一輪の薔薇と小さな夜の女王のアリア
夜の歌劇場の迎賓室の裏側で、サラは小さな溜め息を吐いた。
お気に入りのドレスの裾はしゃわりと光る布地が裏にあてられていて、こんな薄闇に落ちる廊下灯の光で星屑のように光っていた。
そんな、ひとつ新しい発見をして嬉しい筈なのに、心はちっとも晴れなかった。
どうしてこんなに落ち込んでしまうのだろうと、拙い心をとても不自由に思い悲しくなる。
ジャンパウロがちびこいと言って当然だ。
サラの心は、こんなにもか細く幼い。
(……………でも、このドレスを着ているところを、アーサーに見せて、挨拶をしたかったわ…………)
父は綺麗だよと言ってくれたが、ジャンパウロには、将来性は買って貰えたものの、ちびこいと言われてしまった。
それが少しだけ悔しくて、アーサーが褒めてくれたら良かったのにと考えてしまったのだ。
そんな強欲なことを考えたから現実に足を取られたのだとしょんぼりしてから、アーサーからの厚意に甘えてしまっていた自分こそが我が儘だったのだと自分に言い聞かせる。
(予定のない日に構ってくれていたけれど、このようなところでは、アーサーにもアーサーの世界があって当然だったのだわ。…………それなのに、子供の私が何にも分からずに近付いたから、ああするしかなかったのかも…………)
隣人だからと甘え過ぎてしまったサラに、彼は、仕方なくサラの面倒を見るしかなかったのだろうか。
そう考えると堪らなく惨めになったので、とぼとぼと化粧室に向かうことにした。
冷たい水で手でも洗えば、気持ちもしゃんとするだろう。
「……………サラ、」
その時のことだった。
ふっと背後から歩み寄った誰かに耳元で名前を呼ばれたかと思ったら、その誰かの手が、サラの片腕の肘のあたりを柔らかく掴む。
ぎょっとして振り返ったサラの目に、オレンジ色の廊下のシャンデリアで逆光になった、アーサーの灰色の瞳が見えた。
いつもは下ろしている前髪は掻き上げられ、今日は綺麗に撫で付けられている。
先程は一目でアーサーだと分かったものの、こうして近くで見ると別人のようにも見えた。
思いがけない登場に目を丸くして呆然としている間に、ふんわりと手を掴まれて、けれども有無を言わせずに、サラはそのまま近くのバルコニーの方に連れて行かれてしまう。
「……………アーサー?」
大きなバルコニーへの扉は開いていて、煙草を吸う大人達が少しと、親密な語らいをしているらしい男女がちらほらといる。
ここは歌劇場の後ろにある公園に面しているので、さあっと肌に触れる夏の夜の風に、ライトアップされた噴水の水音が聞こえた。
そこまで来ると、小さく息を吐いたアーサーが、振り返っていつものように微笑んだ。
その眼差しがいつもの優しさであることに、サラは訳も分からずはっとして、息が止まりそうになる。
雪のように真っ白なシャツにクラヴァットを巻いたアーサーは、それこそ人ならざる者のように涼しげで美しい。
その時になぜそう思ったのか不思議なのだが、サラは、アーサーのその姿に、ふと雪深いどこかおとぎの国のような美しいところを思い描いた。
「ごめん。ほんの少しだけ、僕の釈明に付き合ってくれるかい?」
「……………お友達の方達はいいの?」
そう尋ねたサラに、アーサーは目を瞠った後に苦笑すると、これでわざとそう尋ねる訳じゃないんだからなぁと呟いた。
その呟きが何だか悲しそうだったので、サラはこてんと首を傾げる。
「彼女達については、父の仕事の関係で社交界ではそれなりに顔見知りだけれど、義理を果たして挨拶を済ませればもう二度と会いたくない友人だと言っておこうかな」
「…………アーサーのお付き合いしている方も混ざってないの?薔薇色のドレスの女の人は、とても仲良しそうに見えたのに…………」
「……………サラ、勿論そんな相手はあの中にはいないよ。それに、だからといって男性に恋もしない」
「……………むぐ」
ピクニックの日の悲しい話題を掘り返されて、サラはむぐぐっと眉を寄せた。
するとアーサーはなぜか、ほっとしたように微笑むではないか。
