第2部 英秋と桂介
あまたへ向かう途中、大粒の雨がぽたぽたと落ち始めてきた。携帯傘なんて持っていなかった俺はびしょ濡れになる前にとアルコールで充たされていた体を躍らせあまたへ向かって駆けた。
びた濡れを避けることがなんとか出来た俺は息を切らせながら暖簾が下ろされ薄らと明かりの灯ったあまたの引戸を開けた。
「お! 早かったなぁ。先に飲んどるわ」と店内、中ほどにいた桂介が俺に向かって缶ビールを見せた。
「打ち上げからすぐこっちに来たのか?」
「ああ」
「だったら打ち上げん時に声かけろよ。わざわざ遠回りさせやがって」
「いい食後の運動になったろ?」
「そんな運動要らねぇっつうの」
俺は奴の何時もの口調に笑って応えながら店内の自販機でロング缶ビールを手に入れ奴の前に座った。
「いやいや、彩乃さんに店開けてもらえるか聞いてからと思ってたからつい遅くなった。悪かったな、ヒデ」
桂介は朗らかな顔つきで言うと「んじゃ、乾杯だ」と催促してきた。
「しゃあねぇなぁ」
俺は缶の口を開け「お疲れ」と気分良く乾杯した。そして俺はビールの喉ごしを楽しむと早速奴へ訪ねた。
「で、何だて、わざわざ俺を呼び出して話したい事って?」
「まぁ何て言うかぁ……」
俺から目を逸らしビールを口にした桂介。
「何だて、その気味悪いはにかみ顔は?」
さらに奴は露骨に照れ笑いを見せるとテーブルの前に置かれた柿の種を頬張り少し間を置いてから口を開いた。
「まずはヒデ、本当に今回はありがとう。色々無理言って悪かったな」
「別に改めて言う事でも無いだろ? もうそれは打ち上げで散々聞いたよ」
「かも知れねぇけど、ホントヒデには短期間で曲を作ってもらって舞台では演奏してもらって、そのうえ役者までやってもらってな。感謝してるよ」
いつになく謙虚な姿勢を見せる桂介。俺は奴の言葉を素直に受け応えた。
「どういたしまして。でも何で俺達を使おうって思ったんだ?」
「ん? ああ、以前から生演奏を使った演出考えてたんだわ。ただBGMを生演奏にしただけじゃ面白くないし、別にミュージカルやオペレッタをやりたい訳でもないし。で、塩漬けのプレイを見たときバンドものでやるってどうなん? なんて思い始めてな」
「ふーん」
「お互い良く知ってる古い付き合いの仲だし、俺自身そっちサイドの人間とは繋がりあんまり無いって言うのもあったし」
「俺達なら無茶な注文も出来るしな」
と俺の皮肉に桂介は「そう言う訳じゃねぇよ」と軽く笑って言うと続けた。
「それでヒメにさぁ、ヒデ達に参加してもらおうかと考えてるって言ったらヒメすごく喜んで賛成してくれたぞ」
「そうなんだ」
何故か俺は奴の今の言葉が面白くないものに聞こえた。
「お前淡々として。素直に喜べよ」
「いや、喜んでるよ。で何、今回の企画は彼女の為に?」
「まあ、そうだな」とあっさり口にした桂介から俺は何かを聞き出したい訳でもなかったが探るように聞いた。
「でもたった一人役者が辞めるからって大袈裟に急遽内容変えるってあまりにも酷すぎないか? 色々と」
「確かに酷いな。もし俺が劇団皆の立場だったら発狂して劇団辞めたね」
「と言う事を今回お前はやっちまった訳だ」
「ああ、やっちまったわ」
顔に深い笑い皺を作った桂介。そして俺達二人揃ってビールを口にした。
「桂介、俺思うんだけどお前はホント人に恵まれてるよな。まほろばのメンバーは本当に良い人ばかりだ」
「そうだな。ヒデの言うとおり恵まれてるな。それには智之の存在が大きい」
「トモちんな。高校から一緒だもんな。もう十年以上だ。親兄弟以外でこんな長い付き合いはなかなか無いわ」
「だな。ってそれはお前らも一緒だろ。それも四人とも」
「確かに。メンバー交代する事なくずっと一緒にやってきたからな。それを考えると凄いと思うよ」
そう桂介に対して言った俺だがこのままうやむやにさせまいと桂介に聞いた。
「でさぁ、何でヒメの脱退であんな事やろうと思ったんだて?」
胸の中で引っ掛かっていた事だ。
「ん? それはまぁ何でもいいだろう」
「笑って誤魔化すなよ。今まで辞めていった団員がいたのに彼女の時だけ大層特別な事するなんて意味アリだろ、どう考えても。団員連中からも問いただされたんじゃねぇの?」
「ん? いや、団員の皆とはここん所そんなに喋ってなかったからな。今回の件暴露してから稽古の時以外でゆっくり口利いたのは今日の打ち上げだったから」
「聞く暇も与えずって訳か?」
「そう言う所だな」
「ホント汚ぇ怖い奴だな」
「まあな」
「まあなじゃねぇよ。で、ホントの理由教えろよ」
「は? 何が?」
「ったく。誤魔化すなて。話を別の方へ持ってこうとしてもダメだ。何でヒメちゃんだけ特別だったんだて?」
なかなか話したがらない桂介に俺が執拗に迫ると桂介は苦笑して言った。
「なかなかヒデもしつこいなぁ」
「そりゃあこっちもかなり無茶な事やったんだ。知る権利はある。それに俺は団員じゃないから変な気遣いも無用だろ? ウチらしかいないんだから本当の事言えよ」
桂介は考え事でもするかのように目を上に向けると口を開いた。
「んー実はな、って言うか、まあ、その、やっぱりウチの看板女優としていたヒメの脱退はかなり痛手な訳よ劇団として、実際。でもやっぱだからと言って無理言って引き留めても何も良い事は無いわけでさぁ。で、ヒメのファンもまた実際多い訳で。で色々考えた。当初の予定の話ではヒメは端役だったし、そもそも彼女が辞めると言う話もなかった」
「いつ辞めるって話を?」
「えーっと、ふた月前くらいだったかなぁ?」
「そんな前なら他に色々方法はあったろぉ?」
「まぁね。あったかとは思う」
桂介は俺から視線を外すと俯き気味のまま奴らしからぬ恥じらいの表情を露骨に見せ言った。
「ヒデには正直に言っとくわ」
「ああ。話せよ」
すると桂介は意外な弱々しい声で洩らした。
「俺がぐずったんだ」
「ぐずったって?」
「なんとか続けてもらえないかと」
桂介の態度に何も感じないでもなかった。でもこの頃の俺には奴の心情を察する余裕までは無かったものの現実の流れとして今、奴が洩らした行動を何となく理解して受け止める程度は出来た。
「そうだったのか……でもそりゃあ、桂介の立場なら誰でも引き留めようと必死になるのは当然だろ。なかなかあんな魅力的な子はいないだろうし」
「そうなんだよな……」
その口振りは奴が本気の想いで彼女に接していたのかと思わせるものだった。
そして俺達の間にほんの小さな無言の間が出来た。
「あれ? 雨降ってきたか?」
と桂介が入り口の方を凝視して言うと俺も入口へと目を向けた。すると引戸の磨りガラスが濡れている事に気付いた。
「俺がこっちに来る時ぽたぽた降り始めてたからな。本降りになったか?」
屋根を賑やかに叩きつける雨粒の音が俺の耳へと届き始めた。