恐怖体験
逆海月。
妙に洒落た名前だが、散切市の郊外にあるラブホテルの廃墟である。
なんでも昔は連れ込み宿を逆さくらげと呼んだらしく、それをモチーフにした名前をつけたとかなんとか。温泉マークを逆さまのクラゲに見立てる昭和のセンスはなかなか面白い。
この辺の話を蒟蒻山が以前教えてくれたが、よりによって教室の中で話すものだから、女子から生ごみを見るような目を向けられていたものだ。
ともかく、出自がなんであれ廃墟である。
バブル期に建てられたもので、ギンギラギンだったであろうネオンサインは、光を失ってなお、そのまま残されている。
国道沿いに建つそれは、しかし高速道路が出来てからメインルートから外れ、不況や少子化そしてとある事件など様々なあおりを受けて潰れたようだ。
心霊スポットとして有名になったのは廃墟化してしばらく経ってからであり、近年はユーチューバーの凸などで知られるようになった。
特にTVでも引っ張りだこの霊チューバー・レイジのチャンネルが人気で、その後追いで零細チャンネルが雨後の筍ばりに動画を上げていたからな……。
目撃されるのは、無理心中しようとした女の霊だというが、それらの動画に実際に映っているのは無いらしい。怖くて見れてないから確かなことは言えないが。
怪談によくありがちなデタラメな話ではなく、無理心中は実際に起きた事件だ。
【平成の阿部定】と称されたその事件では、交際相手の男に本妻がいることを知った女が、その男の局部を切り落としたうえめった刺しにし、首を吊って死んだという。
しがない地方都市である散切市で珍しい衝撃事件だったため、大人は全員知っているし、令和の俺ら学生には怪談として伝わっている。
と言っても俺たちの生まれるより前の話なので実感はまるでない。アニメとかでもそうだが、自分の生まれる前の作品って、ほんの数年の差でも滅茶苦茶昔に感じるよな……。
リアルタイムの事件だと、もっと印象深いのかもしれないが、記憶にある限り、散切市で事件なんて……いや、新興宗教の信者が起こした事件があったような――
いや、そんなことより、平成の阿部定の怪談だ。
その怪談で一番有名なのは、女の幽霊が出て、男の局部をもぎ取る、というもの。
局部なんてもがれたら大ニュースになるだろうからそんな事実はないはずだ。ただ、ふざけてここを訪れた何個上の先輩がEDになった、とかそういう眉唾物の噂は聞いたことがある。
「俺も聞いたことくらいはあったけどよ……実際に来る羽目になるとは……」
夕暮れに例のキャリーバッグ――幽ぱっく改め5Q――を抱え、廃墟のラブホに布団女と。
なんだろう、この異常な状況は。
俺だって廃墟とはいえ女子とラブホなんてところに来たらドキドキはするはずだ。
健全な男子高校生だからな。
それなのに、まるで心が躍らない。
「んふふふふふ。やあ、心躍るねえ」
コイツは違うらしい。
もちろん、性的な視点ではなく霊的で科学的なそれだが。
「何でそんなにテンション高いんだよ……少しくらい恥じらうとかあれよ」
「んふ。なんだい? ボクに欲情したのかい?」
「お前がボクって言うたびにドラえもんの顔が浮かぶから心配するな」
「可愛いってことだね」
このポジティブさは見習いたい。
「油断しすぎなんじゃないのか?」
「しょせんは廃墟さ。気にするなら、安全性だよ」
「カネ余りの時期に作られた分、頑丈そうだが……治安は気になるな」
「キミのその筋肉ならどうでもなるだろう? スコヴィル氏もあるし」
「それはやめろ」
あれはもう兵器だろう。自分はアルコール消毒のボトルを、表裏逆に押してしまい、顔面にアルコールが噴射された経験があるだけに、スコヴィル氏でそれを想像したら寒気がする。
余計なトラウマを増やしている場合じゃない。
「それでどうするんだ? 中に入るのか?」
「もちろん」
何がもちろんなのかはわからないが、幸い人通りはない。
高速料金を嫌って下の道を通る運送トラックくらいしか通らない道だしな。
「平成の阿部定の霊――長いから平定としようか」
しようかじゃないが、まぁ面倒なのでそのまま流す。
「平定の霊が出るのは、廊下が一番多いそうだ。各部屋を見て回り、男を見かけると男性器をもぐという」
股間がヒュン、とする。
そんな話をされた男でゾッとしない奴はいないだろう。
「実際、もいだりできるもんなのか? 幽霊ってのは水滴に転写された奴なんだろ?」
「呪い殺すとか祟りみたいなものは解釈次第だろうが、そこまでの物理的作用はなかなか考えにくいね。ただ、脳細胞のネットワークは、焼き付きによってプリント回路のように疑似的に存在すると考えられるから、死亡時の前後の行動を試みようとしてくるのはあるだろう」
なるほど……感心してばっかだが、霊子の話はいちいち筋が通っている。
死亡時の感情が空間に焼き付いたのが霊なら、その時の行動を繰り返すというのはありそうな話だ。
だとすれば首なしライダーが襲ってきたのは、生前は暴走族か何かで、抗争でもしていたのかもしれないな。
