ホレーショの知らぬもの[5]
明るい気持ちでじゃれ合う二人を見ていると、悠馬さんが横目で俺の表情を確認してきたのがわかった。
何か言いたげな目の色。
俺の顔つきに瑕疵があっただろうか。
表情を修正すればいいのか、心積もりをすればいいのか。この場合の心積もりはいいものなのか、怖いものなのか。それすらわからずに、その目を見返した。
がっしりと視線が相互通行する。
口火を切るのは悠馬さんだ。
「でさ、マトイはこの時代でどうするんだ?」
雑談の続きのような口調の中に潜む何かに、俺はうまく言葉を嵌められない。
漠然とした問い掛けに応え竦む俺の代わりに、格兄さんが話を繋いだ。
「どうするって何についてだ?」
「あー……ココのことですよ。マトイがココといたくてこの時代に顔出してるのはわかるんだけど、じゃあこれからどうすんの?」
「どうするかって……俺がココのことをですか?」
「そう。お前がココのことを」
その問いに、俺は答える言葉を持っていない。
いや、瞼を何度も開閉させるしか出来なかったことこそが答えだ。
ずっと今日が続くと思っていたのかというと――――馬鹿なことだけど、そうだ。
けれど、過去の一地点にいるココが漸次未来に近付いてくることによって、変化が必要なのは少し考えれば自明だろう。
黙った俺に対して、悠馬さんが困ったものを見るようにしながら、言葉を噛み砕いた。
「つまりな。マトイは時々ココの人生に現れる人って立ち位置になるのか、それともこのままこの時代でココと生きていくのかは、早めに決めたほうがいいと思うよ。お前はともかく、ココの今後の人生はそれで大きく変わるんだろうからさ」
責めるようでも呆れるようでもない。
これは諭しだ。それも、ココのための。
どちらにするのかなんて、そんなの、ココを帰したときには決めていたことだ。なのに、何故今になって言葉で確認されるのか。
俺の背筋が伸びるのと対照的に、兄さんは背凭れを頼りに仰け反った。
「悠馬、ぶっこむねぇ」
「格さんが兄でしょ。ちゃんと言っておかないで、いいんですか?」
「でも僕マトイの兄でもあるからさぁ、もうしばらくのびのび楽しんでおいてくれてもいいかーって」
わかり合っている二人の会話に、さすがにこれから苦言を呈されるのは理解出来る。
だからと言って取り繕う言葉は、俺の頭には浮かび上がらない。
考えていることを愚直に表現して、提言を貰うしかないんだ。
「ココと、生きていこうと……思ってるんだけど……?」
口に出した言葉は、やはり苦笑を以って迎えられた。
「ほら、マトイわかってない顔してる」
「俺、何の理解が不足してるんですか?」
「マトイがそういうつもりなのは、見てればまあな。でもどうやって実現する気でいるのかはさっぱり見えてこない。ココのパートナーとして生きていくってんなら、いずれは生計立てて独立しなきゃいけないだろ」
「お金を稼がなきゃいけないってことですか」
ココがあまりに自然にこの家での生活を享受しているから、それが変わる日が来るなんて思いもしなかった。
けれど現に格兄さんも梨花姉さんも、既にこの家にはいないこと。
であればココもそうだと思うのが流れだろう。
兄さんが悠馬さんを睨め付けながら、俺に対しては慰撫するように笑った。
「いずれだよいずれ。今すぐって話じゃないからね。な、悠馬」
「そうですね。ココもまだしばらくは学生だ。だけど高校生が進路を決める時期なんてそう遠くはないんじゃないですか?」
「それはまあ……」
「少なくともココとはあらかじめ話し合っておかないと、困るのは本人たちですよ」
格兄さんは渋い顔で唸っている。だけど必要だと考えているのは両者同様だ。
「悠馬さん、兄さん。俺がやらなきゃいけないことの話なら、聞かせてください」
促すと、兄さんが仕方ないなあというように悠馬さんに水を向けた。
「マトイ。俺はさ、就職してまだ数年だけど仕事は順調で、梨花が仕事をやめたり家族が増えても、何とかしていける自負がある。だからいつでもプロポーズ出来ると思ったんだ」
「この歳でそう断言出来る悠馬も、標準的じゃないけどな」
「そうだとしても。なあマトイ。仕事もない、戸籍もない、だけど一緒に暮らしたいっていうのは、ただのヒモだ」
「悠馬、そういう強い言葉を使うな」
「いざそのときになって弱い立場で困るのはマトイじゃないですか」
当事者そっちのけで繰り広げられる応酬に、口を挟む隙を掴めない。
今まさに困っている、と言うことも出来ず、二人の顔を交互に追うしかない。
「だからどうして悠馬はそうマトイをいじめるんだ。まだ子どもだろ」
「子どもじゃないすよ。マトイ、お前その姿実物より若いんだろ。いくつだよ」
「21です」
「ほら」
忘れていたんだろう。気勢を削がれた兄さんは、それでも噛み付いた。
「だからって、お前のペースで何でも進めようとするな」
「そんなことしました?」
