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国境の町と見知らぬ魔物



ごうごうと川の流れる音がする。


サラ達はまず、この一歩踏み込んでしまっている橋を渡るかどうかで思い悩み、とは言え踏み込んでしまっているので引き返す訳にもいかず、そろりと進んでみた。



「……………何ていうか、僕が渡って来た時よりも、橋が生きてる感じがするな………」

「橋が、生きているというのも、慣れない表現だな」

「もう橋に足がかかっているからこう言うけれど、こちら側では珍しい表現じゃないよ。…………僕が渡った時の橋はさっきの町のように重たい霧に包まれていて、少し前も見えないような状態だったんだ。それが、今は橋の霧は晴れていて、対岸まで見通せるくらいだろう?橋のたもとに上がっているあの旗も、見慣れないものだと思う」



そうダーシャが言ったのは、橋の入り口の小さな塔に掲げられている赤色の旗だ。

しっかりとした装飾のある立派な旗で、サラには、貴族のお屋敷や宮殿前に飾られている旗のように見える。

そんなものが掲げられているからには勿論、そこには誰かがいるのだろう。

衛兵のような人達の存在を思うと、サラは、向こう側を知るダーシャが一緒に居てくれることの頼もしさに胸を撫で下ろした。



「様子が違うとなると、少し心配だな。………あの向こうの町は、ダーシャが来たところで間違いないのかい?」

「ああ。それは間違いなさそうだ。…………接地面が変わるとなると、時間軸がずれていたら事だけれどね。確か、その確認の為に国境の町のあの入口の端には、暦を司るムグリスがいるんだ」

「むぐりす……………」



サラとアーサーが、それはどんな生き物だろうかと不安そうに視線を巡らせると、ダーシャは小さく微笑んだ。



「中階位の妖精だよ。でも、あの辺りの魔術は薄いから、眠そうにしていることが多いし、僕が知る種のムグリスでもないのかもしれない。兎の妖精の一種とされるけれど、君達の土地で言えば、…………何だろう太った鼠…………ではないし、栗鼠かモモンガの方が顔が近いかな。とにかく真ん丸だよ」

「み、見てみたいわ…………!太ったモモンガ!」



思わずサラが声を弾ませると、暦の確認は必須なので必ず会える筈だとダーシャも言ってくれた。


本来は気性が荒いこともあるそうだが、ここのムグリスは眠そうでおっとりしているらしく、妖精なので触れないにせよ、目で見て楽しむくらいのことは叶いそうだ。



(そんな場合ではないのだけど、栗鼠の妖精に会えるなんて………。でも、今は見知らぬ所にいるのだから、しっかりしなきゃ!)



わくわくしかけてしまったサラは慌てて自分を叱咤したが、ふと隣を見るとアーサーも橋の向こうをじっと見ている。

やはり妖精が気になるようで、その横顔にダーシャがくすりと笑った。



「でも、ダーシャは、ここから帰れるのよね?いいことが一つあって良かったわ。ここに来られたのなら、向こう側にちゃんと帰れるわね」


そう言ったサラに、ダーシャが淡く微笑む。


「うん。時間のずれがあると、少し待ち時間が必要になりそうだけれどね。…………死者の日には入口が緩むから、そうしたらバンルが会いに来てくれるかもしれない。それまでには、国境の町の奥にある死者のあわいまで戻らないとだな…………」

「国境の町にまでは、来られないの?」

「うん。彼は竜……………おっと、体の乗り換えをして今は船火の魔物だけれど、……………になっているからね。僕達人間と違って魔術でその身を養う人外者達には、国境域の町は辛いだろう。…………でも、ムグリスが滞在出来るのなら、バンルも入口くらいまでは来られるかもしれないな…………」

「…………でも、あの橋のたもとまで行けば、妖精には会えるんだな…………」



そう呟いたアーサーの眼差しに深い切望を見たサラは、堪らず胸が震えた。

この橋を渡るということにはどんな重大な意味があるのかはさて置き、目で見て届きそうな距離に、アーサーが一度でも触れたいと望み続けてきた、その深い願いの一かけらがあるのだとしたら。


