悪魔が潜む砂浜
和歌山県にある嵯峨ノ浦海岸には、以前から不気味な噂があった。例年を通じて、人気のない観光地であったが、そこに加えて、あの海岸には、人を呪う邪悪な闇の存在が、訪れたものたちを、次々と抹殺していくというのである。その証拠に、嵯峨ノ浦海岸に来た観光客の中から、時として、忽然と姿をくらましてしまい、失踪する事件が、跡を立たなかった。自殺するには、好都合な岸壁もあったから、消えたものは、皆、自殺したんだろうという噂が有力であったが、真相は、今だに不明のままであった。
海水パンツのポケットにスマホを突っ込んで、裸の平井刑事は、その嵯峨ノ浦海岸の白い砂浜を、当て所なくブラブラと散策していた。久しぶりの休日であった。3日の有給休暇を取って、彼は、ここ、和歌山県まで観光に来ていた。そんな噂など、彼はいっこうに知らずに、呑気な足取りで、白い砂浜の砂の上を、サクサクと踏みしめていく。
すぐ近くの海沿いの辺りに、1本のカラフルなビーチパラソルが見えてきた。どうやら、ビキニ姿の美女が、白い肌を日に焼いて日光浴の最中らしい。白い折りたたみベッドが、印象的だ。
平井刑事は、突き上げてくる好奇心に駆られた。もちろん、ビキニ姿もそうだが、こんな人のいない場所で、日光浴は、不用心すぎる。いつ、どこかの変態野郎に襲われてもおかしくない。ここで、真面目な平井刑事の職業魂が首をもたげてきた。よし、一言、忠告してやろう。それで、彼は、足取りを早めると、ビーチパラソルに近づいてみた。すると、案の定だ。女は、パラソルから顔を出して、ぐっすりと眠っている様子だ。平井刑事が気軽に声をかけて、
「もしもし、お嬢さん、こんなところで眠ったら、危険ですよ。起きて下さい?もしもし?」
そして、パラソルの真下まで来ると、平井刑事があっと驚いて、思わず、後ろに退いた。その勢いで、砂の塊を踏みつけて、転びそうになった。
女は、中年の女性で、白いビキニを着て、腹の辺りを刺されたのか、真っ赤に血で染めて既に絶命している様子であった。
「お、おい、マジかよ?こんなところで死んでるって、いったい?」
とにかく、事件だ。急いで、平井刑事は、ポケットのスマホを取り出して、地元の警察に連絡を取り、至急の応援を頼んだ。
そして、深呼吸して冷静になり、気を取り直すと、辺りを調査した。まずは、凶器のナイフだ。どこにある?しかし、平井刑事の熱意ある努力もむなしく、現場のどこからも、彼女を刺したと思われるナイフの類いは発見されなかった。
となると、間違いなく殺人だな。それなら、殺した犯人の足跡を探せばいいわけだ。しかし、ここから、平井刑事の苦悩が始まる。現場のどこにも、足跡がないのである。彼の捜査にミスはなかった。犯人は、足跡も残さずに、現場から消えたのか?確かに、被害者の女性が殺害現場のベッドまで来たサンダルの足跡だけは、くっきりと残っている。そこまではいい。では、犯人は、透明人間か?馬鹿げてるよな。では、どうやって?
