〈二章〉ファイヤーマン(3)
恋と別れ、家への帰路を進む。
相変わらず空には朝から厚い雲がかかっており、今にも雨が降り出しそうである。
「あ~、疲れた……」
持ってきていた水筒は既に空っぽで、喉はカラカラに乾いていた。
流石に我慢も限界に来ていたので、近くにあった自動販売機にお金を入れて愛飲している炭酸飲料水を購入した。するとディスプレイにて突然スロットが始まり、運がいいことに大当たりを当ててしまった。
「おおっ、ラッキー」
持ち帰って家で飲もうと思い、もう一本同じものを買おうとボタンを押す。
ガコン――。
早速商品が転がり落ちてきた。それを取ろうと手を伸ばしたとき、再び同じ音が牡丹の耳に届いた。
ガコン――。
(……はあ?)
首をかしげるも束の間、またしても同じ音が自販機から放たれる。
ガコン、ガコンガコンガコンガコンガコンガコンガコン…………。
「いやいやいやいやいやいや!!」
そのまま置いておけば詰まってしまうため、牡丹は次々と出てくるそれをどんどん取出していく。
「ちょっと待てって。どれだけ出てくるんだよ、嫌がらせか!」
運がいいのもここまで来るともはや不運に近いと言える。
そんなペットボトルの雪崩が止まる頃には、購入ボタンの箇所には『売切れ』の文字が赤く表示されていた。
「……これ、どうするんだよ」
最初に買ったものも合わせて全部で十五本近くある。普通ならすごく得をしたと喜ぶべきところなのだが、どうにもその気になれなかった。
滑り台と砂場、ブランコがあるだけの小さな公園を横切る。遊んでいた子供たちが、バイバ~イと手を振りながら別れていく。懐かしい光景だ。こうやって友達と日が暮れるまで無邪気に遊んだのはいつが最後だろうか。
中学校に入学してからは、部活動で遊ぶ時間はほとんどなかったし、遊ぶとしてもゲームセンターやカラオケなどに行ったりするばかりで、公園を駆け巡るなんてことはしていなかった気がする。
そう考えると、本当の意味で何物にも捉われず、無心で時間を忘れて遊べていたのは小学生までか……。
もう一度あの頃を体験してみたい。そう思うことが最近多くなった気がする。
「……ああ、こっちまで思い出した」
昔を懐かしんでいると、さらに古い記憶まで呼び起された。
あまり他人にぺらぺら話したくないことだ。別段、嫌な過去の話ではない。単に気持ち的に話すことを躊躇ってしまうような、そんな過去の出来事なのだ。
棚上牡丹は、出生と同時に本来の両親に捨てられて児童養護施設に預けられた、ちょっとした変わった人生を歩んでいる少年である。
棚上夫妻には子供が生まれなかった。幼き頃の病気により妻の子宮が摘出されていたためである。しかしどうしても子供が欲しかった夫妻は、児童養護施設から子供を譲り受けることに決めた。そして牡丹が家族となった。
それが、牡丹が自我を持ち始める三歳の頃の話である。もちろん、その頃の記憶は牡丹にはほとんどなく、自分が児童養護施設にいたことも覚えていなかった。
初めてその話を両親から聞かされた時は、頭をハンマーで叩かれたような衝撃を覚えたが、それほどショックではなかった。それは一重に、今の両親の愛情によるものだろうと牡丹は思っている。
確かに、今まで自分を育ててくれた両親が本当の親ではないということはショックだった。
しかし、彼らの牡丹に向ける愛情は本物であって、その愛情でここまで育ててもらったことも本物であることに変わりない。
たとえ本当の親でなかろうと、彼らの存在は牡丹の中では紛れもない『親』なのだ。
物思いに耽っていると、脳裏に母親と父親の顔が浮かんできた。二人の笑顔を何千、何万、何億と見てきた。その笑顔に随分と支えられた。
