第1部 空白
ライブの帰り、電車の中で誠がポツリ漏らした。
「なんでヒメちゃん泣いてたんだろ?」
「さぁ」
俺の答えだ。分からないものは分からない。
「なんか思い出があったんじゃない、多分」
俺はそう付け加えておいた。
「Hackersで?」
俺の言葉に少し驚きの口調で誠が反応した。
「さあね。それはヒメちゃんに聞いてみないとな」
「だな」
これっきり俺達は彼女が涙した事を口にする事はなかった。あのHackersのライブでどうして彼女が涙したのか? なんて野暮な詮索を俺はやらなかった。あの日の事はあの日で全て終わっている。
それから簡単に一年という月日が流れた。仮にもし俺の感情の動きや動向を小説やドラマみたいに表に出して目にしていた人間がいるとしたなら何事もなく一年経ったなんて思ってやしないだろう。
それはもちろん間違いではない。実際何もない一日なんてあり得ない。でも悪いが出来過ぎた女とまつわるエピソードは何もなかった。正確に言うと記憶として残る出来事は無かったと言うことだ。
敢えて言えば俺達とまほろばの連中は、きらめくあまたをベースに活動している。だから彼女と鉢合わせることは幾度とあった。
そんな時の俺は普段通り調子良い笑顔で言っていた。
「やあ、ヒメちゃん! 調子どう?」なんてね。
でもこの時俺は内心怯えていた。出来過ぎた女の顔を見る度に、声を耳にするだけで俺の心臓が強く脈打つようになっていたからだ。
ぶっちゃけ笑える話だが俺が彼女に対しときめいたという事実は認める。が、それを惚れたとするには早計だ。
たかだか周りより少し見栄えの出来が良い女が自分の近くに現れ、その女が意外にも俺が好きなHackersを聴いていたっていうだけの事に心躍らせ気持ちを持っていかれた瞬間があったわけだから。一瞬は惹かれた。そう言っておけばいいだろう。
でも彼女はHackersのライブで泣いていたんだ。
どうして?
触れらたくない事など誰にでもいくらでもあるだろう。そっとしておいた方が良いこともあるだろう。それ以上踏み込む理由がない。権利もない。
権利?
そんなものが必要なのか?
ただ面倒をしょい込むだからだろ? 東条英秋。
その通りだ。面倒はご免だ。だから彼女の涙の意味を探るほど彼女に関わることはしなかった。彼女に踏み込む覚悟が俺にはなかった。
俺は思うんだ。その面倒をしょい込む覚悟があるだけの気持ちがあれば関わればいい。覚悟がないのなら止めておけ。この覚悟が人を愛することだと俺は思うんだ。だから、つまり俺は彼女を愛しているわけではない。と言うことになる。
詰まるところ、後腐れないチープな付き合いをするにはリスクが高い女だと察しがついていたから。取り敢えず有名人だしな。それは誠の奴も同じはず。でなくちゃとっくの昔に誠の奴が彼女に近づいていたはずだ。他に理由?
知らねぇよ……
事の起きた動機、発端を探り当てる事に何の意味がある? それも他人の事にだ。歴史家か何かで人類の歴史をたどり紐解く作業ではない。たかだか一人の女の事に。
生憎だが俺はSalty DOGのボーカル、東条英秋だ。
自分で言うのも何だが俺がその気になれば飾りになる女を作れるだけの技量はある。それなりのファンがついているバンドやってんだからな。俺に好意を持って近づいて来る女もいたりするわけだ。でも俺は誠みたいに恋愛ゲームやって浮名を流すタイプじゃないけどな。
で、ここ一年程の間に俺のファンだという女と3ヶ月ほど其れなりの付き合いをしたという出来事が一応はあった。それは寒い季節を温め合うだけだったような付き合い。
所詮お互いにアクセサリーレベルでしか付き合ってこなかった関係だ。長くは続かない。季節が変わり衣替えをするように春には縁が切れていた。一応結果的にと付け加えておく。
軽く話すとこんな感じだ。
きらめくあまたでのライブが終わると「Saltyのファンなんです」と心地良い透き通った声で俺達の前に缶ビールを並べた女がいた。見た目は大人し目の綺麗なお姉さんと言った感じ。こなれた化粧は上品な印象を与える俺達のファンらしからぬ雰囲気の女で見た目だけじゃロックのライブには興味無さげな印象だった。