アーサーはまだしっかりとサラを抱き締めているので、その心の動きが瞳に現れるのがよく見えてしまう。



(でも、ここにはダーシャがいるわ)



彼は山猫で、元王子様で、なんとアーサーの血縁でもある。

それだけでも、もの凄いことではないか。

そこで満たされたものもあるかもしれないし、やはりアーサーは、目で見て人ならざるものという形が分る、ムグリスという生き物に会いたいのかもしれない。


アーサーの灰色の瞳に浮かぶのは、どこか苦しみにも似た焦がれるような強さだ。

そしてなぜか、自分の胸に手を当てると、呆然としたように呟いた。



「……………ここは、息苦しくない」

「アーサー?」


眉を持ち上げて振り返ったダーシャが、訝しげに目を細めた。

サラも伸び上がってアーサーの瞳を覗き込み、震えるような息を吐いたアーサーの次の言葉を待つ。



「…………いつも、…………胸の奥が締め付けられるような、何かが足りないという息苦しさがあったんだ。何かを忘れているけれど、思い出せないような。サイズの合わない靴をずっと履いているような。心が引き攣れるというか、着心地の悪い服を着ているようで、…………僕はずっとそれが不愉快だった。……………それが、妙に軽くなっている。…………ダーシャ、どういうことなのか分るかい?」

「……………そうか。君の魔術階位の高さは、僕達の一族の中に流れる竜の血の影響かもしれないね。…………さっき、僕の竜は国境の町には来られないかもしれないと話しただろう?人間でも、魔術可動域が高いと魔術の薄い土地では暮らし難いこともあるからね」



ちらりとこちらを見たダーシャが、どこか後ろめたそうに眉を下げる。

やっと拭い去られたばかりの、アーサーがどこかに行ってしまいそうな不安が、またサラの胸の中にふつりと芽生えた。



(それはつまり、…………)



アーサーは、本来はサラ達の暮らしている場所では生き難い体であるということではないか。


そんなことを聞いてしまったら、もうアーサーがこちら側に帰ってこないような気がして、サラはぞっとしてしまう。



「…………本来、僕達はこちら側で生まれるべきではなかったという事なのかな」

「一概にそうも言えないよ。君は偶々先祖返りに近いのだろう。…………というより、僕の見立てでは、君だけでなくてジョーンズワースの家の家族の側はいつだって居心地が良かったから、君達の家族はみな、その資質が強いのだと思うよ。けれど、君のご両親があちら側で過ごすからこそ君が生まれた訳だし、生き難い土地で暮らすという人生も珍しいものじゃない。僕を考えてもみるといい。普段は、一人じゃ段差も越えられないんだからね」

「…………ダーシャ」



ここでアーサーが、普段のダーシャの生活を思い返してしまったのかあからさまに狼狽えたので、ダーシャはにっこり微笑んだ。

微笑んではいるけれど、あまり幸せそうではないので、日常生活ではかなり苦労しているのだろう。



「でも僕は、この不自由な体を気に入っているんだ。僕の大事な竜が、命がけで与えてくれた唯一の活路だったからね。…………僕が殺されたのは戦場の混乱の中だった。きっと、僕の家族達や、僕の遠い親戚達のその全てが、あの戦乱で命を奪われただろう。彼等と一緒に行きたかったという思いもなくはないけれど、こうしてジョーンズワースの家族やサラ達に出会えたのは、不自由のその先に進んだからに違いない」



微笑んでそう言ったダーシャは、年齢的にはサラ達より随分上なのだと言う。

そちら側では、一部の人間はだいぶ長生きであるらしく、ダーシャは、サラの父よりも年長者なのだ。



「だからアーサー、………もう僕達はここまで来てしまったし、この先は国境の町までは進むべきだろう。元々、その向こうの汽水域であれば、君達の背負った呪いを引き剥がせる者がいるかもしれないと、ほこり橋を探していたのだしね。…………でも君は、どうか無理だけはしないでおくれ。君はあの素敵な家族がいる。ちゃんと、家族の所に戻らなければいけないよ」

