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音楽の帳と冷たい眼差し




サラはその日、父に連れられて近くにある大きな街の歌劇場に来ていた。



父の知り合いの、有名なテノール歌手の公演を観に来たのだ。


ジャンパウロというその男性は、元々は叔母の友人だったそうなのだが、サラの叔母は婚約破棄以降、男性との交流をあまり好まなくなってしまったので、以降は、その一件で彼の相談に乗ったサラの父の方と仲良くなったのだとか。


あまり国内にいることがなく、オードリーやアイリーンが亡くなった時にも海外公演に出ていたそうで、帰国後にお墓を訪れて立派な花を手向けてくれたと教えて貰い、サラは胸がいっぱいになった。



『今回は久し振りの国内での公演だから、歌い手を目指すサラには、是非に舞台を観においでとチケットをくれようとしたのだが、私の自慢の友人なだけでなく、彼は世界的なテノール歌手だ。だからこそ、チケットは代金を支払って買わなければ』



そんな風に話してくれた父に、サラは今夜のお出かけをとても楽しみにしていた。




アーサーに出会った葬儀の日の朝から、色々な事があった。


アシュレイ家の呪いは、いつの間にかきちんとした色と形を持っている。

であれば、この先どれだけ悲しい事があっても、素晴らしい音楽を楽しむという事までをサラが厭うことはないだろう。



(悲しくて苦しくて歌えなくなっても、私はずっと音楽を聴くことは好きだと思うわ…………)



それこそが、アシュレイ家の業のようなものなのだろうか。



けれども、美しく魅力的な音楽は、悲劇にだって褪せずに色付くことだろう。

現にサラは、姉や叔母が亡くなった後も、大好きなその二人の音源を何度も繰り返し聴いた。

寂しくて堪らない時だって、その間だけは涙が止まったのだ。




降車場に車が止まり、劇場の係員が運転手に指示を出してくれる。

サラと父はここで車を降り、歌劇場の外階段の前にある噴水を眺めながら入り口に向かうのだ。



(…………お父様は疲れていないかしら……)



ふと心配になって隣を見たが、幸いにも疲弊した様子はなかった。



今朝早くからお昼まで、サラの父は、警察に出かけていた。



姉と叔母が亡くなり、現場に残された遺品の検査が終わった後も、書類の回付を終えるまでは捜査終了とならなかったとかで、ようやく今日、管理されていた二人の遺品の引き取りが可能になった。



小さな箱に入って戻って来た品物を二人で整理し、サラはオードリーのお財布の中の、“今年のクリスマスにはサラにコートを買う!”という、猫の絵の添えられたメモを見て泣いてしまった。

父も、その二人の幾つかの遺品を手に暫く項垂れていたようだ。




その日に何が起こったのか、サラにも父にも、実は未だによく分かっていない。



現場に残されたものから判断されたことを事実として記録していても、実際には、まるで違うかもしれないのだ。

だからサラ達は、それはきっと、悲しく不幸な事故だったのだろうと考えることにした。



二人は、痛ましい事故で古い教会の塔から落ちたのだ。



アシュレイ家の呪いを恐れ、通院していた病を苦にしていたとしても、この家族を何よりもと深く愛してくれた叔母が、オードリーを道連れにする筈がない。

不幸にも無理心中という状況証拠が重なり過ぎてしまったが、そうではなかった筈だと家族だけは確信している。


寧ろ、サラのよく知るアイリーン叔母は、自分の命を盾にしても家族を守ってくれるような、力強くて優しい人だったのだから。



(だから、お父様は警察に対してあまりいい気持ちを持っていない。お姉様と叔母様の事故を、勝手に事件にされてしまったのだもの……………)



そこで何を思い、そして会話してきたのだろう。


警察から帰ってきた父は悲しい目をしていたので、サラは慌てて隣の庭との境目で日向ぼっこをしていたダーシャを捕まえてきて、そのけばけばの背中を撫でさせて貰うことにした。


察しのいい優しい友人は、驚いて目を瞠った父の足にブニャゴと鳴いてそっと体当たりをしてくれ、その背中を撫でて優しい猫だなと微笑んだ父の顔を見て、サラはますますダーシャが大好きになる。



(ダーシャがいてくれて、お父様が元気になって良かったわ…………)




