第2部 Night Train
俺の腕の中にあったアコギを鳴らすことなくスタンドへ立て掛けると窓から身を乗り出し外の空気に触れた。今日は梅雨の中休み的な一日だったせいか外は思いのほか風があり涼しく感じた。
俺はさっきまで飲んでいた塩なしのソルティ・ドッグを今度はきっちりスノースタイルで仕上げるとグラスを手に手狭なベランダへと出た。そして手摺に寄りかかり夜空を眺めた。
「意外と見えるもんだな」
今まで自分の家から見える夜空など気にした事がなかった。ここの辺りは住宅街で街灯が控えめのせいもあってか思った以上に星がいくつも目に入る。
俺は奴の依頼を引き受けたことに心底後悔していた――
メンバーの皆で話し合った時、一郎と茂は生演奏は良くても役者として舞台へ上がるのは拒否していた。しかし意外にも誠は「面白そーじゃん。それにヒメちゃんとはそれで完全にお別れの訳だろ? だったら餞別としてもいい記念になるんじゃないかな? 別に俺らがヘマしたって素人に短期間で無理やらせた桂介が悪いってことでいい事ない?」と陽気に言った。
12周年ライブの打ち上げで皆が酔っ払っていた中での話し合いで最終的には「まぁいいか」という適当な判断で全員了承し桂介へと連絡した。そして奴からの返信。
『ありがとう。打ち合わせの日時は追って連絡する。悪いけど曲の方は早めに頼むな』
俺は曲の事を考えていなかった。皆は演奏する事自体は何の苦にもならない訳で、皆にとって問題だったのは演劇をやるかどうかの部分だけだったから。
俺の憂鬱さは最高潮に達していた――
遠藤香織が劇団まほろば一座を退団する。
それで?
そんな事から俺が何を感じ思い起こしイメージ出来る? どんな曲の世界観が見える?
思い出したくない記憶。でも忘れられない記憶。その様々な記憶が否応なしに蘇って来る。奴のせいで。
出会って知り合い言葉を交わすようになり一緒にライブに行ったり飯食ったりと一つ一つの小さな想い出。
想い出?
笑える……
そんな大層なもんじゃあるまい……単なる俺の浅い記憶でしかないのに……
それに想い出と称するには痛々しい俺の誕生日の日の堪らなかった出来事。あれはこびりつくように記憶されている。お陰でまともな眠りにつけやしない。
更には神の悪戯かそれとも運命の悪戯なんてものが存在するかも知れないと思わせられた出来事が俺へ追い討ちをかけていた――
あの日以降、憂鬱な気持ちを抱えた日々を送っていた俺は気分転換がてら栄周辺へと出掛けた時の帰り道の事。
藤ヶ丘駅近くを歩いていると小さなペットショップのショウウインドウがふと目に入った。何気に近づくと小型犬がケージの中で同居人同士じゃれあっていた。
「チワワか」
片手に乗るくらいの小さなチワワ二匹が無邪気にじゃれあう姿は何とも愛らしい。
「可愛いなぁ」
そして無意識に目が行ったプライスカード。
「43万! 43万ねぇ……俺には無理だ。43万あったらグレッチのブラックペンギン手に入れるな、絶対」
そんな独り言をつい口にしてしまうほど時間を忘れてずっと眺めていそうな空間に不意打つ女の声が入ってきた。
「可愛いですよね? 抱っこしてみますか?」
「え?」
慌てて俺は声の方へ顔を向けたが夕陽を映し出していたビルの背景のせいで誰がいるのか分からなく俺はそのまま目を細め丸めていた体を起こした。
俺は絶句した――
そこにいたのは随分な笑顔を眩しく輝かせている女、あの遠藤香織だった。
「あれ? ヒメちゃん! どうしたの、こんなところで?」
と俺は震え上がるほどの動揺を瞬時に圧し殺し口から勝手に勝手な言葉が出ていた。
「どうしたの? じゃないですよ! 私の方こそどうしたの? ですよ。こんにちは、ヒデさん」
彼女はあの日の姿を俺が見ていたなんて露知らずなんだろう。俺をからかっているかのような笑顔を見せていた。知らぬが仏とはこの事なのかも知れない。ハッタリ野郎にはハッタリ女という組み合わせでバランスが取れているに違いない。
俺はハッタリ女へハッタリ顔で応えた。
「こんにちはヒメちゃん。何? ヒメちゃんは買い物か何か?」
「ヒデさん、その子たち抱っこしてみます? 良かったら連れて帰ってあげてください」
と噛み合わない内容を口にした彼女はいきなり店のドアを開け俺に手招きを見せた。
「は?」
彼女の突然の行動に俺は全く理解が出来なかった。
