平成の阿部定
『アアアアアアアアア……』
空中に浮かんだそれが、鬼火を纏って輝きだし、うつろな目で包丁を振りかざした。
「あぶなっ!?」
白刃が俺の前を通り過ぎる。
それは水に投影された映像などではなく、明らかに物理的な重みを感じさせるものだった。
その証拠に、かすった服の胸元が僅かに切れて裂けている。
「マジかよ……」
『す……す……す』
目の光と同じく、行動にも正気を感じない。
何かをぶつぶつつぶやきながら空中で包丁を振り回している。
「くそっ!」
よりによって階段側から来たから逃げられない。
いきなり突っ込んでこないだけマシだが、あれでは潜るのも無理だ。
「おい、二人とも、奥に退け!!」
「賛成だ!!」
「いえ、任せてください」
俺の前に委員長が飛び出した。
そしておもむろに布団を投げ捨て、裸身を露わにした。
「おい、バカやめろ!! 危ないぞ!!」
俺の声など意に介さず、委員長はケツを平定に向けて叩き出した。
「びっくりするほどすっぱだか!! びっくりするほどすっぱだか!!」
絶叫が響き渡る。
だが、平定には何の変化もない。
『ころす……ころすろすろす……』
ぶつぶつとつぶやいているだけだ。
それが明らかに強くなって、何を言っているかもわかるようになってくる。
これは、まずい!
「びっくりするほどすっぱだか!! びっくりするほどすっぱだか!!」
「馬鹿っ!!」
俺は強引に委員長の腕を引っ張り、廊下の奥に引きこんだ。
「えっ!?」
相変わらず包丁を振り回しながらふらふらと寄ってくる平定。
委員長が狙われている感じはないが、危うくその刃が当たるところだった。
「効かない……? なぜ……」
『アアアアアアアアアアアアアア!!』
平定は怒り狂って包丁を突き出す。
狂気じみたその突きは、まるで正確ではないが、与える恐怖感は尋常ではない。
「逃げろ!!」
「はい」
委員長を奥に押しやる。
『ろすろすろすろすろす!!!』
だが、そんな委員長には目もくれず、俺に向かって包丁が振り下ろされる。
必死で避けるが、次々と突き出される包丁。
明らかに俺を狙っている。
「何で俺だけ――」
「この幽霊は局部をもぐそうですから」
「そうだったな……ってうへぇ!?」
『もぐもぐもぐもぐもぐ!!』
やだ。絶対やだ!!
幽霊より変態のほうが怖いと思ったが、実物の幽霊はその比じゃなかった。
車が段差で跳ねたときのような、股間の浮遊感が襲って来る。
「こっちだ!!」
一足早く退避していた霊子が、奥の部屋から半身を出して手招きした。
「!」
俺と委員長――ちなみに全裸だ――は、慌ててその部屋に飛び込んだ。
それを確認してドアを閉める霊子。
間一髪、ドアの向こうで包丁がぶつかるガンガンという音が響く。
「ふぅ、危ないところでしたね」
「いや、幽霊なんだから、通り抜けてくるんじゃないか?」
「確かに……!」
霊体どうこうではなく、仮に水滴だとしてもドアの隙間くらい潜れるだろう。
それを考えると、安心というわけにもいかない。
「大丈夫だ。少なくとも包丁は個体だ。壁など通り抜けられない」
そうか、籠城が効くわけだ。
と、そこで――
「しまった!!」
「どうしたんだい」
「5Qを廊下に置き忘れてきちまった!!」
「おしまいだね!!」
やってしまった……。
慌てて逃げてきたので、あのクソ重い5Qを廊下の入り口辺りに置いてきてしまったのだ。
絶望する俺たち二人を見て、委員長が怪訝そうにする。
「ゴウキュウとは何ですか? 強い弓と書いて強弓ですか?」
「幽霊捕獲装置さ」
ふんすふんすと鼻を鳴らす霊子と、更に顔を歪める委員長。
「柳谷くん、幽々亭さんは本気で言っているのですか?」
「残念ながら事実だ。それより人の正気を疑うなら、まず服を着てくれ……」
