静かなる毒
「いやあ、本職の刑事さんには参りますよ。僕は、フィクションですからね。頭の中の世界に過ぎませんよ」
「それは、ご謙遜だ。天下の、加賀恭一郎ともあろうミステリ作家には、知名度で私の負けですな」「いやいや、何をおっしゃる」
そこは、加賀家の広い応接間、と言うよりも、ラウンジか?カウンター席まであって、アルコールの類いは一通り、棚に並んでいる。豪華である。一流作家の実力を心底、思い知って、訪問していた吉山刑事は、感服させられた。
「最近はね、エロチックミステリーっていうのに凝ってましてね、もう、お読みになりましたか?僕の新作を」
吉山刑事は、ブランディーのグラスを傾けて、
「今日みたいな休日は、先生の御本を、丁寧に拝読しとりますよ。『肉欲の殺意』でしたっけ。今、読んでる最中ですわ。何とも、言えませんな、男心をつかむ技を巧みに知ってらっしゃると言うか、憎いですな、読者としては」
「いやあ、ありがとうございます。そう、言っていただければ、書く方も励みになりますよ」
応接間から、庭が一望できる。石庭だ。吉山刑事は、庭を一瞥して、庭の広さに感心しながら、
「体の方はいかがですか?問題なく、執筆できますかな?」
「‥‥‥‥‥‥、それが、あまり、優れませんでね、妻の芳枝が、心配して、医者へ行って、診てもらえって、言うんですよ。僕も、気にはなるんですがね」
「と、言うと?」
「疲れやすくなったことと、あと、食欲があまり沸かなくなったこと、それと、体重が減ってきましてね、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「それは、いけませんな、ぜひ、一度でも、診てもらって、安心されたほうが」
「今度、そうしますよ。‥‥‥‥‥‥‥‥、おや、そろそろ、四時だな、また、仕事に戻らないと」
「売れっ子作家は、大変ですな?それでは、私は、そろそろ、お暇しますかな?」
「どうも、お構いも出来ませんで、‥‥‥‥‥‥‥‥、そうだ、お土産にブランデーでもいかがです?友人の、田所祐太郎君が、よく僕にお酒を送ってくれて、僕も嫌いじゃないから、ご馳走になってますよ、‥‥‥‥‥‥‥、確か、この辺に、残ってたのが、‥‥‥‥‥、あった、あった」
「あの人気作家の田所祐太郎が、お知り合いですか?すごいものですな」
「これ、どうぞ。ええ、彼とは、長い付き合いでしてね。よく、僕の好きな洋酒を贈ってくれるんです。ライバルだから、『敵に塩を贈る』ってことですかね?僕も悪い気はしませんがね」
「そうだ、今日の記念に先生のサイン、もらえませんか?ぜひ、うちの家宝にしますよから、お願いしますよ」
すると、加賀恭一郎は、手にした鉛筆を舐め舐め、大きな四角い色紙に、『至誠』と、名前を書き留めると、喜んでいる吉山刑事に手渡して、ニッコリと微笑した。
そして、吉山刑事は、加賀家をあとにした。片手に、ブランデーのボトルをぶら下げて。
それから、数週間の後になって、警視庁で、吉山刑事は、加賀恭一郎が、緊急で、都内の総合病院に入院したという噂を人づてに聞いた。何でも、肝不全らしい。
そして、また、数週間した頃、今度は、殺人事件の現場で、吉山刑事は、加賀恭一郎が、入院先の病院で亡くなったと、連絡を受けた。やはり、死因は、肝不全による肝性脳症らしい。
その翌日、彼は、仕事先の証人宅から、直接、腕に喪章を巻いて、加賀恭一郎の葬儀場へ赴いた。
葬儀場は、テレビでよく見かける有名人で、満員御礼の勢いである。吉山刑事は、受付で、吉山賢二と署名して、受付係の美人の女性に、御香典と書かれた付け届けを、一礼して手渡した。そして、ホールへ入場して、行列に並んで、故人の笑っている写真に拝んで、花を一輪、捧げると、その場を去った。しかし、その頃から、吉山刑事は、心のなかで、何か釈然としないものを感じ始めていた。何だろう?彼は、本当に、病死なんだろうか?
