アシュレイ家の呪いとパイの魔法
子供の頃から、家の中に漂う張り詰めた糸のようなものには気付いていた。
それは幸せな家族の向こう側に、時折現れて冷え冷えと光る。
ぴぃんと張り詰めて青白く光るその糸は、いつも窓辺から遠くを見ていた母親の記憶と、喪服で出かけてゆく父の記憶に縁取られている。
「……………アシュレイ家の呪いと言われているそうよ」
母親の埋葬の日、サラが知らなかったその言葉を教えてくれたのは、姉のオードリーだ。
ばたばたと風にスカートが揺れ、漆黒の外套の隙間から冷たい風が吹き込んでくる。
ぎゅっと握り込んだ指先は冷たく、ふいに伸ばされた姉の手が、サラの頭を撫でてくれた。
「……………お母さまは、呪いに殺されてしまったの?」
「と言うより、呪いに脅かされて転んでしまったの」
まだ小さかったサラの問いかけに、姉は震える唇の端を持ち上げて微笑んだ。
幼い子供というものは、時として大人達が思うほどに無知ではない。
だから小さなサラは、姉が姉として無理に微笑もうとしてくれていることが分かってしまい、そんな姉の手をそっと握った。
こちらを見て、泣きそうに微笑んだ姉は、もうすぐ学園を卒業する。
天才バイオリニストとして既にコンクールで名を上げ、大人達の集うような舞台にも出ている美しくて自慢の姉だ。
成人と共にその審査にかけられるアシュレイ家の呪いの舞台に、姉ももうすぐ登らなければならない。
「姉さんも、…………ふぇっく。………怖い?」
「いいえ。アシュレイ家の呪いは、私達が音楽の神様を愛する限りは、私達を守ってくれる盾にもなる。だから、怖がって逃げてはいけないものなのだと思う。…………ねぇ、サラ。今の時代はたくさんの仕事があって、私達は、古い時代の女性達よりも出来る事が増えたわ。音楽の代理人となり続けるには、何も舞台に立つことばかりが全てではないの」
その姉が大きな木の下で、大人の男達の手で、冷たい土の下に収められてゆく母の棺を見つめながらそう教えてくれる。
(まるで、睨みつけているみたいだわ………)
読書好きでどちらかと言えば大人びていると言われてきたサラであっても、まだ姉の言葉の全ては理解出来なかったが、言いたいことは何となく伝わった。
怖いものを退ける為の手段があり、オードリーはその為の方法を見付けたのだ。
「…………ぇっく。じゃあ、オードリーは、お母さまみたいに、手を悪くしても、怖い呪いに捕まらない?」
「勿論よ、サラ。もし私がそうなったら、演奏以外のことで音楽に関わる職を得るわ。お父様は指揮者だけど、九十まで生きたお爺様はバイオリンを作っていたでしょう?………きっと私達は、音楽を愛し続けることが求められているのだと思うの」
「………………愛し続ける」
ざあっと、夜明け前の墓地を冷たい風が吹き抜ける。
父の背中はいつもしゃんと伸びていたが、その日ばかりは弱々しく強張っているように見えた。
(大丈夫よ、お父さま。お姉さまが、怖くなくなる方法を見付けたから)
そう言ってその背中に手を当ててあげたかったけれど、父は、サラの真っ白な髪を見て絶句したあの日から、事あるごとにサラの手を握り締めて肩を震わせるばかり。
葬儀が終わってからは、少しも目を合わせてくれなくなった。
サラのことを見たくないのかなと尋ねたら、オードリーは微笑んで悲しそうに首を振った。
『小さなサラが苦しんだことが、お父様は悲しくてならないのだわ。お母様やサラの側に居られなかったことを考えてしまうと、とても辛いのよ』
姉はそう言うと、サラを抱き締めてくれた。
アイリーン叔母は他の国での公演が重なってしまい、ここにはいない。
その公演を中止にしてこの葬儀に駆けつければ、それは音楽の神様を怒らせることになる。
(叔母さまは、大丈夫かしら……………)
叔母は父の妹で、不器用な父が片思いを実らせて伴侶にした母を、自分の姉妹のように溺愛していた。