暗がりの中、俺と霊子のヘッドライトの明かり程度は気にならないのか、委員長は堂々と全裸だ。
「服は比較的奇麗だった向かいの部屋の椅子の上です」
「じゃあこれ」
俺はパーカーを脱ぎ、委員長に渡す。
「自然に脱いで、自分がびっスパをやるつもりではないでしょうね?」
「やるか!」
【びっスパ】って略すんだアレ……。
世界一どうでもいい知識が一個増えた。
「はぁ」
特段嬉しそうな様子もなく、パーカーを受け取った委員長はすっぽりとかぶった。
俺の方が身長も高いし筋肉の関係でサイズも大きいので、ちょうどワンピースを着ているような格好になった。
「これはこれでエロくないですか?」
「……ノーコメントで」
魅惑の生足の上、パーカーの下が裸だとわかっているから余計にエロい。チラリズムが刺激されるんだろうか……。
だが、口が裂けてもそんなことは言えない。
「じーっ」
隣で三色団子が軽蔑の目線を送ってきているからだ。
あと口で「じーっ」って言ってるからだ。
「オホン、そんなことより問題は平定をどうするかってことだ」
「先ほども言っていたように思いますが、平定とは?」
「平成の阿部定の略だよ。そこの三色団子がつけた」
「なるほど。では私もそれに合わせましょう」
「では、これからを相談するとしよう」
その間にもドアはガンガン叩かれている。
『出て来い出て来い出て来い出て来い!! 裏切者裏切者!!』
首なしライダーはもっと茫漠としていたが、これはもう幽霊というより昔ばなしの鬼のようだ。
完全に物理的な存在としか思えない。
怖いは怖いが、ここまで物理的だと、逆に安心している自分もいる。
筋肉を鍛えていると、嫌な目に遭っても「その気になればぶっ飛ばせるしな」と考えることで気が
楽になることがある。
物理ならブン殴れる。
『もいでやるもいでやるもいでやる……』
「しかし、何であそこまでキレてるんだろうな……?」
「何でも相手の男は既婚者なのを隠していて、それで恨まれていたらしいよ」
「最悪だな」
「まぁ平定のほうも既婚者でダブル不倫だったそうなんだが」
「最悪ですね」
不倫を疑う奴ほど浮気癖があると聞いたことがある。
自分がやっているから、相手を疑うんだろう。
そのくせ、相手を非難できるというのだから、図太い神経だ。
そう考えると、幽霊なんてあやふやなものではなく、そこらにいる人間らしく感じ、恐怖がまた薄れて来る。
「倫理観のない人間なんてそんなものさ」
霊子がフッと、どこか陰のある溜息をもらす。
「いつになく哲学的じゃないか」
「いいや統計学もどきさ」
「懲りずにイチャついているところ悪いのですが、解決策に繋がっていませんよ」
「イチャついちゃいないが、確かにな」
「何かいい案はあるかい?」
「びっスパが効けば話は速いのですが。なぜ今回は効かなかったのか……うーん」
両手で頭をこねくり回して考え込む委員長。
腕を上げる度に裾が引っ張られて大事なところが見えそうになってヒヤヒヤするが、わざとやってそうな気もするので、なるべく見ないようにする。
「その……本当に効いてたのか? そもそも見間違いで幽霊自体いなくて、柳の木に向かってケツ叩いてたとか」
「失礼ですね。そのくらいの見分けはつきます。本当にこれまでは撃退できていたのです」
「その言葉を信じるなら、おそらくだが、意味不明な行動をとることで、相手の思考を混乱させていたのだろう。空間の焼き付きに過ぎない幽霊は、いわば極単純なプリント基板のようなもので、その情報処理能力は貧弱だと考えられる。成功時というのは、処理できない情報を流し込まれ、パンクしたことで、存在を維持できなくなったのだろう」
そんなメダパニじゃないんだから……。
だが、思考が単純なのは、いまだにドアを叩き続けていることからもわかる。
それを乱すというのはアリか?
