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お菓子屋さんと冬の精  作者: 木山 夕
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本文

とある街の、初冬。


レンガの街並みのメインストリートを、一人の青年が行きます。


ギュ、ギュと一歩一歩踏みしめる度に鳴る雪の音は、その年の初雪のものでした。


本来、この街中ではうっすらと積もる程度で終わる初雪は、この年が冬に入って急激に寒くなったことの裏付けとなっています。


そんな年に、足音の主は箱を抱えたまま、外套を羽織ることもなく、肩に雪を積もらせながら、一歩踏む度に沈む道のりを小気味良く足音を鳴らしながら帰路についていました。


その姿はとても寒そうで、しかし、街道の端を歩く彼に声をかける人は誰もいません。


その理由の一つが、その鋭い目でした。


猛禽を連想させる黒い瞳は、獲物を定めるかのようにキリキリと動き、その刃物の様に鋭利な視線を誰もが好まなかったからです。


彼にはそのようなつもりは毛頭ありませんでしたが、目つきの悪さが災いしたのは彼が幼い頃からのことで、このような扱いを受けることは慣れっこでした。


そもそもこの街に訪れたのも一年程前のこと。その間地域交流もなく、人付き合いの無い毎日を送っていたので、当たり前といえば悲しいですが、その通りでした。


ギュギュ、ギュと動物の鳴き声のような音を足で奏でながら、滑らないようにゆっくりと彼は歩いていきます。


彼の家は街中にあり、そう遠くはありません。ただ、そこはとても寂れた狭い道の際にあり、およそ人通りのよい立地とは言えない場所にありました。


華やかさとは縁遠そうな、薄暗い通りに面した小さな家です。


とても人がやってくるような所ではありません。事実、そこを通るのは彼と時折近道として利用する幾人かだけでした。


それだけに、その彼以外の利用者はいつも不思議に思っていました。


彼はその事に全く意を介さなかったのですが、その道を通る人たちは口々に呟くのです。



「どうして、こんな場所に菓子屋があるんだ?」と。



彼は、パティシエでした。










そのお店は、名前すら無い小さなお菓子屋さんでした。


日当たりの悪い場所に、申し訳程度に置いてあるメニューボードとOPEN/CLOSEDのプレートがお菓子屋さんの証明であり、それ以上のものは何もありません。


ショウウィンドウや可愛らしい飾りなんて物はなく、ただ無骨にレンガの壁とプレートがかかった木製のドアがあるだけです。メニューボードを覗かなければ、お菓子屋さんだということにすら気がつかないでしょう。


勿論、客足は閑散としており、時折顔を覗かせる変わり種な常連を除いてしまうと、週に一人か二人程度しかそこを訪れる人はいませんでした。


その変わり種の常連も、月に一度しかやってこないので、売り上げはほぼ皆無に等しいものでした。


それでも、彼は毎朝火を起こし、窯を温めてきました。毎日毎日、売れもしないお菓子を作っては、それを捨てる、自分で平らげる、或いは孤児院を開いている教会に寄贈するなりしていたのです。


