感謝と共に巣立てるように
「行きましょうか」
「はい!」
保護官さんがそっと背中を押してくれて、時間が動き出す。
せめて、精一杯の笑顔で応えた。
人生二度目の乗用銃弾では、全ての景色が瞬く間に通り過ぎていく。
猫になって乗った一度目が遠いことのように思える。
見慣れた景色もないまま、乗用銃弾が止まって保護官さんが降ろしてくれた。
「私、この部屋の玄関使うの初めて!」
「なにそれ、おっかしいわ。さあ、入って。前室が除菌部屋になってるから、ライトの色が変わるまで立ち止まってね」
「はい。この前室、最初の日にも入ったよ。これで病原体がいなくなるんだよね?」
「何パーセント除去かは知らないけど、この部屋には高性能なのが付いてる筈よ」
「未来すごーい」
感心しながら進むと、部屋には微かにカレーの臭いが漂っている。それと、強制換気の気配がした。
「佐藤からは、窓だけ閉めたって話を聞いてるわ。カレー鍋、洗っちゃいましょうか」
「うん。勿体ないけど……。お姉さんはカレー作ったことありますか?」
「それが、ないのよ。私も今度挑戦してみようかしら」
「私も、次の週末にはお兄とお姉も呼んで、カレーを作って食べようかな。……やりたいこと、一つ増えちゃった」
「本当ね。さあ、あとは洗浄機に入れるだけ。ココちゃん、カレーのレシピを書くんだったわね」
「あ、そうですそうです。えーっと、どこに書こうかな。お手紙書いたときのペンが確かここに……」
うろ覚えで開いた引き出しに目的の物を見つけて、さらさらと覚え書いた。
と言っても、大まかなレシピはルーの箱に書いてあるのを確認したので、書くのはこの前使ったルーの種類や野菜の切り方、それから、私になじみのある隠し味なんか。
加えて、マトイが頑張る上で一番重要になる応援の言葉。
書いている最中に、保護官さんから代理ボディの取り扱いについて注意点を聞いた。
直射日光に当てすぎるのを避けて、時々埃を払えば大丈夫だって。充電は代理ボディが勝手に取り込むから心配しなくていいと言われて、私は思考を放棄した。
短期的にどうにか出来れば、あとはマトイ自身がなんとかしてくれるよね。
お姉さんが保管庫から取り出してくれた代理ボディのマトイに簡単に命令を追加して、私が手を引くと歩いてついてくるようにしてくれた。
便利。
従順でかわいい。
「これで手のひらサイズまで伸び縮み自在だったら言うことないんだけどね」
「さすがに難しいわね」
「いくら未来でもそうですよね」
「いきなり連れて帰ったら、ご家族がびっくりしちゃうわね」
「んー、仕方ないです。ちゃんとわかってくれるまで説明しますから」
ね、と代理ボディのマトイの肩をぽんぽん叩くけど、当然反応は返らない。
どこを見ているのかわからない目は開いているけど、マトイの魂の乗らない代理ボディを相手にし続けるのは、案外辛いことかもしれない。
「この子の目、閉じられないですか?」
「出来るわよ。手をかざしてみて」
言われた通りに目の前に手のひらを置くと、代理ボディは自然な動作で瞼を閉じた。
「これは……超高級お人形さん遊びの予感! でも目を閉じると顔がよすぎて逆に悪戯はできないっ」
「『自分』以外の代理ボディの所有を考えたことはなかったけど、そう思うと……誘惑は多そうね」
「絶対そうですよね。これ私の忍耐力が試されてますよね」
「まぁ、ほどほどにしておいてあげるのよ」
あれ? それは許可の言葉のような気がする。
うーん。悩みながら代理ボディの顔を見つめてみる。
うん。ほどほどにしよう。
「さて、と。忘れ物はない? こっちに来るときに持ってたものだとか」
「あ、あります! 私、制服に着替えなきゃ。今着てる服はこっちでマトイに買って貰ったものなんですけど、持って帰っていいですか?」
「大丈夫じゃないかしら。着替えていらっしゃい」
