自らの足で地を蹴るように
ざざざざと音が煩い。
葉擦れの音。草を踏む音。土を蹴る音。心臓の打つ音。
焦る気持ちが背中を押して、どんどん一歩が大きくなっていく。
少しでも距離を稼ぎたい。マトイのスピードに付いていきたい。
その思いで大きく地面を蹴って――――私の右脚から、ぶかぶかの靴がぽーんっと飛んだ。
「あっ!」
でも勢いは止まらない。
走るマトイに手を引かれたまま、前に、前にと足を繰り出す。
「ココ!?」
「靴がっ」
足を止めずに振り向いたマトイが、足元をちらっと見て唇を噛む。
「ご、ごめん……」
謝るけど、靴はとうに置き去りにしていて、どこにも見えない。
代わりに、背後では草群れが揺れて足音がそこまで迫り来ている……ような気がする。
わからない。冷静に判断できない。
今にも、上から声が降ってきそうで。
私が混乱していると、マトイに両手首を掴まれた。そのまま引っ張られる。
ぐわっと身体が浮いた。
「きゃっ」
「掴まって」
低くそう言って、マトイは止まらず駆け続ける。
私を背中に乗せて。
驚いたけど……顔が沸騰しそうなほど恥ずかしいけど、ぐっと堪えてマトイの首に手を回して、しがみ付いた。
邪魔になってばっかりだけど、これ以上迷惑になりたくない。
せめてとばかりに、マトイが私の代わりに背中から降ろして左腕に引っ掛けた重たいリュックを、マトイの腕から回収した。
マトイの背中に私。私の背中にリュック。
結局重たいのはマトイだ。
草を掻き分ける手がなくなったから、二人で顔を伏せたまま走り続けた。
がむしゃらに走って、走って、多分マトイもどこに向かってるのかわかっていない。
マトイの心臓が早鐘のように打つのが聴こえる。低く一定の間隔で吐き出される息が、まわした腕の産毛を撫でる。
それにしても、斜め後方から見るマトイの顔は際立って美人顔だ。
鼻筋がすっと通ってて、赤みがかった睫毛が伏せた目に影を作ってて、頬から耳にかけての輪郭も しゅっとしてる。
耳の上のほうは髪に隠れてるけど、こめかみから耳の前を伝って、汗が止まらず流れていくのが見えた。
暑そう。拭いてあげたいな。
汗の先、さらさら揺れる髪の下の喉元の太さが、アンバランスに男性的で、マトイって色気があるなって感心する。
マトイの鼻先から視線を辿らせていると、ふとその色が気になった。
首筋、赤くなってる。
よく見たら、ぷつぷつ湿疹になっちゃってるみたい。
伸びた茎や除け切れなかった木の葉がぶつかっていくもの。マトイの肌には刺激が強すぎるよね。
後で拭いてあげよう。首が痒いと辛いもんね。
そうしているうちにマトイの足先は、暴力的なほどの草群れよりも、湿った色の土を踏むことが増えてきた。
草丈が低くなって、視界に木々が増える。
ようやく顔を上げて、私たちは工場地帯を抜けたことを知った。
肩で息をしながらも足を止めないマトイが、咳き込んでよろけて、ようやく左右の靴底を土の上に乗せる。
「マトイ、降ろして」
マトイが力なく顎を引き上げて、後ろに倒れこむようにして私を降ろしてくれた。
ふらつくマトイの背に手を当てて、木の根元に寄りかからせる。
汗が滴って目頭を伝う。手の甲で乱暴に拭って、その腕はだらりと真下に揺れた。
「ごめんね、重かったよね。ドジばっかりで、ごめんね」
辛そうに目を閉じて、胸を動かして息を取り込んでるけど、首は微かに横に振り続けてる。
顔も、首も真っ赤にしたマトイが、声を出せないまま何を伝えようとしているのか、さすがに私にもわかった。
「ありがと、マトイ。連れて逃げてくれて、ありがと……」
薄く目を開けて、それでいい、と言いたげな顔をしたマトイに、リュックの中のドリンクを渡す。
こういうときは水かスポーツドリンクがいいとは思うんだけど、持ち出してきた中にそういうものはなかった。
コーヒーよりは飲みやすいかな、とお茶の味のドリンクを渡してみたけど、こっちじゃないって顔をされた。改めてコーヒー味を取り出して、交換する。
待ち構えてたみたいに、マトイがドリンクを大きく呷った。
角度をつけすぎて、顔に零れるのも気にしないで。
「不審、に思った、だろうな。通報……されて、ないといいけど」
息をする合間、切れ切れな声で話すマトイの言葉に、私も頷いた。
「うん……。ただの迷い込んだ、無関係な人だって思ってくれてないかな?」
「あんなところにいて、それは無理があるよ」
「そうだよね……」
しょんぼりと、お茶に口をつける。
私が調子に乗って大声を出したから、見つかっちゃったんだ。
気を付けようって思ってたのに、気が緩んでた。
安全に逃げるのがすごく大事で、一番大変なこと、わかってたのに。
反省している私の頭に、マトイの左手がポンッと乗って、離れた。
離れた後から、触れられた場所がじんわり温かくなって、ちょっと気恥ずかしいけどすごく嬉しい。
「大丈夫だよ。後には付いてこなかったし、多分撒けた。距離もそこそこ稼げたから、すぐどうこうってことはないと思う。だけど、出来るだけ遠くには行こう」
「うん。靴の代わりに袋でも被せれば、私も歩けるよ」
「傷つくからやめて。少し休めば、また背負えるから」
マトイが心底嫌そうに、眉間に深く皴を作る。結構、過保護だよね。
「平気だと思うんだけどな。あ、そうだ。それよりもマトイのほうが――――首、痛痒くなってない?」
「え?」
マトイは自覚がなさそうに、鈍い反応で首を傾げた。まだ息が苦しそう。頭は幹に預けたまま。
その姿に保護欲を刺激されて、私はいそいそと手元のお茶でハンカチを濡らした。ひんやりと濡れたそれを、一番赤いところにそっと当てる。
「ここ、赤くなってるよ。かぶれちゃったんじゃないかな」
「あっ……」
「自分じゃ見えないところだから、気付かなかった? 痒くないなら、そのほうがいいけどね。悪化する前に拭いておこうか」
「いいよ、ココ。自分で拭くから……」
マトイが緩慢に手を持ち上げて、私の手の上からハンカチを押さえる。
と、驚いて私がハンカチを取り落とした。
「――――――――っ」
「ココ?」
「あっ……ごめ……」
マトイの肩に落ちたハンカチを慌てて持ち直して、そうじゃない、と一旦口を結ぶ。
マトイの手にハンカチを預け乗せた。
無抵抗なマトイが見守る前で、今度は指先と手のひらで、首の赤いところを確かめるように触る。
気のせいじゃない。私の手がお茶で冷えてるからでもない。
ハンカチごとマトイの手を両手で握ると、首筋に負けず劣らず、熱くなってる。
マトイが気まずそうに、視線を逸らした。
「マトイ、どうして……熱があるよね?」
逡巡したマトイが、唇を引き結んで肯定を顔に表した。