二人がいたからこそ、今の自分がいる。
二人が優しく接してくれて、時には厳しくしかってくれたからこそ、現在の棚上牡丹が存在するわけだ。感謝してもしきれない。
歩くペースがやや早くなる。
家までもう少し。この人気の少ない道をまっすぐ進めば、似たような住宅が建て並ぶ住宅街に入り、そこからは目を閉じても着く距離に我が家棚上宅はある。
早く家に帰って母親と他愛もない会話をし、職場から疲れて帰ってくる父親を待とう。久しぶりに三人で世間話でもしてみよう。――そういう気分になった。
と、ちょうどその時だった。
「久しぶりだな、牡丹」
横をすれ違った人影がそう告げた。
全身が凍てつくような感覚に見舞われた。まるで金縛りにでもあったかのように、一瞬体の自由が奪われた。
牡丹はゆっくりと、たった今すれ違った人物の影を目で追う。
そいつは背中を向けたまま、牡丹の背後数メートルのところで立ち止まっていた。
無地で灰色のパーカーを着てフードを深くかぶっている。少しサイズが大きいのか、裾で尻を隠している。下には濃い青色のジーンズをはいており、パーカーで隠された尻のあたりから鯉の刺繍が足元に向かって続いている。こちらもやはり、体に対して服のサイズが大きいように見える。どうにもゆったりとした服装が好みらしい。
「あの……。どちら様ですか?」
尋ねると、ジーンズのポケットに両手を突っ込みながらそいつは静かにこちらに振り向いた。
フードはしっかりと被られているため、前髪が少し見えるだけで顔はよく見えない。身長は牡丹と同じくらいだろうか。肩幅は広い。一目でそいつが男であることが分かる。
長袖のパーカーの袖は肘までまくり上げられている。そこから見える腕の太さから、運動をしていることが容易に気付く。
「そうか。やっぱり覚えていないか」
「えっと……。どこかでお会いしましたか?」
正直、まったく見覚えがない。記憶にない。そもそもこんなに体つきの良い人は、親戚や友人にいない。脳をフル回転させ記憶をたどってあらゆる人を連想させたが、どれ一つ目前の人に合わない。
「俺は鴨葱来人ってんだ。まあ、覚えてないならいいよ。仕方ねえって。あの時お前はこんなに小さかったんだからな」
そう言いながら、そいつ――鴨葱来人は腰のあたりで手をひらひらさせた。その高さって小学生以下じゃないか?
それにしても一向に彼のことが分からない。昔知り合っていたようだけど、記憶をたどってもよく思い出すことができない。そもそも鴨葱なんていう、一風変わった名前を忘れるはずもないのだが……。
「まあいいさ。こうしてお前に会えたのもなにかの『運』だからな。ちょっとばかしお前の力、見せてもらうぜ」
突然、来人が右手をジーンズのポケットから勢いよく引っこ抜いた。その反動で深くかぶっていたフードがめくれ上がり、来人の素顔が露見する。つり上がった鋭い目つきに、鮫のようにとがった歯が並んでいる。いかにも好戦的な性格であることが見て取れる。
ふと、彼の右手に目をやる。来人の手の中にあったそれは、厚い雲を潜り抜けたわずかな日の光を反射させていた。
それは、ライターだった。
材質はその反射性から金属であることが分かる。蓋がついているそのライターは、開けたり閉めたりすることで蓋と本体の金属同士がぶつかり合うことにより、乾いた金属音を立てる。
彼は鯉が好きなのだろうか。来人の持つライターには、彼の身に付けているズボン同様に鯉の細工が施してあった。極めて繊細な模様だ。
「そんじゃまあ、絶対幸福者としての技量、見せてもらおうじゃねぇの!」
「――!?」
瞬間、牡丹は息をすることも忘れた。
今、こいつは一体なんと言った?
絶対幸福者と聞こえたのはただの聞き間違えか?
