掌⑱
「私、埼玉に帰ろうと思うの」
「……え!?」
「幼馴染みの知り合いの人がやってる会社で事務員しないかって誘われてて、そこで働こうと思って」
「まじで?でも、どうすんの?こっちの事とか」
「今の会社には来月末で辞めさせてもらえるようお願いしてあるの。家も解約の連絡済み」
「え…」
「ごめんね、こんなタイミングで話しちゃって」
「それはいいけど、でも…」
何を言おうとしたのか忘れた。聞きたいことが山程あるのに言葉が出てこない。
「私ね、こっちに来て良かったと思ってるんだ。色々不安だったけど、振り返ってみたら最初から人に恵まれてたなって」
夕夏ちゃんは微笑むような声で話す。その声を聞いていると心が砕けそうになる。俺は逃げ出したい気持ちになって、ただ目の前の杭だけを見た。
「唐風軒のおじさんとおばさんはいつも家族みたいに接してくれて、支えてくれた。遥人君にはずっと付き合ってる彼女がいてね、すっごく可愛いんだ。会社もそう。気にかけてくれる優しい先輩にお世話になったし、それに、理久君にも会えた」
夕夏ちゃんは話をやめた。だめだ、もう悩んでる場合じゃない。今気持ちを伝えないと後悔しそうだ。
「夕夏ちゃん… 俺!!」
真っ直ぐ向き合うと、夕夏ちゃんは泣いていた。
涙が細い線になって頬を伝わって、ポタポタと零れ落ちていく。景色を眺めたままのその横顔に何も言えなくなった。
俺はバカだ。嫉妬や焦りで大切なことが見えなくなってた。純真に好きなら相手の幸せを願えるはずだろ?こんなに辛そうな顔を見て平気でいられる奴は頭がどうかしてる。
夕夏ちゃんはきっと、名前が出てこない“あいつ”を想って泣いてるんだろうーーーーーー
「おい理久、練習しないのか?」
一哉は頭部のマネキンをウエイトレスが盆を持つみたいに手に乗せて言った。
「その持ち方やめろよ、変だぞ。今日行くとこあるんだ」
「あ、お前また夕夏ちゃんかよ~。あんまり浮かれてるとどんどん技術落ちてくぞ」
「わかってる。じゃあお先」
周りに挨拶して店を出た。
国道を20分ほど走って専用駐車場に車を停めた。夜間出入り口を通りエレベーターで7階に上がった。
部屋の前に着いて鞄からスケッチブックを取り出した。溜め息が漏れる。
「俺、ダサいよな」
ノックしてドアを開けた。蓮はベッドで本を読んでいた。
「理久。仕事終わり?」
俺はスケッチブックを渡した。
「これ、返す」
「何?」
「お前のスケッチブックだよ」
「ああ、そこの下に入ってたやつ」
「悪かった」
蓮は意味がわからなそうに眉をしかめた。
部屋を出ようとすると蓮が言った。
「もう帰るのか?」
足を止めた。もうひとつ言うべきことがあった。
「早く思い出してあげろよな」
俺は情けない笑顔を見せて部屋を出た。




