第2話
「じゃあニンジンも買うよ」
「無理になら別にいいんだけど? ニンジンは買わなくて」
「いや、でもニンジン……」
「いらないんなら買わなくていいんだけど?」
麻木真理は激しく不快だった。しかしそれは小菅暁に対する怒りだけではない。
麻木真理にとって小菅暁との再会は待ちわびていたことだった。麻木真理がその右に出るものはないほどの準備と用意の達人となったのは、全て小菅暁との再会の準備と用意をしていたからだった。「高校野球で全国大会(春・夏どちらでも可)に出場」が、彼らが再会後に付き合う条件だったが、麻木真理は待っていた。小菅暁が新潟県の高校に“留学”している3年間は、もしかしたら会えないかもしれないが高校卒業後に絶対に会う機会が一度はは来る、とそう信じ、来るべきその時に備え常に万端・万全・最適を期してきた。そしてそれを最新・最先端・集大成で刷新し毎日“歴代でベストな麻木真理”として自分ができる限り最大限の“イイ女”として小菅暁を待っていた。そしてその“イイ女であり歴代でベストな麻木真理”に魅了されたのは小菅暁だけではないのだが麻木真理の備えは小菅暁のためだった。
時代の都合上中学時代に携帯電話を持つことが出来なかった二人は連絡先を交換することが出来なかったが麻木真理の中であの日の約束は生きていた。
そして2年経ち、小菅暁の高校が春のセンバツ高校野球の出場が決定的になったときに最も喜んだのは麻木真理だった。そして部員の不祥事で出場取り消しになったときも、麻木真理は歯を食いしばり、時には不祥事を起こした名も知れぬ部員を激しく憎悪しながらも、いつか帰ってくる小菅暁のためにベストな麻木真理であるための努力を怠らなかった。そして麻木真理も大学に入学し、同窓の男子学生にとっての多くのビッグチャンスの芽を巧みに摘みながら小菅暁を待ち続けていた。その確実な裏切りの事実の前に気力のほとんどを失い、イイ女指数の精神部門のスコアの加速度的な下降と大学の卒業を迎えても、急激に下がっていく麻木真理のブランドに唯一報いれる彼は来なかった。
彼女は約束の人との再会を待つというヒロイズムを心のよりどころとしていると同時に蛇のように執念深く、小菅暁との再会の意味も、その甘さで密度が増した空気が重く感じるほどの恋の約束のロマンスよりも、小菅暁を許せない怒りにも似た感情をぶつけられる唯一の相手との因縁に終止符を打つために避けられないトラブルを望む意味も或いは大きくなっていたのかもしれない。そして麻木真理も小菅暁も知ったことではないが、麻木真理と同じ高校と大学で淡い青春時代を過ごした男子学生たちの空を切ったままの恨みと怒りと淡い想いがどこかに着弾して報われる出来事が起きるのならば、それは麻木真理と小菅暁の再会だった。小菅暁が教え子の小学生たちから「土曜日にジャンプが買える店」の噂を聞き、彼がそれを実行するまで事実上の失恋状態だった麻木真理と、小菅暁の再会だった。
しかし麻木真理はもうそれはおそらく実現しないだろうと諦めかけていた。ノストラダムスの大予言にも似た期待だった。来るべき大震災やそれに準ずる災いへの備えは常にしてきたがまさか今日来るとは思っていなかった。フォトジェニックとしての麻木真理はこの日も完璧だった。来るべき出来事に対し万全で備えることはできていても、いざその時にベストな行動ができるとは限らないのである。そして麻木真理は待ちわびるあまりに自身の悪いこと全てが、小菅暁との再会によって、快方をはじめとした新たな方向へ向かえると思っているフシがあった。全ての責任は彼女のほとんどの時間の姿勢を「待ち」にしてしまった小菅暁に、もう二度と会うことはないであろう小菅暁にある、と考えるようになっていたのだ。それだけ想っていても自分から会いにも行かないくせに。要するに受け身人間だったのである。
第2話 “スーパーソニック”
――アリゾナきってのタフガイ保安官リッキー・ロックスミスシェリフに話を聞こう。
