焼くのは狭量だぞ?」

「ジャン、私は何も言っていないだろう」



慌てて、伸ばした手でアーサーに触れたサラに、苦笑交じりの大人達の会話が聞こえて来た。


その会話の中の欠けた何かにぞっとして、サラは、もう一度アーサーの瞳を覗き込んだ。

綺麗な灰色の瞳には、サラの白い髪が映っている。



「………サラ、怖い夢でも見たんだろう。後で、どんな夢だったのか聞かせてくれるかい?」

「…………アーサー?…………ダーシャはどこに行ってしまったの?」

「……………ダーシャ?」



不思議そうに問い返したくせに、アーサーの瞳には、恐怖にも似た感情が揺れるのだ。

そんな瞳を覗き込んでいたサラは、不吉な予感に起こした体を両手で抱き締め、周囲を見回した。



(ここは、…………どこ?)



ここが車の中で、ほこり橋に向かっていたところまでが現実なら、外は濃い霧に包まれていた筈だ。


先程までいた場所は、ハロウィンの装飾のある町並みなどなく、公園沿いの歩道には手押し屋台のドーナツ屋さんなどなかった。


紅葉した街路樹に、ちかちかと光る電飾は飾られていなかったし、通りの向こう側に見える高い塔のある教会も初めて見る。


空が淡い茜色から夜闇の気配に向かうような時間ではなかったし、こんなに活気付いて賑やかな町ではなかった筈なのに。



(ほこり橋のある町は、こんなに大きな町ではなかったわ……………。ダーシャはどこに行ってしまったの?)



「ダーシャ?…………サラ、大丈夫か?」

「お父様、…………ダーシャがいないわ…………」

「それは誰だい?」

「……………っ、」



怖くなって取り縋ろうとした父から不思議そうに尋ねられ、サラは息が止まりそうになった。


けれど、そんなサラの恐怖に気付かないのか、ジャンパウロが愉快そうに笑う。

手には、屋台で売られているような紙カップの飲み物があって、珈琲の匂いがした。



「はは、夢でも見たんだろう。だが、不思議な事があってもいいかもしれない。何しろ今夜はハロウィンだからな」

「……………妙な事を言わないでくれ。娘が怖がるだろう」

「…………ダーシャは、いないの?」

「サラ、落ち着きなさい。夢にそんな名前の誰かが出て来たのだとしても、ここにはいないだろう?」

「………………そんな、」

「困った子だ。余程、鮮明な夢を見たらしい」



あまりにもサラが呆然としているので、父は小さく苦笑して大きな手で頭を撫でてくれた。


そうして触れる温もりも、安全なこの場所もとても嬉しいのに、自分の置かれた状況の異様さにサラは泣き出しそうになってしまった。



(だって、夢だったと言うのなら、これが正しいものだと言うのなら、…………どうして私はここを知らないの?)



サラはこの町に全く見覚えがないし、全てが夢だと言うのなら、なぜアーサーはこんなにも打ち拉がれた目をしているのだろう。



「この街の歌劇場は素晴らしかったけれど、君は少し疲れてしまったのかもしれないね。サラ、帰りは僕は窓際に体を寄せているから、座席を広く使ってゆっくりと座っていいよ」

「……………アーサー?…………ここは、…………」



怖くて怖くて堪らなくて震える声で名前を呼んだサラがそれ以上の言葉を飲み込んだのは、アーサーがそっと首を振ったように見えたからだ。



(………そうだわ。あの橋の上で、私は背中を向けていたから最後まで何が起きているのか見えていなかったけれど、多分洪水のようなものに飲み込まれた筈だもの。…………もしかしたら、これが夢で、私とアーサーはおかしなところに迷い込んでいるのかもしれない……………)



一瞬、ここは死後の国ではないかと考えかけたが、であればここに、サラの父親やジャンパウロがいるのはおかしい。


町並みだって、ここがどこだか分からないサラには怖く感じられてしまうだけで、特におかしなところはなさそうだ。



こくりと頷き、唇を噛み締める。




「……………ええ、夢を見たみたい。ダーシャという、とても大切な友達がいたの」

「…………やれやれ、サラ。驚かせないでくれ」

「ごめんなさい、お父様。寝惚けてしまって、夢との境界線が分からなくなっていたのね」



そう微笑めば父はほっとしたようだが、サラはまだ怖くて堪らなかった。


ここにはいないダーシャは、どうしてしまったのだろう。


それとも、こんな怖い夢のようなところが、記憶の中のものを拾い集めて見せてくる橋の向こう側の国境の町の魔術なのかもしれない。



(だって、アーサーは今、歌劇場と言ったもの。きっとそうだわ…………)