その言葉を牡丹は異なる口から聞いた覚えがある。そう、誰でもない常運高校生徒会長こと浅海恋だ。
彼女は『自分と牡丹は絶対幸福者であり、特別な力を持っている』と言った。
そして今、目の前に立ち、ライターを持って構えている鴨葱来人も同じように言った。
なにかが始まろうとしている。――根拠はないが不意にそんな気がした。
そう言えば、と来人との会話を思い出しても恋と重なる点がもう一点あった。
それは第一声の『久しぶり』というフレーズ。恋に対しても来人に対しても、牡丹にとってはどちらも初対面のはずだった。それにもかかわらず、二人はまず牡丹に対して『久しぶり』と言った。まるで昔知り合っていた仲のように……。
自分はもしかして過去に一度記憶を失うなんていうような、デンジャラスな生活を送っていたのだろうか。そうでもなければ、このような記憶の差異はまず起こりえない。
一体なんだというのだ、こいつらは……。絶対幸福者とは一体なんなのだ。それが自分とどう関係があると言うのだ。
脳内で疑問だけが解決されずにぐるぐると駆け巡る。
「燃えろ」
シュボッとライターから火柱が立ち上がる。その火の大きさから見て、ターボライターか、あるいはそれを改造したものだと考察できる。一般的に売られているようなライターの火力とは比べ物にならないことぐらい、普段からライターを使っていない牡丹にだって分かる。
「なんだよ、それ……」
しかし、火はまだまだ大きくなっていった。見る見るうちに火柱は成長していく。まるで生きているかのように、高揚しているかのように。
あっという間に、それは十五センチ程度まで成長していった。火は鮮やかに紅く、厚い雲を焼き尽くすかのような色をしている。
「これが俺の能力――炎神だ」
ああ、こいつも恋と同じ中二病患者の一人なんだな、と牡丹は確信した。
恋も同じようなことを言っていた。アニメや漫画で出てきそうな呼び名のようなものを。確か彼女は永久追跡なんて言っていたような気がする。
まさか中二病をよりリアルな形で体現するために、彼は火力が異常なライターを持ち歩いているのだろうか。最近の中二病患者は物騒だ。
「炎神の能力は単純だ。炎を自由自在縦横無尽に操ることができるのさ」
中二病お決まりの設定を作っているらしい。
火を操る力、か……。なるほど。おそらくは、手にしているライターを振り回して「どうだ、参ったか」なんて言うのだろう。
ここ数日、重度の中二病患者である浅海恋と共に行動してきたから、これから先の点かいなんて容易に推測できる。それが必要なスキルかどうかは疑わしいが。
いろいろと思考を巡らせていると、予想通り来人はライターを持った右手を横一直線に振るいだした。
(やっぱり……)
そう思った次の瞬間、あろうことかライターから立ち上がる火柱が、突然その大きさを大きくした。いや、伸びたと言った方が正しいのかもしれない。たかが十五センチほどだった火柱が、一瞬にして数メートルまで伸び、そしてそれが牡丹に襲いかかってきたのだ。
その炎の様子は、炎を纏った刀のようにも見えた。
「なんだよ、これっ!」
頭で考える以前に、体が動いていた。危険を察知し、牡丹の中の生存本能が無意識のうちに、半ば強引に彼の体を動かした。
地面を這うように身を低くし、頭を抱える。それでも全身からとてつもない熱量を感じる。背中の上を炎の刃が通過すると、服こそは焼けなかったものの、熱によって肌がひりひりと痛んだ。
抱えるようにして持っていたペットボトルが、地に伏せると同時に手から離れて地面に叩きつけられる。同時に炎の熱によりペットボトルが溶けて中身がアスファルトを濡らした。
「あっつ……!」
あの日の火災現場を思わせるような熱だ。空気までもが焼かれている。取り込んだ空気によって胸が燃えるように熱く、苦しくなる。息をすることが辛い。
「あ、やっちまった」
聞こえてきた鴨葱来人の声と、その後に続く壮大な音に反応して顔を上げた牡丹は言葉を失った。
ガシャーンと聞いたことのない音を、トラックが壁に衝突したような盛大な音を発しながら、それは崩れ横たわった。
「うそ……だろ?」
唖然とした。
音をした方を振り向むいた牡丹の目には、倒れている街灯が写っていた。
すっぱりとしたきれいな切り口は、ぐずぐずと音を立てながら赤く染まり、物凄い熱を発している。それまで地面に垂直に立っていたそれは、今では地面に横たわっている状態であった。
