第4部 まやかしの幻影
暗闇の中に一人閉じ込められイカれていたのだろう俺は何の疑問も持たず鏡に映る女へ話しかけていた。
「何処に行けば会える?」
すると気のせいか女は驚いたかのように少し体をビクつかせ、その後小さく口で笑って言った。
フフ。こっちよ――
そして俺の視界からスッと女は消えた。俺は直ぐ様スマートフォンで周囲を照らし暗闇の中で女を探した。
「どこだ?」
こっち。こっちよ――
さっきまで映っていた鏡から向かって左側の遠くにぼんやりと女が立っている姿を俺は見つけた。
「そっちか!」
俺が見ているもの、聞いているものが幻なのかまやかしなのか、それとも本物なのか全く分からないまま俺は得体の知れないあの女の影を持つ妖しいものへと駆け出した。
遠くにぼんやりと見えていた女へ数歩と駆けて一気に近づいた俺は女へ向かって手を伸ばし女の腕を掴もうとした。がその瞬間、指先が壁のようなものへと触れたかと思うと走りこんだ勢いでそのまま額から全身へと強くぶつかった。
「痛ってぇぇぇっ!」
目眩がするほどの痛みに耐えきれず涙が浮き出てきた。そして俺はよろよろと後退りしケツから落ちた。
「でら痛ってぇぇぇ……」
額に肘、そして突き指しかけた指先とあっちこっちがジリジリ痛む。
「くっそ! 一体どうなってんだ!?」
俺は痛みに耐えながら衝突の勢いで落としたスマートフォンを四つん這いになって手に取ると周りへ光を向けて観察した。
(ここにも鏡の壁かよ。それもずっと繋がってる……一体何だよ? これは?)
俺の手で光るスマートフォンの光を受けてうっすら浮かぶ俺の姿があっちこっちに見える。俺は鏡の壁で作られた細い通路の突き当りにいた。
フフ――
また女の声。
大丈夫? 暗闇の中で走るなんて危ないですよ――
そう言って女はさっきまで俺がいた場所の方で手招きしている姿が暗闇の中にぼんやり見えた。
「畜生……俺をなめやがって……」
聞き覚えのあるような声質と口調で語る女のふざけた態度が気に入らず腹を立てた俺は痛みを忘れて立ち上がり再び女に向かって駆け出した。
右に左に。そして正面、背後へと縦横無尽に動き回る女。
現れては手招きし、追い付けば消える女。
時には俺を見下すかのように長い髪の隙間からちらりと片目を覗かせ小さく笑う女。
その女へひたすら、我武者羅に近づこうとしていた俺。暗く、迷路のような空間で女の浮かんでは消える姿を俺は飽きることなく追いかけ続けていた。それはまるでガキの頃にやった鬼ごっこや泥巡のように。
――捕まえてやる。絶対に捕まえてやる。そして潰れるほどに抱き締めて息ができなくなるほどその口を塞いでやる。
この異常な状況で衝動的に生まれたこの思いは何だったのかはよく分からない。ただ俺はこの時、あの女に振り回されていることが無性に腹立たしかったということは記憶にある。
しかしこれは間違いなく俺が完全にイカれていたからだと思う。誠に呼ばれた事も彩乃さんや孝明さんの事も、ここがきらめくあまたであるという事も全てを忘れ、女を追いかける事に夢中になっていた。
それは正に夢の中にいるように――
ぼんやりと光り現れては消える女。
聞き覚えのあるような声を聴かせる女。
暗闇に広がる鏡の迷路の中、
一人あの女を追いかけ駆け回る俺。
鏡に映る相変わらずの間抜けな俺。
時折見せる口だけの笑みを見せる女。
女。
出来過ぎた女。
遠藤香織という名の女。
遠藤香織。
遠藤香織?
この俺が今、追いかけている女は遠藤香織なのか?
顔が見えない。分からない。
遠藤香織。
出来すぎた女。
出来すぎた女の顔……
出来すぎた女なんて存在しない――
見えない女の顔という事実が得体の知れないものに俺は囚われているのだと悟れた瞬間、自分自身の置かれている状況に気付いた。
ここはきらめくあまたの表現会場。俺は誠に呼ばれて来たんだった。
足元には青白くうっすら輝く光りが張り巡らされ、周囲が鏡の壁が作られ迷路の様に入り組んでいるのが分かる。
俺はこの空間で一人何を見ていたのだろうか?
