ホレーショも知らぬもの[2]
俺が決心する傍らで、ソファーに凭れのびのびと足を伸ばしたココが梨花姉さんを見上げて訊いた。
「それでお姉、結婚って、相手はゆうゆうでいいんだよね?」
ゆうゆうこと悠馬さんは梨花姉さんと長年付き合っている恋人で、俺も何度か会ったことがある。
正確には週末のたびに姉さんと二人で遊びに来るので、家族以外で最も会っている相手だ。
面倒見がよく、話のパス回しがうまい人で、この家族の持つ雰囲気とはまた違う。
媚びず、笑いすぎず、さりとていつの間にか話の中心にいる、社会的に強い人。
俺の持つ事情に対しても、へえそうなんだ、と泰然としたまま一言で受け止めた彼は、今度スポーツしに行こうか、筋力で勝負が決まらないやつ、と続けた。
俺は悠馬さんのこと、気に入ってる。
湯気の昇る珈琲を置いてくれた梨花姉さんが、座り際に掛けられた問いに思わずといった様子で片笑む。
「ゆうゆうじゃなかったら大変よ。勿論ゆうゆうのこと」
「ゆうゆう結婚しようって?」
「それが、そうじゃないのよ」
梨花姉さんはこまったわのポーズをした。
ココはそう呼ぶ。梨花姉さんは虫歯ポーズと言う。小顔に見えるらしいが正直わからない。
だけど、それを指摘しないだけの社会性はこの家に来てから学んだ。
部屋を貸してくれている格兄さんが、女性を不機嫌にさせるようなことを言うと集団で三倍返しにされるからやめておけ、と忠告してくれたのは記憶に新しい。
強き者、汝の名は。
俺はココと梨花姉さんの会話に積極的には加わらず、聞き役に徹することに決めた。
「最近わざわざデート中にコンビニに寄って、何を買うのかと思ったら結婚情報誌を凝視してるの」
「ほう」
「でも買わない」
「ふん?」
「2LDKの賃貸情報見て、この物件いいよなって言うからそうだね日当たりもいいし便利そうって返したらお気に入り登録したりね」
「お引っ越ししたいんだね」
「意味深に左手の薬指に糸巻いて、一周したところに印をつけるから、なぁにって訊いても、やっぱ俺より細いなーとしか言わないし」
「それもう決まったようなものじゃない?」
「そうなのよ! なのに何も言ってこないの。普段あんなにハキハキグイグイ物を言うのに、ここに来て察してちゃん? なんで?」
梨花姉さんはまるで怒ってるような語気で話し始めたものの、話しながらしおしとと萎れていった。
不安そうな顔でケーキをひと口頬張っては、溜息を吐く。
「結婚は男の人にとっては覚悟がいることみたいだから、悠馬くんも腹を括ってるところなんじゃない?」
キッチンからのお母さんの言葉に、ココが首を傾げる。
「うーん。でもゆうゆうのイメージとは合わないよね」
ココの言葉に、俺も同意した。
「うん。悠馬さんなら悩んでる最中はそういうとこ見せないで、自分の中で結論が出たら躊躇わないで口に出しそう」
「わかるー。それで俺について来いって言うのがゆうゆうでしょ」
俺たちの認識に梨花姉さんが何度も首を縦に振る。
「そうなのよ、そうなのよ。ゆうゆうなら絶対にそう! でも私、事が事だけになんでって本人に訊きにくくて……」
「そうだねぇ、ゆうゆうが本気でプロポーズしようとしながらもうまく出来ないでいるとしたら」
「ゆうゆう傷ついちゃうでしょ。あの人、上手く出来ないこととかって絶対に見せようとしないもの」
そういうものか、と珈琲を飲みながら成り行きを眺めていると、意味深な視線を感じる。
ココによく似た半月目がぱちぱちと瞬きしながら見つめてくるのだ。
いい予感がしない。
「それでね。今夜マトイくんに譲るパソコン持って、ゆうゆうが来るじゃない?」
「ハイ」
「マトイくん、そんなに警戒しないで。大したことじゃないの」
「……伺います」
慎重に応じながらも、その言い振りでは俺が引き受けることは既定路線なんだろうな、と悟った。
過去の家族はあたたかく、親密で――――そして、利害では逃れられない何かを孕んでいる。
「機会があったらでいいの。どんな答えでも絶対にマトイくんに迷惑はかけないから、あのね……」
両手の指先をちょんと合わせて、きらきらとした上目遣いをしてくるのは古典的ながら卑怯だと思う。
俺はいっそ粛々とした気持ちで続きを待った。
「ゆうゆうが何考えてるのか、探ってみてくれないかな? ね、お願い!」
「それいい! やってみようよ、マトイ」
あ、ココも敵に回ったな。
知ってた。ココがその場のノリと勢いに乗っかることくらい。
ただ、まぁ、答えはそれによって変わらないにしても、ココが喜ぶのであれば少しはやる気が出る。
「やってみます」
湧き上がる二人に、キッチンから「マトイくんをあんまり困らせないのよ」と注意が飛ぶ。
いやいや、無駄だってそれ。
二人、聞いてもいませんから。
高い珈琲代だな、と思いながら丁寧にハンドドリップされた液体を楽しんでいると、声だけじゃなくお母さん本人がやってきた。
「マトイくんも、この子たちの言うことはあんまり真に受けなくていいのよ。勝手に盛り上がってるだけなんだから」
「はい……、でも、期待されてるみたいですから」
「ほどほどにね。お兄ちゃんなんてよく、忘れてたーって言って逃げてるわよ」
格兄さんは、面倒ごとを柳のようにしなやかに躱す人だ。背中に目が付いているようだとさえ思う。
彼がひょうきんに笑って逃げる姿は容易に目に浮かぶ。
「あーっ、お母さん、マトイにやさしいんだー」
「ココが優しくしてあげないからじゃない」
「そんなことないもんっ。……ないよね?」
「ないよ」
ココが慌てた様子で顔色を窺ってくるのを指先で頬を撫で往なしていると、お母さんの用事はそれだけではなかったらしい。追加で声を掛けられた。
「それよりもマトイくん、今日は晩ご飯食べていく?」
「いえ、今日は未来で両親と食事の予定があるので」
「あらあら。それじゃあ楽しみね」
「お母さんの唐揚げのレシピ、父に伝えたら今日作って出してくれるって言っていました」
「お父さんが料理なさるの? いいわねぇ」
ココの家のお父さんは料理にはあまり手を出さない。昭和も平成も終わった筈だが、令和でも夫婦の年代によってはまだ珍しくもないのだと、本で読んだとおりだ。
「母は包丁と油は怖いそうです。父はアナログ感が楽しいって」
「さすが、料理をしない時代の感想ねぇ」
お母さんが笑ったところで、梨花姉さんがテーブルの上を片付け始め、お開きの空気になった。
盆にお皿を乗せている中でも、構わずココがじゃれついてくる。
「マトイ、夜もう一回来る?」
「うん。悠馬さんとは8時の約束だから、そのくらいには」
「明日は? 明日は?」
期待で花のように染まったココの頬がいとしい。きらきらと信じ切った目をもっと見ていたい。
腕にしがみついたココを解かないまま立ち上がり、ついでに腕をココごと大きく持ち上げた。
きゃあきゃあ喜んでいるココが、迷うことなくやわらかい身体を預けてくるのが気持ちいい。
「明日は朝から来る。忘れてないよ、土曜日だろ」
「うん! デートするんだからね」
ココの弾んだ声に、どうしようもなく幸せを感じる。
耳が熱くなるのを自覚して、照れ隠しに顔を背けた。




