一年後のバレンタイン[2]
紺色の傘が開く。
これは去年の梅雨入りの日に、お父さんがマトイに買ってきた傘で、落ち着いた色なのに品のいい光沢があるってお兄が蘊蓄を語ってた。
静かに口を閉ざしてたマトイが、傘を私のほうに寄せる。
それから、眉尻を下げた。
「迎えにきたって、嘘なんだ。駅には、お母さんのおつかいで来ただけで」
「そうなんだ?」
「うん。……ともだちと一緒にいるとこ、邪魔してごめんね、ココ」
「ぜんぜん気にすることないよ」
降る雪は傘につくと透明になって、つうと伝って落ちてゆく。
足元も溶けているところと凍りそうなところが混ぜこぜなまま、落ちる陽と街灯に半端に照らされてる。
ズボズボと音がするほど沈む水のような雪に、もたもたと足が取られた。
「俺のうしろのほうが、歩きやすいかも」
「いいの。マトイの隣が好き」
「そう? じゃあ、腕掴んでて。転ぶといけないから」
「うん」
うなずくと、またべちゃべちゃとした足音だけの静寂に戻る。
私とマトイの間で、ふたりとも黙ってるなんてことはあんまりない。
――元気ないね、とマトイの沈黙が問い掛けてる気がする。
「マトイのこと、ずっとみんなに紹介してなくて……」
「うん」
「みんなを信用してないわけじゃないんだけど、マトイのことは家族のみんなだけがわかってればいいかなって思ってて」
「うん」
「私、隠し事するとすぐ顔に出ちゃうし、それなら最初から何も言わないほうが……。って、徹頭徹尾、私の都合ばっかりだね」
「そんなことない」
しゃくしゃくと、シャーベット状の道を歩くマトイ。
息が上がってるのは私だけで、マトイの呼吸は寒空の下でも目立たない。
「俺も、俺の事情は水上家の外には出さないほうがいいと思ってる」
マトイは足元に注意を払っているからか、こっちを見ないまま言った。
私はどうしても――どうしてもマトイの顔を向けさせたくて、ぐっと肘を引っぱる。
「でもそれは、マトイのことが後ろめたいからじゃないからね」
マスク越しでも、マトイの輪郭はしゅとしてるし、眉と目のつくりの繊細さはどうあっても誤魔化せない。
「みんな、マトイのことすっごくかっこいいって。当たり前だよね、私のマトイだもん」
「うん。ココのマトイだよ」
「私、マトイのこと独り占めしていたかったのかも。みんながマトイのこと知ったら、私だけのマトイじゃなくなっちゃうから」
私、やきもち焼きだ。
きっとかわいくない顔してる。なのにマトイが優しい声で相槌を打つから、寄り掛かりそうになってる。
泣きたい私の額に、マトイがこつんとおでこを合わせた。
「みんなが俺のこと知っても、俺はココだけのマトイだ」
真剣な目は、すこしも私をからかってなんてない。
まばたきでまつげが触れ合いそうなマトイに動揺して、雪に足を取られた。
わかっていたような安定感でマトイの胸に引き寄せられる。
「どう、して、そう!」
息を吸う。
「マトイは、私を甘やかすのがじょうずなの?」
そして凭れ掛かる。
「ココをたくさん甘やかしたいから。俺に甘やかされるココがかわいいのが、よくない」
小さく笑ったマトイがマスクの向こうから鼻をつんと押した。
むず痒さに、やだやだと肩に鼻を擦り付ける。
マトイがなだめるように背中をさすってくる。
「ココは、好きな漫画や気に入ったアイスは一人で抱え込まないで、みんなに見せてまわるよね。なのに、俺のことはみんなに自慢してくれないの?」
「マトイを、自慢する……?」
「ココのマトイだよって、紹介してほしいな」
自慢してもらっても恥ずかしくないくらい、俺は一途な恋人だよ。
耳元でそう続けるマトイの声が甘すぎて、私は沈没しちゃいそうだ。
「俺は、俺のことをしまい込んじゃうココも、好きだけど」
「う、うん」
「でもココは、そうじゃないでしょ」
マトイがふわっと軽やかに私の身体から離れた。
傘の柄を挟んで向き合ったマトイは、信頼を目に、やわらかい顔をしている。
私は思い浮かべてみる。
ありたい私の姿は――
「うん。私は好きな人を隠したりしない私でいたい」
そして、マトイの脳裏に浮かび上がるとおりの、前向きでオープンなココでありたいと思うのだ。




