幕間: とある国境の町で
ゴーン、ゴーンと鐘が鳴った。
「おや、そろそろ時間ではありませんか。そろそろお帰りになられては如何でしょう?」
向かいに座った男がそう呟き、なみなみと葡萄酒が注がれたグラスを傾ける。
テーブルに置かれたこちらの皿をうんざりした目で眺めるのだから、不敬もいいところだ。
「一年に一度、国境の町が向こう側に繋がる。でもそれは、我々の領域外になります。その向こうを覗いてみたいなどという酔狂はおやめ下さい。有り体に言わせていただければ、あなたが動くとろくなことがない」
その言葉に片方の眉を持ち上げ、向かいに座る男を一瞥した。
けぶるような銀髪に鳶色の瞳のその男は、この町ではかつての姿を纏うらしい。
「アレッシオ、それはまさか、俺を諌めているつもりなのか?」
「つもりではなく、お諌めいたしておりますよ」
「自分だけが踏み込めたその先に、俺が立ち入るのが不愉快なのだとしたら、お前のカテリーナには手を出さないでおいてやる」
「カテリーナは美しく愚かで愛しい歌姫ですが、あなたの獲物ではありますまい。それは元より案じておりません。…………私が、あなたの振る舞いを案じておりますのは、そこから先が魔術の理に触れるものだからです。……………例え、それが可能であったとしても」
その声音に唇の端を持ち上げる。
こちらとしては、理に触れるのは構わない。
構わなくないのは、退屈ばかりだ。
(いや、美味い砂糖が食えなくなることも大問題か……………)
ざりりと、首から下げた銀のスプーンで皿の上の砂糖を噛み締める。
その甘さと香り高さに、かつてこの砂糖がとある聖女だった頃のことを考えた。
もう三日程待てば更に甘くなったかもしれないが、あと三日のせいで食べ損ねたかもしれなかったので、ここが妥協のしどころだろう。
やはり聖女は砂糖にしてしまうに限る。
聖女達はその資質ゆえにひたむきで、そんな心が吐き出す絶望と悲嘆が、たとえようもなく上等な砂糖になるのだ。
「自分の領域ではないことに口を挟むのは、俺達の流儀じゃない。相変わらずお前は半端者だな。…………はは、橋の向こうに美味いものはあるかな」
「………………あなたという方は。国境の見回りは死者の王の管轄ですよ?宜しいのですか?」
「少なくとも、俺より階位の低いお前に案じられる筋合いはないさ。片腕を無くしても、俺はまだお前より爵位は上だからな」
「グレアム様に傷付けられた体を固定させる為に、今は人間の死者の体を借りておられるようですが?」
「お前がこれを壊そうと、俺を滅ぼすことは出来ないぞ。これは、あくまでもただの容れ物だからな」
ゴーンと鐘が鳴り響く。
国境の町の住人達は、その鐘の音にそれぞれの反応を示した。
扉を閉じ、迷い込む穢れから身を守る者がいるかと思えば、旅支度をして向こう側を見据える者もいる。
橋の向こうのことなど、誰もよく知りはしないくせに、此処ではないどこかへの欲求というものは、成る程たちが悪い。
寧ろ、その向こう側の記録を編纂しているのは、このアレッシオという男ではないか。
彼はかつてこの国境の町から向こう側に旅立った、人間だった頃の血族の為に、その記録を集めているという。
(……………指輪を贈った女に逃げられて暇なんだろうな……)
「お前は行かないのか、アレッシオ」
「……………私は待つと決めたのです。それに、橋の向こう側とこちらは、蛇行する川が気紛れに交わるようなもの。或いは、くるくると回る時計の針が何処を示すのかというようなもの。こちらに繋がる向こうは今ではないかもしれない。私は、とても慎重な性分でして」
「……………皮肉なことだな。お前は遠い昔に人間から派生した、唯一の魔物だ。お前はお前を魔物にした人間達に、魔物になってからも翻弄される運命であるらしい」
「…………私は、私の有り様に満足しておりますよ。魔物として成ったからこそ、愛するものを私自身が望む限り、永遠に守護する事が出来る。演目は気紛れで良いのです。でなければ、観客はすっかり退屈してしまう」
