1.小さな駅で
汗が噴き出るような快晴炎天下。短パン小僧が川を、林を駆け回り、虫取り釣りに飛び出したくなるような素晴らしい天候だ。緑の稲に染められた鮮やかな緑田が広がり、それに挟まれて流れる水路には、ザリガニやカエル、メダカが気持ち良さそうに過ごしている。田の中にも、鳥が稲と共に 風に吹かれ揺れている。遠方に見える森にも沢山の虫たちが元気に動き回っているに違いない。しかし、短パン小僧は居ない。それどころか、害虫駆除のために肥料をまく農夫も、大声を上げて野菜や魚を売る男も居ない。田んぼに囲まれた小さな駅の前に少年が一人、立っているだけだ。
「おうい、すいません。」
小さな駅に向けて大声を出した。駅の中にいるのはじめじめとしたトイレの中にいるゴキブリやクモ、ハエの他、数えきれないほどうごめく細菌だけだ。彼らに言葉を理解する頭脳とその言葉を発する事の出来る声帯があればよかったのだが、生憎言葉を理解できるのは人間だけらしい。小さな駅に響いただけで、返事はない。
「おうい、すいません。」
二度目の大声もむなしく駅の中に響くばかりで、返事は聞こえてこない。仮に返事とするならば、音のない駅の中で響く遠くの蝉の声だけだ。蝉が言葉を話せたならば、少年はどれほど安心し、蝉と仲良く出来た事だろう。
少年は孤独感に見舞われ、ひどく不安そうにしていた。誰でもいいから会いたい、そんな雰囲気を持っていた。2度目の大声の後も、泣きそうな声で何度も「おォい、すみません。誰か、いませんかァ…。」と言って返事を待った。とうとう快晴の下、どことなく薄暗い駅の中に足を踏み入れた。
「すいませェん。」
やはり返事はない。切符売り場は大きなクモの巣が出来ていて、もう長い事使われていない廃墟と化した駅であることは明らかであった。しかし、少年は誰か居ると言い聞かせるように、ぼそぼそと呟きながらあたりをきょろきょろと見回した。だが、誰も居ないようだ。改札口は埃にまみれ、汗で濡れた少年の手を置けば、手形が出来そうなほど積もっていた。積もっているのは埃だけでなく、中に虫が住み着いたコーラの瓶や動物の糞の様な物が乗っていた。少年は汚らわしそうに、近くにあった棒で掃い、動かない改札の柵を跨いだ。ズボンに埃が付いたようで、またしかめ面で埃を掃った。
駅のホームに出た。誰も居ない。時刻表が外れたらしく、立て掛けられていた。自動販売機や売店には商品は一つも置いておらず、この駅が廃墟であると言う事をより確固たる物にした。線路の向こう側にはいくつも広告看板が並べられていたが、雨ざらしにされた末に、赤さびで染められ、どれも何の広告なのかは認識できなかった。少年は大分落ち着いたようで、これからどうすればいいのか、ホームのベンチに座って考えている。目線は線路の向こう側を指している、電車は来ないか、と少し期待しているようでもあった。しかし、依然として電車が来る気配はなく、寧ろ何かが遠ざかって居る様な感覚さえあった。
少年は左胸に右手を当て、心臓の鼓動を感じた。ドッドッドッ、と揺れ動く心臓は更に速さを増して彼を苦しめた。胸に当てた右手を鼻に当て、ゆっくりと滑っていく汗に触れた。
不安や孤独感、恐怖を和らげようと大きく深呼吸し、黙り込んだ。だが、黙り込むとより強く鼓動の音が響きその振動が耳に入ると、更に鼓動を速めた。少年は不意に立ち上がり、駅の入口の方へ走った。もしかすると誰か来ているかも知れない、と期待したらしい。その期待は失せる事になるのだが、少年はどこかに人が隠れているかも知れない等と合理主義な彼には似合わない思考を展開した。案の定誰も居ない駅。
