幸福な日曜日と霧雨の月曜日
それは、穏やかで美しい日曜日のことだった。
サラはその後も何度も、その美しい日のことを繰り返し思い出した。
焼き切れずに残った細い糸を離さないように、何度も、何度も。
「……………毎日が、こんな風に穏やかだったらと思うよ」
そう呟いて、ごろりとピクニック用のキルトの上に寝そべったアーサーに、サラはくすりと微笑む。
アーサーが疲れ果てているのは、屋敷に帰ってきたばかりの兄に冷やかされながら、サラの為に美味しい卵サンドを作ってくれたからだ。
アーサーの兄のクリストファーとサラは、お隣さんという領域を出ないくらいの知り合いで、寧ろ、アーサーよりも早くに挨拶を済ませたのはクリストファーの方だった。
オードリーに隠れてもぞもぞと挨拶をした小さなサラに、敬語で話す必要はないよとにっこり笑いかけてくれた笑顔が印象的であった。
恋人を事故で亡くした後は暫くこちらに住んでいたそうだが、今は家を離れており、この週末は帰ってきているらしい。
兄に冷やかされ、足元ではダーシャから卵を寄越せと鳴かれて生きた心地がしなかったと告白し、そんなアーサーが持ってきてくれた卵サンドは、確かにこの前のものよりふっくらとしていて美味しかったような気がする。
こっちの方が美味しいと断言出来なかったのは、前回の卵サンドは、サラの人生で初めてのアーサーの卵サンドとの出会いだったので、どうしてもその驚きが加算されてしまうからだった。
「ダーシャは、そういう寝方なの…………?」
「ブニャ……………」
昼食を終え、前足も後ろ足も開いてしまい、ぺたんとうつ伏せになって寝ているダーシャに、サラは恐る恐る尋ねる。
足が短くて起き上がれないだけだったらどうしようと心配したが、元気そうなので、これが日向ぼっこの流儀であるらしい。
ちょうど、サラとアーサーの位置には大きな木の影がかかり、ダーシャはあえて日向を選んで寝そべっているようだ。
暑くないのだろうかと背中の毛に触れてみると、お日様に干した布団のような手触りになっており、撫でて貰ったと勘違いしたものかダーシャはごろごろと喉を鳴らす。
アーサーが小さく微笑み、ちらりとどこかを見てから、ああ邪魔者が来たなと呟いた。
その視線を辿ったサラは、アーサーの兄のクリストファーが庭の境界のあたりに立っていることに気付いた。
手にはピクニック用のバスケットを持っていて、大きな魔法瓶と、クロスに包まれたグラスが入っているようだ。
砂色や銀髪にも見える淡い金髪を風に揺らして木立の影に立っているその姿は、この季節の、花々に溢れ生き生きとした庭の緑にとてもよく映えた。
(………………わ、お日様が当たるとこんな色になるのだわ………)
こちらに歩いてくるクリストファーの髪色は、光の加減で色味を変える。
これまでに会った時には、曇り空の日や夜だったりしたので、淡い色の髪は砂色や銀髪に見えていた。
けれども今日は、陽光を浴びてシャンパンのような澄んだ金色に見えた。
鳶色の瞳も緑の色味が強まりオリーブグリーンに煌めくので、こんな素晴らしい夏の日そのものの色彩と言えよう。
ふくよかな金髪に青い瞳の人が、夏の日の空や海を思わせるのならば、クリストファーの持つ色彩は夏の森を思わせる美しさだ。
造作の整い方を見ればアーサーの方が美麗なのだが、一概に美しさというものを定められないような、ぱっと場が華やぐ魅力的な男性だと思う。
(きっと、…………)
物語の中に出てくる王子様や勇者は、きっとこんな姿をしているに違いない。
そう思ってしまうサラは、子供っぽいのだろうか。
何にせよ、横で寝そべっているアーサーと比べると、何とも対照的な二人であった。
「やあ、そこの怠惰な二人に、エマ特製のレモネードを持ってきたのだけれど、一緒に飲まないか?」
「………………兄さん、混ざりたいだけだろう」
