遍く強くあれるように
紐にぶら下がったマトイが、リズミカルに幹を靴裏で蹴ってゆく。
とんっ、とんっ、とんっと拍子を刻みながら、少しずつ地面が近付いてくる。
徐々に紐を長くするところも含めて、ちっとも危うげない。紐を先端まで使い切ってから、躊躇わずに紐を手放した。
軽い足裏への衝撃が地面に付いたことを知らせてくれる。
響いたのは靴底が土を踏む音だけ。静かなものだ。
「マトイすごいっ! 頼れる! 最っ高!」
囁き声で褒めながら抱き着くと、マトイは崩れるように私を降ろした。
「はーっ。心臓壊れるかと思った」
「ドキドキしてるように見えなかったよ。かっこよかった」
「それはよかった……」
マトイが、ちょっと信じられない生き物を見るような目で見てくるけど、いや、私もちゃんと怖かったって。
それより。
「思ったより草伸びてる。頭まで隠れちゃいそう」
「好都合なんじゃないの?」
「うーん。見つけられにくいだろうけど、かなーり歩きにくそうだね」
じーじーと虫の声と羽音だけが近くから、遠くから静かに広がってくる。
話し声、遠くまで聴こえちゃうかも。
「とりあえず、ここから遠ざかろっか」
「窓から見つからないところまでは走るよ。行こう」
マトイが迷いなく私の手をとって、一歩を踏み出した。
二歩、三歩とどんどん早く、歩幅も大きくなっていく。
私はマトイの背中を追いかける形で走り出して――――そして知る。
マトイ、足長い!
マトイが草を払ってくれているのに、私は付いていくので精一杯。
だけど、誰かが窓から覗いたら……。
私は戦慄する。
捜査官が部屋に突入してきたら、必ず窓が開いていることに気づく。
そうしたら、上から見られてしまう。
この暗い茂みの中でも、隠れ切れるとは限らない。
お願い、まだ来ないで。
私たちを見つけないで!
しんとした暗闇と、『現代』でも歩いたことがないくらいの草むらと、無い土地感覚が揃いも揃って、ぞぞっと心の柔らかいところに忍び寄る。
あっという間に切れる息と、伸び切って痛む腕が心を挫きそう。
私は大きく頭を振って、一心にマトイの背を追った。
そして――――
「伏せて!」
鋭い声と同時に、強く腕が引かれる。
私の意思と無関係に、私は地面に伏せた。
――――ちがうね。リュックとお尻を地面につけたマトイの上に乗っかったから、痛くも冷たくもない。
ってゆーか抱きしめられてない?
そんな風に一瞬で乙女脳になった私でも、さすがにすぐに状況を理解した。
頭上を照らしていくライト。
さあさあと雑草が鳴る。
「あっ……」
「部屋の窓からだ」
「み、見つかっちゃった……?」
「いや、未だだ。すぐに気が付いたから。頭を低くしてれば、向こうからは見えないんじゃないかな……」
「そうだといいなぁ」
ライトの動きを見ていられなくて、マトイの胸に顔を押し付けた。
心臓の音がひどい。
こわいよ――――
マトイを巻き込んだのは私なのに、怖気づく自分が嫌い。
ぎゅっとしがみ付くと、マトイの手がとん、とん、とあやすように背中を叩いてくれる。
場違いなくらいにゆっくりと、やわらかいリズム。
同じ音が、マトイの胸からも聴こえてくる。
私よりもずっと落ち着いた、マトイの心臓の音。
「マトイ、緊張してない、の?」
「してると思うけど……逃げるって決めてからは、そんなに意識してない」
「すごい。どうやって?」
「ココの発想のほうが、どうやって、だよ。びっくりしすぎてもう、何も驚かない。これ以上失うモノもないし」
「肝が据わっっちゃってるよ……」
小声で囁きながら笑い合う間にも、ライトは方々を照らしてる。今は、私達が隠れているのとは全く別の方向だ。
まだ見つかってない証拠のようで、少し力が抜ける。
それを見計らっていたんだろう。マトイが様子を窺ってくる。
「ココ。あんまり長く隠れてると、照らしてるのと別の人が降りて探しに来るかも。頭下げたままで、ここから離れたいんだけど、いい?」
「うん。そだね」
「息、整った? 行ける?」
「大丈夫。でも、さっきの速さは私には厳しいよ。もうちょっとゆっくり」
「あ、そっか。ごめん」
頷き合って、低い姿勢を取り直す。
さすがにこの体勢で手を繋ぐのは難しいかなと思ったけど、マトイにがっしりと掴まれた。
そのまま歩き出す。
……寄り添ってるような近さになるけど、歩けなくはないかな。