「…………………まさか、飼い猫に諭されるとは思わなかったよ」



そう微笑んだアーサーは、サラが願うようにそんなことはしないとは言ってくれなかった。

思わずぎゅうっとしがみつく腕をきつくしてしまうと、ぎくりとしたような目をこちらに向ける。



「アーサー………………」

「………………サラ。……………そんな顔をしなくても、僕は君と一緒にちゃんと帰るよ。父を亡くしたばかりの家族に、こんな短期間で酷い思いをさせたくはない。…………と言うか、向こう側とこちら側の時間は流れ方が違うんじゃなかったかな?…………ダーシャ、それは問題ないのかい?」

「うーん。それについては大問題だとは思うよ。行かなくては何も解決しないけれど、行く以上は出来る限り早く戻ることが条件だ。特にアーサーは、君の一族の背負った呪いを弱体化させる為にこの橋を渡った訳だから、奥に行けば行くほど危険も増すと思った方がいい」



その指摘に、アーサーの表情が曇った。


「………………そうだったね。けれど、そうなると、僕がこちら側に戻れば、家族からあの呪いを引き剥がせる可能性もあるのかい?」

「それはどうだろう。馬車という形を取ったものが確認されてはいても、呪いというものは害獣のように成り立つか、毒のように成り立つかその仕組みが様々だ。後者の場合は、患者が一人転居するだけでは、何の解決にもならないよ」

「……………………そうか。…………確かめようもないものなのかな?」

「難しいだろうね。………サラの見せてくれた絵本から読み解けば、あの呪いは、一族の全てという広い範囲を呪うものだ。君がこちらに戻っても、数が多い向こう側に残る可能性が高い。或いは君をこちらで喰らい、既に道を知っている向こうに戻って君の家族を狙う可能性もある。解決にはならないだろう」

「だが、…………もしも、救いたい者が一人だけになってしまったら、その時は…」

「難しいね。君は、………ほぼ間違いなく、ウィーム王家の血を引いている。呪いをどうにか出来たとしても、向こう側に戻った段階で、ヴェルリアの敷いた王家殲滅の術式に触れるだけだ。王家の血族を洗い出す術式は、あわいや影絵に隠れている者達が発見されることも考慮して、五十年はそのままらしい。死者の国のあわいを出た途端……………」



肩を竦めてみせ、それ以上は語らなかったダーシャに、アーサーはふっと悲しげに苦笑した。



(……………アーサーは、向こう側には行けないのだわ…………)



先程の切望を見ているだけに、サラは胸が痛くなりかけたものの、無茶をさせる訳にはいかないので頑張って厳しい表情のまま頷いてみせる。



「…………………どうやら僕は、一族のルーツを辿ることは叶わないらしい」

「アーサー、この国に戻るまでの船旅で、僕は君に話した筈だ。国境の町に君を連れてゆくのは、安全に君を家族の下に返せる保証がなければ難しいと。あまり時間をかけられないのに、まだここに立ち止まっているのも、君が納得するまでは橋を渡らせることは出来ないからだよ」

「…………そうだな、すまない。貴重な時間をしょうもないことに使ったね」

「大丈夫そうかい?」

「……………ああ。約束するよ。愚かなことはするまい。僕は家族を蝕む呪いの解決を求めてこの橋を探していたんだ。それ以外の欲はかかないと約束するよ」

「うん。サラ、アーサーが逃げないように、手を繋いで捕まえておいてくれるかい?僕が手を繋ごうとすると、彼は少し弱ってしまうから」

「じゃあ、ダーシャは私と手を繋げば、みんなで繋いでいることになるわ」



サラがそう提案すると、アーサーとダーシャは顔を見合わせた。

ダーシャは微笑んだが、なぜかアーサーは何とも言えない遠い目をしている。

首を傾げたサラに小さく首を振り、そこでアーサーは漸くサラを腕の中から出して手を繋いでくれた。



「ごめん、…………危なくないようにと思って手を離さずにいたけれど、窮屈だったかい?」


一緒にピクニックに行ったり、歌劇場の夜のような落ち着いた微笑でそう尋ねられ、サラは、思えばずっと抱き締められていた気恥ずかしさに目元を染めつつ、小さく首を振った。