そう考えて、初めて着るふくよかな菫色のドレスのスカートを指先で撫で下ろした。


灰色がかったくすんだ菫色のドレスは、サラが一目で気に入ってしまった、父からの特別な贈り物だ。


姉が家を出た後は、外で待ち合わせをして出かけるようになる。

そんな風に出かけるコンサートや観劇用にと作って貰ったものなのだが、女性的で品が良く可憐なデザインを見るに、姉か叔母が一緒にお店に行ってこの色と形を決めてくれたのだろう。



二人にも着て見せてあげたかったが、届いたのは、大好きな二人がいなくなってしまった、最近になってからであった。



今日のサラは、真っ白な髪をノンナに手伝って貰って複雑に結い上げ、ドレスと合わせて屋内でもそのままでいいデザインの、灰紫色の帽子をかぶっていた。


つばのない小さなドレス用の帽子の下の部分には、白い薔薇を模した髪飾りがついているので、サラの髪の白さがその花飾りで随分と目立たなくなる。

おまけに、ただ髪を隠す為のものという作りではなく、かぶるとこの上なく優雅に見えるのでサラを喜ばせた。


これさえあれば怖いものなど何もないような気持で、こつこつと歌劇場のファサードの大理石を踏み、大勢の観客達で賑わう見事な歌劇場を見上げる。



(何度来ても、立派で美しいところだわ…………)



ここは、王立の歌劇場だ。


歴史のある建物には、美しい天使と女神のレリーフが施され、アーチ状の入り口を囲む外向きの柱廊には、見事なシャンデリアが下がっていた。

正面の車寄せには高価な黒塗りの車がひっきりなしに出入りし、今宵の演目に合わせて雰囲気を高めようとしたものか、わざわざ馬車でやって来る者達もいる。



かつてはここで姉が華々しく舞台の中央を飾り、叔母は誰もが知る演目の女王の役を歌い上げてみせた。


父は現役でこの歌劇場を使うこともあるが、やはりここは、どちらかと言えば歌い手の為の劇場である。

今夜のように、オペラ歌手達を迎えての公演ともなれば、国内外から様々な著名人も集まっているようだ。



ふと、視線を感じて小さく息を詰める。



勿論、夕闇に包まれた壮麗な歌劇場のお客達にも、白髪のサラに気付いて眉を顰めるような人達もいた。


けれども彼等の大抵は音楽関係者であったので、サラの隣に立つ父の姿を見ると、居住まいを正して慇懃に頭を下げて挨拶をし、そそくさと立ち去っていってしまう。


そんな時は、サラは気付かなかったふりをして、父の手をぎゅっと握るのだ。

公演が楽しみでならないといった様子で、子供っぽい笑顔で見上げれば、青い青い瞳をした父は唇の端を持ち上げる独特の表情で、今も尚、艶やかな微笑みを向けてくれる。


しっとりとした生地の漆黒の燕尾服姿の父は、それはそれは美しかった。


この容貌で指揮棒を振るのだから、タクトを手にした父が絵のようでご婦人方の心を揺さぶるのだという評判はもっともだと思う。

音楽家としては内向的で気難しい部分もあるが、一度名を上げてしまった今は、多くの支持者や支援者たちが、アシュレイの呪いを気にすることなくサラの父を取り巻いている。



(それは多分、お父様の振る舞いにもあるのだと思う…………)



こうして公の場に共に来てみれば、サラの父は、アシュレイ家の呪いなどというものは、自分の履歴の片隅にも影を落とさない、取るに足らないものだという、泰然とした振る舞いが上手だった。


