8.Out of the room.
目が覚めたら・・・別に何も変わってなかった。
ただ、目やにでまぶたやまつ毛がパリパリになってる顔を洗いたくなって、水道の蛇口をひねってから水が出ないってことを思い出した。
身体に染み付いた癖でいつの間にか開けていた冷蔵庫の中が空っぽなのを見て、何気なくそうしていた頃のように、ごく自然と思う。
買い物に行かなきゃ。
思ってから、茫然と目を見開いて、あたしは笑い出した。
考えてみればここは街中で、コンビニだって自動販売機だってスーパーだってある。
食べ物の調達なんて、考えこまなきゃならないほど難しいことなんかじゃない。
・・・外に出さえするなら。
うん、外に出よう。
決めた途端に気が軽くなった自分の現金さに苦笑しながら立ち上がる。
空腹のせいで貧血でもおこしてるのか微妙にぐらつく視界の端、本棚の下にいつもの布バックがうずもれてるのが見えた。
なんとかひっぱりだして、机の下から見つけだした財布を投げこんで部屋を出・・・ようとして、台所と言うには貧相すぎるシンクの前に戻る。
どこかの小説の主人公になった気分でその扉を開けて、1人暮らしを初めてからこのかた、数えるほどしか使ったことのない三徳包丁を鞘ごとカバンにつっこんだ。
とりあえずの、護身用に。
マンションの入り口の扉を開けた瞬間に、マスクをつけてこなかった自分にひどく後悔した。
次の瞬間に、必要なのはうちの救急箱に常備してあるようなちゃちな花粉用のマスクじゃなく、鼻栓とか空気浄化装置だとか、はたまた毒ガス用の軍事マスクなんじゃないかと思う。一般家庭にそんなものがあったら驚きだけど。
あたりにたちこめていたのは、今までかいだことのないような異臭だった。
タイヤとかゴム製品が焼け焦げたような臭いとも、キャンプファイヤーの後のくすぶるような臭いとも、焼肉屋さんから路上にたれながされるむせかえるような肉の焼けるあの臭いとも、酢を鼻の中に突っ込まれたような刺激臭とも言えるような、そのどれともつかない悪臭。
こみ上げる吐き気に、あらがう気力はなかった。
のどを刺す痛みと、こみあげる酸っぱい液体と、吐き出した物の臭いに、涙目になりながら膝をつく。
視界に入った吐シャ物は、透明に近い液体ばかりだった。
ろくなものが入ってない胃から逆流するものなんて、それこそ胃液くらいしかなかったらしい。
ひとしきり吐ききってから、蹴飛ばしたそこらへんの瓦礫で痕を隠す。
口をゆすぎたくてしかたなかったけど、そうするための水はここにはない。
だからあたしは、とりあえず歩き出した。
見上げた空は、いっそ清々しいほどの快晴。
風がゆるやかに吹く道は、散歩に最適と銘打たれそうなほどの穏やかさをかもしだしている。
肌にまとわりつく臭いと、空をギャァギャァ旋回するカラスを考えに入れなければ、だけれど。
カラスが巣食っている道を避けて、一番近いスーパーまで歩く。
もしかしたら、普通に営業してるんじゃないかな?
期待に、足が勝手に速度を上げた。
ほとんど倒壊したビルが並ぶ大通りを駆け抜け、焼け焦げたお寺の横の道を通り過ぎる。
そうして、商店街のはずれにあるスーパーにたどりついたときには、あたしはもう汗だくで、息も絶え絶えだった。