彼の刑事としての直感が、何か裏があると、彼に教えていた。
そして、以前から、吉山刑事は、彼の死因に関して、ある疑念を抱いていた。そこで、彼は、さっそく、裁判所から、鑑定処分許可状を要請して、遺体を司法解剖に処した。その結果は、驚くべきものであったが、彼を満足させた。これで、一歩、前進だ。彼は、検死結果を報告して、正式に捜査の許可をもらうと、平井刑事を刑事部屋に呼んだ。
「おい、平井、今から、加賀宅を訪問するから、ついてこい。何か事件の手がかりが、得られるかもしれん。よく注意してくれ」
それから、しばらくの後、吉山刑事は、平井刑事とともに、加賀邸で、亡き恭一郎の妻、芳枝と対面していた。再び、応接間で、今となっては、主人のいないカウンター席に腰かけ、吉山刑事は、妻の芳枝を見た。疲労のせいか、やや、やつれてはいるが、それでも、充分に色香の薫るような陰のある美しい女性であった。
「心中、お察しいたします。こんな時節に、いきなり、失礼な質問ですがね、亡くなられたご主人に殺意を抱くような人物に心当たりは?悪いですな、これも、職務上の大事な質問なんですよ、ご協力ください」
「敵、ですか?」
と、芳枝は、小声で囁くように、
「ライバル作家なら、何人か、居りますが、個人的には、‥‥‥‥‥‥‥‥、そうですね、恭一郎が亡くなれば、遺産が相続できる弟の加賀俊太郎がいます。あの人、最近、借金抱えて大変だっていいますからねえ、怪しいって言えば、そうなりますね」
「で、恭一郎さんと、生前に、交流は、いかがでした?」
「そうですねえ。よく、恭一郎に世話になって、時々、まとまった金額を送金してもらってたみたいですね。俊太郎さんのほうも、そのお礼に、夫の好きな葉巻き煙草を送ってきましたよ。主人も、喜んで吸ってましたよ。『あいつは、気がきくよ』って言ってねえ」
また、芳枝が泣き出したので、仕方なく、吉山と平井の二人は、黙り込んだ。そして、吉山刑事が気が抜けたように言った。
「では、そろそろ、我々は、引き取らせてもらいますよ。‥‥‥‥‥‥、奥さんも、どうぞ、お気を落とさずに‥‥‥‥‥‥‥また、お伺いします」
二人は、加賀宅を辞すると、そのまま、近くの繁華街にある大きな中華料理店に入った。
吉山刑事は、席について、ウェイターに、酢豚定食を注文した。
平井刑事も、中華ラーメンを注文し終えると、さっそくに、吉山刑事は口を開いた。
「どうやら、加賀恭一郎は、病死ではなく、巧妙に仕組まれた殺人のようだよ。どういうことかって?少しは君も考えてみたまえ。分かるかね?」
「最初に疑惑を持ったきっかけはね」
と、吉山刑事は語り始めた。
「恭一郎が、体調の不調を訴えた症状だよ。食欲の減退と、疲労感と、体重の減少。これで、俺は、ピンと来たんだ。これ、すべて、ヒ素中毒の慢性症状だよ。たぶん、彼は、普段から、頻繁にヒ素を盛られていたんだろう。そして、彼は、よく、鉛筆を舐めて書く癖があったことは、僕が、この眼で見たよ。とすれば、もし、彼が執筆する鉛筆の黒鉛に、ヒ素が練り込んであったら?そんなことが出来る機会に恵まれた人物とは?」
「芳枝夫人ですね。では、ヒ素中毒で死ぬ場合は?」
「臓器不全を起こすよ。彼のようにね」
「なるほど。でも、殺人の動機は?」
「それは、俺が、この前に、裏を取ったよ。芳枝には、肉体関係で結ばれた若い男がいた。恭一郎を殺害して、遺産を相続して、金を手に入れて、その男をうちに、くわえ込むつもりだったんだろうがね。本当に、女って、恐ろしいものだね‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
そう言いながら、吉山刑事は、山盛りの酢豚を口に頬張って、堪能しているのであった‥‥‥‥‥‥。