「平定は返り血で真っ赤になったネグリジェ姿で、まさにクラゲのように浮遊しているという――」
「真っ赤? 最近目撃されてたのって、真っ白い姿なんじゃないのか?」
「いいところに気づいたね! 流石、ボクの助手だよ!」
「楽しそうなとこ悪いが、ここで長話してると通りがかった車から見られそうだ」
流石に制服姿じゃなく私服だが、目撃はされたくない。
今日もタクシーで来たが、流石にここに横づけはせず、少し歩いてきた。
ちなみに、前回と同じおじさんだったので、うすうす感づかれてはいたが。
それでも、高校生としては世間体というものがある。
しかも、俺は白のパーカーに黒のパンツというなんの変哲もない服だからいいが、三色団子は私服の上に白衣を着た更に上に布団を着てるからな……。
目立つことこの上ないし、即特定されるだろう。
布団や白衣がなければ、白のブラウスと黒のコルセットスカート――童貞を殺す服と揶揄されるタイプの服だが、なんでも、単に敬愛するアインシュタインの写真が白黒だったからモノトーンの服が好きらしい――が良く似合っているだけに勿体ない。
「とりあえず中に入らないか?」
「それもそうだね。歩きながら説明しようか」
逆海月に足を踏み入れる。
何の意味があるのかわからないアーチをくぐり、外から見えにくく配置された塀の奥の入り口に向かう。
「最近、目撃例がある白い女の霊というのはね、平定とは別なんだ」
「え? そうなのか?」
「近隣のあちこちの心霊スポットで目撃されていてね。どうも移動しているみたいなんだ。まだここでは目撃例がなかったから、遭遇の可能性は高いと思うよ」
確かに、誰かに憑りつくみたいな話で「ついてくる」のはよく聞くが、自発的に移動するというのは、怪談でもあんまり聞いた覚えがない。
廃墟巡りが趣味の霊とかだったりするんだろうか。
考えているうちに、建物内に侵入していた。
夕陽が窓から入ってきているので、まだライトはいらないくらいの明るさだ。
受付らしきものがあるが、カーテンがしまっていた。
一方、壁には部屋を示したパネルがあり、ランプがとりつけられている。
あれで空き部屋を判断して行くのかな。
だとすると、受付はなんのためにあるんだ?
支払い? いや、でも時間貸しなら部屋で清算なのか?
よくわからん。
「利用するときのことでも考えているのかい?」
「そそそそ、そんなんちゃうわ」
「何で関西弁なんだい」
「その、移動する霊ってのに馴染みがないから考えてただけだ」
「うん、非常に興味深いよね。滅多に聞かないケースだ。特定のルートを持つのか、それともランダムか。あるいは心霊スポットを巡る人物に憑りついているのか」
「……待てよ。それが出たとして――」
「そう、場合によっては平定と同時に出現するかもしれないね」
「げぇ……」
幽霊の鉢合わせなんて想像するだにゾッとする。
廊下の前後から挟まれる自分たちが容易に浮かぶ。
この廃墟の空気は、湿度が高く、体にまとわりついてくるようでもあり、あのトンネルのそれを思い出させる。
幽霊が水滴をスクリーンにする焼き付きなら、ここで出てきてもおかしくはなさそうだ。
「塩、持っとくかい?」
俺の不安を見てとったのか、布団から差し出される塩ボール。
ちゃんと二個なあたり、こいつなりに考えてるんだろうか。
「一応、もらっとこう……」
これが効くことは首なしライダーで証明されている。
クソ重いキャリーバッグよりよっぽど安心感があった。
「さて、二階からが客室みたいだね。上がってみようか」
「パネルを見るに四階建てか。このバッグ担いで上がるのは面倒だな……」
「二階で出てきてくれることを祈るんだね」
案外中は思ったほど荒れてはおらず、ただ壁紙がはがれていたり、なぜか古いエロ本が散乱していたりはするが、階段を上がるのには支障がない程度だ。
「よっと」
面倒なので5Qは肩に担いでいく。
これでも体は過剰気味に鍛えている。流石にこの重さにも、もう慣れてきた。
二階には見た感じ左右4つずつ部屋があるようだった。
「中に入るのか?」
「興味津々かい?」
ないことは、ない。
「んなわけあるか」
本心を隠す男子高校生のプライド。
「まぁ、入るけどね」
「入るんかい」
霊子は何のてらいもなく、手近なドアを開ける。
中は薄暗く、見えづらい。
とりあえず、シャワー室らしきところと、ボロボロのベッドが見える。
三色団子は例のヘッドバンド型のライトをつけて、そのライトで辺りを照らしながらうろうろしていた。
俺はあんまり興味のないフリをしつつ、室内を見渡す。
一般家庭ではまず見かけない壁掛けの大きな鏡がライトを反射した。
夜の鏡は不気味で、あまり見ていたくはない……というか個人的にはあまり鏡が好きじゃない。特別理由があるわけじゃないが、なぜか昔から大きな鏡ほど好きになれなかった。
鏡から目を逸らすと、ベッドの傍に、箱のようなものが並んでいるのが見えた。
なんだろう、売り物が入ってたっぽい……?