「少しだけ恥ずかしかったけれど、アーサーが逃げないように捕まえていられたから、私もこれで良かったの」

「あ、それって捕獲してたんだ…………」

「サラ……………」

「それに、私が近くにいたら、悪いものは怖がって近付いてこないかもしれないでしょう?」



アーサーに手を繋いで貰いつつ、サラはそう胸を張る。


まだ、白を持つと言う事の希少さはよく理解出来ていないが、そうなのだと言われるのだから、そう言うものなのだろう。

いざとなったらサラが前に出て威嚇すれば、何某かの効果はあるかもしれない。



「では、進んでみよう。………話をしながら待ってもみたけれど、やはりジャンやサラのお父上は、こちらには来ないようだ。一度に呼び込める人数の定員があるのか、繋がる為に必要な規則性があるのかもしれない」

「急いで橋を渡って、呪いを解ける人がいるのかを尋ねてみて、急いで戻るのよね?」

「うん。でも、走らなくていいよ。………見てわかるように、この橋には柵がない。もし何かがあって落ちたら一大事だ。いざという時にはここに飛び込めば僕のように向こう側に出られるかもしれないけれど、あの時とは水量も違うからあまりお勧めしないかな………」



じりりっと持ち上げた足を躊躇わせ、ダーシャは水灰色の石造りの橋を一歩前に進んだ。

何か特別に不思議なことが起きる訳でもなく、そこにあるのはただの石橋で、川を流れてゆく激しい水量にも、向こう側の風景にも変化はなかった。



「…………一番の心配を伝えておくと、僕は橋の向こう側で猫に戻る可能性がある」



ゆっくりと進み始めたその途中で、ダーシャは神妙な声音でそう言った。


すっかり忘れていたが、それが一番危険な展開ではないかと思って、サラはびゃっと竦み上がってしまったが、アーサーはその可能性も考慮していたものか、静かに頷いただけだ。


(だからダーシャは、何度もアーサーの意志を確認していたのかしら。自分が猫の姿に戻ってしまっていると、何かあった時に対処が出来ないから…………?)



「ダーシャが猫に戻ってしまったら、私達はどうすればいいの?」

「ああ、向こう側なら山猫姿でも会話は出来るから、安心していいよ」

「ね、猫のダーシャとお喋り出来るの?」



思わず目を丸くしてしまったサラに、ダーシャはくすりと微笑んだ。

静かにはしているが、アーサーもそれは予想外だったらしく目を瞠っている。


「僕は使い魔だよ?そこは安心しておくれ。でも、何かあった時の為にこの後の予定を共有しておこう。国境の町の中心に立派な歌劇場がある。その案内係のレクスという男性の屋敷が、橋のこちら側の区画にあるんだ。僕に、橋の向こうに行ったウィーム王族の話をしてくれた人だから彼に話を聞こうと思う」

「その人物は、呪いについても詳しいのかい?」

「あの言動の雰囲気を含め、生前は魔術師だったのかなと思うんだ。或いは、アーサーの先祖のように、死者の日に国境の国を訪れた魔術師なのかもしれない。………死者らしい振る舞いが、あまりないように感じるんだ」

「…………時間はそのままかい?」

「うん。…………サラ、アーサーやジャン、君のお父上とは共有していたのだけれど、僕達が国境の町に滞在するのは、二時間までだ。予定外の事が起こることも想定して、最大二時間半までを上限とするよ。時計を持っているのは、僕とアーサーだから、君は絶対に一人で行動しないように」

「…………わかったわ」



サラ達が歩く橋は、先程まで濃い霧に覆われていたものか、しっとりと湿っていた。

幸い、つるりと滑ってしまうような石ではないし、橋の横幅もかなりあるのでそこまで怖くはない。


とは言え、こちら側の風景が開けた時のように、強い風が吹いたら大変なことになるだろう。

徐々に近付いてくる向こう側の景色に、胸を食い破りそうな鼓動を宥めながらそんな橋を慎重に進んだ。



(………………お父様には、向こうとこちらの時間が違うことは、話していたかしら?)



