あるピアニストの危機感
メガネをかけ、マスク、ヘッドホンを装着する。
そろそろコンクール優勝者として、取材陣がこの楽屋を訪れる頃だろう。急いで出なければ、たくさんの雑音に飲み込まれてしまうからだ。
扉をそっと開け廊下を確認する。
廊下そのものからは人気を感じない。
まあ廊下には向こう側のホールで慌ただしくしている音は聞こえているが。恐らくホールの貸切時間の終わりが近いのだろう。
「よし…」
私は急いで出演者用の出入口から外へと抜ける。と、同時に私を探す取材陣らしき声が建物の中からヘッドホン越しに聞こえた。今日はどれだけの取材陣が集まってきたというのか。
「いつも通り、マネージャーよろしくね」
ポーカーフェイスを保つのに必死な顔も今日はほんの少しだけゆるんでしまいながらも、ヒイラギの待つ公園へと向かう。
「マルク、道教えて」
『かしこまりました。浜筋公園まで、1つ目の信号を左です』
トントン--
ヘッドホンの左側を指で2回。
機械的な男性の声によるナビが始まる。このヘッドホンはナビゲーションAIが搭載されており、ヘッドホンを叩くことで起動するのだ。しかしこれでも、かなり古いタイプのAIだ。
かれこれ10年前に発売されたもので、初めて入った賞金で購入した。しかし当時の私はそのお金の大きさに恐怖を感じ、散財したくないからと、安かろう悪かろうというこのヘッドホンに決めたのだった。やはり10年も経つと感情がないAIは使い物にならないという風潮なのか、リサイクルショップで同じものを見つけた時は200円で売っていたものだ。当時の1パーセントの価格にも満たない。
『まもなく浜筋公園です。お疲れ様でした。』
音声ナビ、マルクはそれだけ言うと無言になった。目の前にはちょうどヒイラギがいる。
「あ、イチョウ出てこれたんだ!お疲れ様!」
私を見るとヒイラギは顔を輝かせ、子犬のように近づいてくる。ホールを出る時の変装用具一式を外し、ヒイラギと共に公演を歩く。
この浜筋公園は小高い丘に位置しているため、普段あまり人が来ることがない。また海も見えるため、昔から彼との待ち合わせ場所になっていた。普段であればヒイラギからの賞賛の言葉を受けつつ、コンクールの感想を話すのであるが…
「あ、そうだイチョウ、今日は君に伝えたいことがあったんだ!」
「モック!あの新聞記事!」
『ヒイラギ様、どちらの記事にしますか?こちら動画の方がより伝えやすいと思いますが…』
ふとヒイラギは自身の左手の時計に話しかけ、AIを起動させた。半透明の映像が立ち上がり、いくつかの画像が並ぶ。
ヒイラギの家族が彼の生まれつきの欠損を心配するあまり、欲しいものはなんでも与える傾向にあった。おそらくその時計も最新型のものなのだろう。感情豊かな機会音声と彼の会話が聞こえる。
「あのね、ぼく、この仕事してみようと思うんだ。どんな人でも受けられて、しかもイチョウに負けないお金も手に入るらしいんだ。」
そういうと彼は時計に表示されている立体映像の動画を見せた。
「これ……ねえヒイラギ、危ないんじゃない?こんな…あんたには無理だって!!武道とかできないじゃん!」
思わず怒りの言葉が湧き上がってくる。私はいつも通りの生活が送れたら…2人で今日あったことを話したいだけだったのに。
その動画は「義手義足を提供する代わりに、会社の職員になること。」をうたっていた。
その会社はよく知っている。
最近よくニュースで取り上げられた会社だ。
--暴走AIを処分するため、手段をいとわない、AI対抗会社。
そんな噂のある会社だ。