だからだろうか。

呪いに連れて行かれてしまったオードリーや叔母のことを、移り気な人々はさもいなかったかのように扱った。

でもそれは、彼等なりのサラの父との付き合い方なのだろう。


呪いに触れてしまえば、立ち去るか踏み込むかしかなくなる。

そのどちらもしたくない人々は、そんな悲劇など起こらなかったと言う風に、短いお悔みや型通りの季節の挨拶の後で、ささっと世間話に話題を振り替えるのだ。


大人の社交とはこういうものなのかと、そんな父のお喋りの邪魔をしないように控えめにしつつ、サラは、興味深く様々な人達の表情を見守る。



やっと劇場のエントランスを抜けて、父が小さく息を吐いた。

こちらを見て、心配そうに問いかける。



「サラ、立ち止まってばかりですまない。疲れてしまっていないか?そろそろ席に行こう」

「お父様は、もうお仕事のお話はいいんですか?」

「充分過ぎるくらいだ。今夜は、娘とゆっくり過ごしたいと言っておいたのだが…………」

「ふふ、でも楽団の方や、楽団の支援者の方と話すお父様は、音楽家という感じがしてとても素敵だと思います」

「……………サラ、急いで大人になる必要はないんだぞ」



学院で学んだ淑女らしい口調を心掛けていると、そう呟いた父に、握られた大きな手をぎゅっとされた。

その優しさに嬉しくなったが、サラにだって、アシュレイ家の小さな女主人としての誇りがあるのだ。



叔母や姉の分も、大好きな父を守ってあげなくてはならない。




「でも、こんな風にドレスを着て歌劇場にいるんですから」



そう微笑むと、父はくすりと微笑んだ。


外では滅多に見せない表情なのか、通りがかったご婦人方がおやっと目を瞠って頬を染めている。

元々排他的な美貌が年を重ねていっそうに鋭くなっているので、こんな風に笑うとたちまち身に纏う雰囲気が柔らかくなるのだ。



「そうか。ドレスの効果だったか」

「それに、今日は私がお父様のパートナーなのですもの。きりりとしていますね」

「では、早々にボックス席に入ってしまおう。夜の間中気を張っていると、せっかくの舞台の前に草臥れてしまうだろう」



サラは、レディとして振る舞う娘に対し、暗にあまり長くは保たないだろうという発言をした父にむむっと思ったが、これは父なりの気遣いなので、微笑んで頷くに留めた。


確かに、まだ社交界にも出ていないサラでは、大人の女性らしい上品な話し方には限界がある。

こうして優雅に振る舞えている内に、個室に避難してしまおう。



(でも何だか、……………私は、この世界の人達には見えない、魔術のかけらみたい…………)




父に挨拶をする人達は、サラからさり気なく目を逸らす。



礼儀を欠かない程度の挨拶の後、突然透明な存在になってしまったかのように、彼等はその意識からサラを消し去るのだ。



今迄ならそれが悲しかったと思うのだが、今のサラは、満月の夜に特別な友達と沢山お喋りをしたばかりだ。



ここではないどこかから迷い込んだ、元王子様な山猫の友人がいるサラに、怖いものなどあるだろうか。

それどころか、こんな風に透明な存在として扱われると、こちらの世界ではいたとしても誰の目にも映らないだろうという妖精や精霊になったような気分で、サラは、この人達は魔術可動域が低いのだから致し方ないのだと、ふんすと胸を張る。



多分、呪いというものもこういうものなのだ。



ダーシャ曰く、魔術の素養のない人達は、そのようなものに対する抵抗力がないのだとか。

それは、生まれつき体の弱い子供が寒さに敏感であるというようなことなので、彼等が、あからさまにアシュレイ家の呪いを避けていても、それは体が命を守ろうと必死なだけで、決して不自然なことではないのだと教えて貰った。



そんな説明を聞いて、サラの心はとても静かになった。



魔術に対する抵抗値の低い人達だから、その仕組みを知らなくても、無意識にそこから顔を背けてしまうのは当然のことだったのだ。



(そのことを、知る事が出来てとても嬉しかった…………)



サラにとって、他人と違うということは今迄は残酷なことだったが、ダーシャが新しく教えてくれた魔術の話の後は、生まれて初めて違う側からの目線で世界を眺められるようになった。



(みんなはもし妖精がいても見ることは出来ないけれど、私は、もし妖精がいれば見ることの出来る目を持っているんだもの。その分、私の家族は目に見えないものから、さわ…………障りを受けやすいけれど、お爺様のように祝福にしてみせた人もいるんだから!)




