エレベーターの変死
「まったくもって、この暑さはたまらんな、早く出たいな」
流れる汗を、タオルで拭きながら、吉山刑事は愚痴をこぼした。
事件を解決して、ホッとひと息いれたい時である。帰りのエレベーターのなかには、全部で5人の人間が乗っていた。このエレベーターを出れば、外に出られて、解放される。もう少しの辛抱だ。隣にいたOL風の若い女性が、吉山刑事から体を離して、あからさまに嫌そうな顔をした。それは、こっちも同じだよと、吉山は言いたいのを堪えて、じっと待っていた。作業服姿の中年男が、クチャクチャとガムを噛む音が嫌に耳に響く。もう少しだ。もう少し、我慢していれば。
その時である。芳山刑事の前に立っていた小柄な老婦人が、急に、息を荒げたかと思うと、そのまま、バタンとエレベーターの床に崩れ落ちたのだ。これを見て、老婦人のすぐ隣にいた白衣姿の初老の男性が、あわてて、彼女に寄り添うと、気を失ったらしい老婦人の容態を診ている。しかし、やがて、悲しげに首を振ると、独り言のように、言った。
「もう、ご臨終のようですな。どうやら、心不全でも起こしたらしい」
「ちょっと、よろしいかな?」
と、吉山刑事が、前に出て言った。
「わたし、警察のものでして、あなたは?」
「わしですかな?わたしは、このマンションに往診に来た医者ですがね、今、あいにくと、応急手当の道具を切らしてましてね」
と、持っていた黒い鞄の中身を開いて見せた。鞄のなかには、包帯と、空の注射器、あとは、錠剤らしきものと、消毒用のアルコールの小瓶が入っていた。
「お、おい、冗談じゃない。同じエレベーターで死人が出たなんて、洒落にならねえよ」
と、もうひとりの、吉山刑事の隣にいた遊び人風の若い男が、愚痴った。吉山刑事がなだめるように、
「まあまあ、ご不満はごもっともでしょうがね、ちょっとの間、お付き合い願いますよ、で、ドクター、これは、間違いなく、病死ですかな?」
「そうとしか、判断できませんな、目につく外傷もないようですし‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ふうむ‥‥‥‥‥‥‥」
チンと音が鳴って、エレベーターが、一階に到着したらしい。吉山刑事は、扉の前に立って、皆に言った。
「恐れ入りますがね、念のために、皆さんの連絡先だけ、お教え願えませんかな?面倒ですが、これも、職務上の手続きでしてな、申し訳ありませんな」
そう言って、吉山刑事は携帯で、本署に連絡を取り、場所を伝えた。もうすぐ、鑑識の連中が来るだろう。他の皆は、吉山刑事に連絡先を伝えると、そそくさとエレベーターを去っていった。
ひとり、残された吉山刑事は、老婦人の死体のそばで、しゃがみこんで、トレンチコートのポケットから、お気に入りの薄荷菓子の白い飴を取り出すと、ポリポリと口に含んで、しばらく黙考しているようだった‥‥‥‥‥‥‥‥。
警視庁の第一捜査課の刑事部屋のデスクに、どっかりと座って、吉山刑事は頭を抱えていた。そこへ、部下の平井刑事が、顔を出して、彼に声をかけた。
「どうしたんです、吉山さん、顔色が冴えませんよ。捜査が行き詰まってでもいるんですか?」
「まさにそうなんだ。‥‥‥‥‥‥‥‥、見かけ上は、単なる病死なんだがね、俺の第六感って奴が、どうも、殺人事件だ、ってうるさいんだよ。俺自身も、どうもなにか裏があるような気がしてならんよ」
「例のエレベーターの件ですか?よしんば、殺人事件だとしても、動機を持つ人物はいるんですか?」
「ああ、調べたがね、どうも怪しい人物がいたよ。例のOLの若い女性だがね、彼女、被害者の老女と血縁関係にあるんだ。東野千恵子って言うんだがね、死んだ東野トヨの孫娘に当たるらしくて、トヨが死ねば、遺言状通りに、千恵子に莫大な財産が相続されるらしい。これは、殺人の動機になるだろう?」
「その他の人物はどうなんですか?」
「面白いことにね、例の老医師の林原修三、死んだ東野トヨの息子が医療ミスで亡くなったって、医師の林原を訴えていたらしい。殺人の動機になるかは分からんがね」
「とにかく、吉山さんの直感を信じるなら、殺人方法ですよ。どうやって、病死させたんです?」
「それが、俺にも皆目、見当がつかなくてな」
そう云い終えて、吉山刑事は、何気なく、そばの窓の外を見た。彼らのいる棟の隣は、大きな児童公園だ。今は、野球している少年たちや、手に風船をもって、棒つき飴を舐めながら、ベンチでおしゃべりしている女の子たちや、砂場で、城を作っている小さな児童たちがいた。
吉山刑事は、しばらく、ボンヤリとそれを眺めていたが、急に、はっと気づいたように、我に返って、平井刑事に言った。
「ようやく事件のからくりが、読めてきたよ。‥‥‥‥‥‥‥‥‥、一緒に自販機で珈琲でも飲むかね?飲みながら、事件の謎を解いて見せるよ」
吉山刑事は、缶コーヒーの栓を空けて、ひとくち飲むと語り始めた。平井刑事は、口を挟まずに聴いていた。
「犯人は、医師の林原だ。おそらく、医療ミスを訴えるトヨを憎んだ挙げ句の犯行だろう。あとは、殺人の方法だ。俺は、さっき、公園で女の子の持っている風船を眺めているうちに、ピンと来たのさ。空気だよ、空気。あの医者、鞄のなかに、空の注射器を持ってたろ。あれで、心臓を刺して、空気を注入すれば、見かけ上、心不全と変わらない症状で、死んでしまうのさ。医者が調べても分からんよ。まったく、恐れ入ったね。‥‥‥‥‥‥‥‥、さあ、真犯人に会いに行くか?」
そう言って、吉山刑事は、改めて、コートの襟を正すのであった‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。