今さっきまでの体験は夢? 白昼夢もどきだったのか?
俺は真剣にイカれていた自分に呆れ返り呆然とした。
(どうしちまったんだよ、俺は……)
一体俺は女を追いかけることにどれだけ時間を費やしていたのだろうか?
「ひーでさんっ!」
呆然と立ちすくんでいた所に突然、さっきまでの女の声とは全く違う明るい女の声が俺の耳を打った。
「ん!?」
俺は咄嗟に振り向いた。するとさっきまでの女とは明らかに違う女が壁の隙間から顔を出し俺を見ていた。しかしその女は不自然なことにこの薄暗闇の中でサングラスをして自分の顔へ懐中電灯で光を当てている。怪しさこの上ない。やっぱり俺は夢の中にいるのか?
「私が誰か分からないの? ひぃでさん!」
この女も俺の名を呼ぶ。それも度を越した馴れ馴れしい呼び方だ。
「誰だ!?」
「ええ? 本当に分からないの? 私よ。ワタシ」
随分と大きな黒いサングラスでまともに表情が見えないが口元には笑みを浮かべているように見えた。唇と鼻の形、髪型に髪の色。見覚えがある。そして声と喋りの調子にも聞き覚えが……
「ヒデさん、私よ。ティファニー」
そう言って顔だけ覗かせていたサングラス女は俺の前へと姿を現した。ティファニーだと名乗ったサングラス女だが、更におかしな事にパジャマを着ている。
「なんだよ、ティファニーかよ。脅かしっこ無しだぜ」
怪しい女と感じていたが俺はティファニーへ言うように口を利いた。
「で何だよ、その格好。サングラスにパジャマ姿なんて変な格好して」
おかしなティファニーは変にもじもじしながら一歩一歩と俺に近づいてくると急に俺の両肩へ手をかけ言った。
「ヒデさん、聞いてくれる?」
「お、おお」
「私ね、おかしくなっちゃたの」
「は? 何だよ今さら」
どう見ても変な格好の怪しいティファニーは俺の言葉に小さく吹くと「モー、こっちは真剣なんだからぁ」とティファニーらしい反応と調子で返してきた後、何か気持ちを入れ換えるかのように一度俯くと突如サングラス顔を俺に向け色気混じりの囁き声を出した。
「ねぇ、ヒデさん……」
「ん?」
そして今度は肩にあった手を俺の項へと回してきた。俺よりずっと背丈の低い彼女は自ずと俺にぶら下がるかのような状態になり俺もまた自ずと彼女に引っ張られるように体を曲げる。
ティファニーのサングラス顔が俺の目の前に。この時俺の鼻を衝いた匂いは髪の毛からか? 風呂上りを思わせるその匂いはパジャマ姿も合わさり男女の交渉事を始めそうな予感を湧かせるものだった。
「ヒデさん、私が変になっても嫌いにならない?」
「ティファニーは元々普通じゃねぇだろ?」
俺を見ていただろうサングラスの中のティファニーは再び小さく吹くと「ヒデさん、ホント真剣に聞いてちょうだい」といつもの調子で口にした。そして俺の方を見て艶っぽく続けた。
「私ね、ヒデさんにだけは嫌われたくないのね。でもね、鏡を前にするとやっぱりダメよね。こんな私じゃダメよねって思うの」
俺はティファニーの話に思わず吹いて大声を出した。
「おい、ティファニー! やめてくれ! 笑える!」
俺は腹を抱えて笑いたくなるのを必死で堪えた。それはティファニーが妙に落ち着いていてサングラスの中の眼差しが本当に真剣なように感じたからだ。
「ヒデさん……私、そんな風に笑ってくれるヒデさんが好き」
「おお、ありがとう。俺もいつも明るいティファニーが好きだぜ」
「ホント?」
「ああ、もちろん」
「じゃあヒデさんなら驚かないで受け入れてくれるわよね?」
「何が?」
ティファニーの両手は俺の項にかけたままだ。温かい。
俺はまさかこの状況でマジな愛の告白はあり得ないと思いティファニーが何を口にするのか楽しみに待っていた。