サラが落ち着いたからか、全員が車に乗り込み、このままこの町を出て帰路に就くようだ。


まだ戻らないダーシャを置いて遠くにはいけないと声を上げたくなったが、アーサーの目を見て、サラはまた言葉を飲み込む。


ばたんと車の扉が閉まって走り出すと叫びたくなったが、隣に座っているアーサーの存在を頼りに、その怖さを必死に堪えた。



「ジャン、暫くはこちらの家に暮らすとしても、本当にあの屋敷でいいのか?」

「ああ。勿論構わない。まぁ、サラにとっては、男だらけのむさ苦しい家になると不満しかないだろうがな」

「君に師事したいと無理を言ったのはこの子だ。…………古い友人とは言え、今回は感謝している」

「まぁ、俺もアーサーの事で無理を言ったからな。引き取ったばかりの弟子を、屋敷に置いてくる訳にもいかんからな」

「君が、弟子を取るとは思わなかった。おまけに、養子にするとはな」




(アーサーが、おじさまの家の養子………?………でも、アーサーには家族がいるでしょう?)



がたっと音を立てて身体を揺らしてしまいそうになったサラの手を、アーサーが素早く掴んだ。



(………………アーサーだわ)



そこにいるのは、確かにサラのよく知るアーサーで、どうやらアーサーは何らかの事情を知っているらしい。



きっと、サラが目を覚ますよりも早く、アーサーはこの場所について理解したのだろう。


そう考え記憶とは違うちぐはぐな会話を耐え忍んだサラが、漸くアーサーと話をする機会を得たのは、帰り道の途中でジャンパウロが道沿いの商店の前に車を停め、サラの父に煙草を頼んだ時だった。



「すまんな。道幅が狭いから、俺は運転席を離れられない。やはり、アーサーに…」

「子供達は寝ているだろう。構わないさ」



アーサーは咄嗟に寝たふりをしたようで、いつの間にかサラの手を離している。


なのでサラも息を詰めて素知らぬ顔をしておき、ばたんと車の扉が閉まって父が店に入ってゆくと、大好きな父なのになぜかほっとしてしまった。




(でも、まだおじさまが、…………)



そう、サラが、アーサーと二人にしてくれればと無念さを噛み締めた時だった。




「という訳だ。お前が目を覚ます前に、こちらも色々あった。俺とこいつは、ひとまずの協定を結んでいる」

「………っ?!」



おもむろに運転席から振り返ってそう告げたジャンパウロに、サラは小さな悲鳴を上げて飛び上がってしまう。


こちらを見る苦笑交じりの眼差しは、サラがよく知るジャンパウロのそれではなく、橋の上でサラを抱え上げた見知らぬ男性のものと酷似してはいないだろうか。



(違う。…………おじさまじゃない)



姿形はジャンパウロでも、中身が違うのだと一目で分かる全く温度の違う眼差しに、恐慌状態になりかけたサラの手をしっかりと掴んでくれたのは、隣に座ったアーサーだった。



「サラ、もう少しだけ頑張って、………うん、落ち着いてくれるかい?君のお父さんがすぐに帰ってくるから端的に伝えるけれど、…………ここは、僕達が生まれ育った場所にそっくりだけれど、そうではない所なんだ。あの日の僕達は、鉄砲水に襲われながら橋を来た方に戻ったんだ。…………すると、橋を見付ける前に僕達がいた歩道に出た」

「……………ここは、こちら側なの?」

「…………うん。ただし、不手際で微妙にずれた同じような場所に出てしまった可能性が高いらしい。…………まぁ、この魔物の言い分によるとだけれど。でも大丈夫だよ、僕は必ず君を家に帰すと約束したから………」

「……………魔物」

「やれやれ、こちらにも魔術があれば、この小生意気な魔術師の手足など捩じ切ってやるんだが、魔術誓約は破れぬからなぁ。…………聖女の子供を手に入れてはしゃぎ過ぎたか………」

