私は人間の医者を見たことがない
**医療は進歩した。**
そう言われて育った。
正確で、効率的で、
人の手をできるだけ使わない医療。
それが当たり前の世界で、
私は生きてきた。
**私は、人間の医者を今まで一度も見たことがない。**
少なくとも、
「診てもらった」という形では。
画面越しに説明を受けたことはある。
数字を見せられたこともある。
同意のボタンを押したこともある。
でも、
白衣を着た誰かと目が合って、
「大丈夫ですか」と言われた記憶はない。
それでも医療は回っている。
誰も困っていないことになっている。
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**私は猛烈にお腹が痛い。**
本当に、猛烈に。
最初は我慢できると思った。
夜勤明けで疲れているだけだと思った。
鎮痛剤も飲んだ。
だめだった。
救急車は有料だ。
あまりタクシー替わりに使う人などがいて数年前に有料になったのだ。
料金のことを思い出して、
その選択肢は最初から消えた。
安月給の私には、
「今すぐ呼んでいい側」じゃない。
私はスマホを開く。
病院のアプリ。
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**来院前問診を開始します**
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名前。
生年月日。
マイナンバーカードをスマホにかざす。
認証完了。
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**痛みの部位を選択してください**
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簡略化された人のシルエット。
上腹部。
下腹部。
右側腹部。
左側腹部。
私は**下腹部**をタップする。
淡い赤色が広がる。
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**下腹部痛を確認しました**
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質問が続く。
痛みの性質。
発症時間。
吐き気。
冷汗。
考えるより先に、
指が動いている。
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**追加検査が必要です**
**来院を推奨します**
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推奨、という言葉は軽い。
私はコートを羽織り、
電車に乗る。
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病院に着くと、
受付はなかった。
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**来院を確認しました**
**次の工程:画像検査**
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案内に従って歩き、
そのままCT室に入る。
「横になってください」
声はある。
でも、顔は見えない。
装置が動く。
息を止める。
下腹部が、
内側から引き裂かれるみたいに痛い。
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**検査終了**
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スマホが振動する。
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**画像解析中**
**AI診断を開始します**
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少し待つ。
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**診断結果**
**虫垂炎の可能性があります**
**推定確率:71.3%**
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言葉は知っている。
でも、
それが今の私に
何を意味するのかは、
よく分からない。
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**推奨対応**
**外科的介入 成功率 96.1%**
**保存的治療 成功率 83.4%**
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「治療方針を選択してください」
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声が流れる。
女性の声。
落ち着いていて、
聞き取りやすい。
どこかで聞いたことがある。
病院だけじゃない。
役所。
保険。
問い合わせ窓口。
**なんでも、一番耳障りのいい声なんだそうな。**
そんなことを、
なぜか今になって思い出す。
お腹が痛い。
とにかく痛い。
言葉を理解しようとすると、
痛みが思考を押し流す。
内容より、
声のなめらかさだけが残る。
「ご不明な点はありますか」
不明な点はある。
たぶん、たくさんある。
でも今は、
この痛みをどうにかしてほしい。
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**同意する**
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私はタップする。
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**同意取得:完了**
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ストレッチャーに乗せられる。
「ニャーん」
間の抜けた声。
横には、
猫型のロボットが立っている。
二足歩行で、
人みたいに。
「お着替えをお手伝いしますニャー」
拒否する気力はない。
**これが人だったら、
たぶん腹が立っていた。**
でも、
猫なら仕方ない気がする。
あとから知った。
**猫型の方がクレームが少ない**
らしい。
ストレッチャーは、
自動で動き出す。
猫は、
横を歩いている。
ちゃんと二足で。
ここまで来て、
ふと気づく。
**ここまで、
私は一度も
人を見ていない。**
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手術室に入る。
天井から、
マスクが降りてくる。
「深呼吸してください」
あの声だ。
私は息を吸う。
少し甘い匂い。
もう一度、
深呼吸。
天井の光が、
にじむ。
そのまま、
**私の意識は消えた。**
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どこかで手術は終わり、
どこかで数字が更新され、
どこかで承認が押されている。
**承認を押した私は、
それを診ていない。**
**診なくてもいいことになっている。**
医療は滞りなく続く。
システムは正常だ。
書類上、
これは**宿直**という扱いになる。
軽微な業務。
特記事項なし。
何でもない夜だ。
誰も立ち止まらない。
誰も振り返らない。
**今日も、
何もない夜が過ぎる。**