そして「ヒデさん遠慮しないで」と彼女はいきなり俺の手首を遠慮なしで掴み店内へと引っ張り込むという俺の抵抗する間を作ることのない一瞬の出来事だった。
そのまま店に入りさっき外から見ていたケージの前へと俺を連れ込んだ彼女はケージの横に隠すように置かれていたスプレーを手に取り自分の手に何かを吹き付け手もみしていた。
そして何食わぬ顔して彼女はケージのロックを外し扉を開けようとしていた。 俺は驚き店員に見つかる前にと思い小声で叫んだ。
「ヒメちゃん何勝手にやってんだよ! 見つかったらヤバいって!」
俺の心配をよそに彼女は綺麗な声と笑顔を見せて遠慮のないトーンで言った。
「大丈夫ですよ! ほら、この子たちもすぐ寄って来ましたよ」
そして「どっちの子がいいかな?」と勝手な事を口にした。
「ヒメちゃん、何する気だよ? もう出ようぜ」
俺の言葉に全くの反応を見せず彼女は「ヒデさんにはやっぱり女の子!」とケージの扉を開けベージュ色した短い毛のチワワを抱き抱え言った。
「ヒデさん手を出して」
内心焦っていた俺だが彼女の指示通りに何故か手を出していた。それに対し満足げな表情で彼女は手にしていたスプレーで俺の両手へ液体を吹き付けると「はい」と仔犬を俺の胸に当てた。
「はい、じゃないって!」
俺の動揺に対し微塵の気遣いなしの彼女。まるで奴のようじゃないか。
そうこうしてる間に俺の腕にいた仔犬は短い尻尾を振り俺にすがってくる。否応なしに俺の顔がほころぶ。
「かわいいなぁ」
「ヒデさんは犬とか動物は好きですか?」
「うん。動物は好きだよ。昔ガキの頃、フェレット飼いたいって親に駄々こねたことあるし」
すると彼女は目を大きく見開き言った。
「フェレットですか!? フェレット可愛いですよね。ウチにいますよ」
そう言って彼女は自慢気な顔を見せつけた。
俺はその彼女の見たことの無い程好く軽快な明るい表情に嫌な緊張感が生まれた。
「ウチにってフェレット飼ってるんだ?」
「はい」
「あれ? 遠藤さんまだいたんだ」
と俺達の会話の中へ突如女の声が割って入って来た。慌てて振り向くとこの店の制服らしきTシャツを身に着けた華奢な女性がいた。年頃は俺と近い印象だ。
その女性は俺と目が合うと朗らかな表情で「いらっしゃいませ」と口にしてお辞儀をした。俺は慌てて「すみません勝手に!」と頭を下げた。
「こちら、もしかして香織ちゃんの彼氏さん?」
俺はその言葉を耳にした途端、ただでさえ彼女の奇天烈具合に怯えていたところに男女関係度合いを問われ視界の彼女を意識しつつも胸にある仔犬の目を見つめた。
「違いますよ店長。劇団を通して色々とお世話になってる方でSalty DOGというバンドのボーカルされてるんですよ」
「バンドをね。納得」
彼女の素早く乾いた回答に店長だと言う女性は俺へと興味を示す視線を持って応えた。
「でも随分と男前さんじゃない。やっぱり女優さんの知り合いは一味もふた味も違うね」
「女優なんて言うの止めてください!」
彼女は少し甲高く通る声でそう言うと随分と愉しげな表情で笑っていた。
これ程までの彼女の明るい表情を見たのはこの時が初めてだった。まほろばの連中といる時にもこんな力の抜けた無防備な笑顔を見た覚えがない。声も俺が知っている感じよりキーが高い。でも嘘臭さ漂う余所行き感は全くない。何が彼女をそうさせているのか分からず俺はなぜか苛立ちが混じる不安感みたいなものが湧いていた。
彼女は店長へ応えた後に前髪を軽くかき上げた。その時、俺は彼女の右眉の上に目立たない肌色の絆創膏が貼ってあるのを見つけた。
「ヒメちゃん! どうしたの? その額の絆創膏は?」
「え? あ、これですか?」
彼女はそう言って随分と照れ臭そうに俯き絆創膏の貼られた額を擦りながら続けた。
「これ、ここの猫ちゃんにやられまして……」
「うわぁ、そうなんだ。ヒメちゃんの顔に傷をつけるとはそれは酷いな」
「いえいえ。私の不注意なので」
舌を小さく出して照れ笑いをした彼女に俺はまたも絶句を味わう感覚に覆われ無意識に彼女から視線を外した――
こびりついている過去の記憶が俺を脅し続けている。忌まわしくいかがわしい記憶に今も尚心揺らされ感情が振り回されている。
項垂れた俺はそんな自分に呆れグラスを口にした。そして塩の味を確かめながら酒を体へと流し込み目を閉じた。
失恋――
失恋?