こちらに入り込んでしまった以上は、どう急いでも待たせてしまうには違いなく、サラは不安になってそう考える。


(時計の話を聞いていると、アーサー達は私をこちら側に連れてくるつもりはなかったのかもしれない。………もしかしたら、私とお父様は橋のこちら側で待っている筈だった…………?)


そう考えてもみたが、その場合はアシュレイ家の呪いについて向こう側の人に教えを請うのは難しくなるだろう。

サラには難しい事はよく飲み込めていないが、呪いというものは目で見てその魔法に触れなければ、知れないものであるらしい。



(でも、…………少なくとも、お父様は私たちが国境の町に行ったかもしれない事を知っている…………。それなら、何も言わずにいなくなってしまった事にはならないと思う…………)



不思議なことが起こることも、予期せぬことが起こるかもしれないことも理解はしてくれている筈だが、それでもどれだけ心配をかけてしまうことか。

ジャンパウロが一緒にいてくれることが、何よりも頼もしくそしてサラの救いでもあった。



やはり自分は幼いのだと、サラは少しだけ悔しくなった。

前を向いて議論をしているアーサー達とは違い、ここまで来ておいてぐじぐじと後ろを向いて心配ばかり。



(でもここで、お父様が心配で躊躇っていても仕方ないのだわ。私達だけがこちらに来てしまったのなら、解決出来ないにしても、来たことに意味を持たせなければいけないのだもの…………)



多分、それには苦難が伴う。

けれどもただその日を待ってはいられないから、サラはここに来たのだ。



「一番いいのは向こうとこちらの死者の日が重なっていて、バンルに出会えることだけど、そこは思ったようにいくかどうかは分らないかな…………。そういう意味では、僕も国境の国では来訪者だ。確実さを得られない身の上だからね」

「さっき話していたムグリスという妖精は、何か知恵を与えてくれたりはしないのかな?」

「うーん、人間と同じ言葉を話さないし、ムグリスよりも、ジョーンズワースの呪いの方が階位が高い筈だ。サラの家の呪いについては……………」



ここで、ダーシャの言葉が途切れ、顔をそちらに向けたサラはぎくりとする。

橋の向こうから、背の高い男性が歩いてきたのが見えた。



(……………何て綺麗な男性なのかしら…………)



こちらに歩いて来るのは、しなやかな長身の長い髪を一本に結んだ男性だ。

ゆるく波打つその髪は、白紫色の薔薇のようなえもいわれぬ美しい色をしていて、思わず見惚れてしまう。


こちらを見た眼差しは夜の礫のような藍青で、サラの視線に気付いたのかこちらを見るのが分った。



「………………っ、」



その眼差しの強さにぎくりとして、サラは体を竦める。


はっとしたようにアーサーが、サラを隠そうと身を寄せてくれたが、どこか自信ありげな様子ですたすたとこちらに歩いてくる男性は、こちらの様子を意に介さず、飄々とした微笑みを浮かべているのが見えた。



「二人とも、僕の後ろにいるように」

「ダー………」

「それと、名前を渡さないように気を付けて」

「…………わかった。暫くは名前を呼ぶことは控えよう」



(………………甘い匂いがする…………)



その男性が近付いてくると、ふわりと甘い香りが漂った。

花々の甘い匂いや果実の匂いというものでもなく、生粋の砂糖の甘さの匂いのようで、どこかそこに不思議で清涼な嗅ぎ慣れない香りが混ざり込む。



(こわい………………)




「やあ、君達は向こう側からかね?」

「……………ええ。帰り道です。あなたは、向こう側へ?」

「まぁ、そんなものだろうなぁ。…………これは驚いた。ウィームの王族か」

「……………………どうして、そんな風に思うのだろう」

「そりゃ、あの一族には独特の匂いがある。いい砂糖になりそうな匂いで、俺は一等気に入っているからな。………ほお、そっちも親族で、こちらは……………………妙な混ざりものだな。竜、か…………?」