アーサーやダーシャが教えてくれたことは、サラの世界をたくさん変えてくれた。

そんな健やかさでこの素晴らしい舞台を観に来られたことに、今夜は心から感謝しよう。



(それでも、今も私は私の音楽よりも、お父様の方が大切だけれど、でももう、音楽そのものを憎むことはないわ。それに、呪いが怖いと思っても、心の中がただの真っ暗になることもないと思う…………)



あの夜のダーシャの言葉を思い出す。


父が奮発してくれたボックス席に入って、立ち上がり見下ろした先では、舞台の幕が上がり壮麗な演出が花びらを降らせていた。

華やかな音楽に恐ろしい大蛇に追われる王子が現われ、最初の歌が響く。



『ねぇ、サラ。今の僕にその呪いを紐解く力はないけれど、こうすれば触りを受けないという回避方法があったり、対価を取るけれど祝福もあるというような様々な面を持つ呪いは、理由さえわかれば手を打ちやすいものだと思うよ。…………厄介なのはね、どうであれ滅ぼすというような、悪意しか残らないものだ。…………それは例えば、ジョーンズワース家の呪いのように』



恐ろしい演出を見ていると、思い出されるのはそんなダーシャの言葉だ。

素晴らしい歌声に聴き惚れながらも、心の片隅であの夜に話したことを思う。



ジョーンズワースの呪いが馬車や火の絡む呪いだと聞いて、ダーシャは嫌な予感を覚えたのだと言う。

馬車は、品物を使う呪いの中でも、かなり周到な呪いの道具にされることが多く、火の系譜の者達は敵になるととても執念深いのだそうだ。



『だから、ジョーンズワースの家の呪いには、ひとまずあまり手を触れない方がいい。僕の見立てでは、標的になるのはアーサー達の子供の代だろう。素人がどうこう出来るものでは無いし、あの呪いは成就までは静かに息を潜めている代わりに、自分の獲物を奪う相手にはとても攻撃的だ』



わあっと、歓声が上がる。


薄暗い劇場の中で燦燦と光を浴びて、豪奢な衣装の夜の女王が歌っていた。

指先にまで染み入る素晴らしい歌声に胸を熱くしながら、あの夜のダーシャの言葉をぼんやりと考えては、また舞台の物語に魅入られる。



(獲物を奪う……………こと?)




印を残し、このような形で滅ぼすのだと宣言している呪いに対し、その獲物を損なったり奪ったりする行為は敵対行為とみなされるそうで、ダーシャのいたところでは、人ならざる者達がよくそのようなことで荒ぶったそうだ。



けれどそれを教えてくれたダーシャは、具体的に何がその部分に当たるのだとか、そういう話はしてくれなかった。


勿論それはジョーンズワース家の中の事であるのでサラには言えないだけなのかもしれないが、そうして口を閉ざしたダーシャの姿に、サラは微かな不安を感じてもいた。



(私の家の呪いは、上手に付き合えば回避出来るかもしれないけれど、アーサーの家の呪いは、難しい呪いなのかもしれない………………)



もしかしたら、ダーシャがサラの前に姿を現してもアーサーに会おうとしないのは、それも理由の一端だったりするのだろうか。

けれどそう考えると暗い気持ちになってしまうので、サラは、あまり深くを考えないようにして、その後は暫く贅沢な音楽の中に揺蕩っていた。



物語が進み、神々は人間に試練を与えるという。



意地悪な試練の中で恋人達は翻弄されるが、最終的には二人が試練を乗り越えるのが、今夜の演目の物語だ。

こうして、オペラの中にでさえ、人ならざるものの理不尽な縛りがある。

もしかするとこのオペラを書いた人にも、物語のような不思議な体験があったのかもしれない。



わぁっと、今夜一番の歓声が上がった。



物語が終わり、ジャンパウロの久し振りの国内での公演に人々は熱狂し、立ち上がって拍手を送る者達も沢山いる。


今回は、あえて特別に彼の配役が優遇されるような構成ではなく、彼の意向で様々な歌い手に見せ場のあるような、人気のある演目が選ばれたのだとか。

見応えがあり、様々な歌声が聴けたので、サラは、とても贅沢な気持ちでふすんと息を吐いた。



歓声と拍手の中でカーテンコールが行われ、華やかで圧倒的だったオペラの幕が閉じてゆく。


光を浴びた舞台の上の煌びやかさに、客席を色とりどりに染め上げる観客達の服の色。

見上げた天井には壮麗な天井画が描かれ、素晴らしいシャンデリアが下がっている。

けれどもやはり、明るくなった歌劇場の客席側は舞台より一段階仄暗く、そこにこっくりとした深い赤色の絨毯が敷かれることで、薄闇で咲く深紅の薔薇のように鮮やかな色を添えていた。


