表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/35

雪の国の王子と特等の白




ほこり橋のある町は、地図の上で見るよりもずっと小さな町だった。



古くからある森に囲まれた、石橋と蒸留場のある町は、とても静かなところのようだ。


実際に見てみると、郷土資料の写真はよほど絶妙なところを切り取ったらしい。

長閑と言えば長閑ではあるが、新酒の季節でもないこの時期はまだしんと静まり返っており、古い町並みは霧に覆われてどこか異世界めいて見えた。



サラ達は目当てにしていたカフェが休業状態であることにがっかりしつつ、車の中でポットの紅茶を飲む。


これは本来、道中に喉が渇いた時の為のものだったのだが、思いがけずノンナの気遣いに救われた形になった。




「来るまでに気安く飲んじまわなくって良かったなぁ……………」



そう呟いてカップの紅茶を啜るジャンパウロは、車の外でアーサーと話しているダーシャの後ろ姿をちらりと見る。


二人は今、とても大事な話をしているのだ。




(……………叔母様が残してくれた絵本が、ダーシャに家族を取り戻してくれた………)




あの絵本を読んで、サラはダーシャの知っている向こう側の要素が少しでもあればと、ただそんなことを期待していたばかりだった。


けれども二冊の絵本を読んだダーシャは、少しだけ待ってくれと呟いてポケットからハンカチを出すと、その場に蹲って静かに泣いていた。


突然のことに驚いたサラに、悲しくて泣くんじゃないよと教えてくれて、暫く肩を震わせていたダーシャの背中に手を乗せたのは、アーサーだったと思う。


ジャンパウロも事情を聞きにゆき、動揺してしまったサラは父に肩を抱かれてダーシャが落ち着くのを暫く待った。



『ごめん、…………。ごめん、………びっくりさせたよね。それから、有難う。……………サラ、この絵本に書かれているのは、僕の先祖の話なんだ。…………ここに書かれている雪の国というのは、僕の祖国のウィームという国の史実だ。…………僕が血族を探して国境の町を訪ねたのは、この絵本に書かれている王子の消息を訪ねてのことなんだよ』



目元を赤くしてハンカチを畳み直しながらそう告白してくれたダーシャに、サラ達は呆然としてしまう。



『………………え?』



その中でも誰よりも驚いたのは、アーサーだった。


ぐらりと体が揺れて倒れてしまいそうになったアーサーを、素早く手を伸ばしたダーシャがしっかりと支える。


そしてダーシャは、サラのまだ未熟な胸が張り裂けてしまいそうなくらいに、幸せそうに微笑んだ。




『……………ああ、僕は、一方的な侵略戦争で家族の全てを失った。けれど、残された伝承を信じてここまで歩いてきたことで、失われた血族を見付けられたんだ…………』



がばっとアーサーを抱き締めたダーシャに、ぶわりと涙が溢れたサラは、思わず駆け寄ってそんな二人を抱き締めてしまい、慌てた父がサラを回収にくる場面もあった。



そして今、二人は様々な話を二人きりでじっくりとしている。

外の二人にも紅茶を注いだカップを渡しており、サラ達は車の中でお茶となった。


元々、ほこり橋のある町に着いたらお茶をしてから橋の捜索に向かうつもりだったので、見込んだ時間の中で二人の時間を作れたことをサラが密かに喜んでいると、なぜかおもむろにジャンパウロに頭を撫でられた。



こちらを見てにっこり笑ったジャンパウロに、サラはぱちりと瞬きをする。

ふわりと漂ったのは、触れるくらいに近付くと分かるくらいのコロンの香りか、或いは衣服に焚きしめられたポプリなどの香りだろうか。



「ジャンおじさま……………?」

「サラはいい子だな。さすが、サリノアの娘だ」

「……………ジャン?」



サラだけではなく、父も困惑したように声を上げる。



「いや、アーサー達とは久し振りの再会なんだろう?普通なら、ずっと一緒にいたダーシャとではなく、もっと自分と話をして欲しいと言ってもいいくらいだ。けれどサラは、二人が話が出来る時間があることに満足していたからな。優しい女はいい女だぞ」