「サラ、さっきはごめん。突然そっぽを向かれて、酷く嫌な気分だっただろう。でも、あの時の僕の周りにいたご婦人達は、身勝手で残酷な噂好きばかりだ。僕と君が友達だと知ればまず間違いなく、面白半分に君を会話の輪に引き込んで、どんな失礼なことを言ったものか。…………せっかく会いに来てくれたのに、他人のふりをしてしまってすまない」
(理由があったんだわ…………)
どうやら、アーサーの言う釈明とは、その時のことだったらしい。
そんな釈明を聞いて、そして丁寧に説明して貰って、サラは思っていたよりもずっと安堵した。
それはそういうものだと、仕方ないと自分に言い聞かせようとしていたのに、アーサーがこうして理由を説明しに来てくれて、ほんとうに嬉しかった。
こくりと頷くとなぜか、誰かの煙草の煙が目に沁みたものか、じわっと涙目になってしまう。
すると、アーサーは珍しくおろおろしてしまい、今度お詫びに美味しい卵サンドを作ってくれると約束してくれた。
「卵サンドが食べられるなら、怒ってないけど許してあげる……………」
「君が怒っていなくても、僕には謝らなければいけない理由がある。今迄で一番美味しい卵サンドにするよ」
「…………ダーシャも一緒でいい?」
「勿論だ。最近、ダーシャに君を取られそうで少しはらはらするけどね」
そう言ったアーサーにぎくりとしたが、どうやらアーサーは、ただの猫としてのダーシャに対してそう言ったらしい。
微かな後ろめたさを感じながら胸を撫で下ろしたサラは、生まれて初めて、必要かもしれない秘密というものを自分ごととして知った。
アーサーに秘密は持ちたくないが、ジョーンズワースの呪いについて考えるのなら、ダーシャの存在に纏わる不思議は、打ち明けるにしてもかなり慎重にならざるを得ないものなのだろう。
「…………アーサー?」
「せっかくだからね」
ふいに手を離して何歩か下がると、眉を寄せたサラに、アーサーは小さく微笑む。
どうやら、サラの自慢のドレス姿をしっかり見てくれているらしい。
「今日はドレスなんだね。とても似合っているよ。君の屋敷の庭の色彩だけれど、前のワンピースとは少し違って、夜の庭の色かな」
「ええ!それがとっても嬉しかったから、あの庭の色を知っているアーサーにも、これを着ているところを見せたかったの」
こんなところがちびこいと言われてしまう理由なのかもしれないが、褒めて貰えてとても嬉しかったので、サラはついつい笑顔になってしまう。
アーサーは、そんなサラを見てはっとするほど柔らかく笑い、胸元に挿してあった真紅の薔薇をフラワーホールから引き抜くと、短い茎の部分をハンカチにくるんでサラにくれた。
受け取った薔薇を両手で持ち、サラはなぜ薔薇をくれたのだろうと首を傾げる。
「危うく、大切な友達に嫌われてしまうところだった。卵サンドが届くまで、これで許してくれるかい?」
「…………まぁ、それでこんなに綺麗な薔薇をくれるの?私こそ御免なさい、アーサー。お父様の関係でお付き合いが必要な人達なら、こんな風に抜け出してくるのは大変だったわよね………。私はもう父のところに戻るわ。アーサーも、あちらに戻って」
「はは、うんざりしていたから、いいきっかけになったよ。会場を抜け出して君と居たことが見付かると厄介だから、君をお父上のところまで送ってゆけないのは心配だけど、後ろから見ていてあげよう。誰かに君が攫われないように僕が目を光らせているから、安心していいよ」
「そんなこともあるの?歌劇場で攫われたら大変だわ…………」
歌劇場のパーティはなかなかに恐ろしいのだなと頷いたサラに、アーサーは目を丸くしてからくすりと笑うと、一輪の薔薇を手に持ったサラに優雅な紳士の礼をしてくれた。
「では、そろそろ戻りましょうか、レディ」
そう促され、やっぱりアーサーはちびこいとは言わないと、サラはすっかりご機嫌で父の元に戻った。
ばたばたと化粧室に向かった娘が、ご機嫌で戻ってきた上に、紳士物のハンカチに茎を包んだ真紅の薔薇を手にしているので、父は驚いたようだ。
