ときめきに身を任せるように
「ココ、諦めが悪いって言われない?」
「すぐ諦めるよりずっといいよ! 自分の人生だよ。マトイの人生だよ。最大限の努力をしないで、他の誰が頑張ってくれるの?」
「逞しすぎる」
「なにをぅ。いい話風にして未来を手放すなんて、絶対に駄目なんだからね」
軽口だったけど、マトイが覚悟を決めたのがわかった。
目の奥がはっきりと、戦う色をしてる。
ぞわっとするほど硬質な『男の人』の顔。絶対に負けない顔。
「マトイ、懐中電灯ある? リュックかなんか入れ物と、肌隠す服装2人分。できれば防水!」
「防災リュックがある。ココのサイズの服は買わないと……くそ、駄目だ、部屋の受け取り停止されてる」
「サイズ合わなくていいよ。あるもの出してみて」
マトイが放ってきたスポーツウェアのパンツをスカートの下に履いて、同じく投げられたリュックにドリンクとパンをありったけ詰める。
知らず呼吸が短くなる。
心臓が早鐘を打ってる。
指先ががくがくする。
駄目。
私が落ち着かないと。
私がマトイを守るんだから。
そのマトイは駆け回りながら、冷静な顔でコンピュータの稼働を止めてる。
指示通り、雨を弾きそうな頑丈な上着を着て。
なんだ。マトイは私なんかよりずっと、大丈夫だ。出来ることをしてくれている。
私にも、きっとやれることがある。
部屋の中を見て、窓を見て、私は寝室に駆け込んだ。
脱出と言えばアレだよね。簡単な造りだし、私にだって出来るはず。
そう考え迷いなくシーツを裂く。ごめんねマトイ。次に寝るときには買い直してね。
『ポーン』
シーツを手早く結んでいると、鳴ってしまった。恐い音。いやな音。
慌てて寝室を飛び出すと、リュックを背負い終えたマトイが靴を履いているところだった。
用意のいいことに、足元には気持ち小ぶりなスニーカーも置かれている。箱に入って中に紙の詰まったままの、完全に新品の状態だ。
そういえば、寝室にはスニーカーの箱が山ほど置かれてたね。
外出もしないのにいつ使うのかなって思ってたけど、相応しい場面がやってきたみたい。
靴を取り出す私の傍ら、マトイが室内を当て所なく見回してる。
いつになくそわそわと身体を動かし続けているマトイが、眉を顰めて低く囁いた。
「ココ、どこから逃げる?」
「窓から!」
私の言葉に、迷いなく窓に駆け寄るマトイ。阿吽の呼吸だね。
私はその間に、足元に用意された靴を拝借する。
マトイの靴でぶかぶかだけど、紐をきつく結べばなんとかなるかな。ううん、なんとかしなきゃ。
『緊急通信を使用しています。5分が経過しましたが、用意は整いましたか? あまり時間がかかると強行突入になりますよ!』
「あと少しです、申し訳ありませんが」
チャイムに替わって流れた声に、マトイが即座に答え音声接続を切る。
直後、マトイの手元で窓が開いた。覗いたマトイが、軽く頷く。
「下に人はいないね」
「うん。見張りも、恐らくは……」
マトイが睨みつけるように、中庭を挟んで向かい側の棟の窓を窺い見ている。
私は殊更明るい調子で、マトイの背中をぽんっと叩いた。
「考えても仕方ないよ。今より悪くなることはないって」
「そうだね」
マトイがくすっと笑う余裕を取り戻したのを見て、私は作成した紐を慎重に伸ばし始めた。
窓の前には、ちょうど今朝見たばかりの迫り出した大枝がある。
紐で輪を作るのを怪訝そうに見たマトイが、私のジェスチャーで察して、上手に枝の根元に向かって投げ掛けてくれた。
地面に届くには少し短いけど、身一つで木を伝って降りるよりは、遙かにマシだよね。
「しっかり掴んでね。じゃあ、行くよマトイ。覚悟はいい?」
「待って」
紐をぎゅっと握り締めて訊くと、返された引き留めの言葉に前傾した身体を戻した。
時間がないのに。
そう思いながら顔だけを向けると、紐を掴んだ私の手を、マトイの左手ががっしりと包み込んでくる。その上で、ぐるんと紐を手の甲に巻き付けてから、紐を短くするように手繰り寄せては手の内に収めてる。
次いで、肩をとんっと引き寄せられた。
顔がまるごと、マトイの胸にすぽっと埋まる。
「掴まって」
少し屈んだ真剣な顔のマトイに、そんな場合じゃないんだけど、私は見惚れて、きゅーんとなった。
私主導で飛び降りようと思っていたけど――――きっと上手に出来ると思うんだけど、誰かが守ろうとしてくれるのって、胸があったかくなるね。ここにいていいんだよ、っていうように聞こえる。
くすぐったくなって、隠せない笑顔のまま、飛びつく勢いでマトイの肩に手を回した。
すごいなマトイ。怖いのが全部飛んじゃった。
「行くよ、ココ」
「よしきた!」
私は、私にぎゅっとされても赤くもならないマトイに抱えられて、春の夜風と浮遊感に身を任せた。