「はは、ばれたか。……………サラ、絶対に君に服従すると誓うから、俺も混ぜてくれないか?家にいると、エマに倉庫の掃除の手伝いをさせられそうなんだ」
「も、勿論です。……………間を空けますね!」
「おっと、サラ。真ん中を空ける必要はないよ。兄さんは、すごく端が好きだよね?」
「やれやれ、アーサーは心が狭いな。可愛い女の子の隣は譲ってくれないか」
「勿論。幸運にも、先に友達になったのは、僕の方だからね」
アーサーはしれっとそう言い、唇の端を持ち上げる。
そんな二人のやり取りを、サラは、圧倒されて見守った。
すると、寝そべったままのアーサーがこちらを見て微笑み、少しだけ意地悪な目をした。
「サラは、敷物の真ん中で僕達に挟まれると、落ち着かないだろう?」
「………………むぐ。……………ええと、」
「アーサー、女の子に意地悪な質問をするな。ほら、お前が真ん中に行けばいいだろう」
「やれやれだなぁ…………」
(横並びになるのかしら……………)
サラは、三人なのだから三角形に座ればいいのではないかなと考えたが、あえてアーサーが間に入ってくれたのかもしれない。
しかし、アーサーは引き続き寝そべるようなので、その為の位置取りなのだろうか。
結果、のびのびと横になっていたダーシャは持ち上げて場所を移され、恨めし気にブニャゴと鳴いている。
「さて、レモネードだ。サラは、苦手だったりしないか?」
「は、はい!大好きです!」
「…………サラ、力を抜いた方がいいよ。兄さんはなぜだか、会話の相手から笑顔と元気の良さを毟り取る才能があるんだ。無意識に引き摺られるから、そういう性格じゃない君はほどほどにね」
「…………………ふぁい」
「毟り取っているつもりはないが、俺の言動は、相手に影響を与え易いんだろうな。以前に担当教授から、君と話すと愉快なんだが、なぜかどっと疲れると言われたことがある…………」
「同じ属性の者はいいんだけどね」
「属性か…………。うーん。確かに、そういう相性もあるのかもしれないな………」
(アーサーが言っていたことを、ちょっとだけ思い出した…………)
以前アーサーは、クリストファーのことを典型的な太陽の系譜の人だと話していた。
明るく力強く情深い男性で、清廉潔白という程に堅物でもなく、愉快で優しい人なのだと。
でもそれは、例えば正反対の夜の系譜の人間にとっては、いささか光が強すぎるものなのだそうだ。
自分との違いを認識して接しないと無理をする羽目になるし、明確な違いの理由をしっかり意識していないと、時にはその眩しさに焦がれて自分を卑下したくもなる。
『僕は兄が好きだし、兄のようではないことを自覚している。そうして側にいると、あれ程に頼もしい人もいないだろう。………でも、自分がどのような人間なのかを理解せずにやみくもに兄に憧れる人の中には、兄が完璧な人間ではないことを知りながらも、そのように振る舞えないことで理不尽な苛立ちを向ける人もいる。僕のような気質の人間にはそうして向けられる羨望はないから、時々、損な役回りだなと思うこともあるよ……………』
そう教えてくれたアーサーの言葉が、サラにも少しだけ分るような気がした。
アシュレイの家には、属性的にと言われると、ここまで太陽のような人はいなかったが、オードリーは健やかで美しい鹿のようで、叔母のアイリーンは華やかで力強い灯火のような人だった。
どちらの資質もサラにはなく、二人が持っているものを羨ましいと思うこともあったが、自分はまるで違う性格の人間なのだと理解してしまえば、二人は、サラにはないものを持つ自慢の家族になったのだ。
(多分、自分が欲しくて堪らないものをその相手が持っていて、自分の持ち物を気に入らなかった場合は、とても苦しいのかもしれない……………)
実は、サラにもそういう相手がいる。