「ではなぜ今回、通用しなかったのでしょう?」
「ダブル不倫の逆恨みの件を鑑みるに、自己中心的な性格だと思われる。相手の心情を推し量ろうとしないタイプなのだろう。だからそもそも斟酌に処理に回してないんだ。ゆえにパンクしようがないと考えられる」
「なるほど……びっスパも相手によるということですか。少し安心しました」
何を安心してるんだ。
コイツ、絶対また他所でやる気だろ……。
「いずれにせよ、扉の向こうの御仁には通じない以上、5Qを取りに行くしかない。だがそのためにはドアを開ける必要があるね」
「ここに朝まで籠城するって手もあるんじゃないか? 幽霊ってのは朝は出ないもんだろ?」
「朝と夜で目撃例に有意差があるのは確かだね」
「では、籠城ですか。しかし、男子高校生と女子二人が密室で一夜となると、帰りは五人ということもあり得ますよ」
「どういう比喩だ! 手なんか出さないから安心しろ!!」
「断言されるのは不愉快だね!」
「全くもって同意です。なかなかの肉体を構築したつもりですので、全く劣情を覚えないと断言されては沽券にかかわります」
「じゃあどう答えればよかったんだよ!?」
と、そんなアホなやり取りをしていて、ふと気づく。
「……ん?」
「どうしたんだい?」
「音が聞こえなくなってないか?」
「確かに聞こえませんね。諦めたのでしょうか」
ドアを叩く音も、怨念の叫びも消えている。
「死亡時に空間に焼き付いた残像が幽霊であるなら、感情は死亡時のものがそのまま残るはず。諦めるというのは考えにくいが――」
すぅ、と。
包丁が、ドアを抜けてきた。
隙間からとかではなく、完全に扉そのものを通り抜けている。
そして般若の如き形相をした本体もまた扉をすり抜けて現れた。
「なっ、嘘だろ!?」
「まさか……トンネル効果!? まるでエネルギーレベルが違うのに――そうか!! やはり確率子が確率を大幅に歪めているのか!!」
「一人で納得するな!! どうすりゃいいんだよ!?」
入口から現れられては、逃げようがない。
『逃げるな逃げるな逃げるな裏切者裏切者裏切者!!』
怒りに燃える目が、俺をにらみつけ、ゆらゆらと迫ってくる。
「くそっ、こうなりゃ塩だ!」
俺はポケットの塩玉を手に取り、幽霊に向き直るが――
「なんだこりゃ、ベタベタしてるぞ!」
「砂糖だからね」
背後から三色団子の声が飛んで来る。
「はぁ!? 清めの塩じゃないのか!?」
「それを確認するためさ。浸透圧で水分を奪うのが効くなら、砂糖でも代用できるはずだ」
「言ってる場合か! ええいちくしょう!!」
力いっぱい砂糖玉をブン投げる。
そう広くも無い部屋、狙いを外すはずもない。
砂糖玉は平定に命中し、粉となって弾けた。
『ろすろすろすろす殺す……』
だが、平定は僅かにゆらめいた程度で、あまり効いているようには見えない。
明らかに弱っていた首なしライダーとはまるで違う。
『浮気性の粗チンなんかもいでやるもいでやるもいでやる……!!』
平定が急に飛び掛かり、白刃を閃かせる。
雑な動きなおかげでかわせたが、一回かわせたところで、解決にはならない。
「お、おい、効いてないぞ!!」
「やはりかー。砂糖は塩ほど浸透圧が強くないのだよね。塩が最適か」
「馬鹿団子!!」
ひとに相談なく実験しやがって!
