〈一章〉中二病生徒会長、参上(2)
牡丹が学び舎――常運高校に通い始めて二か月が経過した。高校生活にはようやく慣れてきた、と言うところだ。
すでに入学後初めてとなる定期試験も実施され、まあそれなりの点数を取ることができた。
新しい友人もどんどん増えているわけだし、なにも問題のない高校生生活が始まったと言えよう。
「それじゃー棚上、この問題解いてみろ。こっちの問題は岬原な」
「うぃ~っす」
「はい」
水曜日一時間目の数学の時間――。
教科担当の雑賀先生は、牡丹と隣の席である岬原緑に、教科書の練習問題を解くよう指名した。
このような『誰かに問題を解かせる授業方式』は高校になっても変わらないようだ。
「よしっ、解けた」
牡丹は問題をノートに解き、一息つく。
このページに書かれていることをまとめた問題となっているため、別段難しいわけでもなく、あまり悩むことなくすんなりと解くことができた。
席を立ち、黒板にノートで解いたものを複写する。
席に戻ると、隣では緑が当てられた問題に悩んでいる様子だった。後頭部で一つにまとめた髪の束が、首を傾げる度に揺れる。
「よし。岬原はまだか?」
「……もうちょっとです」
と言いながらも、解きかけていた途中式を消す。
単に教科書に書かれていることと同じことをすればいいだけなのに、と牡丹は思った。
緑とは中学時代から仲良くしている、牡丹の数少ない女友達だ。
よく言えば子供らしくて愛らしい、悪く言えば成長の遅れている体型をしている。胸も身長も、小学六年生から中学一年生あたりで止まっている。身長順で並ぶと、間違いなく一番前で腰に腕を当てる役割である。もちろん通学で用いる電車では、吊り輪に手が届かず、頑張って背伸びしている彼女を見て笑うと、恐ろしいくらい強力な回し蹴りが襲いかかってくるのだ。
成績は特に悪いわけではなく、人並みに勉強はできる。牡丹と同程度の出来だ。
だからこそ、牡丹が難なく解けた類似問題で緑がここまで悩んでいるのも珍しかった。
気になって教科書を見る。そして緑を悩ませている問題を解いてみようと、シャーペンの芯の先をノートに触れさせ――、
「……は?」
息が詰まった。
「ね? なんか難しいでしょ?」
牡丹の間抜けな声を聞いて、緑が言ってきた。
確かに難しかった。まるで応用問題を解かされているような感じである。
それでも、先ほど自分が解いたやつの類似問題であることには変わりないので、なんとか頑張ったら解けるのではないかと思い、考える。
考える、考える、考える。シャーペンを走らせる。解き終える。教科書の最後の方にある答えを確認する。
「……なぜに?」
答えが違っていた。
消しゴムで解いた途中式を消し、もう一度考え込む。
「先生、分からないです」
流石にお手上げのようだ。緑が静かに白旗を振った。
「まったく、しっかりしてくれよ。あとで私と一緒に解いていこう。それじゃあ、まずは棚上のやつから確認していくぞ」
雑賀先生が、牡丹の計算式に途中式を書き込みながら、分かりやすく解説していく。
三十代後半の雑賀先生は、まるで体育会系のような体つきの先生だ。いつもだるそうな顔をしていて、どこかお堅そうな性格にも見える。だが、授業中にもギャグを言ったりする子供っぽさもあり、なにかと面白みのある先生だ。
そして何より、このように授業がとても分かりやすい。今のところ、牡丹のクラスに数学が嫌いと言うようなやつはいないと思う。実際、数学に苦手意識を持っていた牡丹も、彼の授業のおかげで結構好きな教科となっているくらいだ。
雑賀先生の授業は、他の数学教師と少し違うところがある。それはただ単に公式を覚え、ひたすら問題を解くだけではないところだ。
それがどういうところで使われているか、これからどのような科目と繋がっていくのかなども教えてくる。
他にも、プリントを配布して、「このA4用紙の縦横比はいくらか」と授業にまったく関係のない――、つまり数学的豆知識を学ばせてくれるのだ。ちなみに、縦横比は『√2:1』だった気がする。
そんなことだから、生徒たちからはかなりの高評価を得ている。
「次、岬原の問題を解くぞ。この問題は少し難しいから、しっかりとノート書いとけよ。テストに出しやすい問題だからな」
雑賀先生が解いていく問題を、牡丹はノートに写していく。ちなみに『テストに出る』マークも書き加えた。
「それにしてもラッキーだったわね。簡単な問題が当たって」