結婚式の教会でアシュレイの呪いを恐れて逃げ出した婚約者を涙ながらに見送り、叔母はその後誰とも結婚しなかった。
これからもするつもりはないと気丈に笑う叔母にとって、大切な兄を捨てずに嫁いで来てくれたサラ達の母は、この上なく大事な宝物の一つだったのだろう。
自分が失った恋の代わりに、新しい大好きな妹が出来てからずっと幸せなのだと、いつもオードリーやサラに語って聞かせてくれた。
それなのに、そんな大事な義理の妹の葬儀にも駆けつけられない。
そのことが、叔母の心を壊さなければいいと、サラ達はとても心配している。
「……………っ、」
ひときわ強い風が吹き抜け、どさりと棺の上に土をかぶせる音が無情に響く。
ゴーンゴーンと響く教会の鐘が、サラのちっぽけな心を飲み込むように耳の中いっぱいに聞こえるような気がした。
背後の暗闇に怯えるような形のない恐怖に膝が萎えてしまいそうになり、サラは隣で真っ直ぐ前を睨んでいる姉の横顔を見上げた。
オードリーはきっと、泣くのを我慢している。
それなのにサラが泣き出したら、姉の優しい心の糸がぶつりと切れてしまうかもしれない。
そう考えるとそれが何よりも恐ろしくて、サラは呪いから最も遠そうなものを思い描くことにした。
いつか教会のミサで見上げた、素晴らしい天井のフレスコ画を思い出し、そこに微笑んでいた、真っ白な翼を広げた聖なる者達に祈る。
(主よ、どうかお母さまが天国に行けますように。お母さまはご自分で二階から飛び降りてしまったけれど、…………あれは呪いに殺されてしまったのだから)
錯乱した上での事故死と判断されはしたものの、とは言え自死に近い母の葬儀は、人目を避けて早朝に行われた。
執り行ったのは、アシュレイ家が古くから付き合いのある教会だ。
父の古くからの友人の一人で、その人がこの場にいてくれることは、幼いサラにも頼もしく感じた。
その祈りの声を聞いていると、美しく朗々とした柔らかな声が、明るい篝火のようにサラ達を守ってくれそうな気がした。
この教会には、かつて高名な枢機卿が訪れて、サラの父親の為に祈ってくれたこともある。
その時のサラはもっと小さかったが、荘厳な祈りの場の詠唱にうっとりと聞き入ったものだ。
爵位もなく騎士の称号も持っていないアシュレイ家だが、それでもここまでの名家として家名を残し続けたのは、それぞれの時代の有力者達や大衆に愛されたからだった。
その時も、父の指揮に惚れ込んだ誰かが、父の為にそんな機会を設けてくれたのだ。
僅かにひび割れ古木のように美しかった枢機卿の声を思い出すと、サラは、父には特別な魔法のような凄いものが味方している筈だと、くすんと鼻を鳴らす。
(だから、お母さまはお父さまがお仕事でお家にいなくなって、怖くなってしまったのかな?)
どさりと、棺にまた土がかけられる。
(…………でも、お母さまはもう、怖くないかしら…………)
サラの髪の毛が真っ白になったのは、父と姉が、初めての親娘共演で家を空けていたほんの三日間でのことだった。
それまで、壊れてしまった心を何とか隠していた母は、父の不在の間の恐怖に耐えきれず、ひび割れた心を覆っていたその手を離してしまったのだ。
幸いだとすれば、心が粉々になった母に、夫と娘を公演から呼び戻してはならないという最後の自制心が働いたことだろうか。
目の前で大好きな母親の心が壊れてゆく様を日々見守り、ただ怯えていたサラに、母は何度も言い含めた。
『サリノアとオードリーを、決して呼び戻しては駄目よ。あの二人に公演を止めさせたら、大事なあの二人まで死神に連れて行かれてしまう…………。そういう約束なの。………いい?お母様のお迎えが来る時には、サラは隠れているのよ』
最後にも、母はそう言ってサラの頭を撫でてくれた。
二階への階段を駆け上がってゆく母親の後ろ姿は、さながら悲劇の演目の王女のようで、翻ったワンピースの艶やかな緑が、いつまでも瞼の裏側から消えずにいた。
『お母さま!!』