倒れた拍子に割れた白熱灯のガラスが散乱している。それらの惨状を眺めながら、牡丹は半ば無理やり言葉を発する。
「お前……、一体どうしたらこうなるんだよ」
地面から伸びる鉄の柱が、まるで紙をハサミで切ったように切れているのだ。それもあの一瞬の出来事である。どう考えても尋常ではない。
「どうしたらって、ただ切っただけだぞ」
来人は軽く答えた。
「言っただろ? 俺は炎を操る炎神の力を持つって。まあ、分かりやすく言えばガス切断だ」
金属の材料を切断すると考えた時、最初に思い当たるのはおそらく鋸などを用いる手法であろう。木材などと同様に、ギザギザの刃を持つ道具を用いて切削を行う。
しかし、世の中には他にも水圧を利用するものなど金属を切断する方法は多くある。そのうちの一つがガス切断である。ガス切断とはその名の通り、噴き出す炎と酸素ガスにより金属を反応させ、切断する方法である。
まさしく炎の刃と言える代物である。
「ほら。お前の力も見せろよ」
右手に握るライターを縦に振り下ろす。瞬間、先ほどと同様に炎が伸び、牡丹を襲いにかかってくる。それを間一髪のところで体をひねらせて躱す。
振り下ろされた炎の刃はそのまま、横たわっていた街灯を音もなく二分割にした。
「力を見せろって言われても、それどころじゃねえんだよ」
牡丹の頭は活動を半ば停止していた。今こうして体験しているこの現実が、あまりにも非現実すぎて受け入れることができていないのだ。
これは夢か。
そう思っている。いや、そうしか思えない。
突然現れ、フードをかぶって絶対幸福者と名乗った少年。ターボライターを改造してさらに火力が増したライター。なんの前触れもなく、瞬間的に伸びる炎。そして、噴き出される炎により、簡単に切断されてしまった街灯。
これだけの出来事が、ものの五分としないうちに起こっているのだ。気が動転しない方がおかしいとも言える。
「ちょっと待てって。落ち着けよ。てか、俺に何の用だよ」
それだけを言うだけなのに、何度も噛んでしまった。
慌てふためく牡丹を見やり、来人は笑って見せる。
「特に用はねえよ?」
「だったらどうして俺を殺そうとするんだよ」
「別に殺そうとはしてないんだけどな~」
と、どこか不服そうに答える。
(なんなんだよ。最近の俺、変なことに巻き込まれすぎだろ。緑は俺のこと運がいい奴って言っていたけど、これじゃあアンラッキーボーイだぜ)
ここ数日で牡丹は多くのことに巻き込まれている。自分の住む連続放火に続き、中二病生徒会長の浅海恋との出会い。鴨葱来人との対峙。そして絶対幸福者というワード。
「そもそも絶対幸福者ってなんなんだよ。中二病丸出しの名前だけど、なんか意味とかあるのかよ」
「……おいおい、勘弁してくれよ。まさかそれまで忘れてるのかよ」
驚きを通り越して、呆れている様子であった。
その時、ポツポツと雨が降り始めた。天気予報よりも少しばかり早い降り始めである。
その場に立ち尽くす牡丹と来人は、強くなっていく雨に打たれながら、互いの目を見つめ合う。
次にいつ、来人が炎の刃を振り回すか分からない。少しでも来人が動きを見せた時、それに合わせて動くようにしておかなければ、次に両断されるのは街灯ではなく自分になってしまう。
雨は降り続ける。
今感じている寒気は雨に濡れたものではなく、おそらく目の前で燃え上がっている炎の刃に対する恐怖からのものだろう。
雨が降って炎の大きさが小さくなっているとはいえ、あの武器はそこらにあるものよりも数倍危険である。鉄の棒が瞬間的に切断されるのだ。それだけでも、ミリタリーオタクでなく武器に関しての知識のない牡丹にでも、その危険性は分かる。
「……ただ運がいいだけなのか、はたまたそれがお前の力なのか」
そう口にすると、来人はカチンとライターの蓋を閉じた。同時に燃え上がっていた炎の柱は姿を消した。
「まあいいだろう。どうせ、また会う日が来るだろうからさ」
ライターをジーンズのポケットにしまい込み、最初に出会った時と同様にパーカーのフードを深くかぶる。
そして踵を返すと、ゆっくりとその場から離れていった。
「ああ、そうだそうだ」
しかし五歩程度歩いてから、ふとなにかを思い出したように突然立ち止まり、振り向くことなく言った。
「次の土曜日の夜八時、『しらとり児童養護施設』に行ってみな。きっといいものが見られるだろうぜ」
再び来人は歩き始める。やがて来人の後姿は見えなくなってしまった。その場に一人取り残されてしまった牡丹は、最初の一歩を出すのに少し時間を要した。