真っ直ぐにサラを見据えた男は、ふっと瞳を瞠る。


見たことがないような美しい色の瞳は、太陽光に翳した色硝子のように鮮やかで、サラは何も言えずにその瞳を見つめ返すことしか出来なかった。



けれども、何やら絶句しているダーシャやアーサーの様子を見てから言われた言葉を噛み砕き、サラは小さく息を飲む。



「………………竜?」

「俺でも分らんとは珍しい。それだけの白を持つなら最高位の竜だが、人間であるようだ。魔物でもあり、精霊でもある気配がする。だがその四種族が重なる筈などある訳がない。そもそも、俺達は子を成さぬしな。……………ふむ。儀式で外側から違うものに書き換えられたか。贄に出されでもしたものか。………………これは面白いな」



その言葉をサラが噛み砕く前に、ダーシャがびくりと肩を揺らすのが分った。



「………………あなたは、人間ではありませんね」

「はは、妙なことを言う。お前達もおかしな生き物ばかりじゃないか。そもそもお前、ウィーム王家の人間でありながら、なぜか魔物の匂いがするな。それも妙だが、……………ふうん、使い魔の契約か。このあわいに居る以上、どこぞの魔物にでも殺されたか」

「………………あなたは、人間の中に入っているけれど、魔物…………でしょうか」



誰何の声を上げながらも、ダーシャの言葉は慇懃で、サラは、この男性に対してはそう接しなければいけないのだなと分った。


人ならざる者が当たり前のように存在する土地で暮らしたことはないけれど、教会で神様に接するように敬うのともまた違うようで、絵本やお伽噺の中に現れる善悪の垣根のない隣人たちへの対処法に良く似ていた。

敬意を払いつつも、決して弱みを見せてはいけないのだろう。



ダーシャの対応を見ながら、そんな事を必死に読み取らなければいけないのは、サラ達が人ではない者に出会う予定ではなかったからだ。


国境の町の中でも、小さな人ならざる生き物達は何匹か確認されているそうだが、人型の人外者と出会うような所まで進む予定はなかった。


それも、こちら側との境界の橋の上にいるだなんて、ダーシャですら予想もしていなかった事のようだ。



「さてな。かもしれんが、お前には関係ない。…………あんたが、何との混ざりものなのかを俺に教えてくれれば、俺も名前を教えてやろう」

「………………私が、……………?」

「彼女は、………」

「少し黙れ」

「…………っ?!」



ひゅっと風を切るような音が聞こえ、サラは息が止まりそうになった。

いつの間にか伸ばされた男の片腕が、ダーシャの首を掴んでいる。

こういう場面を見るのが初めてのサラは、竦み上がってしまって声も出ない。


慌ててダーシャの名前を呼びたいのに、それは危ういのだろう。

そんなことはやめてと目の前の男性に嘆願することは、もっと危険なことに思えた。


幸い、呼吸の全てを遮断するような力の込め方ではないらしい。

事態は切迫しているが、あくまでも、ダーシャを黙らせる意図であるようだ。



(で、でも、…………でも、ダーシャが………………)



サラが自由だったら、怖くても、堪らずわぁっと目の前の男性に掴みかかってしまっていたかもしれない。

けれどサラの両手は今、アーサーと、首を締め上げられているダーシャにしっかり握られていて、苦しげに顔を歪めるダーシャの手が、動かないでと言うようにぎゅっとサラの手を握る。



「………………申し訳ありませんが、彼女はあまり人に慣れていないのです」


自分を守ろうとしてくれたせいでダーシャが苦しんでいるのにどうしていいか分らず、じわっと涙目になったサラの手をいっそうにぎゅっと握ったのはアーサーだった。


そちらに視線を向けた男は、興味がなさそうに視線を外しかけ、おやっと眉を持ち上げる。



はたはたと、大きな布が風に揺らぐような音が聞こえた。

橋の向こうに見える赤い旗が、風に大きく膨らんでいるので、風が出てきたようだ。



「………………その呪いは見たことがあるな。帰還者ということは、ふむ。そうか…………」

「僕にかけられた呪いをご存知なのですか……………?」

「古い呪いだ。あの時は俺も、ロクマリアに滞在して呪いの成就までを楽しく鑑賞していたからな。ウィーム王家の馬車を使った辻毒、春闇の竜を捕えようとクライメルが仕込んだ呪いだな。……………グレアムが退けたと聞いていたが、まだ残っていたとは実に愉快なことだ。せいぜい、その呪いに食い殺されるがいい」