以前通っていた学院に、きりりとした黒髪の綺麗な女性がいた。
上級生だったので接点はなかったが、ゆったりとした低めの声で話し、どこか皮肉っぽい微笑みが何とも艶やかで美しかった。
女性らしいめりはりのある肢体とすらりと高い身長が羨ましくてならず、廊下ですれ違うと、惚れ惚れと見上げたのを今も覚えている。
「………………サラ、考え事かい?」
「属性について考えていたの。…………前に通っていた学院に、アーサーを女性にしたような素敵な上級生がいて、私はその人のようになりたかったわ……………」
「……………ほお、アーサーの女性版か…………」
「……………兄さん、こっちを見ないでくれるかな……………」
その返答に何を思い浮かべたのか、ジョーンズワースの兄弟は遠い目をしてしまう。
サラは、本当に素敵な女性だったのだと、慌てて説明しなければならなかった。
クリストファーが大きな魔法瓶を傾けると、からりと氷が鳴る音がする。
小さめだが上等そうなグラスにレモネードを注いで貰えば、木漏れ日の下できらきらと光った。
その美しさに目を輝かせ、サラは冷たいレモネードをごくりと飲む。
すると、爽やかな酸っぱさと甘さに、幸せな気持ちになった。
「………………美味しい」
「そうだろ。エマのレシピは最高なんだ」
「エマは、レモネードまで得意なのね……………!」
きりりと冷えた美味しさに頬を緩めてそう呟くと、なぜかクリストファーはアーサーの腕をつついている。
「……………なんだい、兄さん」
「めちゃめちゃ可愛いじゃないか。俄かに妹が出来たような気分だぞ。何でお前は、もっと早くに俺を誘わないんだ………………」
「……………まったく。兄さんが、そうやってはしゃいで、連れ回しかねないからだよ…………」
「そうか。お前が独り占めしてたわけだな」
「割合で言えば、ダーシャが一番かな。何しろ、何回もサラの家に泊まってる」
「……………ブニャ」
「そうか、お前も裏切り者か」
「ブニャゴ」
「なんだ、反抗的な目をしたな?」
そう笑ってダーシャに手を伸ばし、クリストファーはその手の甲を、毛むくじゃらの短い足でべしりとやられていた。
こうして攻撃されてしまうのは、クリストファーがすぐにダーシャをひっくり返そうとするからで、ダーシャはお腹を出されてしまわないように、とても警戒している。
「クリストファーは、ダーシャと仲が悪いの…………?」
「ダーシャなりに、男の矜持に触れるんだろう。何しろ、俺は、撫で始めたら三分で寝かしつける自信がある」
「…………………ブニャ」
「まぁ、クリストファーは、猫を撫でるのが上手なの?」
「兄さんは上手いよ。……………というか、もはや寝かしつけの攻撃に近い」
「攻撃………………」
「犬も得意だぞ。……………ん?馬も得意だな…………」
「凄い、魔法の手なのね……………!」
「ブニャ?!」
そこで、目を丸くしたサラに見本を見せようと、クリストファーはダーシャを素早くひっくり返してしまい、抵抗も虚しくお腹をわしわし撫でられたダーシャは、すぐさまとろんとした目になって、そのまま蕩けるように幸せそうな眠りに落ちた。
「………………寝ちゃったわ………………」
「日陰に入れておいてやろう。熟睡したままそこに伸びていると、日干しになりそうだな…………」
そう笑ってダーシャを移動させているクリストファーは、サラには少し大人に見える。
父とアーサーの中間くらいの年齢で、アーサーよりは自然に甘えられそうな、不思議な大らかさがあった。
友達と言えばアーサーなのだけれど、クリストファーは年長者という感じがする。
にっこり笑えばはっとする程に魅力的な男性だが、謎めいた雰囲気や、危うさのようなものは微塵もない。
ぶーぶー鼾をかいているダーシャを撫でながら、日向で青々と育つ木々のような微笑みで、サラに乗馬クラブでの面白い話を聞かせてくれた。