ノートに計算式を書き写しながら、緑が口を開いた。
「まあな。日頃の行いってやつ?」
「はあ? だったら私の方が簡単な問題になるでしょ? てか、たまにだけどさ、あんたこういうことあるわよね」
「こういうこと?」
「上手く言えないけど、なんだか運がいいなって出来事よ。この前も、欲しかった漫画の限定版が一つだけ残っていたって喜んでいたじゃん?」
「まあ、たまにそういうことあるよなぁ。でも、そういうことって緑にもあるだろ?」
「あるけどさ。あんた、ちょっとそういう出来事が多いんじゃないってことよ」
言われてみれば、自分が強運の持ち主なのではないかと感じることはある。
小学校の頃も、集団登校で牡丹の前に歩いていたやつのランドセルに、鳥のフンが落ちてきたこともあった。あれも、少し運が悪ければ牡丹の頭に直撃していたわけだし。
昨日も、落とした小銭が自動販売機の下に入ってしまったが、そのまま転がって運よく戻ってきた、なんて出来事があった。
思い返してみれば、いろいろな面で運に見守られているような気がする。
「気のせいだろ。そう思うだけだって」
「むむむぅ。牡丹、なんか運を呼び寄せる方法でも知ってるの?」
「知ってるわけないだろ。あほか」
「そこの二人! ちゃんと話聞いているのか! まったく、いつもいつも!」
「「もちろんです!」」
声が重なった。
「結局、教科書の解答が間違っていたのよねぇー。やっぱり私、ついてないかも……」
授業終了後、教科書やらノートやらをカバンに戻しながら、緑が呟いた。
「たまたまだって。でも、そのおかげで授業楽だったじゃん?」
「うむぅ……。それはそうだけど~」
どこか不満げに緑が頬を膨らます。
緑と牡丹が解けなかった問題を、雑賀先生は自慢げに解いてみせたのだが、残念ながらその答えは牡丹たちが導いたものと同じだった。答えが合わず、「……おかしい」と顔をしかめながら何度も解き直してくれたおかげで、授業があまり進まず楽になったというわけだ。
それがラッキーなのかどうかは人それぞれだけど、少なくとも牡丹にとっては嬉しい出来事だった。
「お~い、棚上や。次の授業、物理教室だろ。行こうぜ!」
「おお。ちょっと待ってくれ」
クラスメイトの男子に声をかけられ、牡丹は慌てて物理の教科書を引っ張り出す。そして、先に教室を出て行った友達を追うように、牡丹も教室を後にした。
常運高校の物理授業は、物理教室と呼ばれる教室とは別の教室で行われる。例えると理科室や音楽室と同じようなものである。
階段のように段差があり、その一段一段に長机が取り付けられている。そのため、最後列は教壇を見下ろすような高さになる。言い換えると、階段教室と呼ばれる類のものだ。
普段牡丹たちが授業を受けている教室がある校舎は東棟で、その向かいに物理教室や音楽室などの特別教室のある西棟、通称特別講義棟が建っている。
その二つの建物をつなぐようにして、渡り廊下が各階に設けられている。上空から見ると、アルファベットの『H』、もしくはカタカナの『エ』のような形をしている。
牡丹たち一年は東校舎の四階に存在し、下の階に下りるにつれて学年が上がっていく。因みに一階には職員室がある。
物理教室は特別講義棟三階にあるため、渡り廊下を渡って階段を下りるだけでいい。
『――三年、浅海恋さん。至急、職員室まで来てください』
物理教室に入る寸前、そのような放送が入った。
放送で聞こえてきた浅海恋という名前の三年生は、我が常運高校の現生徒会長である。
牡丹も何度か集会などで彼女を見たことはあるが、とても可愛かったとか、スタイルが良かったなど、特別これといった印象はなかった。うなじが隠れるほどのショートカットで、身長は同年代の女子たちと比べて少し高め。それくらいだ。
テストの成績はすごくいいらしい。学年トップというわけではないが、それでも五位以下になったことはないそうだ。
そしてこれは噂であるが、どうにも浅海恋という人物は不治の病にかかっているらしい。命にかかわる病気ではないらしいが……。
「遅いぞ、棚上! 早く宿題のプリント見せろ!」
「お前、なんでそんなに偉そうなんだよ! ……って、ちょっと待て、宿題?」
宿題の存在を思い出した瞬間、無残にも始業のチャイムが鳴り響いた。
――先生も宿題のことを忘れており、結局提出しなくてよかったのは本当にラッキーだった。