ホレーショの知らぬもの[12]
日々見ていると慣れるもので、昨日と今日が連続しているのと同じように、自分は変わらず自分であると思いがちだ。
その認識を埋める作業をする。
声変わりからそれほど経たない16の頃に外見更新を行ったきりの代理ボディは、本当の身体よりも使い慣れていて、こちらのほうが真実の顔であるようにすら思えていた。
16の顔であることで困ったことなどない。そも代理ボディの外観をリアルと揃える必要はどこにもないのだ。
だからこれは、俺の自己満足。
頭頂から足先まで数値を比較すると、案外大きく違いが出る。その違い、成長分を少しずつ埋めて、かたちを整える。
髪を少し長めに伸ばしてから、未来と同じように揃え直す。
変わらないと思っていたのに、腕まわりも胸骨の厚みも、どの測定値も一致しない。
個々の違いは数ミリ、数センチであっても、嫌と言うほど印象に影響を及ぼすのだと知った。
成長による外観変化を考慮して製作されたこのボディであっても、この時代の技術で更新を行うのは容易くはない。
それでも更新を決意したのは、理由あってのこと。
「ココと並んだら、差が目立つかな」
前髪を引っ張ってみたが、当然それで顔が隠れるわけじゃない。伸びた身丈も明らかだ。
階下からはココのはしゃいだ声が聴こえる。
16の頃に持っていたような中性的なやわらかさが消えて、どことなく重さが増した身体。
ココと初めて会った19の頃は、どちらに近かったんだろう。
俺はまだ、ココにとっての『マトイ』を満たしているのだろうか。
メンテナンスは完了しているのに、深呼吸してばかりだ。
たまらない気持ちで窓の外を覗くと、悠馬さんと梨花姉さんが車から降りてくるのが目に入った。
「いい加減覚悟を決めないとな……」
「何のだ?」
独り言に言葉が返されたことに、跳び上がった肩を取り繕いながら振り返る。
「うわっ。格兄さん、入るならせめて声を掛けるとか」
「悪い悪い。ん? 僕が悪いのか? ノックはしたけど返事がなかったから、まだ来てないのかと思ってさ――――って、お前、マトイ……」
格兄さんの視線が上に下にと向いて瞬く。
その顔を注視しながら、注意深く訊いた。
「おかしいかな?」
「……思い悩みすぎて急激に老けたのかと思ったけど、そんなわけないな」
「さすがにそんなことは」
パソコンの横に設置した大掛かりな3Dプリンターと素材片に視線を誘導しながら、落ち着かずに頬を掻く。
人工的な変化だと、兄さんにはすぐにわかるだろう。
「本来の見た目に合わせたんだ」
「ああ……そっか。ちゃんと21に見える。これじゃあもう子ども扱いはできないな」
「うん。あの外見のおかげでかなり容赦してもらってるんだって気が付いたから、……ちゃんと向き合いたいと思って」
「どっちにしてもお前は年上の世話焼き心を擽るタイプだよ。少しくらい大人びたって、僕の弟には違いない」
相変わらず頭をぽんと撫でてくる兄に、頬がむず痒くなる。
見た目の年が近付いたって、格兄さんの鷹揚さには少しも敵わない。
「でもまあ、こっちのほうが内面と一致してる気がするな」
俺は相変わらずこみ上げる表情を隠すのが下手で、すぐに顔が赤くなる。
理解して受け入れられている喜びを曝け出すのは憚られて、頬の内側を甘く噛みながら目を逸らす。
そして、話を逃がす先を見つけた。
「そうだ、兄さん。ちょうどよかった。借りてた本、返そうと思ってたんだ」
「ああ、読んだのか」
俺の態度を追及することなく、格兄さんは本を手に取った。
慈しむような手つきでぱらぱらと本を捲る兄さんの手中で、付箋が色鮮やかに踊る。
「どうだった?」
「オフィーリアになって川底に沈む夢を見た」
「はは。それはえらく豊かな感受性だな」
笑う顔に、他意は感じない。
けれど、兄さんがあのときこの二冊を手に持っていたのは、偶然なんだろうか。
付箋はハムレットが迷うセリフと決断するシーンにばかり付いていた。
中でも赤線まで引いていたのは――――
「To be or not to be」
「ああ」
「生きるべきか死ぬべきか。それとも、為すべきか為さざるべきか。兄さんはどう読んだ?」
答えは知っているような気がしながら、それでも訊いた。
兄さんは僅かに本に目線を落としてから、喉を開き太く声を出す。
『如何せん。荒れ狂う運命の矢のもたらす苦しみに耐え抜くことが崇高なのか、あるいは悩みの海に武器を持って立ち向かい、それを終わらせることが心の高貴さなのか』
腕の振りが苦悩を視覚的にする。胸を掻きむしったハムレットが剣を片手に天に問い、その剣先を俺に向けて突撃してくる。
剣を握った仕草の兄さんの手をかわして腕を掴むと、兄さんがにやりとした。
「ハムレットは立ち向かい、剣で死んだ。僕にはそれが答えだな」
兄さんの剣を避けて動いた三歩を振り返る。
「俺も、命の助かる場所で心を殺して息をしているのは、もういやだと思った。だから動き出すことにした。……一歩一歩が小さすぎて、みじめになるけど」
だからといって、見ない振りをして耐え続けることはもうしない。
遼々たる過去と未来の埋めようのなさに絶望して、命を投げ出すこともしない。
「みんな気付いてる。ちゃんと一年後に振り返れば見れた進みになってるさ、心配するな」
「そうかな」
「ああ。それでいいんだろ」
案じてくれていた兄に、言い逃れが出来ないようはっきりとした返答を選ぶ。
「うん。ホレーショが知らなくても俺は、遙かな古今に手を伸ばし続ける幽霊として生きる」
「決めたなら、足を止めるなよ。応援はするさ」
「ありがとう、兄さん」
腕を掴んだままだった手を合図のように叩かれて、俺はようやく力を緩めた。お前力強いな、と兄さんに笑われて、気恥ずかしくなる。
「じゃあそろそろ1階に行くぞ。どうせその恰好見せるのが照れくさくて、部屋に引き籠ってたんだろ
」
「う……うん」
何もかも見透かされていた。
気まずく兄さんの肩先に視線を合わせると、背後に回り込んだ兄さんにドンッと腰を押される。
「自分の意思を貫くときにはしゃんとしてろ。俯くな。胸を張って足を動かせ。そうすれば、覚悟と自信は後から付いてくる」
「格兄さんにも、覚悟と自信が必要なときがあったの?」
「それなりにな。誰しも事情の一つ二つは持ち合わせてるものだろ」
「そっか……。兄さんは負けなかった?」
「負けないようにしてる。今も」
ドアを潜った格兄さんの背中が不意に揺れて見えた。
気のせいだ。だけど。
「俺も応援してる、格兄さんのこと」
「うん。そうしてろ」
そう応じたあとの背中は、いつもよりもまっすぐに伸びているようだった。
次話最終話。本日中に更新予定です!