(顔全体でにっこり笑うところが、少しだけオードリーに似ているわ……………)
そう思うと懐かしい感じもして、サラはあっという間にクリストファーとも仲良しになった。
アーサーには浮気者めと詰られたが、そんなアーサーの口調が柔らかいのは、彼自身が兄のことを大好きだからだろう。
三人はその後、午後には裏手の川に魚釣りに出かけた。
クリストファーは、車を出してどこかに連れていってあげようかと言ってくれたが、サラは、父に家にいると約束していたので、また今度という話になる。
夕方までたっぷり遊び、クリストファーは三匹、アーサーは四匹の鱒を釣り、釣竿を貸して貰ったサラは小さなチャブを釣ってしまい、美味しくない魚の出現に渋面になった。
「………………むぐ」
「はは、ここで俺達より大物を釣らないのが、サラのいいところだな」
しょぼくれたサラを、クリストファーはそう慰めてくれたが、最初にクリストファーが釣り上げた鱒を見た時から、香草の香りがする美味しいバターソテーを頭の中に思い描いていたサラは悲しかった。
二人はいとも簡単に釣り上げているような気がするともう一度頑張ってみたが、またしても釣り上げられたちびこいチャブの姿に心が折れてしまい、打ちひしがれて諦めることにする。
「ほら、これがサラの分だ。重たいから、厨房口まで運ぶよ」
「……………アーサー?」
「我が家も、人数分を越えると少し多いからね。二匹は君に引き受けて貰わないと」
「……………くれるの?」
「鱒は好きかい?」
急に持ち込まれる鱒が七匹もいるとさすがにエマが大変なのでと、アーサーの釣った鱒の中の二匹が、サラにお裾分けされることになった。
アーサーが自宅から持ってきたもう一つの青いバケツに入れて貰った立派な鱒を見て、サラは、喜びに頬を緩める。
「バターソテー……………」
堪えきれずに万感の思いでついそう呟いてしまい、その呟きを聞き逃さなかったアーサーが小さく吹き出した。
はっとして口元を覆ったが、乙女らしからぬ残念な言葉は、既に二人に届いてしまったようだ。
サラは、恥ずかしさに真っ赤になってしまい、そんなサラを見たクリストファーが、俺達の妹は可愛いなぁと笑う。
ダーシャは、ジョーンズワース家のバケツにへばりついて、立派な鱒を凝視していた。
「おやまぁ、宜しいんですか?」
「大漁だったからね。急に持って来て、迷惑ではないかい?」
「勿論ですよ。旦那様も好きですから、喜ばれるでしょう」
「それを聞いて安心した」
立派な鱒を厨房口で受け取ったベサニーは、まぁまぁと笑顔になる。
夏の夕暮れの青さに目を細め、草むらで鳴いている虫の声を聞きながら、サラは、隣の家に帰って行くアーサーに手を振った。
アシュレイ家との境界のあたりで待っていたクリストファーも、遠くからこちらに手を振ってくれる。
花盛りの夏の庭は美しく、ゆっくりと秋や冬に向かうその盛衰の翳りを帯びながらも、まだまだ幾つもの花を豊かに咲かせていた。
(………………あ、)
家に帰り、せっかくなので夕飯は鱒の香草バターソテーにしようと言ってくれたベサニーに力強く頷いてから、サラは、アーサーにハンカチを返しそびれたことに気付いた。
洗濯して綺麗にアイロンをかけてはあるが、まだあのコロンの香りが微かに残っているような気もする。
でもきっと今日は、アーサーだって釣りでくたくたになっている筈だ。
また明日返しにゆこうと思い、サラは大切なハンカチをポケットから取り出し、部屋にある書き物机の上に、そっと置いておいた。
その夜は、香草の香りが素晴らしいバターのじゅわっと染みた美味しい鱒のバターソテーを夕食にいただき、サラは、大満足の幸福な日曜日を終えた。
楽団の仕事に出ていた父も、夕方過ぎに帰ってきて、美味しい鱒料理に幸せそうな顔をしている。