「ねぇ、見て」
ティファニーはそう言ってサングラスをゆっくり外すとそこには至っていつも通りのティファニーの顔があった。気持ち普段より化粧は濃い目だったが。
「なんだよ? 何を見るんだよ? ティファニー」
俺はティファニーを見つめて言うとティファニーは「ホント!?」と口にして心なしか瞳を潤わせていた。
「よかったぁー」
そう言ってティファニーは自分の顔を両手で覆った。
「どうしたんだよティファニー。らしくないなぁ。何かあったのか?」
「なんかね、この前ね、鏡で顔を見たらね、おかしくなってたの。私の顔」
と早口で言ったティファニーは顔を覆っていた両手を俺の肩へとかけた。
「!」
俺はティファニーを見て言葉を無くし硬直した。
「どうしたの、ヒデさん? 私おかしくないよね? 変じゃないよね? ヒデさん! うんと言って! ねぇ、ヒデさん!」
手が外れたティファニーの顔は皮膚がところどころ剥がれ生々しい顔の筋肉が見えていた。俺は固唾を飲み思わず後退りした。
「やっぱり変なんだよね? ヒデさん? 逃げないで何か言って!」
ティファニーの声は徐々にヒステリックに変化していき言葉を全て言い切った瞬間、ティファニーの片目がゆっくり瞼を持ち上げて顔から出てきた。
「目が……ティファニー、目が……」
そしてティファニーの眼球が顔から落ちた。
「うわぁぁぁぁぁァアッ!」
『逃げるな』
どこからか混声合唱のような男女入り混じった響きの大声が鳴り響いた。俺は不気味さの増したこの空間に震え上がる恐怖を感じ、身を固めたまま周囲を見渡した。
「ヒデさんっ!」
「はいっ!」
突然のティファニーの声に驚いた俺は反射的に返事をしティファニーを凝視した。この時のティファニーはさらに皮膚が剥がれ落ち、ティファニーなのか誰なのか分からない姿と化けていた。
『逃げるな』
再び聞こえた声。いつの間にかティファニーの後ろには複数の男女らしき者がいた。
らしき者。それはティファニーみたいな顔をしていてよく分からないからだ。
(ゾンビ……?)
「なな、なんだて、オマエらぁーっ!?」
『逃げるな』
『逃げるな』
「ウソだろ!? 何だよこれは!?」
何が何だか分からなくなった俺はとにかく一目散でこいつらから逃げた。
「ねぇ、待ってよ! ヒデさん!」
僅かの光があるものの暗くて狭い通路。そしてほとんどの壁が鏡になっていて方向感覚を完全に無くしていた俺は壁伝いに奴らからとにかく逃げた。しかし完全な迷路状態の空間。どうすればいいのか分からず混乱していた俺の動悸は激しかった。それは心臓が飛び出そうなほど。
更に俺の耳には俺を脅しかける奴らの足音が聞こえ強烈なプレッシャーをかけてくる。
(どうなってるんだよ!?)
あたふたとしながらも俺は薄暗闇の中を走り回った。奴らの足は速くなくゲームで見たゾンビそのもののようだった。これが唯一の救いでひどく汗ばみ恐怖を心底感じパニック寸前の俺だったが奴らに鉢合わせる事なく今まで目にしなかった扉を見つけ出した。俺は迷うことなく一目散で向かい扉へ辿り着くと勢いよく扉を開けその先の部屋と駆け込んだ。
「さあーぷらぁーぃず!」
部屋に入るといきなりの大声と同時にパパパと耳を打つ乾いた音が鳴り響き俺は一瞬肩をすぼめ目を閉じその場で立ちすくんだ。
「ヒデ!」
「ヒデさん!」
「誕生日ぃぃっ!」
「おめでとうぉぉぉ!」
この声を聴いた俺はゆっくり目を開けた。すると俺の視界いっぱいに現れたのは誠を始めSaltyのメンバーとまほろば一座のスタッフが。そして俺の目を釘付けにさせたのは白いワンピース姿に長い黒髪を持った出来すぎた女だった……
「お誕生日おめでとうございます!」
「あ、ありがと……」