猫は知っていた
本署に通報のあったのが、午後7時過ぎ、それから、10分ほどして、刑事たちが現場に駆けつけた。世田谷区の住宅街の一角、こじんまりとした邸宅であった。刑事の集団が、家の玄関に入ると、細長い廊下の奥から、中年の婦人が息を荒げて、挨拶に姿を現した。
「こんな夜分に、お騒がせして申し訳ございません。どうぞ、お上がりくださいな、こちらです」
そう言われて、刑事たちは、廊下奥の扉まで来た。
「この扉、開かなかったんですの。それで、三人がかりで、体当たりして、鍵を壊して」
どうやら、その通りだ。扉の内側に付いた下ろしかんぬきが、ねじ曲がって、歪んでいる。
一同は、部屋に入った。そこは、この邸宅の主人の書斎らしい。豪奢な飾り物の家具で一杯に囲まれた赤い絨毯の中央で、丸い大理石のテーブルのそばの床に、初老の主人らしき男性が、派手なガウンを着て、うつ伏せに倒れている。その背中に、1本の包丁が深々と刺さっている。とっくに、絶命していた。一人の刑事が、対応に出てきた奥さんに、訊いた。
「ご家族の方は、今、どちらに?」
「さあ、たぶん、自分の部屋にいると思いますよ。どうぞ、ご自身で、お調べ下さいな。‥‥‥‥‥‥‥‥‥
わたくしは、居間の方に居りますので」
刑事の一人は、現場に、鑑識が来るのを見届けてから、現場の部屋を出た。その足で、廊下から、二階へと、階段を上る。二階には、両側に扉と、奥にも和室があるらしい。刑事は、まず、左側の扉から開いた。開くと、とたんに、刑事の耳に、猛烈な轟音が鳴り響いてきた。部屋中に、凄まじいレベルで、ロック音楽らしき曲が流れている。よく見ると、ニットのセーターにジーンズのスタイルをした若い高校生ぐらいの女の子が、音楽を聴きながら、部屋の中で踊っていた。彼女は、音楽に一心不乱で、踊るのに夢中らしい。手足を振って、ダンスに余念がない。
「おい、聞こえるか?」
刑事が聴いても、返事しない。
そこで、部屋に入ると、壁に置いたステレオチューナーのボリュームを思いきりに下げてみると、みるみるうちに、娘は、ダンスを止めて、こちらを見ている。胸の大きな肥えた女の子だ。
「何で、音楽、止めるのよ。良いところだったのに」
「よく、音楽、聴けるな。父さんが殺されたの、知ってるだろ?」
「死んだの、もうどうしようもないもの?じゃない?」
「父さんが殺された時、何か聴くか見るか、しなかったか?」
「特に何も。そうだわ、そういえば、いやに猫の鳴き声がうるさかったわね。ギャーギャー鳴いて。あれ、何だったのかしらね?父さん、もう、手遅れなんでしょ、本当を言えば、泣きたい気持ちだけど、もう涙もさっき枯れちゃった。笑えるわね」
「最初、お父さんの様子がおかしいって感じたのは?」
「お兄ちゃんの卓也。それで、全員で部屋へ行ったら、父さんの返事がなくて、鍵が、内側から閉められてるから、おかしいって感じて。仕方ないから、全員で、体当たりして、内側の鍵、壊して入ったら、そこに‥‥‥‥‥‥‥‥」
そう言って、娘は泣き出した。やはり、悲しいらしい。
「ごめんね。君、名前は?」
娘は、泣きじゃくりながら、
「あたし、江梨子。高2の学生」
刑事は、そのまま、江梨子をそっと部屋へ残していくと、廊下へ出て、右側の扉を入った。中は、きちんと、整理整頓された勉強部屋だった。部屋にある大型テレビも、スイッチが切ってある。隅に置いたステレオも聴いてはいないらしい。部屋にいる若い男の子は、スタンドをつけた勉強机に向かって、カップに入った飲み物を飲んでいる。刑事が訊いた。
「何、飲んでるの?」
「紅茶。落ち着くかなと思って。
おじさん、警察の人なんでしょ?お父さん、殺されてるの、見たよね?」
「うん。本当に、鍵、掛かってたんだね?」
「そう。不思議だよね。殺されてるのって。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥、僕、最初、将来の就職進路先のことで、父さんに相談に行ったんだ。そしたら、部屋から返事がなくて、鍵が内側から、掛かってて、僕、おかしいぞって思って、皆を呼んで、話して、扉を壊したんだよ。でも、まさか、殺されるなんて、あり得ないよね?お父さん、誰にも、恨まれてないし‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
そこで、卓也は、黙り込んだ。どうやら、怨恨で、何かの心当たりがあるらしい。しかし、話してくれそうもないだろう。少し、間を置こう。そこで、刑事は、
「お父さんとは、うまく行ってたの?」
「男同士だからね。色々あるよ」その時、部屋に、先ほどの、旦那の女房らしき女が現れて、