ふと湧いた言葉。一人の女に恋焦がれ、想い続け叶わなかったという事実。その結果は失恋と称するのだろう。多分。
「何やってたんだよ、俺は……」
俺は自分自身がこの時ほど可笑しく思った事は無かった。29にもなる男がひっそりと想い続けていた行為を笑わない訳には行かない。
彼女とはもう会うことはない。めでたい事じゃなか。違うのか? 東条英秋。
全てを無かった事にしてしまえばいい。過去に悔いて縛られ続けるなんて面白い訳がないだろ?
「何で引き受けちまったんだ? こんなもの……」
断る理由がないから。
断るための理由が口にできないから。
「今の俺に……今の俺にさ……どんな曲書けるって言うんだよ……」
誰にも見られたくない醜い姿をした俺はベランダの中に独りしゃがみ込み頬を伝うものがあったことは俺だけの永遠の秘密だ。
時間を忘れていた俺はのそのそと部屋に戻り再びアコギを抱えフィルム・ノートを開いた。
無意識的にウォッカの比率が上がっていたソルティ・ドッグ。果たして何杯を口にしていたのか分からない酔いどれの俺は何やら書き綴っていた。そして酒やけのだみ声で残したメロディー。
俺はなんで奴のオーダーを真面目に熟していたのだろう?
この行動が何だったのか?
奴の嫌がらせの企画にウンと言って俺は何を残そうとしていたのだろう?
俺はつまらない義理の為に奴が要求してきた納期に間に合うよう曲を完成させた。
全てやっつけ仕事だった。ドラムは規定のパターンを切り貼りし、ベースはコードに合わせたコンピューターアレンジ。そこへ適当にギターのコードカッティングと思いつきのイントロとエンディングメロディ。
そして大声の出せない自宅でそのままやる気なくボーカル録りを済ませるとコンピューターまかせのトラックダウンをして奴へ音源を送った。
今までの中で一番いい加減な仕事内容だった。勢いに任せた恥知らずの俺が残してしまった記録……
『なかなか良いじゃん』
奴からの返信。ハッタリ野郎の言葉をどう受け取れば良いのか俺には分かりたくもなかった。
自分の思い、感情が誘き出したものに惑わされ、それを誤魔化す事に必死になっていた日々。
もうそんなものから解放される。自分で自分を欺く行為にもうほとほと疲れ果てていたんだから。来るべき時が来たのだろう。
過去の事実を全て棄ててどこか遠くへと逃げたかった。この時ばかりは過去に戻り、やり直せるのならとさえ思った屈辱の思いに晒された最悪の時だった気がする……
気がする……
気がした――
逃げ出す様に去ることを望んだのは僕だけど
今までの時間放り出し 出て行くことを決めたくせに もう……
偽りない明日を探し見つけるためにと嘯く僕
心は側にあるからと呟いた僕を星たちは笑う
嗚呼、そうだね 全部
独りよがりの感情
これ愚かに
たしかに純情
嗚呼、戸惑い落ちて行く
あまつさえ遠ざかって行く 揺れることのない君の心
未だ見えぬ明日へ向かう 揺られているのは僕の心
輝く君に近づけば
誰かを蹴散らす勇気も萎えて
愛した事 置き去りにできず
みすぼらしく成り果て去る
瞬く間の出会いは微か
戯れ合いの日々、まほろば
ありきたりに塗れ隠れた
麗しきあの夜の喧騒
映り行く景色は知らないものばかり
旅立ちの感触 落ち着かない心
嗚呼、そうだね 全部
誤魔化しだらけの感情
まやかしの言葉紡いで感傷
嗚呼、砕け散ってく
嫌味なほどに蘇る思い出に阻まれ眠れぬ僕
眩く夢を手繰り寄せ
雅やかな笑み
きらめくは君
憂うつな朝焼けの出迎えに
いたいけな涙 頬つたい呆れ
醜いほど壊れ朽ちれば
何も残すものはないだろう