サラと父もボックス席の中で立ち上がって拍手をし、見間違いでなければ、ジャンパウロ氏はこちらに向かって優雅にお辞儀をしてくれたような気がする。

その後は座席に残って今夜の舞台の感想を言い合いながら楽しく時間を潰し、帰路につくお客が落ち着いてから、歌劇場内部で行われる演者達を含めた簡単なパーティに向かった。



パーティといっても、劇場内にある迎賓室で行われる打ち上げのような簡単なものだが、ここで演者達は、土地の支援者や劇場関係者達に挨拶をしたり、自分を売り込んだりもするらしい。


父が、せっかくなのでとサラにもそのような世界を見せる為に招待して貰ったそうだが、気疲れしてしまわないように、三十分くらいで切り上げる予定であった。




「…………凄い、有名な方がたくさんいるのね」



会場に入ると、サラは豪華な顔ぶれに目を丸くした。


今夜の舞台に登場した演者達は勿論だが、有名な音楽家達もそこかしこにいて、しゅわりと泡の立つシャンパングラスを持って、楽しげに歓談している。

女性達は華やかなドレスを着ており、男性達も優雅なドレスシャツや燕尾服などで盛装している者が多いようだ。



「やあ、サリノア。来てくれたのか。…………サラは、赤ん坊の頃ぶりだろうか」



会場に入ると、とりわけ人が多かった一角にいた背の高い男性が振り返り、ジャンパウロはすぐにこちらに来てくれて、サラにまで親しげに声をかけてくれる。


サラの父もある程度は名前の知られた音楽家であるので、今宵の主役の周囲を囲んでいた人垣はふわりと緩んだ。


どうやらこのような場では、暗黙のルールのようなものがあるらしい。


参加者達の中には、身分とは別のある程度の階級のようなものがあって、今夜のこの場で自由に振る舞うことを許されているのは、ジャンパウロやサラの父のような、ある程度の知名度を誇る音楽家であるらしい。

奥の方で身振り手振りも派手に笑っている夜の女王役の女性も、その一人だろうか。



突然今夜の主役に歩み寄られてしまい、サラは慌てて背筋を伸ばした。

てっきり初対面だと思っていたのだが、なんと、赤ん坊の頃に会ったことがあるらしい。



「今夜は素晴らしい公演を…」

「はっはっは。そういう称賛はもう満腹だからな!気さくに話しかけてくれ。俺の陰気な友人の愉快な秘密があれば大歓迎だぞ。そうだな、………まずは俺が、サラにサリノアのとっておきの秘密を教えてやろう。こいつは涼しい顔をして、オードリーとサラの子供の頃の写真を、何枚も何枚もしつこいくらいに手帳に挟んでいるんだぞ」

「ジャンパウロ!」

「お、お父様が……………」



唐突に秘密を暴露されてしまい、サラの父は目元を微かに染めて友人を睨んでいる。

愛情深い人であることは知っていたが、その秘密を初めて知ったサラは、思わず父の顔を見上げてしまった。



「……………娘達だけじゃない。妻の写真も持っている」

「おいおい、そう反論するとか、どれだけなんだ!はは、相変わらずサリノアは面白いな」

「君だって、愛犬の写真を片時も離さないじゃないか」

「そりゃあそうだ。おっかない妻の写真より、誰よりも俺を愛してくれるペペの写真が何よりもの癒しになるからな」

「……………さては、また何かして細君を怒らせたな」

「おっと、そこから先はここでは話せないぞ。久し振りに会えたサラに、なんて軽薄な男だと軽蔑されてしまうだろうが」



大真面目にそう言ったジャンパウロに、父は片手を額に当てて小さく溜め息を吐いている。


気を許した友人同士のやり取りを見て、サラは唇の端を少しだけ持ち上げた。

こんな風に父がお喋りをしているのは、何だか新鮮で素敵だった。



(こんなお父様の顔は、初めて見たわ。お父様ととても仲良しみたい…………)



そう思ってほこほこする胸を押さえて二人を見ていると、不意にチョコレート色の瞳をふわりと優しく細め、ジャンパウロがサラの肩に手を乗せてくれた。

ずしりとした温かな手の温度に、何やら問題もありそうな人だが、とても優しい人なのだろうと、その目を見返す。



「サラは、まだコンクールには?」

「いえ、小さな頃には幾つか出ましたが、それ以降のものはまだ出ていません。父から、ある程度の年齢までは、一つの分野に固執せず、様々なものを見て内側に蓄積してゆく時間だと言われています」