「あの、刑事さん、表のパトカーの行列、何とかなりません?ご近所に迷惑がかからないかと心配で」
「分かりました。伝えて、帰らせますよ。あの、奥さん、お名前は?」
「わたくしですか?房江と申します。庄司房江、死んだ主人は、庄司淳太郎と申します。ええ、あとは何か、ご用があれば、居間に居りますので」
そう言って、房江は、階下へ降りていった。
何だか、気をそがれた感じで、刑事は、部屋を出た。奥の和室へと向かう。引き戸を開けると、畳の上に、大きな布団が敷いてあり、そこに寝たひとりの老婦人が、起き上がって、こちらを見ていた。温厚そうな上品な老婦人だ。
「何か、ありましたのね?良くないことですわね。家の様子で、分かりますわよ、それくらい」
刑事は、自己紹介して、今夜、この家で起こった事の経緯を説明した。彼女は、亡くなった庄司淳太郎の母親のかな子といい、かなり以前から、肺病を患って、床に臥したきりであるという。
かな子は、無言で、刑事の話に耳を傾けた後に、静かな口調で言った。
「刑事さん、お分かりのように、わたくしも、庄司家のれっきとした家族の一員ですわ。ですから、自分で自分の果たすべき役目は、きちんと心得ているつもりですのよ。刑事さんは、事件を捜査されていらっしゃる。とすれば、わたくしの息子を殺した犯人を挙げることが、一番の使命ですわね。果たして、わたくしが役に立つかどうか?容疑者ですか?見当がつかないこともないんですのよ。うちの息子の淳太郎、古物商を長年やってましてね、骨董品には目がないんですよ。当然、競売のライバルも居ましてね、ご存じですか、黒川隆之介って方。古物界では有名な方でね、よくうちの息子を目の上のたんこぶみたいに嫌ってたみたいでしたよ。自宅も、ここから近くでね、一度、当たってみられたらいかがです?今頃は、在宅でしょうから」
「変なこと、訊きますが?」
「何でしょう?」
「その黒川って方、猫を飼ってます?」
「ええ、そう言われたら、そんな話、聞いた記憶がありますわ。でも、どうして?」
「いいえ、特に。どうも、ありがとうございました。とりあえずは、お暇させていただきます」
刑事は、和室を出ると、家から、裏庭に出た。裏庭の狭い芝生の隅に、平井刑事が、コートを着込んで、寒そうに震えていた。吉山刑事は、平井刑事のそばで、しゃがみ込むと、平井を見上げた。
「おい、平井、何か、裏、取れたか?」
「さっぱりですね、吉山さん。取れたと言えば、容疑のありそうな人物として、隣家の主人の柳田高一と、同じ古物商の黒川って奴くらいですかね」
「柳田っていうのは、どうしてなんだ?」
「近所喧嘩が激しかったそうです。一時期は、窓に投石するくらいの争いようで。狭い住宅街では、そんなことも起こるんですかね?」
「お前、現場の部屋の扉のかんぬき、よく見たか?」
「いいえ、詳しくは知りませんが、何か?」
「血まみれだよ。分かったろ?今度の事件の犯人?」
「と、言われましても、僕には、全く」
「鈍い奴だな。じゃあ、順に、事件の真相を話してやるよ。いいか?」
「事件は、邸宅の中で起こった。被害者の庄司淳太郎は、犯人に背中をナイフで刺されてから、血まみれになっても、自力で、何とか力を振り絞って、自分の書斎へたどり着き、部屋へ入ると、内側から、血まみれの手で、鍵を掛けてひと安心すると、絶命した。それは、血まみれのかんぬきが、証明している。では、被害者が、そこまでして、部屋を密室にまでして、犯行をかばわなければならなかった者とは誰か?簡単じゃないか?身内の者だよ。では、身内の誰か?そこで不思議なのが、息子の卓也だ。被害者との関係でも、色々とあったらしい。そして、卓也と話している最中に、話が深入りしそうになると、突如、母親の房枝が現れて、邪魔をした。恐らくは、母親か女の直感だろう。危なくなった息子を助けたい一心であんなタイミングになった。息子の卓也は、犯行からのショックから、落ち着こうと、机で静かに紅茶を飲んでいたよ。慌てていた房枝、泣いていた江梨子、それに、容疑を他へそらそうとした母親のかな子、どれも、犯行後の様子じゃないね。それで、ピンと来たんだ。そういうことさ」
「皆で、卓也をかばおうとした..................。家族の絆って強いんですね。で、逮捕するんですか、卓也?」
「いきなりは無理だから、まず事情聴取だな。..............、でも、気が重いよ、家族を思うとな」
「何だか吉山さんらしくないですね。.....................、それとも、あそこにいる猫を逮捕しますか?殺人容疑で」
「そうもいかんか?じゃあ、行くか、平井」
「そうこなくっちゃ、行きましょう、吉山さん」
ふたつの影は、やがて、裏庭から消えていった...................。