そんな無為な毎日。


けれど、彼はそんな日々を受け入れていました。


受け入れる他無かった事もありますが、彼はその日々が当然のものであると疑ってなかったからです。


腕が悪い訳ではありません。ただ、このような場所で作るお菓子が中々受け入れられないのは、大勢のお客さんの評判なしには難しいからなのでしょう。


他にも、理由なんていくつもあって、自分の店が流行る事を想像するのさえ困難であるのにどうしてお客さんがやってこようか、などと彼は諦観していたのです。


それでも、お菓子を作り続ける理由が、彼にはありました。


ほんの些細な理由ですが、それでも彼はそれを忘れる事ができなかったのです。




今日も、いつもと変わらず火を起こし、お菓子を作っていました。


しかし、今日はお店を開けていません。扉にはCLOSEDのプレートが凍えるような風に吹かれて音を鳴らしながら吊り下がっていました。


今日は、彼にとって特別な日でした。


彼の友人たちに、自分のお菓子を見せる日なのです。


毎日作る事で、否が応でも上達するお菓子の腕。今回は、それを余すことなくお菓子作りに全力で臨むことで、自分の今を友人たちに見せる事が目的でした。


その友人はお菓子を食べる事が出来ないので、装飾にも拘ります。一目で美味しいとわかるくらいに、と彼は珍しく張り切っていました。


工程の一つ一つを丁寧に、丹念に、真剣に取り組み、そして完成しました。


"Buche de Noel(聖夜の薪)"です。


その倒木の形をしたケーキは、まるで本物の薪のようで、しかしとても甘い匂いのする誰が見ても食べる事が勿体無い程の出来となりました。


その出来に満足しながら、それを箱に入れて、彼はそれを友人たちに見せに行きました。


きっと喜んでくれる。そう思って、彼は降り始めた雪の中外套を羽織る事も忘れて外へと向かったのです。



そして、帰り道。


いつものように薄暗い道、薄暗い店の中へと戻ると、さすさすと体を擦りながら窯の火を起こし直しました。暖炉代わりです。


じんわりと温かくなってきたところで、彼はぐぅと鳴ったお腹をさすりました。こちらはいくら温まっても解決しません。


今日はいつものように売れ残りのお菓子はありません。でも、先ほど作ったケーキならあります。


食べるのが勿体無いと思いましたが、食べない方が勿体ありません。


彼はケーキの入った箱を開けると、一人で食べるには多いその甘い薪を切り分けようとナイフを手に持ちました。


それをそのまま差し込もうとした時。彼はビクリとその手を止めました。


ケーキの上に、何かがいたのです。



それは、掌に乗るくらいに小さな小人で。


それは、雪の化身のように真っ白で。


それは、どの小動物よりも愛らしい。



冬をその身に宿す、精霊でした。






ぱちくりと目を合わせていること数十秒、赤ん坊のように指を咥えながらじーっと見つめていた精霊が満面の笑みを見せたところで、彼は漸く意識を現実に戻しました。


一目で冬の精霊だと気付いたものの、それが現実のものとは思えなかったのです。


幼い頃伝承やおとぎ話で何度も聞いて、いつか会ってみたいと夢想したものの、歳を重ね、現実を知った彼には、実際に本物と直面しても戸惑うばかりです。


ぱたぱたと自分の周りを飛び始めた精霊を見て、混乱を極めた彼は再び箱を閉じ―――今度は精霊も一緒に―――、ケーキを持って外へ出掛けました。外套を羽織る余裕さえ彼にはありませんでした。


向かった先は、数少ない知り合いのお家です。


その人は、街一番の物知りで、彼の古い知人でもありました。


彼は知人の下へと駆け込むと、支離滅裂に説明を始めました。未だ混乱が解けていなかったのです。


しかし、知人は幾つか質問すると、彼の言葉を即座に理解しました。



「なるほど。つまり、君には冬の精が見えている訳だね?」



彼は頷きましたが、その言葉に疑問を抱きました。まるで、知人は目の前で楽しげに踊っている精霊が見えていない様に聞こえたのです。


そして、それは正しくその通りでした。



「おや、今目の前で踊っているのかい?羨ましいね、僕には見えない。きっと君だけに見えているのだろう、他の人たちも同様かもしれないね」



どうして、と彼は頭を捻りましたが、思い当たる節がありません。


ただ一つ、彼の作ったケーキに、精霊は取り憑いているという事だけはわかりました。


知人は言います。



「冬の精は、文献によると『温かさ』を得る事で生きているらしい。普段、森の木々などに住み憑いて冬を過ごしているようだ。温かい地下水を汲んでいるからね、凍りつくことも無いし、動物ほど熱くもない。おそらくその子もまた木々に取り憑こうとして、出来たての温かい、木に似たそのケーキに取り憑いてしまったのではないだろうか」



その推測に、彼は深く納得しました。自分の渾身の作に、精霊が勘違いをしたとあれば悪い気もしません。


それに、冷めてしまえば精霊もケーキから出て行くだろう、と彼は考えました。先ほどケーキの中身はどうなっているのか調べようとしたところ、精霊が全力でそれを阻止しようとしてきたので、どうもケーキを処理することが難しくなってしまったからです。


食べるにしても捨てるにしても、この子をどうにかするしか方法はありません。仕方なく、知人に礼を言った後彼はケーキと精霊を連れて帰りました。


帰り道は、それはそれは寒いものでした。






次の日の朝、彼はいつものように窯に火を入れ、生地を作り始めました。


ただ、いつもと違うのは、観客が自分の作業を覗いている事でした。


冬の精は、嬉しそうにぱたぱたと飛び回りながら、彼の作るお菓子を見ていました。大して面白いものでもないのに、何故こうも嬉しそうなのだろうと彼は思いながら、お菓子を焼き上げました。


