こない手紙とハロウィンの朝
ゆっくり、ゆっくりと世界が回る。
季節が移ろい、家の裏手の森は鮮やかな紅葉に色付いた。
窓を開ける度に、空気の中から水の匂いが薄まってゆき、風に薫る乾いた土と落ち葉の香りに季節の変化を思い知らされる。
サラの大切な友達が隣の家から消えてしまってから、庭にみっしりと花々が咲く瑞々しい緑の色は褪せ、あの歌劇場の夜の記憶に香るコロンを思い出す青みがかった夜空はすっかり失われてしまった。
秋の夜はどこまでも漆黒に深くなるばかりで、これからの冬になれば、そこに細やかな星々の煌めきが白銀の紗をかける。
(………………アーサーは、もういないのだわ)
花が終わり、がらんとしたガゼボに一人で立ち尽くす。
ガゼボを覆って秘密の隠れ家のようにしていた葉が落ち、魔法が解けてしまったような気がする。
(もう、…………………)
ここでどれだけ待っていても、堪えきれずに声を上げて泣いたとしても、もうアーサーは来てくれない。
そう考えて息が止まりそうになった日からも、また時間が経った。
あの日の朝、サラはひとしきりくしゃくしゃになった後、ジョーンズワース夫人の体調を慮っての療養なのだから、アーサー達が転居してしまったことを悲しむのはやめようと思った。
サラだって、ジョーンズワース夫人は大好きなのだ。
だから、療養先の長閑なラベンダー畑のある国で早く元気になってくれればいいなと頷き、これから先のことを考えようと奮起したのは、まさかその旅立ちが、アーサーとのお別れになるとは思っていなかったからだ。
ただ、二人の距離が離れるだけだと考えていたのに。
「………………っ、」
その瞬間の絶望を、どう表現すればいいのだろう。
サラは、アーサーが残したカードには勿論、療養先の電話番号だとか住所だとか、そのようなものが記してあるのだとばかり思っていた。
今迄のように歩いて行っただけでは会えなくなるのだから、きっとこれからの日々の為にそのようなものを渡してくれるのだとばかり。
(でも、…………何もなかった…………)
こっくりとした薔薇色の封筒に入った真っ白なカードには、初めてあった日に彼がドアの隙間に挟んでおいてくれたメモと同じ、アーサーの文字があった。
あの時は胸の中がほかほかするような思いで何度も指でなぞった綺麗な文字が、氷塊のようにサラの胸の中に滑り落ちて行く。
“僕の大切な友達へ。
君が共に過ごしてくれたこの夏は、僕にとって最良の夏だった。
サラ、君は僕が知る限りの、最も素晴らしい歌い手になるだろう。
いつか歌劇場で、君のアリアを聴く日を楽しみにしているよ。
アーサー”
カードに書かれたメッセージを読んで、サラは身体中の血が足下に下がるような思いがした。
じわじわと書かれた言葉のその内側の意味を飲み込み、震える指先で唇に触れる。
(………………いつか?)
その言葉の冷え冷えとした響きに、目の奥が熱くなり、痺れたような脱力感に動けなくなった。
慌てて何度もそのメッセージを読み直したが、ぱたりと息絶えてしまった心を蘇らせるような思い違いは発見できず、ただ、無情な別れの言葉が残るばかり。
(………………どうして?)