にっこり微笑んだジャンパウロに、サラはどぎまぎしてしまい、視線を彷徨わせる。

勿論、このテノールの王に異性として恋をしている訳ではないのだが、音楽家としてはとても魅力的な男性であることは理解しているので、こんな風に褒めて貰えると何だか口元がむずむずしてしまう。


しかし、サラの父はその様子を何と捉えたのか、青い顔をして首を横に振るではないか。



「サラ、…………ジャンはやめなさい。私と同じ年齢なのだぞ?」

「お父様……………」

「サリノア、さすがにサラが可哀想だぞ…………」

「…………君がいつもの調子で相手をするからだろう」

「…………お父様。ジャンおじさまは、素敵な大人の女性を沢山ご存知だと思うの。それに素晴らしい歌手だわ。そんな凄い方に褒められたから嬉しかったけれど、少し恥ずかしかっただけなの…………」



サラがそう説明すると、父はほっとしたように頷いていたが、ジャンパウロはすっかり呆れ顔になってしまっていた。



「…………こう見てると、腹の底がむずむずするな。お前が愛情深いのは知っていたが、過保護な父親の面を目の当たりにするのは初めてだ…………」

「確かに、楽団の者達や音楽関係者の中には、私が妻や子供達と過ごす様子に驚く者もいる。とは言え君は、私の家に泊まりにきたこともあるのにか?」

「新婚のお前を見た時も砂糖を吐きそうだったが、娘となるとまた違うからな。オードリーはまたサラとは気質が違う。どちらかと言えば、お前の世話を焼きたがる方だった」

「…………ああ。あの子は、家族の中で一番のしっかり者だった。アイリーンに似ていたかな」

「……………そうだな。アイリーンの若い頃にそっくりだ。姉妹のように仲良しだったしな。サラは、母親似でもあるがサリノアによく似ているな」




そう言われ、サラは嬉しくて微笑んだ。



父が、死んでしまった家族のことを愛おしげに語るのも嬉しかったし、ジャンパウロが姉と叔母が心中なんかしないと言わんばかりの口調で話してくれるのも嬉しかった。

そして何よりも、両親にそれぞれ似ている部分があると言われるのが、とても嬉しい。




(………………あ、)



その時、ふとどこか遠くから劇場の喝采のような轟きが聞こえてきた気がした。

ぎくりとして視線を巡らせると、父達が不思議そうに目を瞠る。




わあっと、遠雷のような喝采が響き、見えない筈のどこか遠くで大きな舞台が終わる。


勿論それは遠くから聞こえた不思議な音に伴う瞼の裏のイメージのようなものだが、はらはらと花びらが舞い散る美しい劇場は、いつか夢の中で見たことがあるような気がした。



その夢の中でサラがいるのはいつも、舞台を真っ直ぐに観ることの出来る美しいロージェだ。


はらはらと降るのは薔薇の花びらのようで、そしてなぜか、そこには屋内なのに雪も混ざっているような気がした。



“私はもうどこにもいないけれど、どこにも行けないその呪いの内側から、あなたを見ている”




誰かがそっと囁き、サラは総毛立った。

その言葉の響きが、誰でもなく自分自身の声のように思えたからだ。



“私達は呪いが織り上げた客席に座り、そこで共にこちらに招かれてしまった愛する人達と手を握り合い、そうして、……………この暗闇から愛するあなたを見ている”



なぜ、こんなにもぞっとするのかは分からなかったけれど、その静かな声には涙が溢れてしまいそうなくらいの深い愛情が満ちていた。



“舞台の上で、光を浴びて立っている大切なあなた。……………あなただけはどうか、こちら側に来ることがありませんように。あなたをこちらに呼べない呪いが、癇癪を起こしてあなたの大切な人を狙いませんように。…………いつか、この長い長い舞台が終わって私達がここから解放されたら…”