「あのね、お父様。そこでアーサーに出会ったのだけれど、会場でのお知り合いの方達は………その、猛獣さんなので…………?…………害が及びませんよう、僕のことはどうぞお構いなくって…………。挨拶にも伺えないご無礼をご容赦下さいって言ってたわ」
サラがこそっとそう伝えると、父はふっと微笑んで深く頷いた。
どうやら、アーサーから、君のお父上であればこの謝罪で充分に分かっていただけるだろうという言葉は当たっていたようだ。
そんなやり取りを聞き、父の隣にいたジャンパウロは、ほほうと小さく唸って笑顔になる。
「ほお、これはいい候補者がいたもんだな。どの青年だか教えてくれれば、後で俺からも挨拶をしておこう。そういうことが分かる男は、万事において気が回る。いささかそつがなさ過ぎるのが難点だが、大事にしておかないとな」
「ジャンパウロ……………」
そう笑った今夜の主役は、他の取り巻きの人達を置き去りに、サラの父と二人でお喋りしていたようだ。
父からその青年はジョーンズワース家のご子息なので、おかしなことはしないようにと厳しく言い含められていたが、にんまり笑っているので少々怪しい。
サラは、アーサーは少し繊細なところがあるので苛めてはならないと言いたくてならず、困り顔でもぞもぞしてしまった。
そんな様子に気付いたものか、ジャンパウロがこちらを見て小さく笑う。
「安心していい。取って食いはしないさ」
「…………その、アーサーは、少し繊細なところがあるんです。ご挨拶なら、父にも一緒に行っていただいた方が、怖がらないかもしれません」
「…………サラ、それを本人に言ってやるなよ?それこそ、男は傷付きやすいからな」
ジャンパウロに厳かに注意されてしまい、そういうものなのかと、また新しい知見を得たサラは、目を瞠ってこくりと頷いた。
言ってしまってから、怖がるではなく、警戒しないという言い方をすれば良かったかなと思ったが、アーサーだってきっと、サラの友達だからという理由から今夜の主役に挨拶をされたら怖い筈だ。
とは言え、今夜のこの場にいるのであればジャンパウロのファンかもしれず、普通にお喋りを出来るのであれば喜ぶかもしれないと考えたのだが、上手く伝わっただろうか。
「サラ、サリノアを招待しておいたから、今度俺の家に一緒に来るといい。アイリーンの古い写真や、サリノアの写真を見せてやるからな」
別れ際、そう言ってくれたジャンパウロに、サラは目を輝かせて父を振り返った。
何やら複雑な顔をしているが、苦笑して頷いたので喜んでと返事をする。
これから先、喪ってしまった人との思い出はもう増えることはない。
であれば、そんな風にサラの知らない一面を見せてくれるのは、とても有難いことであった。
「ジャンは、奥方と離縁するようだ。彼は情深い男だが、自分の伴侶とはどうも相性が悪かった。…………そうなると、子供のいないジャンにはペペしかいなくなるからな。…………サラ、彼は賑やかな男だからこそ、孤独を不得手としている。彼がサラに手を差し伸べた時には、構ってやってくれ」
帰りの車の中で、父がそんなことを言った。
それはもしかすると言葉通りのものだったのかもしれないが、サラには、父が自分に何かがあった時に、サラがジャンパウロを頼れるようにしたのではないかという微かな懸念が過ぎる。
そう考えるとお腹の底がひやりとするような怖さがあったが、それよりも早く呪いをどうにかするつもりであるサラは、しっかりと自分の手を握り締めた。
父に何かがあるような歳まで、ダーシャはこちら側にはいられない。
だからサラは、あと二年の間にこの問題を解決するつもりでいるのだ。
家に帰ると今日の夜のお礼を父に言い、もう一度目を細めて微笑んだ父からドレスを褒めて貰った。
サラはアーサーに貰った薔薇を、まだ頑張るかなと思って小さなグラスに水を入れて挿しておき、萎れてしまうようであればドライフラワーにしようと一晩様子を見ることにする。
何となくではあるが、この薔薇はずっと取っておきたいような気がしたのだ。