音楽の話が始まり、サラは表情を引き締めた。

これだけの人とこのような会話が持てるのが、どれだけ貴重なことかはサラにも理解出来る。



「成る程。絶対的な才能の下地があれば、それが正解かもしれないな。俺達のような商売は、どれだけ才能があったとしても、唯一無二の楽器になるか、ただの綺麗なオルゴールになるかの道が、必ずどこかで分かれる。型どおりのものを歌って評価を得るのも大事なことだが、歌というものは感情を音に乗せるものだ。大人に比べると圧倒的に経験の足りない若い歌い手は、その経験不足を逆手に取って、受け取る側でいる時間を増やすのはいい手法かもしれん」

「……………歌い手でないことを、経験にするのですね」

「おお、さすがサリノアの娘だな。こんなにちびこくても、勘がいい」



自慢のドレス姿でちびこいと言われたサラが絶望の目になると、おやっと目を瞠ったジャンパウロは、すぐさまにっこり笑い、ばちんと派手なウィンクをしてくれた。


ノンナと同じ国の出身である彼だが、一族の後継を巡る問題などの事情があったそうで、今は国籍をサラ達の国に移している。

とは言え、ノンナにも感じるような南洋の明るい海と太陽を思わせる笑顔は、この国ではあまり見かけない力強さのままで、はっと目を惹いた。



「安心していい。まだちびこいが、お前さんはとびきりの美女になるぞ。この通り、俺は美女を探し出すのは得意だからな。あと何年かすると、男どもを騒がせてサリノアを青くさせるようになるんだろうなぁ」

「……………娘に余計なことを教えるのはやめてくれ」

「恋を知らなきゃ、恋の歌は歌えんぞ。サラは、たくさん恋をして、男どもの心を気儘に引き千切ってやるといい」

「ひ、引き千切る…………のですか?」

「そうさ。恋の勝者になるのは女達の特権だ。その代わり、恋に破れて自棄酒を飲むのは男の特権として取っておいてくれ」



からりと明るくそう言ってのけたジャンパウロに、周囲にいた人々が笑顔になる。

サラの隣で、無言で首を横に振って見せた父の生真面目な表情が、ジャンパウロのお蔭で何だか微笑ましく見えてしまうのだから、何とも圧倒的な場の掌握力ではないか。



(明るくて優しくて、強くて美しい笑顔と声を持っていて、何だかお日様のような人だわ……………)



今度は他の音楽関係者も引き入れ、ますますその太陽は明るく輝くようだ。

ジャンパウロの輪の中ならば行けるかもしれないと、どさくさに紛れてサラの父に話しかけている、若い指揮者志望の青年などもいる。




(……………あ!)




「……………お父様、アーサーがいるの。挨拶をしてきてもいい?」



そんな中、サラは人並みの向こうに、思いがけない人を見付けてぱっと笑顔になった。



そこに居たのは、漆黒の盛装姿のアーサーで、どうやら彼も今夜の公演とこのパーティに招かれていたらしい。

サラの言葉に、父もおやっとそちらを見た。

アーサーが話しているのは、この歌劇場の関係者だという初老の男性で、先程サラの父にも挨拶に来てくれた人だ。



「彼は、地元の有力者のご子息として、劇場の関係で招待されていたのかもしれないな。私も一緒に行こう」

「おいこら。サリノア、俺の話を聞いてなかったのか。恋をさせろ、恋を」

「……………ジャンパウロ、あの青年は、隣の家の……………その顔をやめてくれ」

「伝わっていないようだから、表情で示してみたぞ。過保護過ぎる友人が、娘の友人との語らいを邪魔しているのを見付けた時の顔だ。後で挨拶に行くにしろ、まずは若い者同士で話をさせてやれ」

「…………………あ、あの………」

「ほら見ろ、サラは驚いているじゃないか……………」

「サラ、せっかく綺麗なドレスなんだ。あの青年に見せつけてくるといい。まだまだちびこいが、何事も経験だからな!」

「ちびこい………………」



二度目のちびこい評に愕然としたサラは、騎士の面持ちで父に凛々しく頷いてみせ、自分だって一人でアーサーに挨拶に行けるのだと胸を張った。



なぜか父はがくりと肩を落としているが、がははと笑ったジャンパウロに肩を組まれてしまっている姿はとてもほっこりしたので、サラは、大事な父はこの素敵な歌い手に有難く預けさせていただくことにする。