これもまた、いつもと変わらない、売れるかどうかわからないお菓子です。


それでも、彼は出来上がったお菓子を丁寧に並べ、売り場へ持ち込もうとしました。


その時でした。


ヒュオッ、と冷たい風がお菓子を通り過ぎて行きました。


一瞬、窓が開いてしまったのかと彼は思いましたが、そんなことはありませんでした。


風の発生源は、冬の精だったのです。


何をした、と怒鳴る前に、彼はその行為の意味を知りました。


並べていたお菓子が、凍ってしまっていたのです。


けぷり、と可愛らしく喉を鳴らした精霊は、満足そうに笑みを浮かべて彼の周りを飛び回りました。


それをみた彼は、激昂しました。


売れ残ってしまうのなら、捨ててしまうくらいなら。この子にあげてしまっても問題ないと思う人もいるかもしれません。


それでも彼は、店に並べる為のお菓子を無断で駄目にしてしまった精霊を、許すことは出来ませんでした。


二度とこんな事をするな!


彼がそう叱りつけると、しゅんとした様子で精霊は宿っているケーキの下へ戻っていきました。ケーキは窓の近くに置いてあり、窓は鍵が開けてあって軽く押すだけで外へ出る事ができます。


次に風が吹く時は、いなくなった時だろうかと彼は思いながら、駄目になってしまったお菓子を取り下げる事にしました。



それから何分かした後に、店の扉が開きました。珍しくお客さんがやってきたのです。


初めて来るお客さんに気分を害されないよう、睨まれたと勘違いされる行為を徹底して慎んでいると、もし、とお客さんから声をかけられました。



「あなたはこのお店の店主でしょうか。実は、娘に珍しいお菓子を買ってあげたいのですが、この時期どれも売り切れてしまって取り寄せる事ができないのです。何か、目新しいお菓子を作る事ができませんか」



