ホレーショの知らぬもの[10]
「それでそれで!? 誰が勝ったの?」
身を乗り出してきたココの細い手首が、大腿の内側の肉をやわく押す。
俺はこの近過ぎる距離の理由がココの無邪気なのか、信頼なのか計りかねている。
時折誘惑なんじゃないかとさえ思う。
この部屋、ソファがないとはいえベッドの上で話をするにはあまりにもココが無防備だ。
ココの肩を押し返すが、ココは退かない。
「ココ、少し離れて」
「えーっなんで? あっ! マトイ耳ちょっと赤くなってる」
そう言って、耳の輪郭を指先でさわさわと擽ってくるから、始末に負えない。
目前に迫った甘やかな色の唇から目が離せずに、顔中に血が昇るのを感じた。
「マトイの照れ屋さんが出ちゃった?」
「ん」
正直、今話しかけて欲しくない。
だけどココのくりくりとした目があまりにもきらきらと覗き込んでくるから、すべて許されているような気がして――――目の前の下唇をちうと吸った。
ココの怯む肩を掴んで、驚きに瞑った目を至近距離でつぶさに視る。
ココはもうすぐ17。俺は21になったところ。
触れずにいられるほど大人ではなく、簡単に触れられるほど稚くもない。
色付いた頬と、再び開かれた無垢なまなざしが見つめ返してくる。
わなわな震わせた唇に指先で触れるココの肩を押しやり、元の位置に戻してやった。
「え? え?」
「続き、聞かないの?」
「聞く……けどもう一回やって!」
「駄目」
戸惑ったくせに追加を要求する積極性にはいっそ感心する。
身の内の獣を飼い慣らすのと、二人の距離感を保つのはきっと俺の役回りだ。
むくれるココの額をつんと突いて、そう決意した。
「誰が勝ったと思う?」
「マトイ! 勝てたでしょ。負けても勝つまでやるんだって言ってたもんね」
「それが、母さんが本当に強くて」
「えぇ?」
思い出すと自然ため息が落ちる。
人の話ひとつひとつに心をふるわせるココが、心配をありありと表情に乗せた。
それを見ると澄ました顔をしてもいられない。ついつい顔がにやける。
「賭けなんかにしなくていいって。負けても、いつでもおいでって、言ってくれた」
負けたけれど、勝利宣言。
俺の悲願の成就に、ココが両手を広げて抱きついてくる。それは甘んじて受け入れた。
「本当に!? よかった! 信じてた。信じてたの」
「うん。ココのおかげ」
「違うよ。全部マトイが頑張ったから。勇気を出したからだよ」
一緒に作戦を考えてくれたのはココ。
励ましてくれたのも、背中を押してくれたのもココだ。
それでも、少しだけ頑張ることが出来たのだと。自分の手で掴み取ることが出来たのだと、思ってもいいだろうか。
「うん……。そうだといいな」
擽ったく竦めた首に、ココが頭を擦り寄せる。
全身に喜びを溢れさせるココのうなじに頬を乗せて、ふるえる気持ちを噛み締めた。
夢の果て、幸せの一歩先、誘拐の結末。
過去よりも遠い場所に手が届いた瞬間。
俺はこの気持ちを言い表すすべを知らない。
顔を上げようとするココにもうちょっととねだって、顔を締め直せるようになるまで細い肩を抱え込み続けた。
さて、未来がうまくいったように、過去にだって手抜かりはしたくない。
「インターネット越しに、依頼を受け始めたんだ」
「うん?」
「アプリやソフトウェア全般について、開発、相談、改修何でも相談に応じますってしてみたんだけど」
「マトイに頼めるなんて贅沢なサービスだね!」
「見ず知らずの人もそう思ってくれるならいいんだけどな」
俺びいきが過ぎるココの発言に、苦笑が零れる。
それは俺が依頼受付を始める前、驕りと共に感じていた自信とほとんど同じものだったからだ。
未来の技術知識とこの頭脳があれば依頼は尽きないだろうと。
現実はそれほど俺を見てもいなかった。