胸が潰れそうな思いでそう叫んだのは、ここで手を離したらもう二度と会えないと、幼い心で知っていたからだ。
行かないでと手を伸ばしたサラに、一度だけ振り返った母は、微笑んで人差し指を唇に当ててみせる。
『声を立てては駄目よ。サラ、隠れていなさい』
その仕草がなぜだか酷く恐ろしくて、サラは動けなくなった。
あの手を掴んで取り縋らなくてはならないと知っていたのに、あまりの恐怖に体が動かなくなって、ただ、その母の、久し振りに見る美しい微笑みを見ていた。
『隠れているのよ、サラ。あと半日でお父様達が帰って来るわ。死神はお母様が連れて行ってあげるから、こちらに来ては駄目よ』
呪いのことを何も知らないサラにも、その時の母親の背後には、得体の知れない恐ろしいものがいるように思えた。
真っ黒な外套を翻す怖いものがどこかに潜んでいるように思えて、サラは、母親の姿が見えなくなり、二階の窓が開いて、どすんという恐ろしい音が庭の方から聞こえてくるのを呆然と聞いていた。
そして、泣きじゃくりながらよろよろと歩き、玄関ホールにある小さな道具棚の中に隠れてしっかりと内側から扉を閉めた。
夕方になると、通いの家政婦の悲鳴が聞こえてきた。
古くからこの家で働いてくれていたタスタン婦人が、今日は来なくて良いと自分を門前払いしてしまった奥様の様子を案じ、夕方にもう一度訪ねてくれたのだ。
屋敷は俄かに騒がしくなり、大勢の人達が勝手に上がり込んできたようで、サラを探し回る呼び声もあちこちから聞こえてきたが、怖くて棚の中から出られなかった。
その時のことを何度も夢に見る。
真っ暗な棚の中で体を丸め、がたがたと震えながら強張った指先を血が滲む程に握り締めて、ただ祈り続けていた。
(神様、これが全部悪い夢で、お母さまが戻ってきますように……………)
もし全部が悪い夢で時間が戻るのなら、今度こそあの手を掴んでみせる。
一生分のクリスマスプレゼントを諦めるから、お誕生日のケーキもいらないから、大好きなお母様を返して欲しい。
そう思いながら、屋敷の中に自分を探す父と姉が戻るまでずっとその中にいて、父の声が聞こえて漸く安心して、扉を開いたのだ。
どさりと、墓地ではあの恐ろしい音がまた聞こえるのだろうか。
今度はサラの大好きなオードリーと叔母の棺に、あの土がかぶせられる。
(でも、……………)
今度はあの暗い道具棚ではなく、姉や叔母の愛した美しい庭園の中にいる。
大好きだった人達の死の記憶を、また暗くて狭い場所で染め上げてはならない。
人々が出入りする屋敷の中には居られないにせよ、納屋かどこかに隠れて震えているよりも、この美しい薔薇とクレマチスに囲まれてあの二人を送ろう。
したしたと、足元を濡らす雨を見ている。
雨に濡れた夜明けはとても暗く、朝靄にけぶる世界の青さに白い薔薇が浮かび上がる。
あの日、恐怖で髪が真っ白になってしまった小さなサラを抱き締めて、いつもは超然としている青い瞳をくしゃくしゃにした父は、今日は一人で家族の葬儀に出なければならない。
今回は、事故ではなくて事件だ。
ゴシップ誌の記者や、興味本位の好奇心を持った心無い者が、雇われの葬列に紛れている可能性がある。
母が心を壊したのは、そんな無責任な誰かが、母の引退の挨拶の時にアシュレイ家の呪いの話を引っ張り出し、その対策はしているのかと残酷にも尋ねたのが切っ掛けであったらしい。
植えつけられた意地悪な恐怖に、母は飲み込まれてしまったのだ。
だから父は、今日はサラを隠すことにした。
相手にとってはただの言葉でも、それは思いがけないナイフになって心を切り裂くことがある。
そしてその傷が時間をかけて人を殺すことを、父は愛する人の死で痛い程に思い知ったのだろう。
無責任な他人に囲まれないよう、今日は隠れているようにと言ってくれて、真っ青な顔で泣いているサラの頭を撫で、一人で葬儀に向かった。
人によっては、こんな時に娘を一人にするのかと呆れる人もいるだろう。