「本人たちが選ぶことだろうけど僕は、マトイは数年ここで羽を伸ばした後は未来に主軸を戻して、この時代は時々遊びに来るところにしてくれてもいいと思ってる。今そう思わないからって、急ぐことはないんだ」
「ココがかわいそうじゃないですか」
「いいんだよ。ココはあれで強いし、昔からモテる。何とでもなるんだ」
有無を言わせない強い口調に、悠馬さんが口を閉ざす。
「人の時間は有限であって、二つの時代で生きていくには難が多い。正直想像も付かないくらいにね。だからマトイが責任を感じて、この時代に根を張る必要なんてないんだ」
「俺がしたいのは……」
二人どちらも一ヶ月、もどかしく思いながらもよく見守っていてくれたものだと思う。
俺が馴染むのに必死で何ひとつ思い巡らせないでいた間、二人で話し合ったりなんかもしたのだろうか。きっと、間違い無いだろう。
引き結んでいた口を慎重に開く。
視線がひと所に集まるのを感じながら、俺はこの人たちに認められたいと思った。出来れば、望外の結論であっても許されていたいとも。
しかし真剣な空気の中、俺の想いは軽快な足音とこれ以上なく音を立てて開かれたドアの勢いに吹き飛ばされた。
「マトイーお風呂あがってきたよ! ねーアイス食べる? 苺とメロンどっちがいい? 私のおすすめはねぇ」
もこもこのパジャマ姿のココが、乾き切っていない髪をきらきらさせて飛び込んでくる。
熱気で頬まで紅潮した有り様では、アイスを食べたくもなるだろう。
全く人の言うことを聞きそうにもないマシンガントークは、たった今目の前で繰り広げられたものを想起させた。
「ココ」
「あっ。お兄とゆうゆうもいた! 二人もアイス食べる? ココのおすすめは苺だよ!」
両手に赤と緑のカップを掲げたココの高過ぎるテンションに気持ちを挫かれたのか、格兄さんがやれやれといった風情で立ち上がる。
「やめとく。悠馬、ビール買いに行かない?」
「買うのは付き合うけど俺今日帰りますからね」
あれだけ言い合っていても蟠りなく切り替えられるのは、付き合いの長さゆえだろうか。
あっさりと追随した悠馬さんが、俺の肩に軽く手を置いて目配せしてきた。
ごめんと伝えてきているように見えるが、確証が持てない。
ココと入れ違いに背中を向けた悠馬さんが、兄さんが部屋を出たのを見てから 振り向いた。
「あーあとマトイ!」
「はい」
「俺も敬語はいいから。考えとけよ弟分」
声は居丈高だけど、片手を顔の前に立てて手刀を切られては、さすがに俺にだってわかる。
気にしてないと伝わるように、意識して笑みを作ると、ホッとした顔で出て行った。
ココがぽすんと音を立ててベッドに跳ねるように座って、脚を投げ出す。
「もう。やんなっちゃうよねー。二人とも集中したら周りが見えなくなっちゃうんだからさ」
「ココ、聞いてたの?」
「立ち聞きはしてないよ。なーんかやなこと話してる感じがしたから、一階に戻ってアイス取ってきたの」
恐ろしいくらいのタイミングはそれが理由か。
ココには奇跡の女神がついてるのか、ココの企むところなのか読ませない節がある。
この姿に油断すると大の男が二人も三人も、簡単にのめされてしまうんだ。
「邪魔しちゃった?」
「ううん。助かった。俺、ココのおすすめが食べたい」
「苺だね! はい、こっち」
「ココはメロン食べるの?」
「うん。取り替えてくるのめんどくさいもん」
「はんぶんこ、する?」
「するする!」
まるきり無邪気な顔をしたココに、俺は何度救われるんだろう。
ココのまろい肩に額を乗せると、何も言わずに背中に腕を回してくれた。
柔らかい。あったかい。
それに加えて、いつも以上に感じるものがある。
「ココ、いい匂いがする」
「あっわかる? このシャンプーの香りすっごいお気に入りなんだよね」
「ふうん」
シャンプーの匂いなのかな。ココ自身から匂い立つように感じるんだけど。
首筋とうなじをすんすんしていると、くすぐったそうに身を捩った。
「なんか、嗅いでる?」
「吸ってるの」
「吸われるのはさすがに恥ずかしいかな!?」
「我慢して」
我ながら理不尽な要求に、ココはえーとかうーとか言いながらも付き合ってくれる。
可愛い。なんだろうこの生き物は。
「ココの匂い、好きだな。未来に持って帰れればいいのに」
「マトイの匂いも、持って来れたらいいのにね」
「俺、匂いさせてた?」
「してたよ。渋くて甘い匂い、あれ何の香りなんだろうね。生きてるんだって匂いで、だーい好き!」
心当たりがない。
自分の匂いはわからないものなのだろうかと首を傾げていると、今度はココの方から寄りかかってきた。
「でも、ここだと何日経ってもベッドにマトイの匂い付かないね」
そう言ってココが妙に寂しそうにシーツを撫でるものだから、
「匂いの再現、研究する」
とついつい専門外であるものまで請け負ってしまった。
あと、アイスはほとんど溶けかけてしまったので、まともな半分こにはならなかった。
互いの舌の色が同じになればいいやという結論に至ったので、まあ、俺にとってはいいこと尽くめである。