途切れてしまうことを知った上で手を離して繋がりを断たれるということは、信頼しきって差し出したものを、無残に切り落とされるような堪え難い苦しみに満ちていた。
わあっと声を上げて泣きたかったが、涙が流れる程の力も残っておらず、ひたすらに悲しみが胸を締め上げる。
(……………いやだ)
嫌だと考えてじわっと滲んだ涙に、サラは、ばらばらになってしまいそうだった。
どんなに嫌だと叫んでも、もうアーサーは行ってしまったのだ。
サラがどんな我が儘を言おうとも、この声が届くところにアーサーが戻ってきてくれない限り、どうしてさようならなのかと問いかける機会すら、今のサラには与えられない。
(お隣さんじゃなくなったら、もう友達ではいられないの?……………離れていても、こちらを向いてくれたら、手紙だって電話でだって、お喋り出来るわ。…………アーサーが悲しい時に、私がいるわって言ってあげられるのに……………)
でもその言葉が必要のないものであれば、サラにはもう届ける術がない。
馬車のことや絵本のこと、秘密にしていたダーシャと向こう側のこと。
話せていないからこそ、心にヒビを入れるような焦燥感に苛まれる。
ダーシャから助言を貰えるのだと伝えることすら、サラには出来なかった。
「………………ふぇっく」
涙がこぼれ落ちそうなくらいに目の奥が痛むのに、どうして涙が流れないのだろう。
悲しくて蹲りたいような、むしゃくしゃして地団駄を踏みたいような、苦くて冷たい苦しみでいっぱいになる。
こんな苦しみを知ったのは生まれて初めてで、サラはずっと子供のままでいいから、こんな胸の痛みなんて知りたくはなかった。
ぱたぱたと、静かな雨が降る。
ゆっくりと夏の終わりが暮れてゆき、アーサーとの思い出の中を彩るものが一つずつ枯れ落ちてゆく。
森のピクニックでかぶっていた帽子は、幸福な夏の日を押し込めるように、クローゼットの奥深くにしまい込まれた。
歌劇場の夜に貰った薔薇の押し花は、きちんと押し花用の専用の紙留めに挟まれて、紙の四方のネジをきゅっと巻かれたまま、本棚の影に置かれていた。
雨が続いた後には階段をゆっくり下りてゆくように確実に気温が下がり、カレンダーのページがまた一枚めくられる。
そうするともう、アーサーと共に過ごしたよりも多くの時間が経ってしまったことに、サラは愕然とした。
心のどこかでは、アーサーがあのカードに記した明確過ぎるメッセージを受け取っていたけれど、そのさようならの挨拶から顔を背けて、きっと手紙が来る筈だと信じてみたこともある。
けれども、アーサーからの手紙が届くことはなく、サラはいつからか、郵便局の配達人の姿が見えると、ノンナよりも早く郵便受けを見に行くのをやめてしまった。
手紙の代わりにふらりとお隣の屋敷に戻って来てはくれないかと、人気のない屋敷の影をじっと眺めるのもやめた。
その度にぱりんと割れてしまう希望のようなものが、あまりにも不憫になったのだ。
(アーサーは、もう私のことなんて忘れてしまったのかしら……………)
父親が亡くなり母親も倒れたのだから、彼が受け止めなければならない心痛は例えようもないものだろう。
ここで過ごした日々の、幸せだった頃の記憶に纏わるものは、全て消し去りたいのかもしれない。
アーサーに、これまでのようにいて欲しいと願うことは、どれだけ残酷なことだろう。
何度も何度もそう考えては、サラは、自分の幼稚な悲しみを押さえ込もうとした。
でも、このちっぽけながらも強欲な心は、アーサーがいいのだと泣き出してしまう。
あのキラキラした宝物はもう無くなってしまったのに、どうあってもそれがいいと我が儘ばかりを言うのだ。
『可哀想に。あなたは、その男性のことが好きだったのね…………』
そう言ったのは、サラに外国文学や礼儀作法を教えてくれている家庭教師のバイヤール夫人だ。
『……………いえ、アーサーは友達だったんです。私にはまだ、恋は早くて…』