どうやら、どこかのお金持ちの人が、珍しいお菓子を求めてこのような薄暗い店へとやってきたようでした。


しかし、彼は腕前は良くてもレパートリーはそう多くありません。そのどれもが、この街のお店を巡れば目にする事ができる程度のものです。


困ってしまった彼は、どうすることもできないと断りを入れようとしました。


しかし、お客さんは何かに気付いたように指を指しました。



「あれは一体なんですか?どうやら凍っているように見えますが、凍ったお菓子など聞いたことがない」



それは、自然解凍させようと置いていた先ほどの精霊が凍らせたお菓子でした。


何かの手違いで凍らせてしまったのだ、味の保証はできない。そういうと、お客さんは是非試食させて欲しいと訴えました。


その真剣な眼差しに圧されるようにして、彼は一つそれをお客さんに差し上げました。


お客さんはそれをまじまじと見つめながら、一口食べると、驚いた様子で言いました。



「美味しい!こんなお菓子は初めてだ!」



その反応に、彼もまた一つお菓子を食べてみました。それは、確かに驚くような美味しさでした。


蕩けるように甘い生クリーム。硬すぎず、しゃりしゃりとした氷の結晶を仄かに纏いながら、口の中で解ける新しい食感。


スポンジ部分もしっとりとしていながら、クッキーのような噛みごたえがあって、まさに未知の美味しさでした。


普通に凍らせただけでは、こうはいきません。


冬の精だけが作れる、新しいお菓子でした。


是非売ってくれと意気込むお客さんに、首を縦に振るとガシッと手を握られ、感動した様子のまま小袋を渡されました。


それは、一杯の金貨が詰め込まれた小袋でした。


眼を剥きながら、こんなにはいただけないとお菓子の元値だけ受け取ろうとすると、お客さんは頑としてそれを拒否し、包んだお菓子を持ち去っていきました。


待ってください、と叫ぶのも虚しく、彼は店に取り残されたようにして波乱は収まりました。


これだけの売り上げは初めてです。お店を開いてからの初めての快挙とも言えるでしょう。


けれど、彼の表情は浮かないものでした。


これは、彼の作ったお菓子ではありますが、お客さんが求めたのは精霊が完成させたお菓子です。厳密に言ってしまうと、この売り上げは彼の手によっての物ではないのです。


自分のお菓子をお客さんの下へ届けたいと願っていた彼の想いは、曲がった形で成し遂げられてしまいました。


それから客足は全くといってありませんでしたが、そんなことは特に問題ないくらいの収益で、もやもやとした気持ちは一向に晴れません。


冷たい風は、あれから一度も吹く事はありませんでした。






それから数日が経ちました。


彼はいつものように窯に火を入れて、いつものように生地を作り始めました。


いつもと変わらない、ただお菓子と向き合う朝。何も変わらない、作ったお菓子を並べる作業。


しかし、それはどことなくぎこちない物で、慣れ親しんだ行為とは思えない要領の悪さでした。


それもその筈です。何度も何度も自分のお菓子に失敗がないか、焦げが付いてないかを確かめながら作るその様子は、まるで店を開いたばかりの新人を連想させます。


とっくの昔に通過儀礼を失敗で終わらせているにも関わらず、彼はまたそれをやり直すという珍妙な事態に陥っていました。


この数日で、彼のお店にはお客さんが急増していたのです。


「あそこの家は珍しいお菓子を手に入れたらしい」「なんでも冷たいお菓子だとか」「ほっぺたが落ちるほど美味しいんだと」


そんな噂が町中で広まり、噂を聞いてきた人が彼のお店に押しかけてきたのです。


皆が皆、凍らせたお菓子を求めていました。しかし、彼はきっぱりとそのような商品は無いといいました。


例え人が沢山いても、高値で売りつける事が出来ても、彼は自分の信念を曲げることを許しませんでした。


ただ、こんな辺鄙なお店に足を運んで来てくれたというのにこのまま帰すには罪悪感を感じ得ませんでした。


目的の物がなく肩を落とすお客さんたちに、彼はわざわざ来てくれたのにと申し訳なく思って、出来たてのお菓子をお客さんたちにふるまうことにしました。


お客さんたちは渋々といった様子で溜飲と共にお菓子を咀嚼します。如何にも目新しさを感じないお菓子に興味はないとでもいうような態度でした。


しかし、次の瞬間。彼らはその味に目を丸くさせました。


彼のお菓子は、冷たいお菓子という物珍しさ無しにしてもやっていけるポテンシャルを持っていたのです。


珍しいお菓子を手に入れる事は出来なかったものの、そこらのお店よりも美味しいお菓子が出て来たのです。お客さんたちは口々に「美味い」「このお菓子でいいから売ってくれ」といい始めました。


彼は戸惑ったものの、初めて自分のお菓子が評価されたことを実感すると嬉しくなりました。


それからというもの、お店の評判は風のように颯爽と広まって、一時には列が出来る程お客さんがやってくるぐらい、お店は繁盛するようになったのです。


既にお店の前で待っている人もいます。風邪をひいてはいけないと、早くにお店を開けるとあっという間に並べたお菓子がなくなっていきました。


その日は、初めて全てのお菓子が売り切れとなりました。


材料がなくなってしまったので、早めの店仕舞いをして買い出しに行くことにしました。何もかもが今までと違う出来事で、彼は夢でもみているのではないかとも思いました。


でも、肌に刺すような冬の寒さは健在で、靴に入り込む雪は足をじくじくと霜焼けにしてしまいます。冬は彼に夢でないことを教えていました。


念願叶って、やっと彼のお菓子が街の人たちに届ける事ができたのです。流行りの一環で一時的なものなのかもしれませんが、それでも彼は喜びに満ちていました。


これで、少しは赦されるだろうか。


そんな事を考えながら、けれど彼はふと寒空の下足を止めてしまいました。


冬の精霊の事を思い出したのです。


確かにあの子はやってはいけない事をしました。しかし、あの冷たいお菓子が無ければ今のように自分のお菓子が瞬く間に売れる事はなかったでしょう。


叱った言葉を撤回するつもりはありませんが、あの子のおかげであることもまた、事実。


それに報いる事を、感謝の気持ちを伝えないのは不義ではないだろうか。


彼はそう結論付けて、あの子にお礼をしようと考えました。


お菓子を凍らせたあの時のはしゃぎようから、きっとお菓子を作ってあげれば喜ぶだろうと思い、でもそれだけでは足りないと離れの林で低木を切り、それらをプレゼントする事にしました。精霊は木に宿ると知人が言っていたからです。