俺にはプロフィールに書ける学歴も実績もない。
アピールの仕方を本気で考えたのは初めてだ。
「今のところそんなに問い合わせは来てない。俺もこの時代のニーズや技術レベルをまだ学べてないから、足がかり程度かな」
「そっかぁ。未来から来たって言っちゃうわけにはいかないもんね」
大混乱どころか、俺が異端扱いされるのか未来から咎められるのか。
どうあってもよいことにはならないだろう。
「それで、サンプルに作ったアプリやAIを公開し始めた」
「いつの間に作ったの?」
「昼間、ココが高校に行ってる間に」
「そうだったんだ! 最近帰ってきてもお庭やリビングより部屋にいることが多いと思ってたんだけど、お仕事してたんだね」
「まあね」
ココがちらちらと画面に目をやって興味を示してくる。
少し気恥ずかしさを覚えながら、マウスを動かして公開ページを開いた。
「作成の手は早い方だから、その辺アピールするために出来るだけハイスピードで、こういうものがあったらいいなってコメントを貰って取り入れてみたりだとか。幸い、こっちは好評」
ココを安心させるように、いい評価が多い感想欄までページを進めた。
ダウンロード数や評価、コメントは自信にも指針にもなる。意見が貰いやすいような工夫はこれから考えなければいけない。
今欲しいのは手っ取り早いアピール力になってくれることだけど。
「うわぁ! すごいね。マトイならすぐ有名になっちゃうよ」
「そうだといいな。俺は身分証明が必要な仕事はこの時代では難しいから、非対面でも一人格を認められることを当面の目標にしてみようかなって」
「うんうん。すごいなーマトイ、この時代でも動き出したんだね」
ココの目から見ても俺は止まっている状態だったらしい。
一言も指摘しなかったココの優しさには、それはそれで救われる。
「ようやく一歩だけどな。でも家族以外の人とやり取りすることで、少し、この時代に根を張れたような気がする。悠馬さんが心配してくれたのは、こういうことでもあるのかなって思った」
「ゆうゆうはカッコつけだけど、そこそこいいこと言うよね。たまにカチーンとするんだけど、言うこと間違ってないから結局こっちが折れちゃうの」
「そうかもしれない」
妙に悠馬さんを扱き下ろすココが面白い。
ココは悠馬さんからも、たくさんアドバイスをもらいながら歩いてきたんだろうな。
たくさんの人がココを気にかけていて、その一端を俺も分けてもらえている。今の状況はそうであるように思える。
「そうだ! あのね、お姉もやってくれたよ」
「梨花姉さん? ああ、見込んだとおり?」
「そう! マトイが言ったとおり」
「ふぅん?」
「ちょっとしたパーティーに行けそうなワンピースとピアス見せて、『今年の誕生日はこれ着てディナーに行きたいな』って言ったらホテルディナー予約してくれたって」
「さすが悠馬さん。半端なことはしない人だよな」
ココと梨花姉さんと、三人で練った作戦の進捗は、すこぶる順調だ。
俺の手を引いてくれる人たちに少しでも何か返したい。
頼られた分だけ信頼に応えたい。
それから、俺の新しい家族を全霊をもって迎えたい。
俺のそんな願いに、ココと姉さんは一も二もなく頷いてくれた。
「あとでレストランにもちょこっとお願いして、ゆうゆうが感動で泣いちゃうくらいの演出作らなきゃ」
「梨花姉さんが困らない程度にね」
「まかせて! ううん、違った。マトイがプロジェクトリーダーだもんね」
言い出したのが俺だからと言って、引き立ててくれた二人に感謝しかない。
俺がここにいられるように、この時代で人と関わりながら歩いていけるように、任せてくれたのだとわかってる。
「頑張ろうね、マトイ」
「うん」
その美しい心映えを、俺も求めて。