窓辺の机の上に置いたそのグラスの横には、アーサーから借りた真っ白なハンカチが置かれていた。
本当はすぐにでも洗濯に出して、明日の朝までにはきちんとアイロンをかけてしまいたいのだが、今夜だけはここに置いて、微かに残る涼やかな柑橘系のコロンの香りを楽しみたかった。
実は、ハンカチがいい匂いだと喜んだサラに対し、アーサーは小さな秘密を教えてくれた。
他の同年代の男性達が楽しむような複雑な香りのコロンはどうしても好きになれず、アーサーは、必ず果実の香りを主としたものでないと使えないのだという。
上流階級の紳士達がコロンを嗜みとするこの時代、なかなか情けないことだと小さく微笑んで。
(だから私はその時に、実はダーシャは王子様だったのよって言いたかったわ…………)
でもそれが言えないのだから、サラはそろそろ覚悟を決めるべきかもしれない。
就寝の支度を整えてから、窓際のテーブルに飾った赤い薔薇を見ながらそう思ったのは、廊下まで追いかけて来てサラを気遣ってくれたアーサーや、自分に何かあった時のことまでを考えてくれている父に触れたからこそだろうか。
(私は、……………強くなりたいわ。もう何も、誰にだって奪われたくない)
良くないものなど、この手でくしゃりとやってしまえるくらいに強くなりたい。
本当は勿論、みんなで問題を分け合って一緒に解決してゆきたいのだが、出来ない事で足踏みしている時間は、きっと、怖いくらいにあっという間に通り過ぎてしまうだろう。
でもサラは、今の自分の手の中にあるものを、絶対になくしたくないのだ。
(ダーシャは、アーサーは避けたみたいだけれど、ジョーンズワースの家の他の家族や、私のお父様や叔母様、オードリーにも自分が見えるかどうか話しかけてみたって言っていた…………)
けれど誰もダーシャの姿を見ることは出来ず、やっと見付けたのがサラであるらしい。
つまり、今のサラの手の中にあるこの可能性は、それだけ希少なものなのだ。
この希望を無駄にせずに使いきって、せめて残されたものを喪わずに済めば、サラの世界はこの先もずっと優しいままでいてくれる気がする。
今宵の歌劇場で歌っていたジャンパウロや、他の歌い手たちの力強く美しい歌声を思い出し、サラはぶるりと身震いした。
音楽というものに何某かの力があるとするなら、それは人の心を動かす力なのだとサラは思う。
今夜聞いたばかりの生き生きとした音楽が体の中に響いている今こそ、自分の内側に灯された明るい篝火を強く大きくして、この決意が挫けないように育てておこう。
(夜の女王のアリア…………)
今夜聞いたその歌は、意識してオペラを聴かずとも有名な曲だが、決して優しい歌でも清廉な歌でもない。
それどころか、いっそ苛烈なほどに猛々しい復讐を誓う女王の歌だ。
けれど、言葉通りの心を持つことがないのだとしても、その歌声の力強さこそが、今のサラに相応しい気がした。
耳に蘇るのはぶ厚い経験のある有名な歌い手の磨き抜かれた歌声で、サラの声量では、その域にはまだ遥か遠く及ばないのは分っている。
(でも、歌いたい……………)
むずむずする思いに我慢が出来なくなり、サラは、寒くはなかったものの乙女の体裁としてせめてショールを巻き付けると、一階に下りて裏庭に続く扉を開けようとしてからはっとして踏み止まり、自室にいる父の元に戻って、どうしても夜の女王のアリアを外の空気の中で歌ってみたくなったので、ささっと歌ってから部屋に戻ってくる旨をきちんと伝えてから庭に出た。
(危ない!お父様をはらはらさせてしまうところだったわ…………)
突然のことに父は驚いていたようだったが、幸いにも父も、まだ眠らずに寝室で譜面を捲っていたようだ。
素晴らしい音楽を聴いた夜は頭の中で音楽が動き暗譜が捗るのだと聞いたことがあったので、そのような作業をしていたのだろう。
どんなに長くても三十分までだよと言いつけられはしたものの、音楽家としてこのような衝動には理解があるのも有難いことだと思う。
よくオードリーも、真夜中に庭で譜面と睨み合いをしていた。