『では、そう自覚する前に、その苦しみとは決別なさい。自分を大事にしない人を愛すること程、惨めなものはないわ。愛し続ける為にだけ、毎回自分の心を切り分けて無償で差し出さなければならないだなんて、なんて理不尽なことでしょう。…………そんなことをしていると、毎日毎日、心の中に足りない部分が出てくるの。誰だって、心が欠けたままでは幸せにはなれませんよ』
思いがけないことに、サラがあまりにもじっとりと暗くしていることを訝しんだバイヤール夫人は、仲の良かったお隣さんがいなくなってしまったことをべサニーから聞いて、そう言ってくれた。
その言葉の真摯さとずしりと重い響きに、サラは、この人の身に纏うどこか刺々しい華やかさは、かつて誰かに毟り取られた心を修復した女性の苦痛の痕でもあったのだと理解する。
(…………だから夫人は、最初のお喋りで、私がちっとも心を開かなかったから、あんな風に背中を向けてしまったのだわ…………)
きっとバイヤール夫人は、差し出したものを受け取らない相手に対しては、とても敏感で、傷付きやすくなってしまう女性なのだろう。
初めての授業で、サラは、自分が一方的に拒絶されてしまったように感じたのだが、それは傷付いて閉ざされた扉であったらしく、一度心を傾けてくれれば、バイヤール夫人は、サラの落ち込みを心配してあれこれと親身に世話を焼いてくれた。
相変わらず社交界での華やかな生活の話はよく分からないが、価値観は違えど、心を許した相手には情深い人であったのだ。
苦しみとはとても不思議なもので、時として、こんな風に誰かの心を繋げることもあるらしい。
季節が変わると、何日かは霧深い日が続いた。
サラは、この霧の中から霧の町に繋がる橋が現れたりしないかと、真夜中に一人で裏庭の向こうに広がる森を見ていた夜もある。
けれども、不思議で美しいものが隠れているかもしれないと心を騒がせたあの日々のような高揚感は、二度と戻ってはこなかった。
霧が晴れると庭木の葉の色が変わっていることに気付き、ふと、花瓶いっぱいに生けられた白薔薇を思い出して、また心が揺れる。
アーサーが最後に贈ってくれた白薔薇はとうに枯れてしまい、なぜだかその薔薇は、押し花やドライフラワーにして残そうという気持ちにはなれなかった。
花瓶の横に置かれていた濃紺の小箱の中には、サラの瞳の色そっくりの青い宝石が嵌め込まれたブローチが入っていた。
アーサーからの最後の贈り物だったが、箱を開けて眺めていると胸が潰れそうになるので、まだ一度も使っていない。
とても美しいのだけれど、その美しさに酷く心を揺さぶられてしまう。
今では、書き物机の抽斗の中にしまったまま、その抽斗を開けることもなくなった。
ぱらりと、またカレンダーのページがめくられる。
秋はいっそうに深まり、サラは子供らしく眉の上で揃えていた前髪に指先で触れ、このまま伸ばそうかなと取り留めのないことを考えた。
アーサーがもうこちらを振り返らないのなら、サラも、アーサーが知っている頃のサラのままでいなくてもいいかも知れない。
でも、そんなことを考えること自体が子供のようだし、もう百年も経っているような息苦しさなのに、アーサーのさようならのカードを読んだあの日から、まだこれっぽっちしか離れていないのはなぜだろう。
水槽の中の魚が酸素を求めて口をぱくぱくするみたいに、抽斗を開けてあの美しいブローチに触れたいけれど、それはとても惨めで苦しいことに思えた。
アーサーからの贈り物が思っていたよりも高価なものだったので、あの日、父は驚いたようだ。
天鵞絨の小箱の中のブローチを見ると頭を抱えていたが、サラには、アーサーがそのブローチを選んだ理由が分かるような気がしたので、彼は値段ではなくこのデザインを優先して選んでしまったのだろうと説明する。
その時はまだ、あのカードを読んではいなかったのだ。
