ホレーショの知らぬもの[9]
巌頭之感は当時十六歳の旧制一高の学生が残した遺書だ。
哲学的自殺とも言われ、その死は150人以上を感化させた。
ホレーショの哲学、あるいは単に哲学は、万有の真相を図る上で何の権威にもならない。
そう述べた書は、時を越えてなお、俺の水面を揺らがせる。
引き取り手の決まった魚の送り先を引き継いで、俺は部屋を後にした。
これで、業者が作業を終えて室内の清浄化が完了するまでは、ここに逃げ帰ることは出来ないということだ。
「伝えておいたとおり、水槽の撤去に丸一日かかるから、今日は泊まっていくよ」
通い慣れてきた家の中で、リビングの片隅に置いた一抱えの荷物は、妹の手ですぐに回収された。
「お兄ちゃんの荷物はこっち、こっち」
「ここじゃ駄目なの?」
「お兄ちゃんが使うものは無菌にしておかなきゃ。客間は除菌精度最大にしてあるから、置いてきてあげるね」
年の離れた妹のカサネは、俺が来るたびに精一杯背伸びした様子でちょろちょろと世話を焼いて回る。ココよりも少し幼いカサネのそんな態度は、ココの弟の璃久がそわそわしながら俺にいいところを見せようとしてくれるのと似ていて、軽く笑いが漏れた。
「ありがと。だけど、少しくらい平気なのにな」
カサネを見送る俺の傍ら、母が早速この家のシステムと俺の身体を紐付けて、数値に目を走らせる。オールグリーン。今日のために俺も準備を重ねてきたんだから、当然だ。
「少しくらいと思っても、夜は長いんだから。……本当に大丈夫かしら」
「予防薬もちゃんと多めに飲んできたよ」
「そうねぇ。でもねぇマトイ、調子が悪くなったらすぐに言うんだよ」
母は心配症なのだと、最近になってようやく知った。
俺の体質は母譲りで、母は今よりも環境を安定させるのが困難であった幼少期、頻繁に生死の境を彷徨ったらしい。
俺はそれよりも更に症状が重いからと過保護に守られていたのだと、父が聞かせてくれた。
それを責めるべきなのか、感謝するべきなのか。筆舌に尽くしがたい。
「自分で対処出来るよ。追加の薬も持ってきてるし、主治医にも宿泊の許可貰って、万一のことがあれば夜中でも対応してくれることになってる」
「そうかい、それならいいんだけど……」
「普段から食事しに来ても、問題は起きてないだろ。時間が長くなるだけだよ」
「マトイ、お母さんはお前を心配してるんだ。滞在中はこまめに数値チェックをして、異変が起きたら知らせなさい」
「はい」
俺が従順に応えると、会話が止んだ。
構い立てたいけど何をしていいか、そんな気配を家族全体から感じる。
視線は好意的だけど、ココの件以来俺は何をしでかすかわからない息子として慎重に扱われている。
まあ自業自得だ。
そんな中で比較的無鉄砲に俺に近寄ってくるのは、今まで碌な交流のなかったカサネだ。
「私は嬉しいよ。ずーっとお兄ちゃんとお泊りしてみたかったんだ」
「カサネ」
「えーっと、どうしようかな。お菓子食べる? 何か欲しいものある?」
カサネは年の離れた妹だ。食事会の場で、親を介してしか話をしてこなかったから、互いに相手をよく知らないでいる。
俺の家族は、似た者同士なんだろう。
距離を詰めるのが下手で、じっと様子を窺ってしまうけれど、そこに悪意はない。
だから、手を伸ばすのは俺からだ。
ココがしてくれたように。ココの家族がしてくれたように。
『To be or not to be』
俺にそうしてくれる人がいるように、水面を顧みず一歩を踏み出せる人間でありたい。
「俺も今日を楽しみにしてたんだ。カサネ、ラララナイトの新章のグッズ、欲しがってただろ」
一時期、女児向けアニメのプリンセスだとかラララナイトのランスロットの顔でしか知ることの出来なかった妹は、素顔はあどけなくまだまだ成長期前で年相応よりも背が低いのだと知った。
水を向けるといくらでも気に入りのキャラクターについて話してくれる彼女への贈り物はすぐに目星が付いた。
「そうそう、グッズで見れるキャラエピソード制覇したくて。って、まさか!?」
「用意してきた」
「お兄ちゃん最高!! いいの?」