制服は寝室に吊るしてある。寝室に向かいかけて、ふと振り向いた。
「それから、帰る前に、私、一つだけやり直したいことがあるんです。着替えてくるので、待っててくださいね」
「やり残したのってどんなこと? 今出来ることならやってしまいましょう」
着替えて戻ると、保護官さんは忘れずに声をかけてくれた。当たり前のように促してくれる保護官さんの強さに励まされて、私はひと時だけスマホをテーブルに置く。
息を吸う。
「こんなに助けてくれたのに、最後になるまでちゃんと自己紹介もできなくて、ごめんなさい。私の名前は水上琴子。仲良しの人からはココって呼ばれてます。……保護官さんの名前、もう一度訊いてもいいですか?」
保護官さんは驚いたように眉を持ち上げた。それから、あはははと大きく笑う。
「ココちゃん、あなた……大物ね。この最後の最後に……。黙秘していくんじゃなかったの?」
「だから、これはできればオフレコで」
小狡く笑い返して、私は懺悔の体制に入った。
保護官さんが、何を言われても否定しなさそうな悠然とした微笑みを浮かべているのを見て、私もこうなりたいなと思う。
「あのね……私、マトイに散々偉そうなこと言ったのに、負けたって思ったんです。マトイはいい関係じゃなくても、多分ちゃんと佐藤さんと加賀井さんの名前を覚えてて、何の違和感もなく呼んだの。私は最初から壁を作ってて、お姉さんの名前も右から左に聞き流して――――すごい、みっともない」
「そんなことないわ。ココちゃんは私たちのことを何も知らない、信じられないままで手を取ってくれた。そのあとも警戒しながら、自分と纏くんを守らなきゃいけなかったんだもの。当然のことなのよ」
「でも、当たり前だなんて思いたくない。私、この一週間のこと、きっと一生思い返す。そのときに、心を開けなかったことを後悔し続けるなんていやだよ」
思った以上に拗ねたような子どもじみた声が出たことに、私自身が驚いた。
こんなんじゃ駄々っ子みたい、としゅんとすると、保護官さんが一歩近付いてくる。
「ココちゃん。ううん、琴子ちゃん。私の名前は若土つばめ。そうねぇ、後輩の女の子からはつばめさんって呼ばれるのが気に入ってるわ」
「つばめさん! 私、つばめさんの耳にも届くくらい、しあわせな一生を送ります!」
「嬉しいわね」
私の決意表明に、つばめさんがくすぐったそうに笑いながら肩をすくめた。
「私は次の週末に、代理ボディ開発の歴史を紐解いてみるわ。楽しみにしてるから、試行錯誤の跡を残しておいてね」
「それってステキ!」
私から未来にメッセージを残すのは、難しいことじゃないんだ。
あとは私が未来を信じること、それだけで私たちは気持ちを繋げることが出来る。
「じゃあ、電源を入れてみて」
「はい!」
数日ぶりに電源ボタンを長押ししたスマホは、少し焦らしてから、起動のマークをつけた。
つばめさんに向かって、頷いて電源が入ったことを知らせる。
「大丈夫みたいね。私は玄関の外で待機してるから、何かあったら呼んでちょうだい。何もなければ――――8時を過ぎてから、もう一度部屋に入ってくるわ」
「そのときはもう……」
「そのときには、ココちゃんは家族の皆さんと晩ご飯を食べ始めてる頃ね。今日のお夕飯には、好きなものが出てくるといいわね」
もう電源が入ったから、あとはいつ私が過去に戻されてもおかしくない。
それがわかるから、つばめさんは声を掛けながらも、玄関に向かって立ち去っていく。
私はぎゅっと代理ボディと繋いだ手を強めた。
「うん。ありがとう、つばめさん。……さよなら」
「さよなら、ココちゃん。突然未来に攫われてきても、あなたは立派だったわ。纏くんとの再会、応援してる」
とびきりチャーミングな笑顔のつばめさんを覆い隠すように扉が動く。
同時に、スマホの着信音が鳴った。