そう微笑んだ男にうんざりしながら、皿に残っていた砂糖を最後の一粒まで食べ終えた。
愛した女の不貞行為にその女を殺したまでは良かったが、こちらでの自由を許しているのは不可解としか言いようがない。
普通の魔物ならいざ知らず、この男であれば人間への擬態をここまで精密なものとし、死者のあわいに自由に出入り出来るというのに。
なぜかカテリーナとかいう小娘が、迷い込んだ哀れな人間達と共に暮らす為に、向こう側に逃げ出すことをアレッシオは止めなかった。
それでいて、こうしてここでその帰りを待ち続けている。
心を傾け、魂すら注ぎ込んで建設の指揮を執った歌劇場が完成したその夜に、自分に見向きもしない偉大な兄を恨んだ弟に殺されかけ、自らの魔術を歌劇場に繋ぎ合せて魔物に成った男らしい、愚かな愛だ。
歌劇場の魔物に成り、歌劇場の歌姫を愛した何とも魔物らしい人間に翻弄された半端者。
或いはこの男は偶々人間の体を持ち生まれただけで、生来魔物の魂を持っていたのかもしれない。
けれどもそれは、もはやどうでもいいことだ。
「さてと、…………せっかくの旅路だ。橋の近くに、景観を損ねるようなものがいなければいいんだけれどな」
ぱちりと指を鳴らすと、テーブルクロスはしゅるしゅると巻き上がって小さな箱に収まってしまう。
先程まで向かいに座っていたアレッシオも、陽炎のように揺れてふつりと消えた。
国境の町も、ウィームの王都くらいの広さはある。
アレッシオとは、空間を繋いで会話をしていたに過ぎない。
この土地の魔術がどれだけ希薄であっても、そして今の体は拾った人間の容れ物であっても、このくらいのことであればまだ可能なのだ。
下ろしたての革靴の紐を確認し、首元の鮮やかな紫のクラヴァットを締め直して宝石のブローチの位置を確認する。
これから、稀なる土地への扉が開く。
けれども、向こう側との行き来が可能になるのは、死者の王がこのあわいに足を踏み入れるまでだ。
死者の王こと、終焉の魔物の視察が始まれば、霧の向こうに開けた世界の境界とも言える歪は、ぴたりと閉ざされてしまう。
これは、接着面の不具合、小さな摩擦で生まれたひび割れのようなもの。
死者の王の眼差し一つで、容易く修復されてしまう微かな傷。
(だからこそ、食材探しにはうってつけではないか………………)
最後に雪闇結晶の雫で濡らした妖精の羽で、愛用のスプーンをよく拭いた。
このスプーンをぴかぴかに磨き上げるには、やはり妖精から奪った羽が一番だ。
(こうして容れ物に入っていれば、両手が揃うんだがなぁ…………)
つい最近、とある魔物が伴侶を喪って狂乱した。
その男は伴侶の守護した人間の国を荒らし、伴侶の死にかかわった高位の魔物達を殺したり引き裂いたりした後、公爵の魔物の一人に滅ぼされたが、それまでにグラフィーツの片腕を捥ぎ取っていってしまった。
食われた片腕は通常の治癒が効かず、仕方なく使うことになる義手を定着させる為に、今は魔術の術式の泉を構築し体をそこに漬け込んである。
片手の分量だけ欠けた魂を癒し、もし可能であれば腕そのものを再構築する為にも、グラフィーツはこれから上等な砂糖をかなりの分量食べておかなければならない。
せっかくであれば、味わったことのないものがいいだろう。
そう考えて思い出したのは、魔物達に殺された死者達が赴く死者の国の向こう側にあるという、ここではないどこかの噂だ。
そしてそれが噂ではなかったと知ってしまった今、未知の砂糖を得られるかもしれない向こう側へ行かないという選択肢は存在しない。
(まだ数日ある。予定の日までには戻って来られるだろう…………)
ゆっくりと立ち上がり部屋を出ると、それまで過ごしていた美しい屋敷は廃墟になった。
草木に侵食され崩れ落ちた壁が、霧の中に寂しげに転がるばかり。
また遠くで鐘の音が聞こえた。
十三番目の鐘の音が鳴ると、この霧の先にあわいを繋ぐ橋が現れるらしい。