アーサーとクリストファーが釣った鱒を分けてくれたのだと言えば、ふつりと瞳を細めて、安堵の色をした優しい微笑みで頷いてくれた。
ベサニーやノンナに、こんなお菓子を作って貰ったと自慢しても同じような顔をするので、自分が不在にしている間に娘を庇護する大人達が近くにいることが、家を空けがちな父にとっては嬉しいのだろう。
それは、サラが呪いの方を向いていないという安堵かもしれず、せっせと呪いを解く為の調べものを進めているサラは、少しだけ後ろめたくもある。
(川が通っている町や、橋もたくさん調べたし、川上にあるお屋敷で妹さんが働いているベサニーから、幾つか土地のお祭りの話も教えて貰ったわ……………)
こんなに美しい一日があるのだから、きっとこれからは幸せになれる筈だ。
そんなことを考えて、サラは胸がほかほかする。
そうして、その日曜日は、優しく楽しく過ぎていった。
就寝時に、窓からお隣のジョーンズワース家の窓明かりを眺めれば、家々の後ろ側を流れる川の、ここからは聞こえる筈のないせせらぎが聞こえるような気がする。
三人で過ごした川辺の明るい日差しを思い出し、少しだけ熱を残したままの頬に手を当てた。
(日焼けしちゃったかしら…………?)
自分だって鱒を釣りたいのだと、ついつい帽子を外して奮闘してしまった時間もあり、頬の熱が引かないようであれば、姉が残していった薔薇水でコットンパックをした方がいいかもしれない。
庭のガゼボでお茶をした後には、オードリーは、サラにも必ずお気に入りの薔薇水でコットンパックをしてくれたので、唯一サラが知っている女性らしい嗜みとして、この家にも大きな青い瓶で残されている薔薇水でコットンパックをすると、何だか大人びた気持ちになる。
(アーサーに、頬が赤いねと言われたら嫌だもの…………)
そう考えて微笑み、いつもよりずっと早く眠ってしまったサラは、その日の夜遅くに、ジョーンズワース家に忙しなく出入りする人々の気配には気付かなかったままだったのだろう。
夢の中でサラは、見事な歌劇場に立っていた。
そこは、見たこともないくらいに壮麗な劇場で、魔法にでもかけられているかのように、天井のどこからか、はらはらと淡いピンク色の薔薇の花びらが降る。
そこで歌うのは誰だろう。
そう考え目を凝らしたが、どうやら有名な歌手ではなさそうだ。
けれども、見たこともない一人の少女がそこで歌う姿に、サラは不思議な幸福感で胸が一杯になった。
決して抜きん出た歌声ではなかったものの、胸を打つ歌声に、舞台が終わると立ち上がって拍手をする。
すると、はらはらと降り積もる薔薇の花びらが真っ白な雪に変わってゆき、サラは、そこがいつの間にかクリスマスの歌劇場になっていることに気付いた。
劇場のあちこちには本物の薔薇が絡み、見上げたロージェの天井にも、屋内の筈なのに森の影が揺れる。
お伽噺の中に出てくるような魔法の劇場の姿にうっとりとしつつ、大勢の人々の喝采を耳の奥に聞きながら、目を開いた。
「…………………ほぇ」
その圧倒的な美しさにくらくらしながら最高の気分で目を覚ますと、サラは、自分を揺り動かして起こしているのが大きな父の手であることに気付いて目を瞬いた。
「お父様……………?」
まだ完全に覚醒しきれていない意識の縁でそう尋ねながら、酷く暗い父の眼差しに気付いたサラは、胃が下がるような思いがする。
こんな目をした父を見るのは、初めてではなかった。
最後に見たその時に父は、オードリーと叔母が亡くなったことをサラに伝えたのだ。
「……………ジョーンズワース家で不幸があった。サラ、支度をしなさい。私達は、オードリーの婚約の件があるから、葬儀に顔を出す訳にはいかない。せめて彼等が家を出る前に、お悔やみを言いに行くよ」
「………………っ、」
(…………ふこう?)
