ホレーショの知らぬもの[6]
収支明細を開く。
個人認証と結びついた保有残高に警告が点ることでもなければ、逐一確認することもない。
俺は残高に支障を来したことは一度もない。
今まで意識しなかったその機能を思い出したのは、昨夜の終わりになってからだ。
常に収入が増えている自覚はあった。
食料費や日常光熱費、除菌やこの部屋の維持にかかる恒常支出は幼少期からほぼ一定で、追加購入した代理ボディの保管や使用料、研究費等の成長後に増えた支出は開発したソフトウェアの売り上げや委託請負収入で充分賄えている筈だ。
それにこの二年間は、隔離監査局からの給金も追加されている。
二年前、結局誘拐と監禁の罪は成立しなかったものの、あの事件と使われた未発表技術については大々的に報道された。
保護を兼ねた拘束期間は長かった。結局、俺を庇って身柄の引き渡しを拒否し続けてくれた隔離監査局が俺の監視を請け負い、社会性を学ばせる名目で職員としての身分を用意してくれた。
代理ボディに没入しココに会いに行けるようになったのも、それでようやく監視の目が緩んだからだ。
収支明細は、初見でも困ることのない古典的でシンプルな記載になっている。
「思ったより高いな」
それは恒常支出の欄だ。
幼い頃から身を取り巻いていた部屋のローンは、両親と妹が暮らす一般的な住居よりも遙かに高額なんじゃないだろうか。
今でこそ軌道に乗った開発売上高や給金、時々入る研究補助費で充分払い切れる金額だけど、今でも変わらず支払いは両親の口座に紐付けられている。
考えをまとめる最中、コツコツと肘置きを爪の先で弾く。
神経質な音が心を落ち着かせる。
こぽこぽと水面から空気の粒が顔を出す音が響く。俺の今までの人生のすべてであった雑音が、今日もそこにある。
考えたこともなかった壁を感じて、目を閉じた。
「いってらっしゃい。気を付けて。一応、マスクをして人込みは避けるんだよ」
「わかってる。お兄は今日は家にいるの?」
「いや、用があるから出掛ける。そのままアパートに戻るかな」
眠たげな目をしながら玄関先まで見送りに来てくれた格兄さんが、くすりと笑いながら手をにぎにぎと動かした。
手を振る代わりだろうか。
「帰っちゃうの? 今日のお夕飯は私とマトイが作るカレーだよ! 食べに戻ってきて。ね」
「ね、って言っても駄目。また来週な。それと、いい加減目玉焼きとスクランブルエッグとカレーライス以外のレパートリー作りなよ」
「今度ね! そんなに急いだらあっという間におばあちゃんになっちゃう」
ココの拒絶は飾り気なく鮮やかだ。兄さんもそれ以上は言えずに肩を竦めた。
敢えて学びを未来に取り置きするという選択肢は、若く幸福な匂いがする。
それは兄さんも悠馬さんももう手放したもので、俺もきっと近く、そちらに向かうんだ。
兄さんと同じように肩を持ち上げて見せると、おっと意外そうな顔になる。
「兄さんも、帰り気をつけて。行ってきます!」
照れ臭さを隠すように、俺はココの手を取って駆け出した。
すぐにココがついてくる。
今度は速度を抑えるのを忘れないように――――そう頭を働かせる俺の肩の横で、ココがくくくと笑った。
「マトイ、思い出してる?」
「うん。あの時、捕まるのも外の世界も恐ろしかったけど、実はとびっきり愉快だった」
「そうなの!?」
ころころと変わるココの表情が、次の言葉に繋げさせてくれる。
自分が無価値じゃない気分になる。最高だ。
「自分で選び取ったものなんて、他にはなかった。誰かの意表を突いたと思うと笑いが止まらなかった。ココの力なんだけどさ」
「決断したのも飛び降りたのも、マトイだよ」
「そうだといいな。俺、自分のことを自分で決められるようになりたいんだ。加賀井さんや若土さんみたいに問題点や可能性にメスを入れて、本当の不可能を切り分けられるように。格兄さんや悠馬さんみたいに、未来から逆算して今を考えられるように」
言い切ってから、なんだか目標が格上過ぎて恥ずかしくなる。
耳が赤くなっているのを感じて、咳払いで誤魔化した。
「ちょっと気合いを入れて語りすぎた」
まぜ返すように笑うと、ココに急に腕を引っ張られる。
「出来るよ! マトイに出来ないことなんて何にもないんだから」
「ココ……」
歩道の真ん中で立ち止まったココの両手が、マスクよりも上、俺の両耳の後ろをボールのように掴んだ。その勢いのまま顔を引き寄せられる。
目の前で、ココの光彩の大きな目が、キラキラ輝いてる。
言われなくてもわかるよ、これが信頼によるものだって。
「楽しみだね。マトイ、どんどんカッコよくなるね」
「うん。待ってて」
「待ってる! ううん、待ってるだけじゃないよ。ココももーっとカッコよくなっちゃうんだから」
宣言しなくたってココはなるだろうな。
それがどんなココかは、凡庸な俺には見当もつかないけど。
「ココなら、どんな風にだってなれるよ」
「えへへ、そうかな」
今わかる。
俺はこの可能性を潰さないようにしなきゃいけないんだ。
それが未来について考えるということ。
何台も続けて車が通り、未だ新緑を纏わない枝木が揺れる。
ココの手を取り直して、河川敷に降りた。
風はまだ冷たく、けれど凍えるほどじゃない。
「ねえ、ココはどんな風になりたい?」
「うーんと、将来の夢のこと? あっ、進学先のこと?」
「そうだね」
「言うの、恥ずかしいな。あのねー……」
珍しくもじもじとしたココが、小さな子どものようにはにかんで笑った。
「環境問題とか、自然との共存について勉強してみたいな」
「環境……?」
全く予想外からの切り口に、何を言えばいいかわからず言葉が鸚鵡返しになる。
ココは答えずに、楽しむように辺りを見回した。
つられて俺の目もココの視線の先を辿る。
山頂の雪解けで濁った川が、それでも爽やかにせせらいでいる。
ふきのとうが群れて頭を出し、そよぐ様を初めて見た。
逃亡中にはあんなに凶悪だった自然が、人が暮らす傍ではこんな顔を見せるのか。
ココに視線を戻すと、ココはまだ川に目をやっていて、その横顔は思いの外静かだ。
「ほら、全然違うでしょ、未来と」
「そうだね」
あのとき、乗用銃弾にへばりつくように外を見ていたココを思い出す。
自然が好きかなんて考えたことともないと言っていたココだけれど、色よい反応ではなかったような気がした。
「私、未来の自然との付き合い方はあんまり好きじゃないなって思ったの。でも、私はその理由を知らないから、いいことか悪いことかわかんない」
「歴史的な経緯の説明は出来るけど」
「ううん。聞かないでおくね。……でもね、今の時代が自然とどう付き合っていこうとしてるのかも知らないなって、気が付いたんだ。そんなんじゃ、好き嫌い言う以前の段階だよね。だから、もっとちゃんと勉強して、私に出来ることを考えたいって思ったの。未来は決まってて、もしかしたら少しも足掻けないのかもしれないけど、やってみるのは無駄じゃない筈だし」
言葉を選びながら身振り手振りを交えて喋るココだけど、その背中はぴんと伸びていてきれいだ。
「私も語りすぎちゃった、恥ずかしいね」
そう言い照れ笑いをして俯くココの背中に、どうしても触れたくなった。
両腕を伸ばすとすんなり手の中に収まった細い身体が、どうしようもなく大きい。
ココのほうが大きい。ココの器のほうがずっと。