「何度も言いますが、僕は魔術師ではありませんけれどね」

「その質、その気配でか?」

「…………どうして伝わらないんだろうな」



鉄砲水に襲われた時、あの場にいた全員が、橋のこちら側に駆け込んだのだそうだ。



けれどもこちら側に戻った時にその場に居たのは、サラと父、アーサーとジャンパウロの体に入った魔物の四人だけだったのだそうだ。


アーサーはなぜか意識を失ったサラを抱えて森林公園の中に立っていて、近くのベンチに腰掛けてぐったりとしているジャンパウロと、同じベンチに座って居眠りをしているサラの父親という状態だったのだとか。


一緒に駆け戻って来た筈のダーシャの姿はなく、アシュレイ家の親子より先に目覚めたアーサーとジャンパウロは、このおかしな状況について言葉を交わし、ある程度の協力関係を結んだ。



つまり、二人も迷子なのだ。

ここがどのような場所で、なぜそこにいたのかを含めてのことは、目を覚ましたサラの父親の言動に合わせているだけなのだとか。




「………本物のおじさまはどうしたの?」



だからサラは、そう尋ねざるを得なかった。

こちらを見たジャンパウロは、サラのよく知るその人の姿と声のままだ。


けれども、その内側にいるのは橋の上で出会った人ならざる者、つまりは魔物なのである。



「さてな。俺が羽織っていた肉体で入れ替わったか、俺が収まったことで消えちまったのか。何しろ魔術がない土地では俺にも調べようがない」

「…………ジャン、サラの父上が戻ってくる」

「おっと。では、手短に伝えておくぞ。ここでのお前は一人っ子だ。叔母もいなければ、姉もいない。間違えるなよ?」

「…………オードリーと叔母様が…………?」

「それと、こいつはなぜか、俺が引き取って養子にしたという事になっている。ジョーンズワースだったか、………その家の子供はこいつの兄だったという人間の一人きりだ。どうも、この世界にはいない筈なのに、引き摺り込まれた存在に落ちぶれたらしいな」




駆け足で説明されることに、背中を冷たい汗が流れるようだ。




「アーサーがいない世界………?」

「あの場にいた何かに願いをかけたお前ならば知っているかと思ったが、やれやれ、この様子か。俺達が細工した事とは別の対価としてあれこれを奪われたのか、戻り先がずれたものか、この場所そのものが幻惑やあわいの可能性もあるのか………」




対価として存在を取られたのか、或いは時計の針の上を歩いて、やって来た場所とは違う土地に降り立ってしまったものか。


その正しい答えは、もう誰にも分からないのだそうだ。



それでももう、どうしようもなく残酷なまでに、ここにはアーサーの居場所はない。


サラの父が語る自分の境遇に愕然としたアーサーは、サラが目を覚ます前に、商店の有料電話機で家族に電話をかけたのだそうだ。

療養の為にジョーンズワース夫人達が滞在している屋敷には確かにジョーンズワース家の人達がいたが、電話口に出てくれた夫人は、アーサーを知らなかった。



「…………一人息子ならすぐ隣にいる。嫌がらせはやめてくれと言われてしまった」

「…………アーサー……」



ジョーンズワース家の息子は一人きりで、その息子はちゃんと家にいるのだから。

そう言われてしまったアーサーは、どれだけ恐ろしく、どれだけ悲しかったことか。


こちらを見たアーサーは冷静に見えたが、きっとアーサーの事なので、また心を内側に溜め込んでしまっているのだろう。



(……………オードリーが、いない)



アーサーに訪れた運命の残酷さに、あまりにも無残な現実から顔を背けてしまえば、今度は、サラの知らないアシュレイ家がひっそりと佇んでいる。



そこにはオードリーというサラの大切な姉の生きた痕跡はなく、最初の疑問に戻れば、元々オードリーのいない世界のアシュレイ家なのか、それともオードリーの存在が何らかの理由で奪われてしまった結果なのかは、もはや誰にも分からないのだった。




「ど、どうにかして、元に戻せないのですか?」



そう尋ねたサラに、こちらを見た魔物が呆れたような目をする。


サラの父親は、どうやらジャンパウロの頼んだ煙草が店頭になかったようで、店員が店の奥から取り出すのを待っているらしい。

まだ商品を待って会計口に立っているようだと、アーサーがしっかり見ていてくれていた。



「はは、これは呆れたものだな。都合のいい大衆娯楽の歌劇の脚本じゃあるまいし、一度失われたものが、元通りになると本気で考えているのか?一度結ばれた魔術は戻らない。理を変えるだけの力も対価もないどころか、これは事象として確定したその顛末だ」

