【短編小説】さよなら、
気密ドアが開いた先に、ひと目でモノリス型のアンドロイドと分かるそれが薄暗い部屋の真ん中に鎮座している。
それは16:9の広い面をこちらに向けると、自身の溝に収納されていた管状のマニピュレーターを振って「よく来たね」と内臓のスピーカーで挨拶をした。
分かってはいたが、実際に見ると背筋に冷たいものが走る。そうと気づかれないように……いや、無駄だろうか。
「頼まれてたお土産、これ」
そんな気分を振り払うように、わたしがホームセンターの袋を差し出すと、彼は「助かったよ」と答えながら新たに出したマニピュレーターを器用に動かして受け取った。
そのまま床に置いたと思ったが、袋が水平に移動していくのが見える。きっと小型キャリアにでも載せたのだろう。
ぼんやりとその光景を見ていたが、荷物はやがて薄暗い部屋の奥へと進んで見えなくなった。
「すまないね、あまり客なんて来ないものだから、照明も椅子なんかも考慮していないんだ」
申し訳なさそうにしているのか、マニピュレーターの先端がモノリスの側面を掻くように動いている。
「人間臭い動きをするのね」と言うと、彼は
「やはり記憶や精神と言うのは、肉体と不可分なんだと実感するよ」と返した。
きっと彼はあの16:9の広い面のどこかにあるレンズでこちらを観察しているのだろう。それは分析に近いのかも知れない。
むかしの、まだ目があった頃の彼も時々そう言う目をしていた。
全てを見透かすような、慈愛と少しの蔑みが混ざったような目。
その目で見られると、深く愛されているような、それでいて突き放されているような不思議な気分になった。
いまでもそんな気持ちになる。
目は、もう無いのに。
さっき照れ隠しみたいにモノリス型の側面をマニピュレーターで掻いたように、本質が変わっていないのならあの平面のどこかにあるレンズの中もきっとそうやってわたしを見ているのだろう。
観察を終えたのか彼はわたしにマニピュレーターの先端にある爪状の器具で小さなギャップを作った。
「ちょっと痩せたかい?」
ご機嫌を伺う時に彼が言う台詞に苛立ちを隠せなかった。
「馬鹿言わないで。痩せた訳じゃないわ、萎れたのよ。白髪だって増えたし。肉体から逃げたあなたとは違うの」
そう、彼は逃げたのだ。
皮膚や神経、肉体そのものが変質する病気を厭った彼は苦痛に耐え切れず肉体を捨てた。
そして肉体を捨てた彼はわたしとの生活も捨てた。
モノリス型になった彼は一度だけ、わたしに連絡をしてきた事があった。
鬱陶しい時候の挨拶に続いて、わたしにもアンドロイドにならないかと誘う内容だった。
「きみがヒューマン型のボディになるなら、ぼくもそうしようと思う。理想的な義体で過ごそう」
わたしはそれを無視した。
義体になってどうしようと言うのだろう?
確かにわたしはわたしの肉体が嫌いだった。彼のような病気こそないものの、低い背丈も手足も顔も嫌いだった。
でも理想的な義体になって、わたしたちの生活は理想的になるんだろうか?
かつてのような食事は義体用の模擬食になり、単なるパフォーマンスとしての行為でしかなくなる。
運動をする必要も音声で会話をする必要も無くなる。セックスだってケーブル接続すれば電気信号に変換された自分たちが電脳空間で曖昧な行為を繰り返すだけだ。
それが気持ち悪かった。
「そう、あなたは逃げたの」
自分からも、わたしとの生活からも。
わたしが繰り返すと、彼はモノリス型の平面に幾つかの細かい光を走らせて「逃げた、か。それもそうだね」と呟くような音を出した。
そしてまた幾つかの光がモノリス型の平面を走った。
「今日はね、さいごのさよならを言いにきたの」
もうきっと、彼のセンサーはわたしの異変を察知している。
「そうか」
彼はチカチカと薄い光とともに応えた。
わたしは鞄から古びたマグカップを出して、モノリス型になった彼の上部に乗せた。
彼が毎朝コーヒーを淹れてくれたマグカップは、今やもう冷たい何かでしかない。
「これは、まだ持っていてくれたんだね」
彼がマニピュレーターでマグカップを撫でた。
「あら、見えたの?なら良いわ。でももうコーヒーの味も香りも暖かさも、何も覚えていないでしょう?それともデータが残ってる?」
彼はチカチカするだけで、何も応えなかった。
わたしは鞄から金属プリンターで鋳造した単発式の小型拳銃を取り出した。
「最初からこうしようって言ってくれたら良かったのに」
彼に向けてみたがチカチカと光るだけで何も反応しなかった。
もし肉体があっても、やはりあの目でわたしを見て、するに任せていただろう。
「じゃあ、さよなら」