凍らせたお菓子は温め直して試食用にするか、それとも食べてしまうかどちらにしようと考えつつ、彼は材料と低木を持って家に入りました。


早速切ってきた木をお菓子の薪株の近くに置きました。


気に入ってくれるだろうか、とそわそわしながら待ちますが、中々精霊は出てきません。


一体どうしたことだろう。彼は呼びかけますが、返事はありません。


もしかして、もう出て行ってしまったのだろうか。お礼も言えずに去ってしまったのかもしれないと思うと、彼は悲しくなりました。


痛む胸を堪えながら、宿り木となっていたケーキに触れると、彼はバッと触れた手を抱えて飛びすさりました。


熱い程の冷たさ。矛盾を孕んだそのケーキは、よくみればさも燃えているように空気中の水分を結晶化させ、うっすらと白い煙を立ち昇らせていました。


嫌な予感がした彼は、数日前と全く同じように、ケーキを箱に入れて知人の家まで駆け込んでいきました。


知人は切羽詰まった彼の様子を見、異常をきたしたケーキを見ると、冷静に事の重大さを判断しました。



「おそらく、このままではこのケーキごと、精霊は永久に凍りついてしまうだろう」



その言葉に、彼は愕然としました。どうにか助ける事は出来ないのか、この子にはまだ恩を返していないのだと問い詰めると、知人は難しい顔をしていいました。



「冬の精霊は『温かさ』を糧にしていると言ったのを覚えているかい?」



彼は頷きました。ならば、このケーキを精霊が好ましい温度で温めてやればいいのかと彼はほっとしましたが、知人は首を横に振って言いました。



「本来、精霊が人工の物に住み憑くのは非常に稀な事なのだと思う。精霊が見えなくなってしまったのは、人間が住みやすいように土地を拓き、木を伐採し、都合の良いように埋め直したからだと謂われているんだ。人間たちの独善的な手が加わった環境を好まなかったんだよ。そんな種族が、君の作ったケーキに宿った。これは、本来ならあり得ないことなのだよ」



知人は続けます。



「きっと、温度だけの『温かさ』だけじゃない、何かが君のケーキにあった。だから精霊は本物の木ではなく君のケーキを選んだのだと僕は思う。


だからね。きっと温めるだけでは駄目なんだ。精霊が求めた『温かさ』で、その凍てついた宿り木を解かさなければならないのだと、僕は思うよ」



真っ直ぐな目で彼を見る知人に、彼は俯き何か思い詰めた表情で立ち尽くしていました。


しばらくして、彼は知人に礼を言うと、一歩一歩踏みしめる様にして帰っていきました。


外は、既に真っ暗でした。






ぱちぱちと鳴る窯の火を眺めながら、彼は渦巻く感情の波にもまれていました。


迷っているのです。本当に自分がこの手でお菓子を作っていいのかを。


精霊を助ける事に不満がある訳ではけしてありません。恩を返すためにお菓子を作る事を躊躇している訳でもありません。


正しくは、彼の覚悟を彼自身が待っている、と形容する方が適しているでしょうか。


散々お菓子を作っておきながら、いざ本当の意味で作りたかったお菓子作りをするということに、彼は僅かな恐怖を感じていたのです。


彼はゆらゆらと揺れる火を眼に映しながら、視線の先は彼の過去にありました。




彼は、戦争孤児でした。


教会の孤児院で幼少を過ごした彼は、その容貌からあまりその時の事を語ろうとしません。目つきの悪さが引き起こした良くない思い出ばかりで、良い思い出は数えるほどしかなかったからです。