心臓が潰れそうな思いで、サラはゆっくりと体を起こした。
こんな季節なのに指先は氷のように冷たくなり、震えてしまって上手に動かすことが出来ない。
「……………お父様、……………その、誰が……………」
「リチャード氏だ。アーサーの父君だよ」
「………………………そんな、」
アーサーではないと安堵しかけて、それでも苦しいと眉を寄せた。
誰でも嫌だ。
誰だって、失われて欲しくない。
アーサーは勿論であるし、ダーシャも、クリストファーも、ジョーンズワース夫人も。
サラは、アーサーの父のことはあまりよく知らなかったが、挨拶をしたときにはとても穏やかに微笑みかけてくれた。
(………………アーサーは、……………)
アーサーは、どんな思いでその訃報を聞いたのだろう。
つい昨日まであんなに穏やかな日々が続き、立派な鱒を釣り上げたばかりだ。
昨晩ということは、あの鱒は結局、ジョーンズワース氏が食べることはなかったのだろうか。
(せっかく、アーサーとクリストファーが釣ったのに…………)
思考が、とりとめもなく散らばる。
ぐらりと体が揺れてそのまま倒れてしまいそうになれば、サラの肩に手を伸ばして支え、父は一度、ぎゅっとサラを抱き締めてくれた。
「………………まだサラには辛いかもしれないな。私が一人で…」
「行きます!…………だってアーサーが、…………あのお家の人達も、泣いているのかもしれないもの…………」
痛みを堪えるように俯いた父にきっぱりそう言うと、サラは、まだふらついてはいたものの、しっかりと起き上がって猛然と支度を始めた。
心をがつんと殴られてしまったような衝撃があって、これから、大好きな人達の悲しみに暮れる姿を見るのだと思えば、息が止まりそうになる。
でも、行かなければならない。
大好きな人達だからこそ、葬儀には出られないとしても、しっかりとお悔やみを言いに行かなければ。
昨晩の内にその報せを受けた父は、その時にサラを起こすのはやめて、早朝に起こすことにしたものか、まだ窓の外は暗かった。
微かに森の方から鳥の鳴き声が聞こえてはいたが、殆ど夜と言ってもいいくらいだ。
その薄暗い洗面室で、サラは冷たい水で顔を洗って髪を整えた。
(さっきまで、あんな美しい夢を見ていたのに……………)
今は息を吸うのも苦しくて、無理矢理酸素を呑み込んでいるような思いだ。
胸の底の方に凝った重苦しさが弾けてしまったら、体の内側が涙でひたひたになって、堪えようもなく溢れ出してしまうだろう。
(お母様の時と同じ。…………オードリーや、叔母様の時と……………)
でも、今、誰よりも苦しんでいるのはジョーンズワース家の人達だ。
あんな風に、まだ子供のサラにさえ分るくらい、あたたかな家族だったのに。
ましてや、一家の主人が亡くなるということは、とても大変なことではないか。
「……………っく」
涙を飲み込み、唇を噛み締めて部屋に戻ると、夏の始まりの頃に着たばかりの喪服に着替える。
ひんやりとしたその布地に鳥肌が立ち、そんなことでこぼれそうになった涙を、また飲み込んだ。
(……………っ、)
その時、ガラガラと大きな音が聞こえてきて、サラは、カーテンをめくって外の通りの方を覗いた。
すると、どうやら表の通りに真っ黒な大きな馬車がやって来ているようで、ここからも少しだけ馬車の屋根の部分が見える。
葬儀に向かう馬車だろうかと考えてカーテンを閉じようとしてから、サラは、気付いてしまったことにひやりとした。