「サラ……………?」



訝しげな父の声に、サラはその美しい白昼夢から覚め、小さく首を振る。



「……………劇場の喝采が聞こえた気がしたの。…………この近くにあるのかしら?」

「劇場の…………?私には何も聞こえないが、お前は耳がいいからな…………」

「いや、地図上にはない筈だが、……………確かに、さっき見かけた亡霊は、観劇の客のような様相だったな」



ジャンパウロから、聞き流してしまいそうなくらいに自然にそう言われ、サラは呆然としてしまう。

目を丸くしてふるふるしていれば、気付いたジャンパウロがおやっと眉を持ち上げた。

その表情を見るに、父も同じ顔をしていたのだろう。



「言っただろう。俺は、そういうものが見える」

「……………私には見えなかったんだ。…………まだ近くにいるのか?」

「いや、さっき車の横を歩いて行ったから、もう離れただろうとは思うが…………」

「………………ふぐ。私も見えませんでした」



亡霊がすぐ近くを歩いていたと言われてしょんぼりしてしまったサラは、何だか背筋が寒くなってしまい、両手で紅茶のカップを握り締める。


すると今度は、気になることが出てきた。



(もしかして、私やお父様に見えないということは、ダーシャとお喋り出来ることとは別のものなのかしら…………?)



「ジャンおじさま、…………アーサーやダーシャは、亡霊が見える?」



そろりと尋ねたサラに、ジャンパウロがふっと微笑む。

ノンナが用意してくれた籠の中から、小さな焼き菓子を発見して嬉しそうだ。



「いい質問だ。結論から言うと、あの二人には亡霊は見えないそうだ。ダーシャ曰く、見る為に必要な資質が違うのではないかと言うことだったが、俺にもよく分からん。…………もしかすると、“側”が違うのかもしれないな」

「……………がわ?」

「サリノアやサラ、アーサー達は、ダーシャの来たという向こう側の資質があると仮定すると、俺の場合はこちら側の資質があることになる。アーサーやダーシャが亡霊を見れないように、もしかすると俺は、ほこり橋を渡れないかもしれない」



その指摘はとても不思議で、けれども怖いことのような気がした。

もし何か特別な事が起こった時、自分だけが見えないものがそこにあったら、ジャンパウロは怖くないのだろうか。



けれども、不安を覚えたサラとは対照的に、父は少し安心したように頷いている。



「…………まだ、殆どを飲み込めてはいないが、様々な角度から物事を見られるのはいい事かもしれないな。…………こうなってくると、私も何が現実で何が幻なのか、自信がなくなってくる……………」

「……………ああ。その感覚は分かるような気がするよ。俺も昔、足元が定まらないような思いがして、途方に暮れたことがある」



そう呟いて小さく笑い、腕時計を見ると、そろそろ出発かなとジャンパウロが姿勢を変える。

一度扉を開けて外の二人を呼んでくれたので、サラ達はその隙に広げたお茶のセットを片付けた。



程なくして、紅茶のカップを持ったまま外で話し込んでいたアーサーとダーシャが帰ってくる。


車に乗り込んで来たダーシャはまだ瞳を潤ませていて、サラと目が合うとにっこり笑って体を傾けて抱き締めてくれた。



「…………ダーシャ」

「……………君のお陰だ。君と、君の家族が僕に最後の血族をくれた。これで、いつか向こう側に戻る日が来たとしても、ウィーム王家の血が絶えた訳ではないと、心安らかにいられるよ」

「…………ダーシャの大切な竜も喜んでくれる?」

「……………うん。彼にも早く伝えたいなぁ。それに、僕達の代で…………途絶えた、ウィーム王家の血筋を守って貰う為にも、ジョーンズワース家の問題をどうにかしなければだ。…………ジョーンズワースの呪いの本質が、僕達の暮らしていた土地の辻毒であれば、僕の持てる知識が少しでも役に立つかもしれない」