その時の女はバニラノートを香らせていたがライブ後だったからだろう、少し女の汗の臭いが混じっていたのを覚えている。それが俺には好感触だった。歳は俺より七つも下と聞いて驚いた。出来過ぎた女と同い年だ。
派手さは無く何処にでもいる感じではあったが中々の話上手で気さくな性格とガキっぽくないところもあって俺達メンバーともすぐに親しくなった。
見た目大人し目。は、侮れない。動きは大胆だった。
「この後飲みに行きませんか?」と、その日いきなり俺に耳打ちしてきた。
警戒心の強い俺は目を丸くして驚いてみせ「二人で?」と言うと女はこくり頷いた。この時の女はなかなか精悍な顔つきだった。飲みに引っ張り出すくらい簡単だと自信があったのだろう。
俺は済まなさ気に「あー、ごめん。ライブの日は大人しく終電に間に合うように帰る人間なんで」と嘘臭い言葉を口にすると女は「そうなんですか……」と露骨に残念そうな顔を見せた。
俺はその顔つきを確かめてから誠のように誰にでも教えないIDメールアドレスを俺は女へ伝え別れた。絡んでも悪くはないと俺は判断したからだ。
それから間もなく、女と飯やら飲みやらをぼちぼち熟しているうちに女が「ヒデさんに特別誰もいないのなら、私が彼女になりたい。ダメならもう会いません」と堂々とした態度で言ってきた。過去にこういったタイプがいなかったわけじゃないが、見た目の印象とは違う潔い姿が可愛らしく思い、俺は迷うことなく「じゃあ今日から」と言って手を握りしめた。
俺はふざけた男だ。“交際”という体裁が整う前までは意識もせずこの女との時間を楽しんでいたが彼彼の関係となった途端、出来すぎた女の影が現れた。
それはどういうことかと言うと、俺は無意識的にいつも女が口にする言葉や行動を出来すぎた女のものの様に置き換えていた。そして女が出来すぎた女らしくない口振りをした時、俺は女に対し冷たく対応していた……
それはベッドの上でも大差なかった。
俺は女の顔をあまり見ないで済むような体位を好んで使っていた。そして女の温もりを感じながら俺の瞼の裏には出来すぎた女の顔が浮かび、耳を通して聞こえてくる声は俺が生み出した出来すぎた女の声だった……
そんな自分を俺は嫌った――
出来すぎた女が俺の中に入り込み、俺を掻き回すようになっていた。ろくに何も起きちゃいないのに。これが何かの暗示とでも言うのだろうか?
「惚れるってそういう事だろ?」
昔、俺が一郎へそう言った事があった。
当時、俺達が25歳くらいの時だった。一郎の気になる女がいて、その女がまだ女子高生だったってことで一郎は躊躇してたんだ。
一郎はいつになく深刻な表情で俺に言った。
「やっぱ女子高生に手出すのはなぁー、マズいよな?」
「一郎はそういう風に考えるのか?」
「ヒデはそういう風に考えないのかよ?」
「笑わせるなよ。俺はそんな乳臭いガキにはまず惚れねぇし」
「何だて、その言い方! ヒデに言うんじゃなかったよ……」
この時の一郎の拗ねた顔は未だに記憶に残っている。この頃そういえば俺が終末期だったんだ。三年程の付き合いだったな。出会いも突然なら別れも突然。思い出したくない話だ。
「ゴメン、お前が羨ましくて。そうだな。相手が中学生だったら絶対止めた」
「ヒデ! それは絶対無い! それこそ乳臭くて本気になれるかよ! っていうか犯罪だろ、マジで」
一郎のいちいち真面目な対応が可笑しかった。人間本気で恋に落ちると変わるものだと。
「その子、18になる子なんだろ? 何も別に気にする事ないよ。それにそういう事を気にするってことは一郎がそれだけ本気ってことだろ? チャラチャラ、フラフラ浮ついてる奴よりずっと格好良いよ。真剣に惚れた女との事を考えるって事は」
一郎を本気にさせた当時まだ18だったその彼女が一郎の奥さんとなった。今じゃ二人の子供もいる。そして今でも昔と変わらず時間さえあればライブにも差入れを持って顔を出してくれる爽やかな笑顔にショートカットがよく似合う可愛いらしい奥さんだ。羨ましく思う。
俺は一郎とは違うしこれはもう昔の話だ。
俺は東条英秋。今年で29にもなる男だ。もういい加減大人やらないとな。