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オイの名前

作者: とみた伊那

僕=犬という設定で練習として書いてみました。

「本気だよ、サトル。あんたが死んだらあたしは、この家を出ていくんだからね。今はサトルが可哀そうだから、この家に居てあげてるだけ。ねえ、サトル。早くあたしを自由にしておくれ。一体いつ死ぬの」

オイは毎日僕に向かってそう言う。僕が死ぬのを待っている。

 でも僕はオイのことが嫌いなわけではない。むしろ世界で一番オイが好きだ。オイは言葉では僕が死ぬことを望んでいるが、僕の世話をしてくれるのはオイだけだ。おしっこをすればシーツを取り換えてくれるし、カップの水が無くなって足でコンと叩くと、気が付いて水を入れてくれる。そして夕方になると、カリカリのご飯をお皿に入れて持ってきてくれる。


僕は最初、この家の玄関に足を広げて立っているオイを見た時、オイのことを怖い人だと思った。僕とアンタがこの家に入るなり、ものすごい顔で僕を睨んだからだ。

それはずっとずっと昔のこと。覚えているのは雨の中、僕はゴミ捨て場に置かれた段ボールの中で震えていた。寒くてお腹が空いて頭がぼぅ~となっていた時、目の前に大きな顔が現れた。次にごつごつした手がにょきっと出てきて、僕を段ボールから拾い上げてくれた。この家に連れてきてくれたのはアンタの方だった。僕もアンタもずぶ濡れで玄関に立ったまま、全身からぽたぽたと雫を落としていた。アンタに抱えられてきた僕を見て、オイは

「アンタ、なんでこんなの拾ってきたの。どうせアンタは世話できないんでしょ。捨ててらっしゃい」

と、とても大きな声で怒鳴ったから僕はびっくりした。再びあの雨の中に捨てられるのかと思った。ところがオイは言うことと実際にやる事は随分違っていた。ひととおり大きな声で怒った後、僕とアンタはタオルで全身を拭かれた。それで雨のぽたぽたは無くなった。アンタが風呂に入っている間に、オイは冷めたご飯にかつおぶしのかかったものを皿に入れ、僕の前に差し出した。僕はとてもお腹が空いていたので、夢中になってそれを食べた。皿が空になってからも、いつまでも皿を舐めていた。

「タオルで拭いたくらいじゃダメね。こんなに汚くなって」

そしてオイは僕をお風呂に入れながら相変わらず怒っていた。

「どうせこんなに小さいしブルブル震えているから、すぐに死ぬでしょ。全くアンタは犬を拾ってくるだけで、ちっとも世話をしないんだろうから」

 オイに怒られながら入ったお風呂の後の身体は、ポカポカして体中石鹸の臭いに変わった。お腹がいっぱいになった僕は、そのままちょっと色あせた毛布の上に乗せられた。

 そして僕はその日から、西に窓が付いた部屋が二つあるこの家に住むようになった。僕はその時は死ななかった。むしろお風呂と食べ物と暖かいネグラで、逆に元気になってきた。


 どうやら僕にはサトルという名前が付いたようだ。と言うか、物にはみんな名前があるんだね。サトル。立派な名前だろう。そして僕を拾ってくれた男の人の名前はアンタ。怒りながらご飯をくれる女の人の名前はオイだ。お互いにそう呼ばれているから。


 オイは家を留守にすることが多い。「あの家は昼しかいない」とか「あっちの家は夜はかえっているはず。灯りが付いているから。なのに居留守を使うんだから」などと言って、いろいろな時間に家を出ていく。帰ると「疲れた、疲れた」と言って僕のお皿にカリカリを入れると、自分の分はご飯の上に冷蔵庫の中にあるものを何でもかんでも乗っけて食べる。それから横になって、僕に話しかける。