そう聞いて、サラは目を輝かせた。

あの絵本を読む限りは、そちら側でもどうにもならずにこちらに来たように思えたが、呪いを解く為の何らかの手段があるのだろうか。



「アーサーのお家の呪いが解けるの?」

「……………ごめん、サラ。僕の話し方が悪かった。そんな風に言われたら、簡単にどうにかなりそうだと思ってしまうよね」

「……………解けないの?」

「少なくとも、僕一人では無理だ。僕はこの姿を取れているとは言え、既に死んで山猫の使い魔に練り直されている身に過ぎない。死者のあわいを出られる時が来て使い魔としての力を得ても、扱える魔術は生前よりも脆弱なくらいだろう。…………でも、幾つか絵本に書かれている頃とは、事情が変わったことを知っているんだ。それが、呪いを弱める為の助けになるかもしれない」



車の中にみっちり詰め込まれたサラ達は、そう微笑んだダーシャの言葉に息を詰める。

既にその話を済ませていたものか、アーサーは特に驚く様子もなく、どこか、密やかに心を鎮めるような思案深い眼差しをしていた。


またどこかへ行ってしまってもいけないので、サラはひとまずアーサーの手をしっかりと捕まえておく。

そうしないと、落ち着いてダーシャの話を聞いていられないと思ったのだ。



「…………サラ?」



微かに灰色の瞳を瞠ってこちらを見たアーサーに、サラは小さく頷きかけておいた。



「アーサーが逃げるといけないから、捕まえておくの。車の外は霧も出ているし、一人でどこかに行ってしまったら困るもの」

「……………サラ、さすがに僕も、ここから一人で出かけてゆくようなことはしないよ。…………もしかして、実は凄く怒っていたりするかい?」

「……………アーサー?」



そう尋ねられて首を傾げると、アーサーは途方に暮れたようにかくりと項垂れた。

小さく空気が揺れてそちらを見れば、ダーシャやジャンパウロが肩を揺らして小さく笑ってしまっている。




「サラ、アーサーは僕をどかさないと車から出られないから、捕獲しておかなくても大丈夫だよ?」

「……………まぁ。ダーシャの言う通りだわ……………」

「いや、二人共、僕が脱走する犬か何かだと思っていないかい?」

「それは困る。僕が猫姿でアーサーが犬となると、療養先の別荘の牧羊犬のように、しつこく追いかけられたら堪らないからね」

「……………まぁ。ダーシャは、その犬に虐められてしまったの?」


ぎょっとしてサラが身を乗り出すと、ダーシャは苦笑して首を振った。


「…………いや、大丈夫だよサラ。寧ろ凄く気に入られてしまって、それが問題でね。あの馬鹿犬は、僕を舐め回そうとして追いかけてくるんだ………………」



遠い目をしたダーシャは、こほんと咳払いをする。


ジャンパウロは、あまり時間をかけてもと車を出そうとしたが、ダーシャは霧の奥深くに車を進める前に、ここで作戦会議を済ませてしまいたいらしい。



「僕達の暮らしていたところは、魔術の理において、知るという事は知られる事なんだ。向こう側の存在に気付いた上で近付くと、向こう側の魔術が動き出す可能性もある。………とは言えここも既にとても不思議な感じがするけれど、まだ魔術の耳や目がないこの場所で、僕が知っている事を話してしまおう」



そんな言葉に耳を傾け、サラは、こっそり指をきつく握り込んでみる。

ぐぐっと握れば痛みもあるので、やはり今起きていることは現実であるらしい。




(これは、夢ではないのよね…………?)