くそっ、こうなりゃ手は一つだ。
「コイツは男を狙ってる! 俺が引きつけているうちに逃げろ!!」
「そんなことをしてキミはどうなる!」
「窓から飛び降りてやるさ!!」
「ここは三階だぞ!!」
「いいから行け!!」
平定を引きつけ、部屋の奥へ誘導する。
その隙に、脇を霊子と委員長が抜けていく。
よし、上手く行った。
あとは自分で何とかするだけだ。流石に女子二人で5Qが担げるとは思えないしな。
部屋の奥に窓はあるにはあるが、外は夜の闇で真っ黒にしか見えず、その先がどうなってるかなんてわかるはずもない。
イチかバチかだ。
今まで鍛えて来たんだ。耐えられると信じて飛び降りるしかない。
と、入り口側に回った委員長が胸を張った。
「私がひと肌脱ぎましょう!」
「だから全裸絶叫は効かないんだよ!」
「そういう意味ではありません。あちらの部屋には、アレがあったはず。時間を稼いでください!!」
「なに!?」
言うや、委員長は霊子の腕を引いて部屋の外に飛び出した。
彼女の真剣な表情は信じさせるものがあったが、時間を稼げと言われたって――
ポケットに手を伸ばすが、砂糖の粉があるばかりだ。
『浮気チンコなんか切り落としてやるるるるるる!!』
「くそっ」
めったやたらに包丁を振り回してくる相手に、砂糖の粉を投げつける。
効果は期待していなかったが、意外や意外。目に命中し、平定がよろめいた。
『アアア……アアアアア』
目の水分が奪われて、光が捉えられなくなったのか?
いや、理屈なんか三色団子に後で考えてもらえばいい。
このチャンス、どう活かす。
これが武道なら、相手は隙だらけの死に体。
攻撃の好機だが、幽霊相手に攻撃が通るのか?
――待て。
明らかにドアをこいつは叩いていた。
それに物質の包丁を握っている。
なら、コイツの手は物質なんじゃないか?
「よし、狙うはそこだ!」
軸足に力を込め、回し蹴りの体勢に――
「やめろ!! 包丁は個体じゃない!!」
「え?」
入口の方から、霊子の叫びが響いた。
だが、体はもう止まらない。
床を離れた足は、蹴りは、止められるはずもない。
回し蹴りは狙い通りに平定の、包丁を握る拳をとらえた。
そして、俺の足は拳と包丁を見事にすり抜けた。
霞を蹴ったような手ごたえの無さと、その際の遠心力で俺は大きく体勢を崩してしまった。
『アアアアアア!!』
そこに覆いかぶさるように、平定が飛び込んでくる。
真っ逆さまに落ちて来る包丁。
スローモーションに見えるそれを、必死に体をよじってかわす。
「ぐっ」
それでもかわし切れず、腰の端に痛みが走る。
だが止まるとまた狙われる。
必死に転がってその場を離れていく。
「すまない! ボクが間違えていた! 包丁が現場に残っているはずがない!」
確かにその通りだ……!
殺人事件の証拠の包丁なんか、警察が真っ先に回収するはずだ。
ガンガン音を立てているから個体と思い込んでいたが、考えればすぐにわかること。
だが、霊子の天才ぶりを過信して、思考停止していた俺が悪い。
「極薄の水分子だ! 受けるな! 逃げろ!!」
薄手のガラスのようなものか。
筋肉を無視して貫通した腰の鋭い痛みがそれを証明している。
その痛みを無視して転がるが――
「ぐっ」
壁に激突。必死に逃げただけに勢いがつきすぎて息が詰まる。
逃げ場を失った俺の前に、真っ赤なクラゲ――平定が浮遊していた。
『イヒッ、追い詰めた追い詰めた』
俺の腹の上で浮いているのは、例の包丁。
これは、もう――
「あなたの欲しいものはこっちです!!」