叔母にいたっては、雰囲気作りの為に夜の散歩に出かけて人気のない公園で歌ってしまったこともあるそうで、さすがに危ないのでやめるようにと父に叱られていたのを見たこともある。
(確か、裏庭から川の向こう側の森の方を向いて歌うと、こちら側にはあまり声が響かないって……………)
そんな叔母の言葉を思い出し、さくさくと庭の下草を踏む。
瑞々しい下草には、細やかな青い花と白い花が咲いていて、夜の中でぼうっと浮かび上がって見えた。
夜露を纏ったふくよかな薔薇の蕾に、色味を違えた紫色のサルビアやカンパニュラ。
大きなライラックの木の影をくぐり、水音もしないくらいに静かに流れる川辺に向かった。
白薔薇の多い庭には、こんな夜も淡い光を宿すように見える花があちこちに見えた。
最盛期には及ばずとも充分な花明りになっていて、大きな木の影に見える細やかな白いものは、日陰なので遅い時期に咲いたマーガレットだろうか。
ふんわりと柔らかい靴裏の庭の感触に、緑を踏む匂い。
夜の空気を胸いっぱいに吸い込めば、この美しい庭もあの舞台の続きのような気がしてくる。
はやる気持ちを抑えながらちょうどいい場所を見付けると、すうっと息を吸い込んだ。
(これが、私の夜の女王のアリア)
久し振りにしっかりと歌ったのだと思う。
声が衰えてしまわないようにと毎日発声練習はしても、こんな風にお腹の底から歌ったのは久し振りだ。
歌い込んで歌い込んで最良の歌を歌う叔母のような歌い手もいるが、サラは、心が定まれば一回で望んだ歌声を出せるタイプであるらしい。
歌手としてはどちらが優れているということはないものの、叔母のように練習しただけの歌声を常に保てるという人の方が安定度は高く、割合としては多いのだとか。
でも今は、今の自分なりの心からの夜の女王のアリアを歌えた気がした。
好きな曲は他に沢山あるけれど、こんな夜だからこそこの歌でいいのだと思う。
掠れることもなく、音程が外れることもなく、張りのある深い音程を保ち、朗々と歌い上げてぴたりと音をしまえば、この上なく誇らしい夜の女王の気分でサラは胸を張る。
もしこの夜の森の向こうに、川沿いに面したところはアシュレイ家とジョーンズワース家の私有地であるのでいたら色々とまずいのは間違いないが、誰か夜の森を楽しむ侵入者がいたとしたら、こんな夜更けに夜の女王のアリアが聞こえてきてさぞかし恐ろしかったに違いない。
けれども思い切り歌ったサラはすっきりとした気持ちで暗い森を眺め、まるでここが大きな歌劇場の舞台であるかのように、深々と森に向かって一礼した。
けれどもそこで、予期せぬ控えめな拍手が聞こえ、サラはびゃっと飛び上がる。
「………………っ、……………アーサー?!」
「………僕と、ダーシャもいるよ。いや、……………君は、もの凄い歌を歌うんだね………………」
なんと、誰もいないと思っていた筈の森側に、ダーシャを抱いたアーサーが立っているではないか。
確かに、もう帰宅していていい時間だが、クラヴァットを外し、シャツの袖を捲っただけの姿でダーシャを抱いているところを見ると、帰ってきたその足で森に入ったらしい。
そんなところにいたアーサーも充分に不審なのだが、サラは、こんな夜中に騒がせてしまったという思いでいっぱいで、ぼぼっと頬まで赤くなってしまう。
「ご、ごめんなさい!誰もいないと思っていたし、こちら向きならお隣には聞こえないと思っていたの。まさか森の方にアーサーがいるとは思わなくて…………」
「いや、…………君の歌声があまりにも素晴らしくて驚いただけだから、謝らなくていいよ。あの後、すっかり煙草と香水の匂いに酔ってしまってね。夜の森を少しだけ歩いていたかったんだ。…………ああ、ダーシャは、万が一誰かに見咎められた時に、脱走した猫を連れ戻しに来たと言い訳をするのに必要な共犯者だ」
「…………ブニャゴ」
「ダーシャも、尻尾がけばけばだわ。…………怖がらせてしまったかしら?」
「猫にオペラはどうなのだろうね。でも、嫌がってはいないと思うよ。………喉を鳴らしていたくらいだし」