まるで、あの不思議な絵本を読み過ぎてしまったことで、奇妙な夢を見ているような気分になる。



子供のサラですらそう思うのだから、父やアーサーはどんな気持ちでこの状況を受け入れているのだろう。


そして、誰よりもすんなり馴染んでダーシャの話を熱心に聞いているジャンパウロは、どうしたらそんな風に、どっしりと落ち着いていられるのだろう。



そう考えてどきどきする胸を押さえようとすると、アーサーが、握った手をくるりと返してサラの手を握り返してくれた。

しっかりと指先を包む手のひらの温度に、すとんと混乱が抜け落ちて、ほっとする。



その様子に気付いたダーシャが微笑みを深め、父は困ったような眼差しで額を押さえていた。




「ジョーンズワース家に残るその馬車の呪いを作ったのは、白夜の魔物だと伝えられている」

「……………白夜の、まもの」

「とても残忍で狡猾な、公爵位の魔物の一人だ。その振る舞いは天災のようなもので、止めようとしても国一つが滅びてしまうかもしれない。到底人間がどうこう出来るような存在ではなくて、だからこそ、その呪いを引き受けた王子も、死者のあわいに入るしかなかったんだろう。…………でも、幸いなことにその代の白夜の魔物は、僕の父が若い頃に代替わりしている」

「…………つまり、死んだという事なんだな?」



そう尋ねたアーサーに、ダーシャはしっかりと頷いた。



「その通りだ。本来ならそのような事までは、人間には下りてこない情報なのだけれどね。祖父が少し特別な人でね、高位の魔術師や大国の王族ですら生涯に出会う確率は限りなく皆無に近いとされるような、白持ちの魔物にも知り合いがいて、そんな話も入って来ていたんだ」

「…………その、白夜とやらが死ねば、呪いとしても隙が出来るってことか?」


ジャンパウロのその言葉に頷き、ダーシャは白夜そのものがいなくなった訳ではないのだと重ねて教えてくれる。


「その事象やものそのものが失われてしまわない限り、新代の者が派生するらしい。新しい白夜もとても恐ろしい魔物だと聞いたけれど……」



ダーシャの祖父は、そんな先代の白夜の訃報を受け、かつて一人の王子がその身に引き受けて向こう側へ連れて行った呪いが、今であれば解けるかもしれないと話していたと言う。


その会話を覚えていたダーシャは、死後の世界でもあるあわいに落とされた後、サラ達も絵本の王子として知る祖先の消息を追って、国境の町を訪ねたのだそうだ。



「………生前の僕は、予言や夢見のような魔術に長けていた。僕だけは、戦争の終結の前に僕の竜が殺してくれたけれど、…………全てを見届けなくても、王家の血族が一人残らず魂まで滅ぼされることを知っていた。………だから、その最後の希望に縋ったんだ。…………王家の血を絶やしたくはないと言うほどに閉鎖的な一族ではなかったけれど、滅ぼす為だけに殺されるということは、あまりにも悲しい。…………どこか安全なところで、せめて誰か一人でも生き延びてくれればと願うことが、僕の希望だったんだよ」



(……………もしかしたら、ダーシャは運命のようなものに呼ばれて、ジョーンズワースのお家に来たのかしら?)



それとも、ダーシャに何かを感じたからこそ、ジョーンズワース夫人はダーシャを拾ったのだろうか。

勿論、ジョーンズワース家はアーサーの一家だけではないので、他の家族のところに迷い込んでいた可能性もあった筈だ。



「……………絵本の作者を、アーサーは知っているのかい?」



サラの父の質問に、アーサーは短く首を振った。


「いえ。知らない名前です。家系図を見てみないことには何とも言えませんが、このジョーンズワースの呪いが始まったとされる百年前からの家系図なら、僕も調べています。…………そこにはない名前でした」