けれどもサラには、父親が精一杯自分を守ろうとしてくれていることが、しっかりと伝わった。
(でも、そんなお父様を慰めてくれる人はいるのかしら…………)
そう考えると、胸が潰れそうになる。
かつての姉のように、呪いを避け、呪いと共に生き抜いてみせると言うような勇気は、サラにはなかった。
成人すれば、サラもまた、アシュレイの呪いの手の内となる。
その日のことを思うと恐ろしくて、大好きな姉と叔母が恋しくて堪らなかった。
(……………ああ、鳥が鳴いてる)
気付けば、雨は止んでいた。
灰色の雲の隙間から差し込んだ細い金色の光の筋に庭の花々が煌めき、先程まで静まり返っていた屋敷は賑やかになっている。
葬儀の手伝いの業者が、到着したらしい。
朝陽の差した薔薇は濡れて宝石のように光り、裏手の森の方からか、霧がゆったりとこちらに流れてくる。
そんな霧を這わせた夜明けの庭は、どこか現実離れしていて、すぐそこの茂みから、人ならざる者達が現れそうだ。
(……………ここに、私やお父様を守ってくれる、妖精や天使が現れてくれればいいのに…………)
そんな子供染みたことを考えていると、庭木にとまっていた鳩がいきなりクルックーと鳴いたので、サラはぎくりとして転びそうになってしまう。
がくんと体が揺れてばくばくする胸を手で押さえ、自分の臆病さが情けなくて涙が滲んだ。
そうして、唇を噛んでその涙を堪えている時に、サラは大好きなアーサーに出会ったのだ。
「ほらここ、濡れているから転ばないようにね。…………白薔薇が綺麗だね。特等の薔薇だ」
振り返ってそう微笑む瞳を見て頷き、コツコツと、濡れた石畳を踏む靴音を聞いている。
前を歩いている男性は、随分と大人に見えたが、どこか年齢を感じさせない不思議な無垢さがその言動にはあった。
素敵な男性だと言うには、彼の美貌は冷ややか過ぎるだろう。
それなのに、歪んだような悪戯っぽい瞳で微笑むのだから、わくわくする物語を見付けてしまった時のように胸が熱くなる。
背が高くて上等な喪服を着ていて、傘は持っていない。
(呪いは、…………怖いけれど、失礼なもの…………?)
さっき、アーサーに言われたばかりの事を考えれば、胸がざわついた。
誰もサラに、そんなことは言ってくれなかった。
当たり前だけれど、君は呪われてるのかい?僕もだよと言うような友達はいないし、恐ろしいねだとか、可哀想にだとか言う人はいても、オードリーのように戦う姉はいても、そんな呪いは失礼だと言ったのはアーサーが初めてだ。
(失礼……………。呪いが?)
アーサーは振り向かない。
ただ、サラが置いてけぼりにならないようにゆっくりと歩いてくれていて、その事が何だか胸を軽くしてくれる。
彼はサラの言葉に同意してくれて、お茶に誘ってくれて、そうしてハンカチを貸してくれただけ。
けれどもそのいい匂いのするハンカチは、不思議な温もりでサラの手の中でお守りのような存在感を得ていた。
青みがかって見えるようなくしゃりとした黒髪に、はっとする程に深い灰色の瞳。
その瞳は光の加減で水色にも見えて、幼い頃に家族で休暇を過ごした高地の別荘の近くにあった、湖底が見える程に透明な湖を思い出した。
差し込んだ陽光が、見えてきたアーサーの屋敷の、庭師小屋の横にある自転車をきらりと光らせる。
(……………自転車)
ふっと、遠い日に母の運命をひっくり返してしまった不幸な事故を思い出した。
運命のその日、前を見ていなかった自転車の少年が、歩道を歩いていたサラの母にぶつかり、その衝撃で歩道から公園に下りる階段を転がり落ちた母は、手に深刻な怪我を負いピアノが弾けなくなった。
父は何とか音楽を続けるようにと母を説得し続けていたが、挫折に終わったリハビリの直後で、人生をかけて研鑽してきたピアノを奪われたばかりの母には、酷なことだったのだろう。