唐突に理解したその怖さに飲み込まれて、膝が震えてそのまま床に座り込んでしまいそうになり、しっかりとカーテンにしがみついた。
(……………まさか。……………だってそんな。ダーシャは、呪いの標的は、アーサー達の次の世代だって言ったのに……………)
真っ青になって階下に下りてゆくと、父は、気を紛らわせる為か、音楽を聞いていたようだ。
とは言えこんな朝に明るい曲を流せる筈もなく、沈痛な響きの宿る悲しいピアノの旋律に、サラはこちらを振り返った父に慌ててへばりつく。
「サラ…………?」
「………………お父様、アーサーのお父上は、……………もしかして馬車の事故で?」
「…………いや。車の事故だったと聞いているが、………………どうかしたのか?」
ふわりと娘を抱き上げ、心配そうに顔を曇らせた父に、ジョーンズワース家の呪いのことを話すのは躊躇われた。
こんな時でも不思議なことに、人間というものは、どこでも取捨選択をするらしい。
サラは、呪いのことを話して父に相談に乗って貰うよりも、今後のアーサーとの付き合いを禁じられてしまうことを心配してしまい、口を噤む。
「ううん、…………表の通りに大きな馬車が来ていたから、それで心配になったの」
「馬車が来ているのか?…………であれば、こんな時間だが、事故のことはあちこちで騒ぎになっているだろう。教会に向かう時間が早いのかもしれないな。……………サラ、そろそろ行こうか」
「………………はい」
何とか話を逸らしはしたが、サラの心の内側は、気付いてしまったばかりの怖さにぶるぶると震えていた。
ひたひたと、音もなく庭の薔薇が揺れている。
もう一度窓の外を覗いてみれば、今日は暗い霧雨の日であるようだ。
悲しげに窓を濡らす雨の滴に、ますます気持ちが暗くなってしまう。
『大丈夫よ。死神は、お母様が連れていってあげる』
ふと、遠い日の母の声が耳の奥に蘇り、サラは、慌てて先程まで見ていた美しい夢を記憶の棚から引っ張り出してきて、それで恐ろしく悲しい記憶に蓋をした。
表の門から出ると人がいるかもしれないということで、サラ達は庭からジョーンズワース家を訪問することになる。
出がけに電話をしていたので、了承は貰ってあるのだろう。
庭に面した扉を開けて、父の大きな手が、ばさりと黒い傘を広げる。
「馬車の姿はないようだが、行ってしまったのかもしれないな…………」
父がそう呟き、サラはのろのろと首を通りの方に向ける。
なぜだかその馬車がもういなければいいと思ってしまったが、黒い影は相変わらずそこにあった。
屋敷の敷地を囲む壁があるのでその隙間からではあるが、先程見た黒い馬車は、まだジョーンズワース家の前に佇んでいるようだ。
「……………お父様、あの馬車よ」
「サラ……………?」
けれども父は、サラが指差した方を見て、訝しげに首を傾げる。
傘の位置を動かし、表の通りを眺めるようにすれば、背の高い父はサラを濡らさないようにしてくれているせいで、肩の辺りが少し濡れてしまっていた。
薄らとけぶるようにして、暗い朝の光が空を微かに染め始める。
葬儀の日にぴったりな天気であったが、サラは、どこかで誰かが泣いているように思えてしまって、胸が苦しくて堪らなかった。
「……………サラ?馬車など、どこにも見えないが……………」
そう言われた瞬間の恐怖を、何と言えばいいのだろう。
未だ、表の通りに停まっている真っ黒な馬車がそこに見えているのに、馬車などいないと言った父の怪訝そうな瞳を、サラは生涯忘れられなかった。