海に逃げたのか?それも、無理だ。海までは、まだかなりの距離がある。海へ逃げたにしても、かなりの遠さだ。ちょっとありえない話だ。
そして、ついに途方に暮れて立ち尽くす平井刑事と腹を血まみれにした女性の死体の二人のところへ、なにも知らぬ様子の警察のおっさん連中が登場して、砂浜は賑やかになっていく................。
「というわけです。僕のバカンスがさんざんですよ。まさか、旅行先で殺人事件なんて」
デスクの椅子で、腕を組んだ吉山刑事は、しばらく黙っていたが、
「ガイシャの身元なら、割れた。橋内加寿子、43歳だ。都内のC区に住んでいる。旦那を3年前に病気で亡くし、今は、息子の謙一と娘の加代子との3人で生計を立てていたらしい。子供は、二人とも真面目でね、さっき、死体安置所で、二人とも母親と面会したが、涙も流さずに、黙って下をうつ向いていたのを見たよ。あと、親戚の伯父にあたる高畑新造って男も顔を出してた。気取った感じの男でね、お洒落なジャケットにパイプ咥えて、おや、亡くなりましたか?ってね。この男はどうも様子がクサいよ。ちょっと、探った方がいいな。あと、親友の河名優香子、彼女は安置所に姿を見せなかったが、彼女にも殺人動機はある。かなりの額の借金を被害者の加寿子からしていたらしい。表向きは、親友だが、女同士だ、どんなやり取りがあったやら。........、おや、あれは」
平井刑事が振り向くと、刑事部屋の扉から顔を出し、にやけた顔つきの初老の男が、キョロキョロして中を覗いている。吉山刑事が声をかけた。
「おや、高畑さん、私たちなら、ここですよ。どうして、こんなところまで?」
「ああ、刑事さん、高畑と申します。ちょっと、内密で、お話ししたいことがありまして」
「それなら、1階の玄関でお訊きしますか?こちらへどうぞ」
そう言って、吉山刑事が引率して、二人を玄関まで案内すると、隅のソファを勧めてから、自分も腰を下ろした。
「ここ、禁煙ですかな?」
抜け目なさそうに、高畑が訊いた。
「いいえ、どうぞ」
「では、遠慮なく」
そう言って、高畑がスパスパとパイプを吹かし出した。
「実は、私、愛犬家でしてね。家でも、三匹の犬を飼ってましてね、可愛いっていったら、それはもうね」
「ほうほう、それで?」
「そのうちの一匹のジョンなんです。コリー種の」
「そのワンちゃんがどうかしましたかな?」
「つい一週間ほど前に急死しましてね。それも、毒死なんですよ」
「毒死?」
「ええ、それが、どうも、私の見たところでは、毒殺なんです」
「物騒ですな。で、犯人の心当たりは?」
「それがね、どうやら、死んだ加寿子らしいんです。彼女、その時、うちに遊びに来てましてね。彼女、旦那を亡くしたし、一人で子供の責任持たされてたでしょ。で、最近、勤めてたパートの仕事を首になって、新しい勤め先探したが、今の不況でしょう?なかなか見つからなくて。相当、参って、精神状態も不安だったんでしょうな。それで、うちのジョンに八つ当たりですよ。たまったものじゃないですよ、大のいぬ好きからすれば」
「なるほど、これは貴重な証言です。ありがとうございます。参考にさせてー」
その時、一人の若い女性が、玄関から現れた。白いワンピースを着て、髪を後ろで束ねた清楚な趣の女性である。彼女は、辺りを見回し、平井刑事を認めると、そばへ寄ってきて、
「あの、恐れ入ります。わたくし、河名優香子と申します。あの、ここへ来れば、事件のことを刑事さんからお訊きできると、近くの交番の方にお訊きして?」
「ああ、そうですか?死んだ加寿子さんのご友人ですね。この度は、どうも」
「では、私はこれで」
そう言い残すと、高畑は逃げるように姿を消した。その席に、代わりに優香子が腰かけて、
「ショックですの。食事も喉を通らなくて。まさか、加寿子が死ぬなんて..............」
「事件のことはご存じないんですね?」
と、吉山刑事が言った。
「ええ、死んだという知らせを訊いて、あわてて参りましたの。で、事件というのは?」
そこで、平井刑事が体験したあらましを、優香子に話して訊かせた。
優香子は、しばらく黙って訊いていたが、やがて、
「不思議ですわね、その消えた足跡っていう謎は。犯人は、やっぱり悪魔ですか?」
「悪魔ですか?」
「ご存じないんですか、あの海岸の噂。悪魔が出て、人をさらったり、殺したりって。あたし、これでも、神秘主義者なんですの。家の掃除も好きですけどね。掃き掃除とかね。悪魔も実在するって思っています。いや、間違いなく、いますわ。だから、加寿子も、悪魔の毒牙にかかって..............」