「なんてこった! こんなにもひどいメキシカンスタンドオフは見たことがないぜ! 方や罪悪感たっぷりの腰抜け野郎、方やそいつを一方的に撃ちぬける弾があるってのにビビって野菜を押し売ることしかできない腰抜けだ! ああ、本当にひどい膠着状態というのは凶悪犯罪者や勇敢な者同士で起きるんじゃない。引き金を引けない腰抜け同士が至近距離で銃口を突きつけ合うことを言うんだ。お互いがその膠着状態をどうにかするために引き金を引くことも銃を下ろすことも話し合うこともできないからな。誰かがどうにかしてくれるまでどうにもならないのさ、こういう腰抜け同士のファイトは。必殺のクロスカウンターを持っていたって相手に攻めてこなきゃお見舞いできないんだぜ!? おっと動きがあるのか? あぁ、さすがに腰にぶら下げてるもんはオモチャのガンベルトだけじゃないようだ」
「ニンジンも買うよ。麻木」
不意に小菅暁と再会してしまった麻木真理は、“あの日”の約束ぶりの再会を喜ぶべきか、それとも“あの日”の約束を放棄したと呼べるレベルまで放置したことに怒るべきかしばし迷い、本能がやや優先した怒りを示すことにした。“あの日”はあれだけ激しく生意気だった小菅暁が9年経ったら激しく歯切れが悪くなっていたことも不機嫌に拍車をかけた。それは高鳴った心をマジックテープで撫でられたような、不愉快なかゆみ。
「何よ」
しかしスーパー受け身人間麻木真理にできることはただ一つ! 万全な用意! そして素振りで鍛えたカウンター(最強のクロスカウンター)の準備!
「俺は今少年野球チームのコーチをやっ」
「知ってる」
「で、そこのチビたちからジャンプを土曜に売ってる店があるって聞いて」
「……それで?」
――アリゾナきってのタフガイ保安官リッキー・ロックスミスの言葉にも熱がこもる。
「それで? だと!? おいおい! 違うだろ!? こんなのは何も訊いちゃいないのと同じだぜ! もう少し、ほしい答えの方向性を回答者に示さなきゃ何も進まない!」
「毎週ここで買うからさ、まぁ、例のことの話は、毎週少しずつ進めていってトラブらないってことにしないか」
「小菅、てめぇ……」
「まずは謝る。本当に悪かった。これから何週間かかけて、具に謝らせてくれ。9年前のこと謝ってどうにかするから、それからのことは、まずこれまでの話をしてからにさせてくれ」
小菅暁、甘かった! 思考が贅沢に甘かった! 約束を果たせなかったバツの悪さで合わす顔がなくなり、置き去りにした女性のことをケリをつけずに逃げた。なのにノコノコ地元に帰り、なかったことにして数年過ごし、「土曜にジャンプ」に吊られてウッカリ再会してその関係の前向きな修復を図る! 小菅暁は甘かった。内心、もう俺を待っていないでいてくれ、と願った“あの日”の少女が、気持ちはどうあれ非常に美しいフォトジェニックのままでいてくれたことで欲が出た!
――アリゾナきってのタフガイ保安官リッキー・ロックスミスの言葉は熱狂する。
「あぁ、チキンからはだいぶマシな雄鶏になったな。欲しがらなきゃ手には入らない! いくら欲しがっても誰もそれを知らなきゃ誰も与えちゃくれないぜ。まずは欲しがる、全てはここからだ。ここまでの経緯はどうあれ、一端の男になったぜ! イイ女を9年間も放ったらかしにしたことの罪悪感はもちろんなきゃいけないし、その気持ちは逃げちまうぐらいにあるようだ。だがそれを棚に上げてしまうような激しい生意気! それこそマリ・アサギが一撃で惚れたアキラ・コスゲだ。格や過去を理由に戦わず退いてしまうようでは勝負にならない。激しい生意気さこそ男の本懐、それが“リード”と言うものだ。そしてその“リード”を引きずり出した素晴らしい“フォトジェニック”、マリ・アサギ! 保安官バッチをあげよう」
麻木真理、甘かった! 思考が脆弱に甘かった! 彼女の15歳からの9年間のほとんどを“準備”に徹しさせた小菅暁の、18歳から先を“予備準備”に徹しさせた小菅暁の“あの日”を思い出さずにはいられない激しい生意気さ! 9年間で培った自分の準備と用意の手際の良さと目玉商品である土曜のジャンプに大声で伝えたい気分だった。「小菅が会いに来たぞ」と。9年間振った棒は、ただ振っただけではなく何かを捉えたぞ、と!
「『ワールドトリガー』が今一番面白いよ」