そうこうしていると、霊子が何かを手に寄ってきた。
「妙なものがあったよ。これは何に使うんだろうね?」
スケベ椅子じゃねーか。
「なんだろうな。わからない」
「スケベ椅子だよ」
「わかってて言ってたのかよ!」
「キミもね」
「ぐぬぬ……」
ちくしょう。
三色団子に手玉に取られているようで腹立たしい。
「うん、やはり室内よりは廊下のほうが目撃例も多いし、戻ろ――」
急に動きが止まる霊子。
「どうした? おどかすのは止めてくれ」
「……いま声がしなかったかい?」
「いいや、聞こえなかったが……」
「しっ」
人差し指を立てて、なぜか体勢を低くする霊子だが、別にその必要はないだろうに。
人間がしっ、とするとき身をかがめるのは、狩りの時の習慣だったりするのかな。
いやそんなことはどうでもいい。
耳を澄ますんだ。
すると――
「――っ――ど――か――」
!!
無言のまま霊子と目を合わせる。
向こうも目を丸くして頷いた。
つまり、俺の幻聴ではない、わけだ。
「……上からだな」
「ああ。上がろう」
不意に心臓がバクバクしてくる。
やはり本当に「いる」と思うと、途端に恐怖が襲って来る。
……光が欲しい。
夕陽は沈み始めている。
光が無いとパニックを起こしそうな自分がいる。
克服できているようで、まだ恐怖は残っている、気がする。
「俺もライトもらっていいか」
「ああ。つけてあげよう」
なにぶん激重キャリーバッグを担いでいるので、ヘッドライトをまくのは大変だが、下ろしてしまえば済む話――だが、その時間も惜しいということだろう。
かがんだ俺に、三色団子布団がヘッドバンド型のライトを巻いていく。
ふと、鼻孔をいい匂いがくすぐった。
くそっ、布団の癖に防虫剤とかじゃなくシャンプーの香りがしやがる。
そう思うと、ラブホの一室なのを思い出し、不安とはまた違う鼓動の高鳴りを感じる。
赤くなりそうなので慌てて顔を逸らした。
「どうしたんだい?」
「い、いや。何かまた聞こえたような……」
嘘である。何も聞こえてはいなかった。
「……ふむ。注意して上がるとしようか」
三階への階段を上って行く。
一段一段踏みしめるごとに、恐怖は増していく。
「そう硬くならないでいいよ。そもそも廃墟愛好家や心霊スポットめぐり好きの可能性もあるし、単に不良がたまり場にしているのかもしれない」
「生身の相手ならなんとでもなるんだがな……」
この5Qを振り回すだけでも人間はなぎ倒せるだろう。
物理でなんとかなる奴は怖くない。
「同じだよ。この世に存在する以上、物理法則で支配されているはずだ。対処法があるから怖くないんだから、幽霊のそれを見つければいいのさ」
「まぁ、道理だな……」
その理屈はもう何度も聞かされている。
だからその言葉自体というより、幽霊を物理的な視点だけで捉えている霊子と話をすることが、何より安心感を生んでいる気がした。
夕陽の光が消え、暗くなった階段でも、パニックは起こらない。
前には進めている。
うん。間違ってない。
行こう。
そうして、上がった三階。
意を決し、廊下を覗き込むと――
「!」
薄暗い廊下の先に、白い影。
それは明らかに黒髪の女性だった。
どうやら背中側のようだが、だらりと長く下がったその黒髪で体の大半が覆われ、すらりと長い手足だけが見えた。
これは、平定ではなく、おそらく目撃例の頻発しているというもう一方の――
「びっくりするほどすっぱだか!! びっくりするほどすっぱだか!!」
突然その黒髪が割れ、尻が飛び出してきて、その尻を己で連打しながら絶叫した。
「びっくりするほどすっぱだか!! びっくりするほどすっぱだか!!」
えっ。
えっ。
えっ。
さっき聞こえてたのって、これ?
なにしろこちらに向けているのは尻だけなので、俺たちの存在に気づくことはなく、狂ったように尻を叩き続け、叫び続ける女。
これ、幽霊……なのか?
思わず霊子と顔を見合わせる。
が、彼女もげんなりした様子で首を振っている。
怖すぎる……。
怖いは怖いが、思ってた怖さじゃない。
完全に違う怖さの幽霊が、尻を叩き続けている。
全裸だが、ぜんぜんエロさを感じない……。
そこにあるのは恐怖だけだ。
「びっくりするほどすっぱだか!! びっくりするほどすっぱだか!!」
……あれ?
これなんかどっかで聞いたことあるぞ。
確かネットの与太話で――
「生身の人間……なのか?」
「はい?」
全裸で尻を叩いている幽霊――いや、生身の変態が振り返った。
瞬間、時間が止まる。
変態の顔面が、硬直する。
「……いいん、ちょう……?」