そんな数えるほどの良い思い出には、いつだってお菓子がありました。


碌にご飯を食べる事ができなかった当時には、お菓子という存在はまるで魔法のようで、みんなを笑顔にしてくれるのです。


恵まれなかった人生に、唯一彩りを与えてくれたのが、お菓子だったのです。


怠け者にはお菓子が貰えない、そんな院長の言葉に彼は働き者であろうといつも弱音一つ吐かずに過ごしていました。


しかし、それも今思えば豊かな日々だったのかもしれません。


彼は孤児院を出ると兵役に就き、何度も戦争へ向かう事になりました。


たくさん人を殺しました。


たくさん物を略奪しました。


たくさん誰かを不幸にしました。


それは、有る意味で国一番の働き者だったのでしょう。


いつしか彼は『血塗れ禽鳥』と怖れられ、敵兵から畏怖を、仲間から畏敬の眼差しを送られるようになりました。


救いだったのは、同じ部隊の同僚たちは彼の気の良い仲間であったことでしょう。


彼は初めての友人たちと共に戦場を駆け抜け、狂気のままに剣を振りました。


国の為、祖国の為と兵士たちは戦いましたが、彼にとっては仲間の為に剣を振りかざしていたのです。


目の前の命と引き換えに、仲間の安全を得る為に。


しかし、ある時。大きな戦に駆り出された彼らは、敵将の策略により敗走を余儀無くされました。


多くの命を失いました。


敵兵が。味方が。民間人が。


倒れていく仲間たちと、巻き込まれた民間人が血を流すのを横目に、迫り来る敵軍を決死の思いで屠り、積もった雪が泥と血で黒く染められ。


その全てが終わったとき。


最後に立っていたのは、彼だけでした。


勿論彼自身も無事ではなく、もう二度と剣が握れない身体となってしまいました。


友人も、名誉も、尊厳も、何もかも失った彼は、心がからっぽになってしまったかのように思いました。


何も残っていない。何も埋まっていない。覗き込んでも何も見えない、がらんどうのような心。


いっそ消えてなくなってしまった方が楽なような気がして、飲まず食わずただ椅子に座っていた日もありました。


何もかもがどうでもいい。次第に動けなくなっていった彼は絶望に犯された目で死を待ちました。


どうせ、生きる目的も、価値も。当になくなってしまったのだから。


彼は待ちました。


待ちました。


死を。


待ちました。






―――――でも。


それでも。




脳裏に過るのは、孤児院で食べたお菓子でした。




幽鬼のように立ち上がった彼は、ふらふらと吸い込まれるようにしてお菓子を作り始めます。


見様見真似で作ったお菓子は、形が崩れ、パサパサで、あまりに冒涜的な味をしていました。


それでも、それでも。



美味しい、と。



彼は、涙で顔を濡らしながら、忘れていた笑顔を取り戻しました。


彼にとって、お菓子とは笑顔の象徴だったのです。




ぱちっ、と火が爆ぜた音に反応して、彼は立ち上がりました。


窯の中は十分温まりました。生地を作れば、すぐにでも焼く事ができるでしょう。


みんなをお菓子で笑顔にしたい。その思いから、彼はずっとお菓子を作り続けていました。


友人たちの墓の前で、彼は誓ったのです。自分の残りの生涯を、国や剣の為ではなく、菓子作りに捧げる事を。


自分の罪を、誰かにお菓子を届ける事で贖う事を。


彼自身がその罪を赦すには、あまりにも人を殺し過ぎました。


たとえ自分のお菓子が売れなくても、彼にとっては当然でした。人殺しの作ったお菓子が売れる筈がなかったのです。


彼はお菓子を作ることそれ自体に満足していました。お菓子を押し売っても贖罪にはなりませんし、たまに来る常連さんに必要とされるだけでも幸せだったからです。


だからこそ、彼は覚悟を決めなければなりませんでした。


人殺しが、人を殺した手でたった一人の誰かの為にお菓子を作るということを。


それは、自分の罪と向き合うことそのものに違いありません。


彼は、漸く。罪の向こう側にある、本来あるべき菓子作りの姿勢に挑もうとしていたのでした。



「きっと、こんな血に汚れた手で生地を捏ねるのは冒涜に値するのだろう」



彼は震える手を握り、それを抑え込みながら作業台の前に立ちます。



「駄目かもしれない。間違っているかもしれない。悪しき行為なのかもしれない」



誰かを屠った手で、誰かに手を差し伸べる。それは、正しい行いなのでしょうか。


彼にはわかりません。



「それでも」



彼は、目に光を宿しながら、言いました。




「どうか、お前の為だけを願って、この腕を奮う事を許して欲しい」




彼は、生地を作り始めました。



出来上がったのは、二本目のケーキ


それを、彼は燃えるように凍る一本目に折り重なるようにして、乗せました。




燃え移る筈の冷気は、二本目の『温かさ』によって鎮火されていきました。







ぱちくり。と精霊は目を覚ましました。


何故自分は氷になっていないのか。そう言いたげに、自分の体を確かめるようにして近くを飛び回りました。


そして、宿り木が二つに増えている事に気付き、精霊はどうして復調したのかを理解しました。


その後、精霊の恩人たる彼がお菓子を乗せたプレートを抱えて部屋の中に入ってきました。


彼は元気そうな精霊の様子を見てほっとしつつ、テーブルの上にお菓子を並べ始めました。


精霊は恐る恐ると彼の顔を覗き込みます。食べたくて仕方がないのでしょう。


これはお前の為に作った物だから、遠慮しなくていい。彼はそう言いました。


朗らかな笑顔を浮かべる彼をみて、精霊は歓喜に衝かされるまま踊り始めました。


彼もその踊りをみて、喜んでくれていると嬉しくなりました。



それから、彼は店に出す為のお菓子を作り始めました。食事を終えた精霊が、それをじっと見つめています。出来上がっても、精霊はただじっと見つめていました。彼の言いつけを守っているのです。