嘲るような冷たい響きに、サラの内側に芽生えた恐怖がまた大きく嵩を増す。


せっかくアーサーの家の呪いについて知っている、その上で人間でもないものにこんなに早く出会えたのに、この魔物かもしれない男性は、寧ろ呪いの味方をするような発言をするのだ。


希望を求めてこちら側に来たのに、出会った初めての人ではないものは、なんて冷やかに笑うのだろう。



(意地悪、というのも違うわ。悪意のようなものも感じない……………)



ただひたすらに、彼は愉快な玩具でも見るようにサラ達を眺めている。


サラには少し興味があるようだが、その興味も道端で珍しい生き物を見付けたようなものに過ぎない。


ぞっとする程に美しいからこそあまりにも排他的で、だからこそ聖書の天使たちや、神話の神々は美しく描かれるのだろうかとぼんやり考えた。



「その、…………グレアムという方をご存知であれば…」



アーサーがおずおずとそう申し出たのは、ダーシャから意識を逸らそうとしたものか、自身の家の呪いに纏わる話題に堪らずであったのか。


けれどもそう言いかけたアーサーの言葉を遮った男の声は、刃物のように冷やかで残忍だ。


「俺がお前に教えてやる義理はないが、あいつなら伴侶を殺されて狂乱した後、他の魔物に滅ぼされたぞ。俺もこの通り酷い目に遭わされた。アルテアには、酒でも贈っておくしかない」


にべもなくそう一蹴されてしまい、アーサーの肩が僅かに揺れる。

聞き覚えもなく、サラ達が知る筈もない名前が幾つか出されたが、それはきっと魔物の側の誰かの名前なのだろう。


今考えるべきなのは、この状況をどう打破するべきかで、サラはまだ動く事も出来ずに、ただ怯えて縮こまる事しか出来ていない。



(………………ど、どうすればダーシャを離してくれるの?………どうすれば、……………あ!)



けれども、アーサーにかけられた呪いが見知ったものだったことが余程嬉しかったのか、嬉しそうに笑いながら、男はダーシャの首から手を離してくれた。


ダーシャはぼさりと落とされ、咳き込んで蹲ってしまう。

それでもサラの手を離さなかったダーシャに、サラは、声を上げて名前を呼びたいのに呼べないもどかしさにまた泣きたくなった。



「…………だい、…………じょうぶだ。前を見ておいで……………」



苦しげにこちらを見たダーシャが首を振った。



(あ、…………!)



サラまでが屈んでしまえば、今度はアーサーが無防備になる。


だからこそダーシャは、ふらつきながらもすぐに立ち上がり、何とか二人の盾になろうとしてくれるのだろう。



そんなダーシャの姿が痛ましくて、サラはぐぐっと奥歯を噛んだ。


何の力もないことが恨めしい。


自分でも何かが出来ないだろうかと、色々な事を考え始めたその矢先にこの状況は堪えた。

どうにかして何とかしたいのに、怖さと動揺で心が揺さぶられてしまい、気の利いた発言すら出来ないではないか。



(でも、アーサーとダーシャに何かをしようとしたら、許さないわ…………)



自分の臆病さが悲しくなって、そう自分を鼓舞した時のことだった。



せめてまずはとしっかり見上げたその視線の先で、夜の色の瞳が微かに瞠られる。

一瞬、呆気に取られたようにサラを見た魔物の瞳が、愉快でならないとでも言うように笑みに歪んだ。



「……………はは、これはいい!橋の向こうの白か。おまけに身内に聖女がいたな」




その言葉の意味までは分からなかったサラにも、低く響いた笑い声は不穏な予告のように聞こえた。











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