「………………それならいいのだけど。………………っ、やっぱり、恥ずかしい…………」
会話が途切れるとまた恥ずかしさでいっぱいになって、サラはあわあわしながら、逃げるように後ろに下がる。
川の向こうにいるアーサーは少し微笑んだようで、微かに首を傾げこちらを見た。
掻き上げていた前髪を崩したものか、はらりと額に落ちる黒髪が、妙に艶めかしい。
風に流されてきて夜空をまだらに覆っていた雲が晴れると、欠け始めている月の光を受けた水面がきらきらと光り、アーサーの瞳にも不思議な煌めきが揺れた。
「……………森の木の隙間から、歌っている君の姿が見えた時、眼差しや歌声までが、普段のサラが想像出来ないくらいにあまりにも鮮烈で驚いた。……………とうとう僕は、人ならざる者に出会ったのかと思ったよ」
「よ、夜の女王のアリアだもの。…………でも、おかしいでしょう?この年齢で、母親役の歌だなんて…………」
「そうかな。…………素人の僕が言えるようなことではないけれど、その役は見た目が年相応の女性である必要はないのではないかな。……………それくらい、君のアリアは、老成すらして見える苛烈さだった」
「ブニャ………………」
少し驚いたようにそんな風に言って貰えて、勿論嬉しくない筈もないのだが、サラにとっては密やかなる奮起の歌を守りたいと思っているアーサーに聴かれてしまったとことは、やはりかなり恥ずかしかった。
しどろもどろでお礼を言い、更にここでネグリジェにショールを巻き付けただけの姿であることも思い出し飛び上がると、サラは、愉快そうなアーサーの笑い声を背後に聞きながら、逃げ出すようにして屋敷の中に戻る。
(び、びっくりした!…………あんなところにいるなんて!!)
ぱたんと閉じた裏庭に抜ける扉を閉め、そこに寄り掛かってばくばくする胸を押さえる。
どうしてこんなにも恥ずかしいのかと思えば、こちらを見たアーサーの瞳にあったのが、混じりけのない称賛だけではなく、どこか途方に暮れたような不思議な色でもあったからだ。
そして、気恥ずかしさにへなへなになって戻ってきたサラは、最後の試練のように廊下で父に遭遇してしまう。
「サラ、開けていた書斎の窓から歌声が聞こえたのだが……」
「お父様まで…………!」
先程まで父がいたのは寝室だ。
わざわざ庭に面した書斎に行って窓を開けてしまったのかと驚き、思わずそう声を上げれば、父は生真面目な顔をして首を振る。
「庭の中だとは言え、夜なんだ。見ていないと危ないだろう」
「……………ふぁい」
「だが、素晴らしかったぞ。…………勿論、身内の贔屓目もあるだろうし、まだ音に厚みがないところや、解釈の独自さで好みが分れそうな部分もあった。しかし、それを補って余るだけの鮮やかさがある」
「………………歌手になる為にコンクールに出るようになったら、賞が貰えるかしら?」
「貰えるだろうが、その場合は曲を選んだ方がいいかもしれないな…………」
ここからサラの父はとても盛り上がってしまい、サラを、たくさんの譜面が揃えてある書斎に連れてゆき、この曲が良くてあの曲は向かないかもしれないなど、夜もだいぶ遅くまで色々と教えてくれた。
どうやらサラは、非日常を窺わせるような楽曲が向いているらしく、夜の女王のアリアは、思わぬ良曲の発掘だったようだ。
漸く部屋に戻って来たのは、随分と遅い時間であった。
(……………カテリーナを、死神に捧げる……………)
ベッドに横になってからふと、叔母の手帳に書かれていた、謎めいた記述を思い出した。
あの一文に関しては、言葉通りであればなかなかに危ういものであるからか、アーサーもダーシャも、難しい顔をして読んでいた部分だ。
アシュレイ家の呪いが一人の歌姫から始まったのならば、その謎を解き明かそうとしたのが同じように歌姫であった叔母だったことには、何か意味はあるのだろうか。
もし歌声こそがその呪いを打ち破る為の鍵になるのなら、技量を磨いておくのは悪いことではないのかもしれない。
そう考え、サラは目を閉じた。