「…………向こう側とこちら側では、時間の接着面がちぐはぐだと言われているから、その辺りに秘密があるかもしれないね」

「ほお、それは初耳だな。そんなものなのか?」

「国境の町には、こちらからの帰還者の話も沢山あって、最も多かったのはこちら側で十年あまりの時間を過ごしたのにもかかわらず、国境の町に戻ると一ヶ月くらいしか経っていなかったという話なんだ。魔術師達は研究好みでね、国境域にはその時間の接着面について研究している死者もいた。………大きく蛇行する川が交わるようなもので、もしかするとそれぞれの時間の向きすら、同じ方向ではないかもしれないと聞いている」



(それって、…………)



ジャンパウロはそれ以上に質問を重ねなかったし、ダーシャもそれ以上は接着面の問題には触れなかった。

サラは、大人達がそれ以上の追求を望まなかったその話題の向こう側に、もしかしたらダーシャは、もう同じ場所に帰れないかもしれないのではという懸念があることを知ってしまう。


でもそれは、誰も口には出さなかった。

きっと、誰よりもダーシャ自身が一番恐れている事だからなのだろう。



「…………まぁ、つまり呪いは解ける可能性があるともないとも言えるが、どちらにせよ、こちら側にいるだけではどうにもならないって事なんだな?」


ここで、一つの問題を指摘したのはサラの父だった。


「…………そうなると、そちら側に行くことも、危険が大きいように感じるが…………」

「確かに、時間の接着面の話の後で、橋を渡るのは不安かもしれない。けれども、国境の町そのものは汽水域のようなところがあって、向こう側とこちら側の間の土地という性質のようだ。接着面の研究をしている魔術師達も、ここまでは時差がないという場所で研究をしていたから、そこまでならある程度の安全を保って入れると思う。………双方にかかる橋さえ見付けられれば、僕は、こちらとあちらの行き来が出来ると思っている」



そう言ったダーシャに促され、アーサーがポケットから取り出したのは、一枚の紙だ。

折り畳まれて少しだけ皺になっているが、破り取られた本のページのようで、本を大切に読む派のサラは、少しだけ渋面になる。



「………ここに記載があります。………ほこり橋のある、シルヴェルノートの町には、夜の森の中で不思議な町に入り込んだ子供の冒険の話や、酔っ払いが見たこともない町で不思議な生き物に出会った話など、どれも一晩や一日だけの不思議な冒険の伝承が沢山残っています。僕達は、これこそが、向こう側に迷い込んだ人達の記録だと考えました」



(…………アーサーも、そんなことを調べてくれていたのだわ…………)



引き続き、破り取られた本のページがどのような経緯でそうなったのかはたいそう気になるが、そうしてアーサーが手がかりを追いかけてくれていたと知り、サラは嬉しくなる。



「心配もあるだろうが、念の為に登山用のロープを持って来てある。人ならざる者達の領域から帰って来る為のまじないも、調べてきた」

「…………ジャン」

「…………のめり込み過ぎだと思うか?けれどな、…………俺には、俺にだけ見えるものがある。そこに映るものが示した手がかりを、今度こそは無駄にしたくないんだ」



サラはふと、そう呟いたジャンパウロの瞳に微かな後ろめたさにも似た翳りを見たような気がした。



(…………何かしら?)



けれどもそれは、また後で尋ねてみようと思い、ひとまずはほこり橋に行くのだと、父に精一杯訴えることにする。



「お父様、せっかくここまで来たのだから、ほこり橋に行かなきゃいけないと思うの。あの絵本やダーシャが知っていることは、アーサーのお家のことだったけれど、叔母様が霧の町を調べていた理由がきっとある筈だわ。一年に一度しかないハロウィンなんだもの。危ないかもしれないのだとしても、手がかりを得られるのなら無駄にしたくないの」

