ホレーショの知らぬもの[8]
「お姉、用事が終わったら合流出来るって」
「いきなり呼び出しちゃって迷惑じゃないかな」
「大丈夫でしょ。かわいーいココとマトイからのお呼び出しだもん!」
スマホから顔を上げたココが一分の迷いもなく言い切るのを見て、いっそ清々しい気持ちになった。
ココを作り上げた土壌を頭に浮かべて、深く納得する。
与えられた愛に応えるように信頼を返すのは、俺の中の家族のかたちとぴったり重なった。
「さーってと。お姉が来るまではちゃんとデート楽しもうね。先週はおうちの周辺散策だったから、今日はもうちょっと足伸ばしてみる? 駅前とかどうかな」
「ココがよく行くところ?」
「そうだよ! ちょっと歩くけど、大きい駅だからねぇ、映画やカラオケも入ってるよ。あっ。コーヒーショップも!」
俺の腕をホールドしたまま、ココが身振り手振り満載で教えてくれる。万華鏡のように変わる表情を見ているだけで、ココが体験してきたわくわく感が伝わってくるみたいだ。
二人して前も見ずに互いのことだけを目に入れて歩くのは、少しいけないことをしているようで、どうしてか多幸感がある。
ココといると、頬が緩んでいくのを感じる。
まだいくらか風が冷たい季節でよかった。マスクから飛び出した頬が多少赤くても、寒さのせいだと言える。
「甘いものいっぱい並んでていっつも気になってるんだけど、大人っぽいお客さんが多いから尻込みしちゃって、まだ入ったことないの。ね、一緒に挑戦してみる?」
「いいね」
ココのよく知る場所で、ココの未体験なピースを埋めるのが俺だと思うと気分がいい。
そんな気持ちは、ココにはお見通しなんだろう。すべてココの手のひらの上であるような心地がするけど、それも含めて何もかもがくすぐったい。
「あとねー、近くに小さい水族館もあるよ。マトイの部屋にも水槽あったよね、おっきいの」
「ああ……うん、あれね…………」
「どうしたの?」
ココの声が遠く、耳の内でこぽこぽと水面を穿つ音が反響する。
昨夜読んだハムレットのワンシーン、水面に身を投げるオフィーリアが水槽からじっと見つめてくるのを幻視する。
「あの人はもう来ない」と狂い唄う妖精のようなオフィーリアの姿。
それに重なるように、生きるべきか死ぬべきかと苦悩する王子ハムレットが困難な廊下からこちらを見ている。
ローズマリーが、パンジーが、そして枯れたすみれがおもむろに揺れる。
瞬きの内に、水面に倒れる幻影が俺の姿に入れ替わる。
「マトイ?」
俺が配置を決めた水草。
噴き出し続ける空気の粒。
溺れることなく決まったところを泳ぎ続ける魚影。
だけど俺は、熱いほどの陽光が、ココの鮮やかな色が、それを遮るのを見たことがある。
「あの水槽、壊そうと思ってるんだ」
「えっ。でも、だって……そうなの?」
ココの手が腕の内側をつたいながら下がって、手のひらをひと撫でしてから指と指の隙間に入り込む。
不安そうな顔で見上げてくるココに、少しだけ笑って返した。
「俺の部屋に動く生き物が欲しくて、無理を言って入れてもらったものなんだけど――――犬や猫は許可が下りなかったから」
「アレルギーとか、あるもんね」
「うん。だけど、完璧な環境じゃなきゃ生きられないのも、水槽の中から出られないのも、見ていて辛くなってきたんだ。俺はこうして少しずつ外に出られているけど、あれを見るたびに揺り戻される。割り切って切り離せるほど、あれが俺と違うものだとは思えなくて……」
息が苦しいんだ。
飲み込んだ言葉を察するように、ココが強く手を握り締めてくれる。
「あんまり今は好きじゃないって、マトイ言ってたよね」
「うん」
「あのね、お姉が言ってた。女の子は自分が本当に身に付けたいものしか、着ちゃだめだって。違和感があるのに無視して身に着けてたら、自分のやりたいことが何にも見えなくなっちゃう」
梨花姉さんの自分というものをはっきりと持った言葉を意外に思う。
ああでも。
われ先にと主張しないことが、意志が弱いということではないか。
「男の子も一緒だよね。傍に置きたくないときは、手離さなきゃ」
「そう、だね。オフィーリアになる前に」
「オフィーリアって?」
ココのシンプルで明快な基準に心が軽くなり口を突いた言葉が、無邪気なココに拾われる。
格兄さんに本を借りた旨を掻い摘んで説明すると、一晩で読んじゃったの? と不思議がられた。
それほど長い話でもないからと言いかけて、ということはとココを見る。ココの部屋にはそもそも本棚がない。
「さてはココ、ハムレットは読んだことがないね」
「むっ。読んだことはないけど、去年ハムレットをモチーフにしたオリジナル脚本の演劇は観たよ」
予想外の方向からの反撃に、すぐに合点がいく。
「それって、格兄さんの?」
「そうそう。夏目漱石と『がんとうのかん』の話だったのは覚えてるんだけど、海外の名前って覚えにくくって」
「『がんとうのかん』?」
兄さんの差し出した本がハムレットともう一冊であったことを思い出す。
「んーっと、確かね、遺書なんだよ。お兄がセリフ暗記するのに付き合ったから、まだ最初のほうは覚えてる」
そう言ってココが誦じてくれた一節は、青空に堂々と響いた。
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學
竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、
曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
「ココ、それ意味わかる?」
「んーわかんない。でもこの遺書に魅入られて何度も死んで何回も生き返る人の、決断の話だったよ」
小径の終わりの三叉路を右手に曲がると、大きな通りに出る。駅通りだよとココが言った。
「俺、気合入れて頑張ってみる」
俺も決断をしたい、と呟くと、肩肘張らないココが繋いだ手を揺らした。
「うん。頑張りたいときが頑張り時だよね」
それは当たり前のようで、そうでもないのだと。