「出来るだけ、遠くに行きたい」
ライトの向きを意識しながらも、隣でぽつりと呟いたマトイに、そうだねと返す。
「窓からも、見られないところがいいよね。上を気にするのって、大変かも」
「探してみる」
こんなこと初めてのはずなのに、今日のマトイは少し大人みたい。
それとも、ちょっと出来たり、ちょっと出来なかったりを繰り返す。そういうことをまだまだ子どもっていうのかな。
でも、私が思い切れるときにはマトイが出来なくて、私が踏み出せないときにはマトイが踏み出せる、今のこんな関係があるなら私、このままがいいなって思う。
マトイが慎重に足を進める中で、時折頭上をライトがかすめる。
マトイはライトに怯まずに、辛抱強く警戒し続けながら歩き続ける。それも、私を誘導しながら。
――――そう。マトイの辛抱強さには斑がない。それってマトイの強みだよね。
ずっと、ずっと、マトイが手を引くほうに歩き続けるうちに、直接的な灯りを目にすることがなくなった。
辺りはずっと静かなまま。
二人分の足音以外の何も耳に届かないことが、今の安全を保障してくれている。
どれくらいの距離を稼げたのかな。私にはどこを歩いているのかもわからないまま、足を止めたマトイが頭を草の上に出した。
見回して、それから星の霞んだ夜空を見上げる。
「顔、出しても大丈夫?」
「うん。もう誰もいない」
確信を持った響きのマトイの言葉に、私も続いて立ち上がった。
そびえるビルの群れ。夜空を這う移動筒。乗用銃弾らしき光が時折、ビルとビルの間を駆け抜けていく。
「この辺りのビルの低階層は倉庫になってるから、移動筒も高いところにしかないんだ。乗用銃弾からはこっちは見えないと思う」
「それって、とりあえず逃げ切れたってことでいいのかな?」
「うん。見つからなかったと思う」
「やったあぁ。うーーーー、小さくなって歩くのって結構大変! つっかれたあ」
屈みっぱなしで身体が痛い。
マトイは私以上だろうな、と思って見ると、腰に手を当ててた。いたたた……。
「マトイ、ずっと先導してくれてありがと。荷物重くない?」
「平気」
マトイはそう言うけど――――ふと、目の前のマトイの背に乗るリュックを、底から両手で持ち上げてみる。
「いや、重いよ! そうだよね、ドリンクありったけ詰めちゃったもの。そのリュック最初から防災グッズも入ってたし……重いよね」
「そんなに気にならなかったって」
「でも、ちょっと止まってる間くらい下ろしたら? 腰痛いでしょ」
「じゃあそうしようかな」
きっと気に病ませないように笑いながら答えてくれたマトイだけど、提案にはすぐに乗った。
空っぽになった背中を伸ばして、首を左右にゆっくり傾けてる。
「腰擦ってあげるね」
「いらないって……いらない! ココ、くすぐったいから」
「そう? 少し楽にならない?」
人聞きが悪いなあ。悪戯しないでちゃんと両手で労わってるのに。
肩たたきの要領で、リズミカルにとんとん腰から背中に向かってマッサージしていくと、見るからに力が入りっぱなしだったマトイの背中が、やわらかくなってくる。
「気持ちいい、かも」
「でしょー? 上手でしょ、ね、ね」
「上手上手」
笑って、されるがままになりながら上を見上げるマトイに、つられて私も視線の先を探す。
ビルの間から、狭い空が見える。星は薄っすら白く光るだけだけど、真っ暗な空の真ん中に堂々と月が輝いてる。
「月、きれいだね。満月かな……」
「少し欠けてるよ。十三夜月じゃないか?」
「そんな呼び方があるの?」
窓もない部屋で暮らすマトイの口から出たとは思えない雑学に、少し笑って目を瞬いた。
「満月の少し前で、満月の次に美しいって言われることもある」
「そっか。少し前なんだ。じゃあ、あと3日あれば、いっしょに満月も見られるかもね。この調子なら、逃げ切れそうじゃない?」
「まだわからないよ。そうなるといいけど……」
慎重なマトイの意見は、今は聞くと不安になるよ。閉じ込めるように、ぎゅっと背中を抱きしめる。
「弱気な意見禁止だよ。なんとかなる。絶対、逃げ切ろうね」
「わかった。諦めないよ」
苦笑するマトイの強さに、背中に隠れてため息を吐いた。
わかってるよ、私も。そんなに簡単に、うまくいくことばっかりじゃないってことは。