「…………結ばれた魔術…………?」

「あの不安定な場所で、一瞬でも戻り道を見失ったのが災いしたな。お前達があの場で俺と交わした解放と帰還の交渉が、何らかの形でここに道を繋いだ。どの言葉、どの心の声が見知らぬ領域の違う層に迷い込ませたのかは兎も角、これはもう結ばれて終わった魔術の顛末に過ぎないと理解しろ」

「ま、待って下さい。じゃあ、ダーシャは…………!本当に戻るべき居場所に残して来たお父様はどうなるの?!」

「さてな。そんなことはどうでもいいが、俺としてもこのまま帰れないのは困る。という事で、次にあわいが揺らぐ冬至の夜までは、俺とこの人間は共闘する事にした。つまり、本来の道に回帰するまではだ」



(そんな………………)



身体中の力が抜けて、サラはぱたりと倒れてしまいそうになった。


悲しくて怖くて苦しくて、わあっと声を上げて泣きじゃくりたくなる。

でもそれをせずに済んだのは、サラの手を握ったアーサーが踏み止まっていたからで、続けられたアーサーの言葉のお陰でもあった。



「サラ、…………まだきちんと確認出来ていないけれど、恐らく君のお父上は、元々の、君の知っているお父上本人だと思うよ。僕達が目を覚ました時、周囲の人達は普通に動いていたけれど、サラのお父上は意識がなかった。つまりは、僕達と同じだったんだ。………だから多分、橋の手前にいたジャンパウロや君のお父上ごと、僕達はここに迷い込んでしまったんだろう」

「でも、お父様は…………」

「僕や君のように、或いは彼のように、魔術的な素養がないからこちら側の記憶に書き換えられてしまっているのではないかと彼が、………戻って来てしまったから、続きはまた後で」



店を出たサラの父が、車に戻って来る。

ジャンパウロのお気に入りの煙草は店頭にはなく、店の奥にまだ一箱あった筈だと言う店員に随分と待たされたと苦笑しながら、紙袋に入った細長い煙草の箱を運転席のジャンパウロに見せていた。



それが自分の友人ではない事に、まだ気付いていないのだ。




(…………そう言えば、今のおじさまは、…………ジャンパウロに入った魔物は、運転は出来るのね……………)



そんな事もとても不思議なのに、心の内側が石でも詰められたかのように重いせいか、見ているものや考えた事が思考の表面を滑ってしまう。




ふと、橋の上でこちらを覗き込んだ得体の知れない何かの事を思い出し、ぶるりと身震いした。




(あれは、何だったのかしら…………?)




走り出した車の車窓からは、サラの屋敷のある街に続く懐かしい大通りが見えた。

見慣れた筈の我が家に帰るのがこんなにも恐ろしいと思う事は初めてだったが、アーサー達が、なぜか今日からアシュレイ家の屋敷に住むのだと聞いて少しだけほっとする。



窓の外に、ハロウィンに賑わう街の光が滲んでは通り過ぎてゆく。

それはどこか、奇妙で美しい異世界のように見える。



呪いを手放そうと足掻けば足掻く程、なぜ見知らぬところに迷い込んでゆくのだろう。


悪い夢を見ているようなのに、目を閉じてから開いて見ても、サラはどこにもいけないまま。




やがて、すっかり陽が落ちて暗くなった頃、漸く車は秋薔薇の咲くアシュレイ家の屋敷に戻って来た。



家を出たのは今朝の筈なのに、いつの間に、こんなに遠いところへ来てしまったのだろうと胸が苦しくなる。


幸いにも、隣のジョーンズワースの屋敷はそのままだったけれど、そこにアーサーの居場所がもうないのであれば、ここが橋の向こう側の国境の町だと言われた方がどれだけ心が安らかなことか。



(どうか、ダーシャと、本物のおじさまが無事で居てくれますように…………。私達が、ちゃんと正しいところに帰れますように………)




相次ぐ急展開にすっかり心が麻痺してしまい、サラが願ったのはそんな事ばかりであった。






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