第4部 香織と英秋
俺の中の無性な腹立たしさが奴へ詰め寄らせるも頭がくらくらして立っているのもままならない状態だった俺。昨日の打ち上げから随分と飲んでいるせいだ。
桂介はそんな俺を抱き抱えるようにして玄関へと引っ張っていき勢いよく引戸を開け放った。すると地面を叩きつける雨音と共にうんざりするような生暖かい空気が雪崩れ込み、奴の支えをうざったく感じた俺は力任せに奴を押しのけた。そして暖簾を掻き分け軒先へと出ると土砂降りの雨の中にハザードランプを点滅させて佇む白い車が目に入った。
「……?」
誰か乗っているのかと俺は運転席の方を凝視すると俺の視線を待っていたかの様に窓が開いた。
「ヒデさぁん!」
「ヒ、ヒメ……?」
真夜中の1時過ぎのこの時間、引っ越しをすると言ってまほろばを退団し去って行ったはずの出来すぎた女が俺の目の前に現れた。出来すぎた笑顔をこちらへ向け陽気に手を振って。
この姿を目にした俺は頭の中が真っ白になると言う状態を味わい身動きが取れなかった。
「おいヒデ! 何つっ立ってるんだよ! はよ来いって!」
いつの間にか桂介が彼女の乗る車を背にして俺に手招きしている。
(気にくわない。何なんだ、これは?)
釈然とするものは何もない。全てが仕掛けられた、用意されたものだとして、この展開にどういう意味があるんだ?
遠藤香織は劇団まほろば一座を退団した。皆の前でお別れの挨拶して。
あれをも作り話だったとでも?
だとしてそれで奴は何をしたいんだ?
奴だけじゃない。彼女も。そしてトモちんやティファニーや皆も。
まさかSaltyのメンバーも?
まさか……
まさか知らないのは俺一人だけなのか?
笑えないだろ、それは……
「ったく、面倒くせぇ男だなぁ」
と桂介が突然、立ちすくんでいた俺の首に腕を巻き付け締めてきた。
「痛いっ! 痛いって。な、何が面倒くせぇだよ。これはどういうことだよ?!」
奴は俺の首を締めたまま彼女の乗る車の助手席側へと引っ張っていきドアを開けると俺を車へと押し込んだ。
不信感を通り越し何もかも理解出来ない状態にあった俺は口の利けない赤ん坊の如くされるがままだった。
「こんばんは、ヒデさん」
運転席の彼女は爽やかな笑顔できらびやかな声を弾ませた。
「お、おお。こんばんちは。ん? 俺何言ってんだ?」
俺の動揺丸出しの様に彼女は口に手を当てクスクスと笑う。
「で、何? 免許、取ったんだ。おめでとう……」
「ありがとうございます!」
彼女の清々しい返事。
どんな表情をしていたのだろうか――?
今の俺には彼女を直視する事が出来なかった。
「で、なんでここにヒメがいるの?」
俺は桂介へと聞いた。
「ヒメがあっちへ行くのは明後日だ。ヒメの奴がよ、ヒデを乗せてドライブしたいって言うもんだから。しゃあねぇからお膳立てしてやった。感謝しろよ」
「すみませんヒデさん。私がわがまま言ったんで」
意味の分からない彼女の回答。思考が止まっていた俺は考えも無しに口から勝手に言葉が出る。桂介に対してだ。
「俺は実験体か?」
桂介は鼻で笑う。そして運転席にいた彼女が俺の右肩を軽く叩いてきた。俺は無意識に彼女の方へと顔を向けた。
目に入ったのは口を尖らせた彼女、ヒメと呼ばれていた遠藤香織。
彼女は不貞腐れ調で言った。
「違いますよ。嫌らしい言い方ですねぇ。これでも技能試験は一発だったんですよ」
すると今度は桂介が俺の肩を叩きまたも理解出来ない事を口にした。
「危ないと思ったらお前が横でそうなる前にサポートしてやるんだよ」
「はぁ?」
「ヒメが最初にお前を乗せてドライブしたかったんだと」
「はぁ?!」
「わからねぇのかよ?」
「ん? だから実験体だろ? ヒメの運転に耐えられるかどうか? って」
と俺が応えた途端、桂介は何か手にしていたもので俺の頭を叩いてきた。
「痛ってぇ!」
「分かっててとぼけた振りすんなよ、ったく。つまりお前が彦星様だったってことだ」
織姫と彦星――
生憎俺は二人の関係を知らない。恋人なのか夫婦なのか、それとも兄妹なのか。ただ知っているのは一年に一回だけ会うことができるらしい。
「俺は一年もじっと待てる人間じゃねぇよ」
――待っているだけと言う事ほど退屈なものはない。
桂介は言った。
「お前は思春期のガキか? 三十目前のオッサンが何言ってんだよ、パータレ。ステージの上では一丁前のくせして。別にあの世とこの世ほどの距離じゃねぇだろ? ぐだぐだ言っとらずにドライブしてる間に話でもして考えろ、ヒデ!」
桂介はそう言う終わると助手席の扉を勝手に閉めた。そしてすぐに俺を乗せた彼女の運転する車がゆっくりと動き出した。
*
車が動き出して直ぐ彼女はさっきまでの雰囲気とは打って変わりしっとりとした声を響かせた。
「すみませんでした。驚かすような事をして」
「いや、別にそれは構わないけど……でも何でいるの? 昨日すぐ移動するって確か言ってたよね?」
「ですよね……」
俺も彼女も前を見たままの会話。
俺はシートを少し倒し彼女のいない方の窓を呆然と眺めた。
雨粒が貼り付いては流れていく。
踏ん張りの効かない雨粒たち。
そこへ重なり浮かぶように映る俺自身。
――彼女と出会ってからどれだけ経ったろう?