咄嗟に先程自らが客間に運んだ荷物のほうに顔を向けるカサネが、期待に満ちた目を俺に向け直す。
その顔の前に手のひらを突きつけた。
「まだ駄目。今日はカサネとゲームをしようと思って、その景品に持ってきたんだ」
「ゲーム? 難しいやつ?」
「待ってて」
意外なほど一つの物事を深掘りして考察するのに長けた妹なんだけど、未知のものが苦手で難しいことをやりたがらない。
そんなカサネでも手を出してくれそうなゲームは、ココと一緒に考えた。
カサネの好きな白とピンクに塗られたこれは、一般的なものよりも積んだ際のデザインに凝って作られた取り寄せの品だ。
客間の荷物から引っ張り出し、テーブルに置くとカサネの目が輝く。
「簡単で単純。三つずつ積み上げた積み木を交互に抜いて上に乗せるんだ。先に倒した方の負け。やったことは?」
「ないよ。うわぁ、積み木が可愛い! これで遊ぶの?」
「そう。この前ココの家で皆でやったんだ」
「ココちゃん、面白いことたくさん知ってるよね。いいなぁ」
受け入れは悪くない。
今までココの家からだと言って持ってきたレシピやエピソードが、しっかり心を掴んでくれているからかな。
「これでカサネが勝ったら、景品あげるよ。だからカサネは俺が勝ったらくれるものを考えて」
「ええ? うーん……お兄ちゃん何が欲しいかなぁ」
頭を抱える勢いでうーんうーんと唸った彼女は、あれでもないこれでもないと自室とリビングの間を行っては返す。
そして思ったとおり優柔不断な彼女はアイディアが出せず、母にまで助けを求めた。
「カサネが美味しい美味しいって買い占めてきたアイス、あれなんかいいんじゃないの?」
「えっそんなのでいいのかな。お兄ちゃん、いい?」
「いいよ。そんなに美味しいアイスなら、気合が入るな」
賭けのかわいらしい景品に自然と笑みを浮かべる。
菓子皿を持った母も寄ってきて覗き込み、団欒の雰囲気になった。
「どれどれ。なんだか楽しそうだねぇ」
「母さんもやろうよ。欲しがってた白猫型ペット用追加パッチ、完成させてきた。どう?」
「なぁに、私たちの分までしっかり用意してきてるのかい」
笑いながらも、意図は汲み取ってくれたらしい。
「それじゃあ私も参戦させてもらおうかな」
そう言って椅子を引き、俺のしたり顔で俺を覗き込んで来た。
「それでマトイは代わりに、何が欲しいんだい?」
それを明かす前に、もう一人参戦を確定させたい相手がいる。
そして彼は俺の誘いを待つまでもなく空気を読んでくれる人だ。
案の定、すぐそこまで来ている。
「待て待て。お父さんのことは誘ってくれないのか?」
「もちろん父さんも。父さんにはピラミッドの内部見学用代理ボディのレンタル権。順番待ちが熾烈なチケットだけど、譲ってもらえたんだ」
「お前、金に糸目をつけてないな。それでお父さんからは、何が欲しいんだ?」
為せ。為せ。
決断をするんだ。勇気を持つんだ。言えていないことを言うんだ。
「この家の客間を一室、俺に譲って欲しいんだ。それから、換気設備に病原体完全除去出機能の追加工事をする許可を」
父は驚くでも顔を顰めるでもなく、静かに「そうか」と頷いた。
母は笑顔をすっかりと忘れて俺を見ている。
「母さんから欲しいものも、同じなんだ。今夜問題なくここで過ごせたら、考えてみて欲しい。俺をこの家に受け入れることを」
「いいだろう」
父が言って、母の背をさする。
「言っておくが、お父さんはこういう手先を使う遊びは得意分野だからな」
「俺も、ただ漫然と挑んでるなんて思ってもらっちゃ困るよ」
勝負を仕掛けに来たんだ。
その言葉を受けて、母が重々しく口を開いた。
「よく言ったね。お母さんだって勝負強いんだってところ、見せてあげようじゃないの。ほら、カサネも頑張るんだよ」
「うん! お兄ちゃんからぜーったいにラララのグッズ貰うんだから!」
わかっているのかいないのか、妹が一人のん気な鬨の声を上げる。
その頭に、ココにするようにポンと手を乗せた。
ただ乗せただけ。それだけの手に、視線が集中する。
「頑張れよ」
ぽかんとしたカサネが確かめるように両手を頭上の手に沿えて、そして、にっと笑った。