けれども、母がピアノを辞めてから一年の間、アシュレイ家の呪いは何の脅威も示さず、父はきっと拍子抜けしてしまったのだ。
それまでの日々で父がその呪いに触れたのは、二十年近く前の自身の母と叔父家族の船の事故の一度だけだったのだから、気を抜いてしまっても仕方ない。
もう大丈夫だろうと父達が屋敷を空けたあの日に、まさかぷつりと最後の糸が切れるとは、母自身も思っていなかったのだと思う。
「…………サラ?」
「…………っ、ごめんなさい。考え事をしてたの」
気付けば、アーサーが自分の屋敷の前で、心配そうにこちらを見ていた。
その手は、開けてくれた庭に続く扉にかけられていて、サラが入るのを待っていてくれたのだろう。
「考え事もするだろう。今日みたいな日はね、たくさんのことを思い出すと思うよ」
「……………アーサーも、そういうことがあった?」
「ほんの一年前にね。嵐の後の庭のように、最初はぐしゃぐしゃになった風景に途方に暮れてあちこちを歩いて、それが落ち着くと堪らなく悲しくなる」
優しい声だった。
低く甘い声は、教会で聞くお祈りの声のよう。
この人はどんな声で歌うのだろうと、歌の道に進もうとしていたサラは、そんなことを考え、自分が何でもないことを考えられたことに驚いた。
「あなたも泣いたの?」
「たくさんね。泣いて水抜きしないと、体が湿地帯になるから」
「湿地帯……………」
「じめじめした心だと、呪いに捕まるよ。たくさん泣いた時の特効薬として、ダーシャに会わせてあげよう。……………おいで、ダーシャ」
その言葉に目を瞠ったサラの足元で、モップか何かだと思っていたものががさりと動いた。
「ぎゃ!」
思わず残念な悲鳴を上げてしまい、サラは慌てて両手で口元を押さえる。
くすりと笑ったアーサーが、けばけばのタオルのようなものを抱き上げた。
「サラ、我が家の良心のダーシャだ。年寄り猫だけど、捨て猫を飼い始めたから老け顔だった場合はまだ五歳かもしれない」
「……………老け顔」
「うん。獣医に連れて行ったら、十歳は過ぎてるって言われたんだ。でも、もしかするとその時はまだ若者だったかもしれないだろう?」
「……………この子は、…………猫?」
「おっと、顔が見えなかったかな。…………よいしょ、これで見えるかい?」
「…………………まぁ、」
アーサーが抱き直してくれると、サラにもその猫の顔が見えた。
毛むくじゃらでくしゃくしゃの顔は、眉を下げて困っているようなユーモラスな表情だ。
おまけにとても、太っている。
「ブニャ」
「挨拶だね。ダーシャは人間が大好きで、とても優しいんだ。悲しんでいる人や、困っている人に体当たりするのが大好きなんだよ」
「…………は、初めましてダーシャ」
「ブニャゴ」
サラが恐る恐る挨拶を返せば、茶色いけばけばの猫は返事をするように鳴いてくれた。
そこでまたびっくりしてしまい、目を丸くしていると、二重扉が開いて、屋敷の中から白いエプロンをした女性が顔を出した。
「坊ちゃん、お帰りになったのなら、…………あらまぁ、サラお嬢様」
こちらを見て目を丸くしたのは、ジョーンズワース家の家政婦のエマだ。
ふくよかな体型に陽だまりのような笑顔のこの女性は、オードリーとサラに、美味しいクッキーをくれたことがある。
それは確か、オードリーが持って行った薔薇のお礼で、バターのたっぷり入ったクッキーの美味しさと、エマの温かな笑顔は今でも覚えていた。
「エマ、サラは、葬儀には参加しないんだ。アシュレイ氏は、彼女を葬儀の場に連れて行って、心ない人達の囁きに捕まることを恐れたらしい。でも、一人ぼっちの屋敷で終わるのを待っているには、いささか長いと思わないかい?僕はとても紳士だから、お茶に誘ってしまった」
そう説明したアーサーの背中の後ろに、咄嗟に隠れてしまったサラは、この家の人達に自分の訪問の理由を説明しなければならなかったことに、今更気付いて慄いた。
アーサーから誘ってくれたとは言え、この屋敷には、彼の母親がいるのだ。