――バービードールのように見えた出来すぎた女。
――もう会うこと無いだろうと記憶の片隅に押しやる事に決めた女。
――その女がハンドル握る車に俺は今乗っている。
夢にも見たこと無いシチュエーションに出くわした俺は自分の胸打つ鼓動に慌てていた。三十路なんて言われ方をする歳を目前にしているくせして。桂介の言う通り思春期のガキ同然だ。
「実は東京行く話、嘘なんです」
「ん? なんだって?」
彼女が突然放った言葉に慌てた俺は身を起こし無意識的に彼女の方を見た。
一体何が起きているんだ――?
酒の飲み過ぎで妄想と夢が重なり合っているのか――?
彼女は相変わらずの整った綺麗な横顔を見せたまま続けた。
「正確には行くつもりだったんですけど止めたんです。実はこれ、誰にも言ってないんですけどね。当初は家族と一緒に東京へ行くつもりだったんですけど、やっぱり私はここが好きだと言うことがわかって。一人になるのは不安でしたけれど、どうせいつかは自立しなきゃいけないわけで」
「ん。まぁ、そうだな……」
「で、私、トリマーにやっぱりなりたいなと思って来期から学校通うことにしたんです」
「トリマー? ああ、犬の美容師さん? そういえばペットショップでバイトしてたんだったね……」
「です。で、そっちの仕事も自動車の免許持ってないとやりづらいこともあって取ったんです、私」
「そうなんだ……そうだったんだ……なるほどね……頑張ったね、お金もかかるだろうし」
「そうですね。親からいくらか援助は受けてますけど」
「そりゃ一人娘にびた一文出さない親もいないだろー」
「ふふ、そうですかね? で、私。そもそも芝居って向いてないんですよ、実際。別にみんなと違って好きでやってたわけじゃないんで」
「そうなんだ……」
「私、本番に弱いんです」
「ほぉ……」
「人前で演技するって私にとっては人前で裸になるくらい恥ずかしい事で、全然、本当は苦手なんです。人前に立つの」
「そうだったんだ……そんな風には、見えなかった、けど……」
「いい経験になりましたけどね。それに、おかげで英秋さんと知り合えて、今こうやって一緒にいる時間ができたんで」
――彼女は一体、何を言いたい?
――俺は一体、何を彼女に期待しているんだ?
俺の中の無性の緊張感が溢れ出す。
「そ、そういうことを、さらっと、い、言うんだな」
「これが私です。私は人の作った言葉で話したくないんです。とにかく今夜は朝まで付き合ってください。私の運転で」
いつの間にか止まっていた外の景色。俺は窓に映る彼女の視線を受け止めた。
「あ、ああ。まあ、とにかく安全運転で。あのぉ深夜だから、車は少ないんだろうけど、この辺り街灯が少ないから、人には注意して」
「はい!」
彼女の抜けの良い透き通った声の返事を耳にした俺は張り詰めていたものが何故か解け、ゆっくりシートへもたれ掛かった。そして俺は目だけで彼女の方を見た。
ハンドルを握る白い手。
手捌きはまだぎこちない。
右左折の度に大袈裟なほど首を動かしているのが分かる。
この姿をいつまでもこうして眺めていたい。
黙ったままいつまでも。
それで構わない。
それ以上望んでしまってはこの時間が一瞬にして泡になって消えてしまう気がする……
こんな幼げな気持ちを抱いたのは何年ぶりだろうか?
いや、そんなことはもういい。振り返るのはもう億劫だ。