繊細なプラチナ細工の台座に薔薇の花の装飾があしらわれた小ぶりなサファイアのブローチは、石を留める爪が葉っぱの形をしていたりと、どこか、二人が出会った日のあの白薔薇のガゼボを思い出させた。
細工の手は込んでいるものの、襟元に飾るような小さなものである。
とは言え、サファイアはえもいわれぬ深みのある青で美しく、きっと父が慄くくらいなのだから、高価な装飾品であるに違いない。
(アーサーも、最初から高価なものを贈ろうとはしていなかったような気がする………)
宝飾店の店に入ったのなら、何かアクセサリーのようなものを贈ろうとしてくれたのだろうが、そつのないアーサーなら、もう少し友人への贈り物に相応しいものを考えていたに違いない。
でもこのブローチを見付け、これこそが二人が友達だった記念に相応しいと思って、選んでくれたのだろう。
この美しいブローチが、これからも宜しくねという優しい贈り物だったら、どれだけ嬉しかったことか。
きっと、嬉しくて堪らなくて、毎日だってつけてしまっただろう。
サラの宝物になった筈だったのに。
かぽんと、天鵞絨の小箱を開ける音がする。
箱を開くとそこには、繊細な薔薇の細工が煌めき、世界がキラキラして見えた幸福な夏の日の記憶が押し寄せてくる。
その度にサラは、息が止まりそうになって、慌てて箱を閉じた。
晩秋になると、気の早い店々では、雪靴なども売られるようになってきたらしい。
ノンナにべサニーが、今年は雪靴を新調しなければと話しているのを階下に聞きながら、サラはまだひりつく息を吸った。
(…………こんなに苦しいのだから、朝なんて、永遠に来なければいいのに…………)
あまりよく眠れず、あの頃よりは随分と遅くなった夜明けの光に、サラはそんなことを考える。
勿論、そんなちっぽけな恨み言で世界の満ち欠けが止まる筈もなく、眠りの間だけは安らかな夜は明けてしまい、いつの間にかカーテンの隙間から差し込んだ光で部屋が明るくなっている。
とうとう訪れてしまったハロウィンの日の朝、サラはとうとう我慢出来なくなって、ベッドの中で声を押し殺してしくしくと泣いていた。
(……………満月の夜のハロウィンだなんて、今年しかないかもしれないのに……………)
悲しくて寂しくて、焦っていて怖くて堪らなくなる。
今日がハロウィンだと知った時には、とても嬉しかったのだ。
霧の町を探しにゆくのに、これ以上にうってつけの日はない。
でももう、あのけばけばのあたたかな友達も、遠くに行ってしまった。
(ダーシャは、私の辛くて悲しい日々を温めてくれた、大切な友達だったの………………)
勿論、どうやってサラ達だけで霧の町を探しに行くのかなど、問題が山積みだったのは否めない。
ダーシャを霧の町に連れて行く為に、そして、アーサーに魔法があるのだと知らせて、サラ自身も呪いを解く為に。
何としても、ほこり橋に出かけて行ってみせると意気込んでいたサラにとって、こうして無残に欠け落ちてゆく今日という日は、何という残酷さであることか。
大事な大事な日が、どんどん指の隙間からこぼれ落ちていってしまう。
何にも出来ないままに今日が終わってしまって、向こう側への橋を見付けられずに残された時間が終わってしまったら、ダーシャはどうなってしまうのか。
もうすぐサラも、十五歳になる。
サラ自身にとっても、残された猶予はあまり長くはない。
(あの夜は、どんなところでも歌ってゆけそうな気がしたのに…………)
歌劇場を訪れた日の夜には、勇ましくて力強い気持ちを抱いていたのに、アーサー達がいなくなると、サラの勇猛な覚悟は火が消えたように萎んでしまった。
今はまた、アシュレイ家の呪いが始まるその日に、果たして自分は大丈夫だろうかという不安の方が大きくなりつつある。
もしかすると、サラにとってのアーサーやダーシャは、行先を照らす松明のような存在だったのかもしれない。
「……………朝なんて」
夏の強さはなくなったこの季節の朝日は、どこか悲しげに柔らかく儚い。