優しい母親だと彼は言うけれど、であれば尚更、不幸があったばかりの家の住人が我が家に入り込むのは嫌なのではないだろうか。
その人は、母親なのだから。
「あの、…………やっぱり……」
怖気付いて逃げ出しかけたサラに、振り返ったアーサーがにっこり微笑む。
その瞳の美しさに、思わず立ち去りかけた足が止まってしまう。
「ああ、エマは君には怒らないよ。夜中に星を見に一人で森に行く子供には恐ろしい剣幕で怒るけどね」
「当たり前ですよ。あの時の坊ちゃんは、まだ八歳です。それと、サラお嬢様をお連れしたなら、表から入れば宜しいのに。こんなに綺麗なお嬢さんを裏口からお招きするなんて、紳士らしからぬ振る舞いですよ」
「ダーシャに引き会わせたかったんだ。サラにはもってこいだからね」
「……………あら、確かにダーシャは宜しいですね」
「だろう?」
「ブニャ!」
裏口とは言え、そんなやり取りは勿論、家の中には筒抜けだったに違いない。
何しろ、アーサーは母屋への外扉を開け、サラを招き入れようとしていたところで、エマがその屋敷側の内扉を開いて居たのだから。
「あらあらまぁまぁ、可愛いお客様じゃないの。何で私には紹介してくれないの?」
「母さんまで………」
「エマと、ちょうどお茶にしましょうかと話していたところだったのよ。一緒に如何?」
「勿論、そのつもりで招待したんだよ」
突然、エマの後ろからぴょこんと顔を出したのは、アーサーと同じ色の瞳をした女性だった。
所謂美人や可憐という顔立ちではないが、とびきり魅力的な微笑みを持った人だ。
栗色の髪の毛をくるりと結い上げ、その装いまでが何とも柔和で優雅である。
そんなアーサーの母親と、エマのこちらを見るその微笑みの優しさに、サラは、冷たい冬眠用の穴倉から突然春の日向に連れ出されたモモンガのように、困惑しきって動けなくなる。
「…………突然のご訪問をお許し下さい。お茶に誘っていただいて、ご迷惑も考えずに伺ってしまいました」
「ふむ。アーサーに誘拐された訳じゃないのね?それなら安心してお招き出来るわ。どうぞ、こちらへいらっしゃいな。お隣さんなんですもの、遠慮することなんてありませんよ」
「母さん、流石に僕も誘拐はしないよ……………」
「王立図書館から本の返却期限が過ぎて督促状を貰う息子は、信用出来ません」
「………………うわ、怒ってるなぁ………」
「でも、彼女をお茶に誘ったのは、我が息子ながらいい判断よ。さぁさぁ、入ってちょうだい。ちょうど、パイを焼いたところなのよ」
その時、サラは人生で初めて、目の前の人達の瞳から光が消える瞬間を見た。
それ程にそのパイは恐ろしいのかと考え警戒しながらも、ジョーンズワース夫人の優しい微笑みに蕩かされてしまい、受け取ってしまったパイは、その後数分間の記憶が飛ぶくらいに衝撃的な味だった。
それでもあの日、屋敷の自分の部屋に帰ってから、ふっと訪れた絶望と苦痛に心が潰れてしまいそうなくらいに泣いても、挫けずに立ち上がれたのは、その温かな時間があったからだとサラは信じている。
ジョーンズワース家の人達が優しくしてくれたことを帰宅した父に話すと、父はその安堵で心が緩んだのか、サラを抱き締めて暫く泣いていた。
その父の涙を見ながら、体の中にいっぱいに溜まった涙を抜いているようで、ひどくほっとしたのを覚えている。
そんな風に考えられたのも、アーサーに言われた言葉があったからだろう。
一週間後に漸く色々なことが少しだけ落ち着き、洗濯したハンカチを父と一緒に返しに行けば、サラは駆け寄ってきたダーシャに体当たりされてべしゃりと庭に倒れた。
慌てて駆け寄ってきた父もダーシャに倒され、迎えてくれようとしていたところの事件に驚いたジョーンズワース夫人が、お詫びに二人をお茶に招待してくれることになる。
サラは父にパイの話を伝え損ねており、その日は父が、ジョーンズワース夫人のパイの犠牲となったのだった。