〈二章〉ファイヤーマン(2)
迷い猫シュレディンガーの探索から数日が経過したある日。空は朝から鬱陶しいくらい分厚い雲に覆われていた。空気がジメジメしており、天気予報では今日の夜九時ごろから雨となっている。
そんな空模様の下、牡丹と恋は歩いていた。もちろんデートなどと言う嬉しき事柄でもなく、放火犯を突き止める材料を得る調査のためである。
幸い、牡丹と恋が見たあの火災から次の事件は起こっていない。しかし、『次』がいつ起こるかは誰にも分からない。そのため、今ここで調査を進めておく必要があった。『次』がいつ起こっても良いように。
放火犯の正体をつかむと決めて動き出して数日間、恋と牡丹はまず放課後に生徒会室に集合し、そこから火災現場巡りを行った。
牡丹たちの住む街の面積は大きく、さらに火災現場は斑に点在しているため、一日に向かえるポイントは一か所か二か所が限度であった。
「やはりここにも黄色不可侵境界結界が施されていたのね……」
ぽつりと隣に佇む恋が言った。
当たり前と言えば当たり前の話だが、事件現場の入り口にはテレビドラマなどでよく見るような黄色いテープが張り巡らされていた。そのため中に入ることもできず、こうして外から眺めているだけであった。もちろん手がかりは一つも得られていない。
「奴らにはすべてを見通すことのできる千里眼の持ち主でもいるというのか。ここまで私たちの行動を読み、結界を張るとは……。これはなかなか厄介だぞ、棚上書記!」
「危険だから入るなってことでしょ。あと、その呼び方やめてください」
牡丹の言葉を無視して、ゆっくりと慎重に黄色不可侵境界結界こと黄色いテープに右手を伸ばしていく。そしてそれに触れた瞬間、「バチンっ」と口にして素早く手を引っ込ませ、顔を苦痛に耐えているように歪ませる。
「うっ! この結界、難儀な代物ね。私たち絶対幸福者の介入を完全に拒んでいる。この私でも破れそうにない」
この動作、もう何回目だろうか。最初はとても驚いたが、今ではなんの驚きもない。慣れというものは怖いものである。
「いやしかし、魔力をためれば破れるかもしれない。はああああああああっ!!」
恋が突然叫び始めた。それもかなりのボリュームだ。このバージョンは初めてだ。
と、自称魔力貯め動作を見守る牡丹の背後から、可愛らしい少女の声が聞こえてきた。
「ねえママぁ、あのお姉ちゃんたちなにしてるのぉ~?」
「お母さんにも分からないわ」
幼稚園の帰りだろうか。お姉さんのような若いお母さんと、天使のように愛らしい笑顔を持つ少女が、牡丹と恋の背後を通り過ぎて行った。
その間も恋の魔力貯めは続く。
「もっとよ、もっともっともっと! はああああああああっ!!」
「やめろおおおおっ!」
思わず頭を叩いてしまった。
先輩に対して失礼をしたという後悔の気持ちもあるが、ある意味で正当防衛をしたと考えれば、深く思い悩むこともなかった。
先輩には悪いけれど、あれ以上放っておくと自分の精神がズタボロになってしまう。仕方がないことだったのだ。
そのように自分に言い聞かせ、牡丹はもう一度全身を真っ黒に染め上げた元建造物を見上げる。
「やっぱりこうして遠くから見ているだけじゃあ、手がかりとか見つかりませんね」
「……」
反応がない。
「あの、浅海先輩?」
「……」
やはり反応がない。気になって目線を恋の方へ向けると、先ほど牡丹の叩いた頭を両手で押さえ、口を固く『へ』の字の形に閉じていた。
「痛いんだけど……」
目の端には涙が溜まっていた。その顔は反則である。罪悪感が湧き上がってくるではないか。――うん、謝ろう。
「ごめんなさい。悪かったです。ちょっと力が入っちゃったんです」
「あれがちょっとってレベル!? もう少しで舌を噛むところだったんだよ!」
「はい。物凄く反省しております。次からはもっと力を抜きます」
「え、叩くことは大前提なの? ねえ、ねえっ」
結局のところ、今日もなんの情報も得られずに解散することになった。