「ねえ、こんなに疲れて忙しくてテレビを見る暇も無いのに、なんで皆さまのえぬえっちけいです、なんて言ってお金を集めなきゃいけないんだろうね」

 その意味は分からないが、えぬえっちけいというものが原因で、オイはいつもとっても疲れているみたいだ。そして次に

「テレビなんか見る暇が無いのに受信料を集めて、アンタはろくに働かないのに一緒に住んでいて、サトルはいないのに手間のかかるサトルのせいで自由になれない。私の人生って何なんだろう」

と話しかける。僕はますます意味が分からない。分かっているのは、オイが出かけていない時、アンタは僕には全く無関心だ。夕方になってもお皿にカリカリを入れてくれないので、お腹は空いたまま。おしっこをしても「くせぇな」と言ったきりでシーツを取り換えてくれない。だからオイが出かけている時、僕はできるだけおしっこを我慢している。


 僕を拾ってくれたアンタの方はと言うと、最初の数日は丸めたタオルを投げて遊んだり、僕がご飯を食べているところを眺めたりしていたが、数日たつとほとんど僕に興味を示さなくなった。昼間は部屋でゴロゴロしていて、暗くなると外に出ていくことが多い。部屋にいる時は、よくオイから「まったくアンタって人は」と、いつも言われている。初めの頃、僕は遊んでもらおうとアンタの膝に乗ったり、足にじゃれついたりしてみた。すると

「うるせえな、この野郎。オイ、サトルを何とか静かにさせろ」

と僕を振り払った。オイは

「何よ、もともとアンタが勝手に拾ってきたんでしょ」

と言いながら僕を抱えて台所に行く。その度にオイとアンタの仲が気まずくなっていくのが僕にも分かった。二人が言い争いをするのは好きじゃない。僕がアンタの足にじゃれたのがいけなかったのかもしれない。アンタはいつも身体から酒の臭いがしている。アンタは僕と遊ぶより、テレビを見ている方が好きみたいだ。特に僕より大きい足の長い生き物が沢山走っている番組の時は、それを見ながら「勝った」とか「負けた」とか言って、やっぱり機嫌が悪くなる。僕はアンタにはあまり近づかないようにした。


 僕は一生懸命アンタに近づかないように、そして誰の膝にも乗らないように大人しくしていた。けれどアンタはだんだん家にいないようになってきた。夜だけじゃなくて、ふいっと家を出て何日かに一度だけ帰ってくる。そして帰ってきた時はオイとアンタとの間はいつも言い争っていた。その頃から、オイは一人になると僕に向かってよく言うようになった。

「サトル。サトルが死んだら私はこの家を出るの。そして自分だけで好きに生きていくんだから。だからサトル、いったいいつまで生きているの」

僕は難しいことは分からない。でもオイは僕にとってとても大切な人だ。そのオイがいつも言っているのだから、きっと僕は早く死ぬことが良いことなのだろう。でもどうやったら死ねるのか、それが僕には分からない。


また、別の日にはオイからこう言われることもあった。

「サトルさえ生きていれば、こんなことにはならなかったのに」

 初めの頃、僕にはその意味が分からなかった。僕の名前はサトルで、僕は早く死ぬことを待たれている。でも生きていればというのはどういう意味なのだろう。ある時、僕は気がついた。つまり

「いつ死ぬの」

 と言われているサトルが僕で

「生きていれば良かったのに」

 と言われている別のサトルがどこかにいるのだ。


 ある夏の暑い日、オイとアンタが大きな声で言い争う音がした。僕はそれがとても怖かった。あれだけ誰の膝の上にも乗らないようにしていたのに、何が悪かったのだろう。アンタが夜中に帰ってきた時、居間のゴミ箱の後ろから眺めていたのがいけなかったのかな。アンタは僕を見ると思いっきりごみ箱を蹴飛ばしたから、僕はびっくりしてきゃんきゃん言いながら台所の隅のゲージの中に逃げ込んだ。しばらく言い争いの後、オイは台所に駆け込んできた。オイの顔半分には大きな痣ができて、顔全体が大きく腫れ上がっていた。オイはその大きく腫れた目から涙を流し、いつまでもうずくまっていた。僕はオイの近くに行った方が良いのか、離れていた方がオイにとって良いのか分からなかった。