その光の影が窓硝子を透かして床に落ち、サラは眉を寄せた。
こんな気分なのだから、曇天や土砂降りで然るべきだが、よりにもよって今日は、散策日和ないいお天気であるらしい。
何という仕打ちだろうとまた悲しくなり、のろのろと起き上がってベッドを出ると、ぎくりとするくらいに暗い目をした白髪の自分の姿を鏡に見て、サラはまた悲しくなった。
アーサーを後悔させてやるくらいに大人の女性になるどころか、確実に萎びてしまっている気がする。
乙女としては、何とも無残な敗北を重ねたような惨憺たる有様だ。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
そこにコンコンとノックが響き、ノンナが部屋に入って来た。
今日はベサニーがお休みで忙しいのに、わざわざ起こしに来てくれたことにサラは驚いた。
「……………ノンナ?」
「良かった、起きていらっしゃいますね。サリノア様が食堂でお待ちですよ。何でも、今日はお客様がいらっしゃるそうです。もうすぐご到着なので、ご一緒に朝食をと仰っていますよ」
「……………お父様に、お客様が」
そんなことは聞いていなかったので驚いたが、サラは、その報せに少しだけほっとした。
するべき事があるのに誰かに時間を占領されてしまうという焦りはあるけれど、どうせ自由にしていても、結局願いは叶わないのだ。
であれば、こんな悲しい日は、何か別のことで忙しくしていてあっという間に終わってしまえばいい。
(……………ジャンパウロさんが、遊びに来てくれたらいいのにな……………)
あの歌劇場で出会った太陽のような微笑みの人を思い出し、そんなことを思った。
今のサラの、体の中にいっぱいの涙を溜め込んで水浸しの心には、ああいう明るさと力強さが必要な気がしたのだ。
(でも、お父様のお友達の方が家に来るのは初めてだから、もしかするとあの人かも知れない……………)
父は、あまり人を家に招くのが好きではないらしい。
アシュレイ家の呪いの事があるからなのか、元々の気質なのかは分からないが、音楽関係の友人達とは外で食事をしてきたり、サラと二人きりになる前までは、楽団の仲間と湖畔の別荘地で泊りがけで釣りを楽しんだりと、家の外で過ごす事が多かったようだ。
(……………そうだわ。お父様にもそろそろ、お友達とゆっくりしてきていいのよって言ってあげなきゃ…………)
そう考えて、くすんと鼻を鳴らす。
アーサーがいなくなってしまってからのサラは、分かりやすいくらいに意気消沈してしまっており、父はとても心配してくれていた。
オードリーや叔母の死から立ち直りつつあったサラに、やっと娘が落ち着いたようだぞと安心しかけたところで、またこんな風になっているのだから、父だって惨憺たる思いだろう。
そう考えれば、サラは自分の身勝手さが申し訳なくなる。
父にだって、苦痛を乗り越えるための気晴らしが必要だ。
どれだけ愛し合う家族であれ、一人の自由な時間を持ちたいと願うのが音楽家の性であることを、サラとて家族の一員としてよく知っている。
もう二人きりしかいない家族なのだから、労わり合ってゆかなければならない。
(………………これ以上、お父様に心配をかけるのはやめよう………………)
そう考えて背筋をぴしゃんと伸ばしてから、身支度を整えて、白藍色の天鵞絨のワンピースを着た。
このワンピースは、スカートがふわりと膨らんで繊細なレースが重なっており、家でのお客の歓待に相応しく、華美すぎず上品で詩的な雰囲気があるものだ。
ゆっくりと階段を降り、談笑の声に耳を澄まして行き先を変更した。
食堂ではなく、お客様は一階にある応接室にいるようだ。
ノンナの姿は見えないので、朝食の支度で忙しいのだろう。
きちんと挨拶が出来ますようにと深呼吸し、サラは扉を開ける。
「お父様、おはようございま…………」