精霊は、目の前のお菓子がとても輝いているように見えました。


そして、自分もそんなお菓子を作ってみたいと思ったのか。作業台までぷぃんと飛んで行くと、余っていた材料を使って、見様見真似で捏ね始めようとしました。


しかし、うまくいきません。凍ってしまうのです。


残念そうな顔をする精霊を見て、彼はいいました。



一緒に作ってみるか?



精霊はパァッと顔を輝かせ、頷きました。


精霊が出来る所を任せ、出来ないところを彼がやる。まるでパートナーのように、睦まじく作り上げていきます。


勿論、殆どが彼の作業となってしまいましたが、精霊はとても嬉しそうでした。


出来上がったのは、"Baumkuchen(木のケーキ)"。


彼の大好きな、思い出のお菓子です。


美味しそうに出来上がったケーキは、しかしそれで完成ではありません。


これは、精霊が食べて、凍らせて初めて完成するケーキなのです。何故ならこのケーキは、作り主たる精霊が味見をしなければならないからです。


精霊に味見を勧めると、精霊は少し戸惑いました。元々売り出すつもりで作ったお菓子です。お客さんに冷たいお菓子を出していいのか、不安になったのでしょう。


しかし、彼は言いました。


売りに出すのなら、必ず味見をしなくてはならない。それが作り手としての義務だ。


安心しなさい。きっと売れる。


それは、パティシエとして生きる事を決めた彼の信念の一つであり、またどうしても譲れない理由がありました。


彼は、どうしてもこのケーキをまず精霊に食べて欲しかったのです。


そして、どうしてもこのケーキをお客さんにも食べて欲しかったのです。


パティシエになったばかりの自分を幻視しながら。


この子のケーキは絶対に美味しい筈だと。そう確信を込めて。


精霊は、意を決してケーキの『温かさ』を食べました。


すると、感動したのか、ぷるぷる震えながら、しかし満面の笑みで飛び回りました。


彼はその反応に満足しつつ、ケーキを切り分けその内の一つをかじりました。


やはり、それはとても美味しいものでした。






それから、お店は空前絶後の大繁盛を迎えました。


凍ったお菓子。冷たいケーキ。それを求めて、他の街からもお客さんがやってきて、長蛇の列は留まる事を知りません。


売り切れるのは、冬の精霊が作ったケーキがいつも先ですが、それでも彼の作った温かいケーキも同じくらい人気がありました。


薄暗い路地は、店内は。いつの間にか、人で賑わい明るい場所となっていきました。



そして、あっという間に時間が経ち。



春が、やってきました。





お別れの時が、やってきたのです。




彼は、薪のケーキを持って外に出ると、解け残った雪がキラキラして眩しい空を見上げました。


いえ、雪だけではありません。


空には、風に乗ってたくさんの精霊たちが飛んでいました。


きっと、冬を追いかけているのでしょう。彼は、気持ちの良さそうに飛んでいく彼らを眩しそうに見つめました。


そして、手元に残っている、恐らく最後の冬の精。


精霊は、涙の代わりに大きな結晶の粒をこぼしていました。


そんな精霊を、彼はあやしながら言います。



また、会える。来年の冬に、きっとまた会える。



だからそれまで、お別れ。



彼は、精霊を優しく撫でました。



―――また、会える?



彼は頷きました。声が聞こえた訳ではありません。幻聴でもありません。


言葉が通じなくたって、わかるのです。



何故なら、友達なのだから。



精霊は涙を拭い、彼の頬にキスをすると、一際強い風に乗って大空へ舞い上がっていきました。


そして、大勢の内の綺麗な輝きの一つになって、空を美しく翔んでいきました。


彼は、見えなくなるまでそれを眺めていました。


いつまでも、いつまでも。







小さな小さな友人の旅立ちを。


いつまでも、眺めていました。





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