おそらく、優香子も事件を知って納得したのであろう、そのまま、放心状態で、ふらふらと挨拶もなく、玄関から出ていった。
しばらく、吉山と平井は、その場にいた。吉山が口を開いた。
「向こうから、尻尾を出してくれたな」
「高畑ですか?でも、飼い犬を殺されたくらいで、人の命を奪いますか?どうも、僕には............」
「お前は、愛犬家を知らんのさ。ああいう連中には、人の命より、飼い犬の命が大事なものさ」
しばらく、吉山刑事は黙ってハッカ菓子を食べていた。彼が、集中する時の癖である。
「おい、平井、行くぞ。取調室に子供の謙一と加代子を待たせてある、急がんと」
第4取調室には、二人の男女が仲良くパイプ椅子に腰かけていた。謙一は、学生服で、片手に強くハンカチを握りしめている。
加代子は、読書していた文庫本を鞄に戻した。
「母ちゃん、死んだんですよね?刑事さん、母ちゃんを殺した奴、見つけて下さい。でなきゃ、僕が死ぬ気になって見つけ出してー」
「怒っちゃ駄目よ、謙一。お姉さんに考えがあるの、これからの生活だけど」
「どうすんだよ。母ちゃん、死んじゃったんだぜ、どうしようも」
「おねえさん、働くわ。大学くらい、辞めたっていいもの。あなた、まだ高校生でしょ。二人の暮らしぐらい、あたしの稼ぎで何とかなるわよ、安心して」
「それなら、本当に安心して下さいな、お二方」
すると、二人が、眼を丸くした。すると、吉山刑事が続けて、
「死んだ母さん、かなりの額の保険金をあなた方名義で残してましてね、当分、食うには困らんでしょうな、加代子さんも大学を続けられますよ、どうぞ、安心して」
「か、母ちゃん............」
「それよりも」
と、吉山刑事は、口を濁らせて、
「母さんを殺した人物に心当たりは?」
「ありません」
と、加代子が断言した。
「母さんに限って、人に恨まれたり、殺されたりするような人ではありません!」
「まあまあ、落ち着いて。じゃあ、謙一君、君はどうだい?」
「そうですねえ?そうそう、隣の奥さん、ええっと、橋本住江とか言ったかな?あの奥さん、僕の母さんと仲が悪くて。ゴミだしとか、自治会のことで、しょっちゅう揉めてましたよ。あいつなら、やりかねないよ」
「謙一!」
と、加代子が、たしなめた。
「まあ、いいでしょう。今日は、これくらいで。またお呼びするかもしれません。その時までに、頭を整理しておいて下さいな」
二人は、立ち上がり、揃って頭を下げると、素直に帰っていった。
しばらく、取調室に沈黙が流れた。どうやら、吉山刑事の頭の中では、さっきの平井刑事の体験談がグルグルと回っているらしい。やがて、急に何かが閃いたのか、吉山刑事は、眼をパチパチさせて、
「ようやく分かったよ、平井。そういうことだったのか?
はっきりしたよ、今度の事件の真犯人も、消えた足跡の犯行トリックもね。君も、少し、考えてみたまえ。分かるよ。おい、ちょっと、外の空気を吸いに出よう。ついてこい」
「全ては、君の話から判明したよ。最初から話そう。第1の手がかりは、高畑の話だ。彼が言うには、彼女は、生計の目処がつかず、苦しみ、精神にまで異常を来たし、飼い犬まで殺した。第2の手がかりは、子供たちに巨額の保険金が降りるという事実。第3の手がかりは、君の事件目撃談。君は、現場で、砂の塊につまずいて、転びそうになった。これらの証言を総合すると、驚くべき事件の真相が浮かび上がってくる。
つまり、こういうことだ。
被害者は、生計の目処がつかず、迷い、旅に出て気分を直そうとしたが、事態は絶望的であった。そして、思い付いたのが、保険金だ。自分が死ねば、この命は果てても、愛する子供たちは、その金で生きていけると。それで、彼女は」
「自殺したっていうんですか?でも、現場に彼女自身が刺したナイフは落ちてませんでしたよ、間違いなく」
「彼女は、自殺では、保険が降りないと知っていたから、他殺に偽装する方法を編み出した。君が踏んだ砂の塊。あれは、もともと、砂に水を加えて、ホテルの冷凍庫で凍らせた砂の短剣だよ。凍らせれば、ナイフのように固いさ。それを使って、砂浜のベッドに寝た彼女は、砂の短剣で、腹を刺し、引き抜いたナイフをそばの砂浜に捨てた。そして、命尽きた。あとは、時間がたって、ナイフの氷は溶け、砂の塊が残る。その重要証拠を、刑事の君が、ご丁寧に踏み潰して、証拠を隠滅してくれたよ。笑えるね、皮肉だよ、まったく」
「これは参ったな。以後、気を付けますよ、吉山さん」
「でも、よく言ったもんだね、悪魔の海岸とは。珈琲でも飲むか、平井?」
「ごちそうになります。ああ、ちょっと、待って...........」
二人は、玄関の自販機へと向かっていった..............。