扉を開けて一歩踏み出したサラは、まずは、お客が一人ではなく三人であることに驚いて目を丸くする。
(………………え、)
真っ先に目が合ったのはジャンパウロで、その装いが彼の男性らしい魅力を引き立てる、ふくよかな緑色のシャツの襟元を開き、彩度の低い灰色が銀鼠の毛並みのような色合いの薄手のセーターを肩に羽織っていた。
他のことに気を取られて呆然としていたサラは、目があった彼に慌てて挨拶をする。
「……………ご、ご無沙汰しております」
「はは、びっくりしてるな!俺自身もサリノアの客だが、サラにもお待ちかねのお客を連れてきたぞ」
豪快に笑ったジャンパウロは、サラの方を見てばちんとウィンクをしてくれた。
ジャンパウロの隣に座る、サラを大混乱に陥らせている要因でもある残りのお客は、こちらを振り返って淡く微笑む。
「………………やあ、サラ」
「……………アーサー……」
ジャンパウロの隣に座っているのは、サラがせめてもう一度会えたらと思っていた、大好きな友達。
きらきらと差し込む朝日の中で、懐かしい黒髪が僅かに青みがかって見える。
でも、そこにいるのは間違いなく、サラの大好きなアーサーであった。
こちらを見ている灰色の瞳は少しやつれたような影を落としてはいたが、懐かしい夜の美貌はそのまま。
その隣にはアーサーと同じくらいに背の高い男性が一人いて、銀髪に鳶色の瞳の彼をサラは最初、クリストファーだと思っていた。
(でも、知らない人だわ……………)
こちらを見て微笑む人は、アーサーや自慢の父とは違う雰囲気で、はっとする程に美しい。
硬質な美貌ではあるが、微笑むと目尻が下がってとても優しい表情になる。
そして彼は、サラににっこりと笑いかけた。
「サラ、僕は忘れなかったよ。今日はハロウィンだからね」
親しげにそう微笑んで立ち上がった男性に、サラは目を瞠る。
なぜかその男性が立ち上がると、父の瞳が虚ろになるのだが、何かあったのだろうか。
「……………初めまして?」
「おっと、僕のことを忘れてしまったのかい?君とほこり橋を探していた友達だろう?」
そう言った人の微笑みの形に、サラは小さく息を飲む。
よく見れば彼だけ服装が妙に時代がかっており、その服装をサラは見た事があった。
(もしかして、………………)
「………………ダーシャ?」
「そう。分かってるじゃないか」
「ダーシャ!!」
ここでもう、サラは限界だった。
溜めに溜め込んだ寂しさがぼふんと爆発してしまい、思わず大好きな友達の胸に飛び込んでしがみついてしまう。
大人の女性のようにだとか、アシュレイ家の女主人としてだとか、習いつけた礼儀作法は吹き飛んでしまい、大切な友達をしっかりと捕まえたかったのだ。
「………………ぇっく」
ぎゅうっと抱き締めて涙を飲み込めば、驚いていた様子のダーシャが、くすりと笑う。
優しい手がサラを抱き締めてくれて、そっと頭を撫でる温度にうっとりとした。
「………………ごめんよ、寂しい思いをさせてしまったね。何も解決していないのに、いきなり一人で取り残されて不安だっただろう。……………魔法があると知りたいとか言いながら、意外に堅物だったアーサーの説得に、随分と手間取ってしまったんだ」
「ふぎゅわ……………」
「ああ、ほら。サラの綺麗な瞳が大洪水だな。ええと、僕の持ち物は使えないから、誰かハンカチを借りても?」
そう尋ねるダーシャの声の向こうで、こっちが本命かと呟くジャンパウロの声と、暫く書斎で頭の整理をしたいと呟く父の声が聞こえる。
(ジャンパウロやお父様も、ダーシャのことを知っているの?…………それに、今日は夜でもないのに人の姿をしていて、顔もしっかりと見えるのはどうして?)
たくさんの疑問はあったけれど、でも今だけは、やっと取り返した大事な友達の体にしがみついて、少しだけこのままでいさせて欲しい。
そう考えたサラははっとして、呆然としてこちらを見ていたアーサーの上着の裾も、逃げないようにしっかりと掴んでおいた。