「だが、………………私は父親で、君は私の大事な娘だ。それでも心配はするよ。何しろ、自分でも理解の及ばないところに、これから向かおうとしているんだ」



とは言えここまで来たのでと、ほこり橋の入り口までは行くことになった。


まず、ダーシャが国境の町に戻り、もう一度こちらに戻れるかを試してみた後、サラ達も橋を渡るかどうかはそこから先の問題になる。

この方法なら、どうであれダーシャは向こう側に戻さねばならないという部分は達成出来そうだし、この中で、向こうもこちらも知っているのはダーシャだけだ。



「…………でも、僕はサラには危険は及ばないと思うよ」

「ダーシャ?………私がまだ未成年で、アシュレイ家の呪いが始まっていないから?」

「ううん。………僕が話した、白夜の魔物のことを覚えているかい?」

「とても怖いまもので、人間の力ではどうにも出来ないのよね?」

「うん。と言うのも……………」



走り出した車の中で、ダーシャはなぜ白夜の魔物が高貴な魔物であるのかを教えてくれた。


そちら側では、体の一部に白を持つということは特別なことなのだそうだ。

一欠片でも白を持てば、それは人知を超えた特別な生き物である証となる。

だからダーシャは、初めてサラを見た時にはとても驚いたのだとか。



「こっち側に来て、最初に驚いたのはそこかな。でも、誰が調べたものか、向こう側では白は稀色ではないという話も聞いていたから、それを思い出して何とか落ち着けたけれど………」

「ダーシャの暮らしていたところには、白髪のお年寄りはいないの?」

「いや、そういう形での白ならあるよ。……………でも、年老いて終焉の領域の奥深くまで歩いていった人達が身に持つ白は、…………とても不思議なことだけれど、稀色の白とはまるで違うと一目見て分かってしまう。なぜだか、それは終焉の印の白だと、誰にでも一目で区別出来るものなんだよ」

「………………不思議なのね」



サラはその説明にむふんと息を吐き、自分の真っ白な髪の毛を見下ろした。


人の身に宿る白が終焉のものだと言うのなら、サラのこの髪の毛にも、終焉の気配があるのだろうか。



記憶の向こう側で、幼い頃に見た棚の内側の暗闇が蘇り、階段を駆け上がってゆく母のスカートがひらりと揺れた気がした。


その記憶を辿るたびに背筋を冷たい汗が伝い、サラはごくりと息を飲む。




(あの日が終焉と言うのならば、それは確かにそうだったような気がする…………)



難しい言葉ではあるが、あれは確かに終焉だった。


大切だったものが無残に壊れ、粉々になってしまった日の影は、終焉以外のどんな色もしていない。



けれど、充分に納得して小さく頷いたサラに、ダーシャは驚くべきことを告げたのだ。




「だから、僕には見分けがついてしまう。こちら側で白髪の人達もたくさん見たよ。…………けれども、サラの髪の色だけは、僕の目には全く違う色に見えるんだ。…………サラ。……………君の白は、特等の白だ」




真摯な眼差しでそう伝えられ、サラはまずは呆然とすることから始めた。



目を瞬き、こてんと首を傾げてからやはりまだ理解出来ず、眉を顰めてふるふると首を振る。




「…………でも、私の…………可動域、は、あまり高くないのでしょう?」

「…………それが不思議なんだ。それに君の白は、後天的なものだと聞いているから、その段階で君は爆発的に階位を上げたと言うことになる。…………謎だらけの部分なんだよ」

「………………よく分からないのね?」

「一つだけ朗報かもしれないことを話すよ。……………階位の高い白は不可侵とされる。君程に白を持てば、向こう側では人間ではない者達からも祀り上げられかねない程だと言えるだろう。…………だから、もしかすると君の家の呪いの階位によっては、サラは大人になっても、その呪いの影響を受けないかもしれないよ。…………でもごめん、まだ憶測でしかないけれど…………」




それも確かめたいことの一つなのだと教えてくれたダーシャに、サラはただ呆然と頷く。

混迷する心の情景を映すように、車の外はしっとりとした霧に包まれていた。




その霧の向こう側から、また遠い喝采が聞こえてきたような気がした。












評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