 その顔の腫れが治るまで、オイは家から一歩も出なかった。何日かすると僕のカリカリのご飯が無くなった。オイは、もともとあまりご飯を食べない。痣ができた時は特に食べる量が減った。茶碗に少しだけご飯を入れて、一口か二口食べて箸が止まる。それから茶碗に湯をかけてまた一口食べる。それっきり。代わりに僕のお皿に、オイの残したご飯にお湯をかけたものが入れられた。これもおいしい。オイが外に出なかった間中部屋の中は閉め切られて、扇風機をかけてもすごく暑かったし、お湯をかけただけのご飯ではちょっとお腹が空いた。でもそんなことより、僕は一日中オイと一緒にいられることが嬉しかった。膝に乗ってはいけないのかもしれない。だからそっとオイの足元に丸くなって座った。オイは時々僕を見る。そして同じことを言う。

「サトル、いったいいつ死ぬの。サトルが死んだら私は自由になれるのに」


 ある時、僕の家に事件が起こった。

もともと生まれた時から身体のどこかが悪かったのだろう。その頃には僕の身体もだいぶ弱って、もう何日かに一度の散歩に出るのも辛くて、毎日家にある毛布の上で一日中ゴロゴロしていた。

 家に電話がかかってきた。その少し前、久しぶりに家に帰ってきたアンタは、またオイと言い争いになって、怒ってすぐに家を飛び出した。その後だったので、家に残っていたオイが電話をとった。それから急に家の中が騒がしくなった。知らない人が何人も家に出入りした。そしてしばらくすると家に布団が敷かれ、知らない男の人が大きな物を家の中に運び、布団に寝かせた。僕は恐る恐るソレに近付き、何度も何度も用心深く臭いを嗅いだ。

 何なんだろう。この感覚は。

 それはアンタだ。まぎれもなくアンタなのに、もはやアンタではない。あの膝に乗ると怒って振り払っていたアンタの臭いなのに、とても固くて冷たい別の物に変わっていた。僕はく~ん、く~んという声ばかりずっと出していた。


 別の物に変わったアンタは翌日には再び黒い服を着た知らない男達に運ばれ、そして二度と帰ることはなかった。その日一日、オイは黒い服をずっと着ていた。黒い服の知らない人と一緒に出掛けて、帰ってきた時は、いつも仏壇に火を付けていた時の、あの臭いがしていた。


 その日は外は冷たい雨が降って、とても寒い夜だった。オイはアンタの服をタンスから出して、それをゴミ袋に入れていた。雨のせいかとても静かだ。オイが時々出すゴミ袋をいじる時のガサガサする音が聞こえるだけだ。オイは片付けの手を休めて、僕の方を振り向いた。そして僕に向かって手を伸ばした。

「おいで」

 行ってもいいのかな。僕はおそるおそるオイの方に向かった。と言っても最近は身体がすっかり弱って寝てばかりいるので、歩くとヨロヨロする。するとオイの方が手を伸ばして僕を膝の上に乗せた。そして一度ぎゅっと抱きしめた後、僕の身体を優しくなでた。

「サトル、お前だけだよ。お前だけは死なないでおくれ。私は一人ぼっちなの。いつまでもここにいてね」

オイはずっと僕をなでてくれている。初めて聞いた言葉ばかりなので、その意味はよく分からない。でもオイの膝の上はとても暖かい。何て気持ちが良いのだろう。暖かいだけじゃない。何かこう、とっても優しいんだ。

 僕は分かっている。僕がもうすぐ死ぬってことを。やっとオイの望みどおりに死ぬことができる。だから今のこの気持ちの良い時間は、その死ぬことに対してのご褒美なのだろう。


 僕は本当は知っていたんだ。オイのこと。オイは本当はオイではなく、別の名前を持っているってことを。その本当の名前を僕は知らない。でも僕が死んで、オイがこの家を出ることによってオイがオイでなくなった時、オイは本当の名前で呼ばれるんだ。オイは今よりもっと幸せになれるのだろう。


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