少年は改めて目の前に聳える小さな駅を注意深く見渡した。最初はそれなりに綺麗であると思っていた駅は、注意深く見れば見る程に小汚くなった。駅の前にあるバス停の屋根は雨曝しで赤く錆びていた。白いペンキが塗られたベンチは苔が生えており、座る事は出来なかった。そのベンチの下にはコーヒーのスチール缶が2本置いてあり、中には大量の煙草の吸殻が詰まっていた。少年は眉間に皺を寄せてそれを見ると、何も言わずに缶を蹴飛ばした。
時刻表には油性マジックで落書きされており、その文章はあまりにも下品だった。少年は書いた人間を蔑むような目線でそれを見ると力一杯押し倒した、鈍い音がした。心臓の鼓動が速くなると同時に、彼は大きく溜め息をつき、バス停にある物を壊し始めた。最初に手を付けたバス停の屋根を支える柱は、数回蹴飛ばすと驚くほど呆気なく倒れた。既に気は腐っていた。ドシャンと大きな音を立て崩れ落ちた。その下敷きになったベンチも見事に折れ茶色い色を露出した。更に、斜めに傾いた屋根の上に上り、大きくジャンプした。塗装も剥がれ、酸化した金属屋根は不気味に赤く染まっていた。靴で金属面を踏み躙るとジャリジャリと音を立てた。よく子供の頃、ふざけて黒板を引っ掻いて嫌がる友人をからかったものだが、彼は嫌がる友人のタイプらしい。不快だったらしく、鳥肌を立てた。それと同時に腹を立てて、小さく舌打ちをしてから、思い切り屋根を足で叩いた。踏み躙るよりも強く、不気味な音が響いた。しばらくその上に立ちつくし、呼吸が落ち着くとともに、早歩きでその場を去った。
少年は、最初と同様に、小さな駅の入口の前に立った。しかし、顔の向きは逆だ。まじまじと駅の入口を見つめた。翌々見ればコンクリートにはいくつかひび割れがあり、その割れ目から塗装が剥がれ出していた。一歩踏み出し、駅の中に入れば、天井には大きな蜘蛛の巣がある。惨めにも、大量の虫達が罠に掛かり、縄張りの主の帰宅をぐったりと項垂れながら待っていた。ついさっき罠に掛かったと思われる数匹の蝶と蛾とも判らない羽を持つ虫は、まだ生きたいと言うかのようにばたばたと羽を羽ばたかせ、脱走を試みていた。しかし、無情にも、大きくどす黒い不気味な家主が食事の時間だ、と壁を急ぎ足でよじ登ってきている。そして、必死に暴れていた蝶は羽ばたく事を止めた。
少年は近くにあった細長い枝を手に取り、それを蜘蛛の巣の端に引っ掛けた。そして、憐れな虫達を見つめた。俺がこの棒を振り回せば、お前たちはあの恐ろしい蜘蛛から解放される―。その考えを表情で虫達に伝えた。優しく語りかけるのでもなく、憎む様な眼で睨むのでもない、表現しがたい表情でだ。とうとう、家主が御帰宅だ。ゆっくりと細い糸に足をかけ、憐れな虫目掛けて直進してくる。後30㎝―10㎝―5㎝、食べられるのだ。
少年は思い切り棒を振り回した。そして、壁に向けて棒を投げ付けた。蜘蛛の巣は棒に絡まり、ふわりと宙を舞った後、ペタリと地面に張り付いた。彼は屈みこんで、蜘蛛の巣を見た。家主である蜘蛛は、棒と一緒に壁に叩きつけられたらしく、ピクリとも動かなかった、死んだのだ。その時、彼は微かに頬を上げた。周囲を見渡し、ついさっきまでもがき苦しんでいた蝶を見つけた。体を震わせ飛び立とうとしていた。その体の震えは徐々に小さくなっていく、そして、遂には動かなくなった。
少年は走り出した。駅の改札を越え、電車の来ないホームに戻ってきた。つい数十分前まで座っていたベンチに体育座りをし、頭を抱え込んだ。鼻を啜る音と、身体を震わせる音は、音ひとつない駅には大きすぎる音だった。静かに反響して少年の鼓膜を揺らした。何時の間にか周囲は橙に染まり、大きな太陽は山の間に潜り込もうとしていた。やはり人の声はなく、ずっと遠くの方で聞こえる鳥の声だけがこの街の夕日をより美しく演出した。
日は沈み、夜になった。少年は立ち上がったかと思うと、ベンチに倒れ込んだ。深い夜の中に、沈み込んだのだ。