(…………アーサーも来ていたなんて)



確かにサラにだって、お気に入りのドレスを着ているのだから、友達に是非に見て欲しいという気持ちはある。

恋については時期尚早だと先日判明したばかりだが、ドレス姿を見せるくらいの女性らしさは持ち合わせているのだ。



お酒も入り上気した頬で語り合う人々の波を早足で抜けると、先程アーサーが立っていた辺りに出た。


しかしそこにはもうアーサーの姿はなく、サラは首を傾げる。


声をかけ損ねている内に帰ってしまっていたらどうしようと思いながら視線を巡らせると、反対側で同世代であろう女性達に囲まれたアーサーを見付けた。




(まぁ………………)



目を瞠って、その華やかな一団を眺めた。



アーサーを取り巻くのは、サラからすれば充分に大人に見える美しい女性達ばかりで、中にはサラにも分るくらいあからさまに、アーサーにしなだれかかっている女性もいる。


アーサーに限らず、人生で初めてこのような光景を見てしまったサラは、びっくりしたままその様子をまじまじと凝視するばかりになってしまう。




「あ、………………」




その時、アーサーの灰色の瞳がこちらを捉えた。



気付いてくれたので挨拶だけして帰ろうとほっとしたサラだったが、アーサーはいつものように優しく微笑んでくれることはなく、その美貌が冷酷に見える程の鋭い眼差しでサラを一瞥すると、興味なさげにすいっと視線を外した。



アーサーの腕に手をかけた、見知らぬ誰かのドレスの裾がふわりと揺れる。

その艶やかな薔薇色の優雅さに、取り残されたサラは目を瞬いた。



呆然としているサラに背を向けて、アーサーは、女性達に囲まれたまま飲み物のあるテーブルの方に行くようだ。


その横顔は、どこまでも他人行儀で酷薄で、振り返る気配は微塵もない。





(……………今、…………目が合ったのに)




明らかに目が合ったのに一片の揺らぎもなく素通りされたことに、サラの未熟な心はかたかたと震える。


しっかり目が合う感覚があったので、それを何かの間違いではないだろうかと考える程に愚かではないが、こうも冷たく、残酷なまでに見なかったことにされた理由が皆目分からなかった。



(……………私が、アシュレイだから?それとも、こんな風に…………ちびこくて、アーサーの方が大人だからかしら…………)



そう考えると惨めで悲しくて、胸の奥がおかしな音を立てる。



とは言え、このまま立ち尽くしている訳にもいかずにとぼとぼと来た方に戻りかけ、こんな表情では、あのジャンパウロにすぐに気付かれてしまうに違いないとひやりとする。



(何よりも、せっかく連れて来てくれたお父様に、落ち込んでいると思われたら嫌だな…………)



父もそれなりに鋭い人だと思う。

指揮者として、周囲の人達の表情を伺うことには長けている筈だ。



あんな風に張り切って挨拶に出かけておいて、こんなことで心配をかけてはいけないと、サラは慌てて自分を叱り飛ばした。


元の場所に戻ると、サラは、まだ先程の輪の中にいた父に、アーサーは他のお客様に囲まれてしまっていて自分一人では近付けなかったと伝えた。


ふっと心配そうな顔をした父には、後で一緒に挨拶に行って欲しいと伝えることで、特に気にしていないのだという顔をしてみせる。



「お父様はここにいらして。私はちょっと、…………化粧室に行ってきますね」

「…………サラ、一人で大丈夫か?」

「まぁ、お父様でも、化粧室はついてきては駄目よ?」

「…………あ、ああ。気を付けて行っておいで。ここにいるから」



娘にそう窘められてしまい、慌てたように頷いてくれた父に微笑みかけ、サラは、お気に入りのドレスの裾を持って部屋を抜けると、奥の扉から、照度を落として化粧室へと続く薄暗い廊下に出た。



薄暗い廊下に出たところで一人になると、ふうっと深い溜め息を吐く。




「……………っく」



アーサーが目を逸した時、まるで大切な友情からも顔を背けられてしまったようで、何て身勝手なのだろうと思いながらも、とても悲しかった。



(やっぱり、私はまだまだ子供なのだわ………)



そう考えるととても悲しくなり、サラの心は、呆気なくくしゃくしゃになった。









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